王妃の名
飛行機雲の白さが、青空に線を引いている。床に座り、吸い込まれそうなその色を目で追った。きっとカイロ空港からの飛行機だろう。
気休めにと思って、段ボールに荷物を詰めていた手を止め、立ち上がって窓に伸ばした。少し固くなった窓を上に押し開くと、遮るものを失くした蒼空が現れる。
入ってくる風の匂いと、空に浮かぶ太陽。それを見て思う。やっぱりどこかくすんでいると。空も空気も水も、太陽も違う。それを知って泣きたくなる、自分の気持ちが分からない。
昨日の夜だってそうだ。良樹とお父さんが帰って来たのに気付いて下に降りた時、3人が日本に帰ると話しているのを聞いただけで、お母さんに縋って泣いた理由が一晩経った今でも分からなかった。
確かに13年も慣れ親しんだエジプトを離れるのは悲しい。卒業すると思っていた学校を中退せざるを得なくなったことも、メアリーとも滅多に会えなくなることも、それはとても悲しいことだ。でも、あそこまで泣く必要がどこにあったのだろう。ますますお母さんたちを心配させてしまうだけなのに。
検査では異常はなかった。だというのに、私がおかしいと感じる場面に何度も出くわしている。
両肘を窓の下縁につけ、両頬を包んで家の下に視線を投げると、小さな男の子と女の子が白いボールを蹴って遊んでいるのが見えた。止められなかったボールがころころと道を転がって行くのを追いかけて、子供たちも視界からいなくなってしまう。
自分の胸もあのボールと同じ色なのだと思った。白くて、白くて、どうやったらその白さが取れるのかとどんなに頭を捻っても、これだと思う解決策は何一つとして見つからないのは、もう分かっていることだ。何かを覆い尽くすこの色は、どうしても拭えない。
「弘子、いい?」
背後のドアから聞こえてきた声に窓に寄りかけていた身体を起こした。それなりに心地よい、落ち着いた低い響きは誰だかすぐに察しが付く。
「どうぞ」
「荷造り、進んだ?」
部屋のドアが遠慮がちに開いて、そこから顔を出したのは予想通りの人だった。
「あー、まだ全然だなあ」
良樹。いつの間にか23歳になっていた、私のためにエジプトに残ってくれていたいう人。
「そっちはどう?もう終わったの?」
「午前中に。俺はもともと少ないから」
良樹は私の部屋に入って来ると、5つの段ボールとそこらに散らかる本や服を見渡し、わざとらしく肩を竦めた。
「荷物は明日出すんだぞ。おじさんもおばさんも必要最低限のものは綺麗にまとめ終わってるのに……弘子はやることなすこと全部遅いんだからなあ。行方不明になってもそこは変わらないのか」
けらけらと笑ったと思ったら、その手がぐんと伸びてきた。身を逸らす間もなく、手が私の頭を鷲掴みにして、そのままぐりぐりと掻き乱す。
「ちょ、ちょっと!やめて!ぐしゃぐしゃになっちゃうでしょ!」
「いいだろ。どこかに出かける訳でもあるまいし」
勢いに後ずさりながら文句を言うと、彼の手が離れ、私の真っ黒な髪が視界に垂れた。右にある縦長の鏡に目をやれば、幽霊みたいに髪を乱した惨めな私が映し出されている。
ああ、もう。古いジーンズに古いTシャツなんて格好で、出かけるつもりなんてこれっぽっちもないけれど、髪だけはやめてほしい。面倒になって、素早くゴムで後ろに一つに髪を結った。
「3日後が予定なのに、大丈夫か?」
そうだ。3日後に、私はお父さんとお母さんと、そしてこの人と、日本に帰る。家具は持っていけないから全部売り払い、本や服、あとは日用品を段ボールにまとめて、先に船で送ってもらう手筈だった。
「あまり無理するなよ。本当はもっと安静にしてた方がいいんだ」
今度は優しく頭を叩きながら良樹は言う。本気で心配してくれているのは分かっていたから、小さく頷いて返した。寝てばかりでは嫌だとベッドを出たのは私なのだ。
