少年
第2部
3300年。
ナイルのように悠久に流れるその愛しい記憶を、
私は覚えていられるかしら。
あれほど煌めいていた黄金が、
青に染まって、沈んで、
その色を失ってしまっても、
私は思い出すことができるかしら。
もし。
私が貴方を忘れてしまっていたら、
私を、呼んで。
その声で。その瞳で。
もう、一度。
なんて青いのだろうと感嘆が漏れた。
空は雲一つなく、空気も驚くぐらい澄み、目の前に広がる壮大さに私は目を奪われ、大きな柱に額を寄せて下から流れてくる風を全身で感じている。風の声を、ナイルの声を聞こうと耳を傾ける。
ずらりと並ぶ圧巻の巨大な柱の列に、囲まれた白い廊下。所々に見える仏頂面の兵士や忙しなく働く女官たち。威を振りまく神々の壁画や像が私を見下ろしていた。柱に掘られた王家の花であるハスのレリーフはどこまでも美しい。
自分を取り囲む風景に、またあの夢だと悟った。最近続け様に見るあの奇妙な夢なのだと。
「アンケセナーメン!!」
弾けた子供の高い声が、ぼんやりと佇む私の背中にぶつかってきた。
「アンケセ、パーテン!!」
こちらへ走ってくるのは、短い焦げ茶の髪の、まだ十歳ほどの男の子だ。
長く伸びた柱の影の間をまるで小動物のように走り抜け、白い廊下を蹴り飛ばし、小さな壺を抱えて、鈴が遠くで鳴るような音を黄金のサンダルから響かせながら真っ直ぐと私の方へと駆けてくる。
「どうして返事をしない!」
頭にはぐるりと巻く金色の帯。赤と青が交互に色を成す首飾りに、幻想的な光を宿す黄金の腕輪。子供ながらに気品を感じさせるその子の姿は、育ちの良さをこれでもかと表している。
「父上の妃となって、耳が聞こえなくなったのか!?アンケセパーテン!!」
その子は夢で私を呼ぶ。
弘子とは、違う名で。私の知らない、奇妙な名で。
「トゥト・アンク」
思うこととは裏腹に、私は少年の髪を撫で、微笑みを向ける。指先に触れる焦げ茶の髪は少し固めだ。
「その名で呼ばないでと何度言ったら分かってくれるの」
「姉上が返事をしてくれないのが悪い。さあ、早く!香油を塗ってくれ!」
私の目の前に到達した少年は、きらきらと輝く淡褐色の目に私を映し、両腕に抱いていた白い壺を押し付けてくる。
生意気なことを子供らしからぬ口調で言うけれど、向けてくる輝かしい笑顔はとても可愛らしくて綺麗だった。何よりも希望に満ち溢れていた。
「仕方ない子ね、塗ってあげましょう。座って」
私がその子の身長に合わせて腰を落とすと、彼は嬉しそうににっこりと頬を緩ませて私に壺を渡してくる。手渡された壺の中から、癖になる甘い香りが鼻をくすぐった。
「頼む!」
柱の小さなでっぱりに少年がちょこんと座り、私は壺から香油を手に取って小さな褐色の背中に塗っていく。
涼しさを含んだナイルから流れ来る風が、私の黒髪と少年の焦げ茶の髪をそよそよと優しく撫で、静かな香りを辺りに満たした。
夢だと思えないくらい、穏やかな一時だ。
「アンク、今日は何をするの?」
肩から腕に油を伸ばしていきながら、少年に問う。
「ナイルの河畔に行こうと思ってる。狩りをしたいのだ」
「あら、素敵ね……でも宮殿の中で出来るものになさい。外へは行ってはいけません」
「姉上までそんなことを言う」
ぶうっとあからさまに頬を膨らませる少年に思わず笑ってしまった。
「外へ行ったら、姉上の好きな花を取ってくるぞ。なんだっけ、あの青い花」
「……ヤグルマギク」
──ああ、それは。私の、好きな花。
夢ともなると、自分に関係することも出てくるものなのだとぼんやりと考える。
「女は皆ハスを好むのにどうして姉上はその花なのだ?」
首を傾げる少年に、私は香油を手に取りながら遠くを眺めた。
「王家の花だから」
「我が王家の花はハスだ」
「あの気高い青が私たちの王家に何よりも合うと思うのよ。母なるナイルの青。私たちを覆い尽くす空の青……青はとても美しい色だと私は思う」
ふうんと小さく唸り、少年は風に髪を揺らしながら、最後に「変なの」と付け足した。
横から覗けば、長いまつ毛が影を落としている小さな横顔から、生まれ持ったその少年の威厳のようなものを垣間見れる。どこかの高貴な生まれ設定なのだろうと思ったりもする私は随分と呑気なものだ。
「……アンク、何をしている」
後ろから聞こえてきた低い声に振り向くと、20代と思われる男性が険しい表情で腕を組み、仁王立ちで立っていた。
時々夢に出てくる、この少年の兄だ。私が時折姉と呼ばれていることから、私たちは三人兄弟で、私が香油を塗っているこの子は末っ子だと見当がつく。
兄は淡褐色の少年と同じように腰巻に、首飾り、黄金の飾を頭に付けている背が高めの青年だった。
「……また兄上」
つまらなさそうに口を尖らせる少年は俯いて、いじける素振りを見せた。
「アンケセナーメンは父上の妃となる身。アンケセナーメンが香油を塗るのは夫となる我らの父のみだと分かっているだろう」
凄味をきかせてはいるけれど、彼の眼差しは兄から弟への慈愛に満ちていることを私は知っている。
「アンケセナーメンは最早我らの母となるのだ。姉でも妹でもないのだぞ」
「うるさい」
ばっと立ち上がり、私の手を振り払って少年は兄を睨みつけた。
「兄上はいつもがみがみうるさい!兄上だって姉上に香油塗ってほしいくせして!少しくらいいいではないか、ケチ!ケーチ!」
「お前のためを思って言っているのだ。それに私は…」
「う、る、さ、いー!!!だまれだまれ!!」
べーっと赤い舌を出し、淡褐色の少年はぴょんと柱のでっぱりから飛び降りた。
「衛兵!行くぞ!兄上の説教など聞くつもりはない!」
「はい、王子!」
どこからか従者が飛び出してきて少年の後ろにつき従った。ついていくのがやっととも言える姿の従者に私は苦笑する。
「話は終わっていない!アンク!兄の言うことは…」
「スメンクカーラーの言うことなんか聞くか!馬鹿!大嫌いだ!」
「外は危ない!昨夜も放火が起きたこと、お前が知らぬはずはあるまい!」
兄の説教は完全に無視で、もう一度舌を突き出し、少年は戸惑い気味の衛兵と共に外に向かって駆けて行った。
後味の悪い沈黙が走ってから、目の前にいる彼の兄は深いため息