息をついて部屋を再度見渡してみる。自分の部屋なのに、見る物すべてが忘れかけていた物ばかりで、どれを残してどれを捨てればいいのか分からず、時間がかかってしまっているというのが現状。良樹の言う通り、全然進んでいない。
物を見る度、触る度、自分が1年というそれなりに長い時間、ここにいなかったという事実が嫌でも思い知らされる。
「手伝う。何やればいい?」
「ああ、そうね、えっと…」
「できるだけ簡単なのね」
向けられた良樹の笑顔は、私を不安にさせないためだ。
お父さんもお母さんも、私の記憶喪失をとても心配しているはずなのに、私の前では笑ってくれている。私に負担を掛けないようにと。
「……じゃあ、本と、ぬいぐるみ…お願い」
ごめんねと謝りたいけれど、せっかく気を遣ってくれているのにそれを言うのは気が引けて、私も普通に接している。それ以外の方法が思いつかなかった。
「了解」
答えた彼は私の肩をポンと叩いて、本が散乱している方に足を動かした。
向かい合う形で、私は雑貨を、良樹は漫画や学校の本を段ボールに詰めていく。
黙々という訳でもなく、微かに、向かいの人から小さな音楽が紡ぎ出されていた。空気に溶け込むような名前さえ知らない細やかな音色だ。
「弘子、この漫画も全巻持ってくのか?」
全20巻ほどある漫画を指差して、良樹がこちらに目を向けず尋ねてくる。
「あ、うん。それ面白いの」
「この訳の分からない不気味なぬいぐるみも?」
「それも大事なもの」
「不気味なのに……荷物多いな、全く」
良樹は、5冊ほどその大きな右手でとって段ボールに入れると、次にぬいぐるみを手に取り、どこに入れようかと腕を組んで試行錯誤を繰り返していた。彼の顔は、楽しそうに笑っている。
「捨てちまえばいいのに。それか売るとか」
「だから大事なものだって言ってるでしょ。ぬいぐるみはメアリーから誕生日にもらった大切なものなの」
「へえ、メアリーが……趣味悪いな」
「良樹の感覚が変なのよ。どう見ても可愛いじゃない」
よくよく見てみれば、良樹も少し面持ちが変わった。さらさらとした爽やかな短い黒髪に高い背丈、すっきりした体付きは昔から変わらないけれど、穏やかさが増した気がする。ちゃんと言葉を選ぶのなら、大人の男性、というのが一番しっくりくる。そういうものにこの人もなりつつあるのだと漠然と思った。
メアリーだって同じ。1年間見ない間に、とても綺麗な、大人の雰囲気が出てきていた。それに比べて私は、髪が伸びただけで何の変化もないことに少し肩を落としてしまう。
「どうした?」
漫画本を前にてきぱきと詰めていく相手の声が、急に私に投げられた。
「え?」
目を向ければ、濃褐色の瞳が私を捉えている。
「肩なんか落として、どうかしたのかって」
「肩なんて…落としてない」
「嘘つけ、落としてただろ。何かあったのか?」
自分だけ子供っぽくて悲しい、なんて言ったら馬鹿にされそうで、慌てて他の言い訳を探す。
「……あ」
「あ…?」
「……アンケセナーメンって、知ってる?」
ぽろと口から出てきた言葉は思いもしないものだった。言うつもりなんてなかったのに、咄嗟にあの名を尋ねた自分に驚く。夢の中に出てくる名前なんて架空だろうに、私は何をしているのだろう。
「あ、あのね、その、違うの」
恥ずかしくて質問を訂正しようとしたら、良樹が息を呑み、少し驚きを含んだ色をその目に宿らせた。さっきまで穏やかさで満ちていた空気が氷点下に晒されたかのように固まって、続きが言えなくなる。何か、いけない質問だったのかしら。
「……良樹?」
何かに動じた様子だったけれど、私の声で我に返ったように「ああ」と返事をして、すぐにいつもの笑顔をその顔に戻してくれる。
「……エジプト史になんて興味なかった弘子からエジプト王家の王妃の名前出たとなると、明日のエジプトの天気は雪になりそうだな。おじさんたちに報告だ」
笑いながら彼は詰め終った段ボールにガムテープを貼って向こう側に押しやり、今度は私が詰めていた方を手伝い始めた。
「いいよ、俺がやる」
やることを取られてしまった私は、その器用に雑貨を並べていく作業をぼんやりと見守る状態になる。
「エジプトの、王妃?」
良樹がその名を知っていると気づいた私は、どうしても気になって質問を続けた。
まさか、あんな立て続けに見る夢で私を示す名前を、知っている人がいるなんて思いもしなかった。
「アンケセナーメンはエジプトの王妃なの?実在の人?」
「アンケセナーメンは弘子がいなくなるまで俺も名前しか知らなかった王妃だよ。ツタンカーメン、知ってるだろ?第18王朝の。あの悲劇の王の妃で…」
悲劇の少年王。有名な、ツタンカーメンの代名詞。
「アンケセナーメンが……そのツタンカーメンの王妃?」
聞き返すのに、良樹はこちらに顔を向けてくれない。きっと良樹にとって気に入らない質問で、そう分かった時点で私は聞くのをやめるべきなのに、止まらなかった。
「ねえ良樹、アンケセナーメンはツタンカーメンの王妃なの?……ねえ」
どうしても教えてほしくて彼の袖を掴んだら、荷物を詰めていたその手が次第に速度を落とし、やがて諦めたように私を見つめた。
「ツタンカーメンが悲劇の少年王ならば、アンケセナーメンは悲劇の王妃と言われてる。旦那の方が有名すぎてあまり表に出てこないし、墓も見つかっていない、いつの間にか死んで死んだ理由も分からない、哀れな3300年も前に生きて死んだ王家の姫君だ」
投げやりな言い方にも構わず私は考えを巡らす。
悲劇の王妃。私を呼んでいたあの名は、悲劇の王妃の名だった。それも3300年も前の、史実に存在していた人の名前。
「俺もこれしか知らない。……いや、もともとこれくらいしか情報の無い王妃だな。ミイラも見つかってないんだから。…ツタンカーメンについてだって、弘子がKV62で消えてから調べただけの知識しか俺にはない」
お父さんとお母さんにも言われた。私はツタンカーメン王墓KV62で黄金の光に包まれ、消えたのだと。
私が消えた場所は、私が夢の中で呼ばれていた名を持つ人の夫の墓だということだ。
「その辺りはおじさんに聞いた方がいいんだろうが、やめた方がいい。おじさんもおばさんも弘子が消えてから、エジプト関係すべてに敏感になってるから。ツタンカーメンなら尚更だ」
お父さんもお母さんも、私が帰ってきてからエジプトのことを話題にしたがらない。そのことに疑問を感じていながら、なかなか理由を聞き出せなかったけれど、良樹の話を聞いてやはりと思った。私が行方不明になったからだなのだ。
「……お願い、教えて」
そんな両親の思いを知りながら、私の頭に浮かぶのは悲劇の王妃の名を持つ彼女のことだった。知りたくて仕方がない。
「ミイラ、見つかってないの?」
胡坐で座り、首の後ろをかいていた良樹の動きがぴたりと止み、その顔が苦しげに歪む。
分かっている。良樹自身もツタンカーメン関係にとても敏感で、警戒していることくらい。なのに、私の口は止まることを知らない。
「その王妃って、どうして悲劇なの?何か酷い死に方をしたの?」
私の声を無視して、良樹は雑貨を詰めた段ボールを封じるためにガムテープに手を伸ばした。止めなければと思うのに、私の口は答えを求め続ける。
「ねえ、良樹」
「弘子」
ガムテープを貼り終わり、段ボールを向こうに押しやると、彼は私の声を遮った。私を映すのは、いつものふざけた目ではなく、真剣な、私を射抜くような光を秘めた目だった。
「どうしてそんなに気に留める。日本に帰るお前には必要ない情報だろう」
言われてしまえば、返す言葉はどこにも見当たらない。日本に帰ったらエジプトに触れられる機会なんて勉強しようと思わない限り無理だろうし、私には関係ない話。聞いて、知って、何になる。
「なのに何でそんなに必死になってまで知りたがる?」
「……夢が」
声が震えた。
「夢?」
聞き返した彼に、私は顔を上げて頷く。
お母さんやお父さんには心配をかけてしまうからと思って言えなかった悩みを、この際だからこの人に相談しようと意を決した。
小さい頃から色々と悩みを聞いてくれたこの人なら、何か答えをくれるかもしれない。
「……戻って来てから、立て続けに見る夢で……私、その名前で呼ばれてるの。アンケセナーメンって」
良樹は眉を顰めた。
「それで私、……もしかしたら、この夢が私の消えていた期間の手掛かりなんじゃないかって思ったの。でも眠るたびに見るから不思議で、どうしたらいいか分からなくて……こんな夢、お母さんたちにはとても言えない」
「弘子…」
「はっきりとは分からないし、ただのそうであってほしいという思い込みかも知れないけれど、私ね…」
間にあった段ボールが無くなり、すぐ目の前に迫った彼を見つめる。膝の上の拳を握り、はっきりと口を開く。
「私、お母さんたちが考えているような辛い思いなんて……そんな思いなんてしてなかった。とても、とても幸せだった気がするの」
そう確信できる私がいる。この確信がどこから湧き出るものなのか、全く分からないと言うのに。
「誰かが傍にいて、沢山の人に囲まれて、私も笑っていて…」
頭痛が走って、額に手をやりながらも、私は言葉を続けた。
「わ、私…誰かの隣にいて、…きっと…」
誰か。そう、誰かがいたのだ。
目を閉じ、あの白に塗りたくられた、封じられてしまった記憶を巡らす。白さを掻い潜ろうともがく。
「誰…」
誰かの手が白さに浮かぶ。褐色の、長い指の。流れる指を追えば、弧を描く薄い唇の、誰かの影。でもそこまでで、また白に染まって見えなくなる。消えてしまう。
「誰かの…」
消えないで。行かないで。
「だ、…だれ…」
「弘子」
息を乱しながら声を落とす私の両肩を、良樹が掴んで揺さぶった。
「弘子、落ち着け」
「誰かの傍で、私、幸せだった気がするの…とても、とても…」
また涙腺が痛くなる。どうしてこんなにも胸が締め付けられるのか、分からない。涙が枯れてしまうほどに泣く自分が分からない。私は、私が分からない。
「わた…」
「弘子!」
自分の名が弾けたと思ったら、急に身体が引き寄せられ、何か暖かなものに埋もれた。突然のことに抗っても力に呑み込まれて、動きが封じられる。
身体を締め付ける力を感じるだけで、自分がどうなっているのか認識できないでいたけれど、耳元に響いた吐息交じりの声で、やがて自分がどんな体勢なのかを知った。
抱き締められている。良樹に。私が。
「……そんな記憶なんて、どうでもいい」
動くことを忘れた私の耳元に、噛みしめるような声が発せられた。
「俺だけを見ていればいい」
「よ、良樹、何…」
顔に熱が走って、抗おうと手に力を込めた。でも離してくれない。それどころか、ずっと強く私を抱き込む。
「お前がいない間、ずっと考えてた。もう放っては置けない。お前が戻って来てからは、結婚だって考えたくらいだ」
思いもしない単語に、目を見張った。一度身体を少しだけ離して、彼は伏せていた目を探るように開き、私を見つめてくる。
「……ま、待って」
右手を彼の顔の前に出して彼の動きを制した。
意味が、分からない。
「け、けっ、こんって…」
間抜けな私の声に、至って真剣な面持ちだった良樹は眉を下げて笑った。
「当然、夫婦になることだ」
大それたことを、相手はけろりと言ってのける。まるで何かを子供に教えでもするかのよう。
「……私、19で…まだ、そんな…結婚だなんて」
言葉が絡まって、所々で惨めに切れて落ちていく。
多分耳まで真っ赤な私に、くすりと喉を鳴らして彼は肩を揺らした。
「勿論、今すぐ結婚という訳じゃない。とにかく、一緒に暮らそう。離れてなんていられない。おじさんたちもそう言ってくれてる」
肩に添えられた彼の手のぬくもりで、強さで、相手の真剣さが伝わってくる。
「弘子が心配で堪らない」
顔がまた、近づく。吐息を感じるくらいに。
「日本に帰ればそんな変な夢なんて見なくなる」
もう一度、彼は私を逞しい腕に抱き締めた。背中に片腕を回し、もう片手で私の後頭部を押さえつけるようにして、私から動きを奪う。
今まで挨拶のハグなんていくらでもしてきた。それは良樹がほとんどアメリカ人で、会うたびする日常的なことで、動揺なんてしたことがなかった。
でも、今は違う。挨拶のハグでもなく、お父さんやお母さんに抱き締められた感覚でもなく、メアリーと嬉しさ余って抱き合う感触でもなくて。
「好きだ」
心臓が止まってしまいそうになる。
驚きなのか、それともまた別の感情が爆発したのか、区別なんてつかない。
「ずっと、好きだった」
また腕から力を抜くと、私の顔を窺う。
何も言えなくて、見開いた目で相手を見返していたら、微笑を湛える良樹は、目を伏せ、私の頬に唇を落した。
そっと優しく、唇が伝う。少し潤いを持った熱が、身を竦めた私の左頬を慈しむように流れていく。
「弘子」
甘さを孕み囁く彼の唇が、私の唇に近づいた。初めてのことに動転して、反射的にぐっと瞼を閉じたその時。
『──ヒロコ』
黒に染まった視界に、一瞬、良樹ではない誰かの声が過った。
誰かの、私を呼ぶ、懐かしい、慈しむような声が、金色の尾を引いて、私の脳裏を風のように通り過ぎて行った。
「……弘子?」
急に押し返した私の様子に、良樹が不思議そうに私を呼んだ。
相手の声に我に返り、自分の置かれた状況を思い出して頭に熱が一気に登るのが分かった。
「と」
上擦った声が洩れる。
「……と?」
私を窺う良樹の顔が視界いっぱいに広がる。
「弘子…?」
息のかかるほどの距離にある、相手の唇が尋ねた。
「と……と…」
頭が真っ白だった。爆発してしまいそうだ。
「と……ト、イレ…っ!」
良樹のぽかんとした顔を見たのが最後。相手を押しやって勢いで駆け出し、私は部屋を飛び出した。
慌ててドアを閉め、良樹を閉じ込めた状態でそのドアに寄りかかり、今言われたことを、されたことを、思い返す。
結婚。好き。そんな。
頭がぐるぐると回って、何が何だか分からなくなって、自分を落ち着かせようと深い呼吸を繰り返す。さっきまでの頭痛も、湧き上がる焦燥もどこかへ吹き飛んでしまっていた。
とりあえず、言い訳に『トイレ』を選んで叫んだ自分が恥ずかしくて堪らない。行きたくもないのに、何故トイレ。もっとマシな言い訳くらいあっただろうに。
『──彼、ずっとあなたのこと好きよ』
記憶の隅にある、お母さんの言葉が甦った。
ああ、まさか。そんな。
忘れた頃にそんなこと、言われるなんて。それも、こんな急に。
お父さんたちが『良樹も一緒に』と言っていた時から何となく察してはいた。私の両親は多分、私が良樹を選ぶことを、望んでいる。小さい頃から一緒だった、それも私をずっと探してくれていたあの人を私が選んで結婚することを。それが一番、安心できるから。
一度大きく息をついて、自分が座り込む茶色の廊下を眺めた。いくつかの部屋に面する茶色の廊下に、窓から夕陽に近い色を成す光が射し込み、小さな傷たちを浮き立たせている。
何も返事をしないで飛び出してきて、大丈夫だったかしら。
そうは思うけれど、今の状態で、返す言葉も持ち合わせていないまま戻る気にもなれず、私は熱を持った頬を両手で包みながらとぼとぼと二階の廊下を行くあても無く歩き出した。
どうしよう。なんて、返事をしよう。
あんな熱い目で見つめられたのは初めてで、あんなに強く抱き締められるとは思っていなくて。驚きと恥ずかしさで、なかなか顔の熱が引いてくれない。
そうしてすぐ右側の、お父さんの書斎の扉が理由もなく目について足を止めた。
濃い茶色の、大きめの扉。何故か懐かしさと同時に引き寄せられる感覚がして、気づいた時にはドアノブを捻って本の独特な匂いで満ちた空間に足を踏み入れていた。
茶色が主の部屋で、天井に届く高さ本棚にはエジプトや他の文明の本がずらりと並ぶ。全部考古学関係。
机を覗いてみればピラミッド型やファラオらしき人を象った置物が並べられ、エジプト壁画のパズルが壁に綺麗に掛けられている。言ってしまえば、お父さんの趣味部屋だ。小さい頃によくここで遊んでいたことを思い出し、懐かしさに襲われる。どれもこれも、遠い記憶にあるものだ。それなりの年になってからは全く出入りしなくなっていたから、懐かしさばかりが込み上げる。
そしてふと視線を下に向けた時に、紙袋の存在に気づいた。机の横に沿うように置かれている白い紙袋。
いつもなら気にも止めないような変哲もない袋に、私は屈みこみ、気付いた時には手を入れていた。引き寄せられて、という言葉が一番合っているかもしれない。
「……黄金?」
最初に指先に触れ、取り出したものに私がまず漏らしたのは感嘆の声だった。
掌に乗るのは、蛇を象った細い金色に光る腕輪。部屋の中に漂う、わずかな光を反射させ、言葉にできないような威を放っていた。
「すごい……綺麗」
多分、本物の金だろう。専門家でなくとも分かる。美しい色だ。
「どうして、こんなもの…」
そこまで呟いて、はっとする。これは、私が発見された時に身に付けていた衣装の一つなのだと。この紙袋に入っている白い麻の生地は、私が身体にまとっていたという奇妙な服だと。
お母さんが見なくていいと私から遠ざけていたものが今、私の手の中にあった。
「私が……これを?」
一体、何をしていたのだろう。どこで、何をしていたのだろう。
お母さんが思い出さなくていいと言うから、出来るだけ気にかけないでいたけれど、煌めく黄金を見て、1年間という空白の記憶がどういうものだったのか、思い出したくて仕方なくなる。
細い腕輪に見入っていると、その横に一冊だけぽつりと落ちていた本に視線が流れた。本棚から落ちたのかと思い、黄金の腕輪を握りしめながらそのタイトルを探る。
『エジプト王朝女王・王妃歴代誌』
エジプト史に出てくる女王と王妃についてまとめてある厚さのある単行本だ。
確か、良樹はアンケセナーメンはエジプトの王妃だと言っていた。ツタンカーメンの妻だとも。ならば、この本の中にいるはずだ。
知りたい一心で一番後ろの索引ページから彼女の名を探し出し、指定されたページを思い切って開いてみた。どうしても知りたかった。その名を持つ人を。
『アンケセナーメン(Ankhesenamen,紀元前1344年頃~不明)』
大きく胸が脈打つ。
これだ。夢の中の、私の名だ。
身体がざわりと騒ぎ出すのを感じ、その文字に引き寄せられるように前屈みになった。
『エジプト新王国時代の第18王朝のファラオ、アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女と推定されている王女。異母弟ツタンカーメンの妻』
綴られている単語一つ一つが、私の胸にちりと痛みを生む。その場に座り込み、私はその悲劇の王妃の文章に見入る。指先を当て、読み込んでいく。湧きあがるこの感情の理由が、意味が、正体が、分からない。
『当初の名をアンケセンパーテン(Ankhesenpaaten)と言い、実父アクエンアテンの妻だった時期もある』
そう言えば夢で。あの淡褐色の少年は、私を時々アンケセパーテンと呼んでいた。父親の妃になった、とも。
まさか、私が見ていたのは史実なのだろうか。私は現実に起こったことでも夢で見ていたのだろうか。そんなことが、在り得るのだろうか。
動悸が鳴るのを、苦しくなるのを堪えながら、ページの端を握りしめ、私は文字を目で追い続けた。
『アクエンアテンの死後、ツタンカーメンの妻となった際にアテン神からアメン神に信仰を変えアンケセナーメンと改名』
思い出したい。失われた記憶を。額を片手で抑え、記憶を引っ張り出そうと自分を追い詰める。
何か、あったはずだ。誰かがいたはずだ。誰か、誰か。とても、大切な。褐色で、薄い唇。
でも、止まってしまう。また錠剤のような白さの河に埋もれてしまう。
駄目。お願い、消えないで。
うっすらと目を開き、もう一文読めばまた何か出てくるのではないかと、震える指を乾燥した文字の上に置いた。
知りたい。思い出したい。すべてを。
『夫であるツタンカーメンとは幼馴染だったと言われ、』
幼馴染。夢の私はツタンカーメンの幼馴染だった。その先は。
『若くして亡くなったツタンカーメンの棺の』
「弘子」
いきなり目の前に手が伸びてきて、本が上に消える。
文字も、挿絵も、年号も、何もかもが視界から消え、グレーのカーペットが敷かれた床が私の視界を埋め尽くしていた。
「やめなさい」
振り返れば、険しい表情のお父さんがいた。彼女の名が刻まれた本と、あの紙袋が私の背後に立つ父の手にある。
「これはもう捨てるものだよ」
本の表紙に片手を乗せ、お父さんは言った。
「捨てる…?」
エジプト関連のものだったら、新聞さえ切り抜いていたお父さんが、その本を捨てるなんて、どうして。
「これはもう必要ない。エジプトを出るんだからね」
ああ、そうだ。私は、この国を離れるのだ。この太陽と、砂漠の国を。
忘れかけていた予定に、帰国を知ったあの時と同じ悲しさが私を襲う。
「弘子、」
ぺたりと座り込んだままの私の頭を撫でながら、少しだけ笑ってくれる。小さい子供を慰めるかのような柔らかい表情だ。
「驚かせて悪かったね。さあ、こんなつまらない所にいないで、良樹のところに行くといい」
ここは、お父さんの大切なものが詰まった場所だったはずだ。
「こんな所にいるものじゃない」
父の悲しい言葉に、どこにもやれない気持ちがせめぎ合う。
「まだ本調子じゃないんだから、無理しちゃいけない。それにまたエジプトだなんて言ったらお母さんが心配するだろう」
腕を掴んで立たされ、私は部屋を出されてしまった。この部屋に近づけまいとするかのようだった。
「待って、お父さん」
咄嗟にお父さんの服を掴んだ。
「私のせい…?私のせいで全部捨てるの?全部やめて、日本に帰るの?」
私がKV62で消えたから。だからお父さんはあんなに好きだった、夢中だった考古学を、つまらないものと呼んだのだろうか。だから捨てようとしているのだろうか。
「それは違う。お前は気にしなくていいことだよ」
優しくそう言って私の頭を撫でる。
やっぱり私のためなのだ。あんなに好きだったのに。エジプトが、好きで好きで、堪らなかったのに。
「お父…」
「お父さんは片付けがあるから……ああ、ほら」
お父さんが私の言葉を遮り、私の背後に視線を送って微笑んだ。振り返れば良樹が立っている。眉を八の字にして、笑みを浮かべた、私を好きだと言った彼が。
「弘子は良樹と一緒にいなさい。良樹といれば安心だから。その方がお前にとってもいいことなんだよ」
お父さんが私の肩に手を置いてからまた頭を撫で、そのまま部屋へと戻ってしまった。
くすんだ夕陽の零れる、茶色とオレンジが乗った廊下に二人。静けさの中に私と良樹、二人だけ。
「弘子」
その唇が、私の名を象った。
ずっと。ずっと、遠く。その唇ではない、別の唇が私を呼んでいた気がする。
別の声で。別の瞳で。もっと美しい澄んだ夕陽の中で。私の名を、高らかに奏でた人がいた気がする。
でも、その人はどこにもいない。白い渦に呑まれて、白さの向こうに良樹が見える。隠すように背中の後ろで握りしめていた黄金の腕輪の冷たさを感じながら、向こうに立ち、私を呼ぶ彼を茫然と見つめていた。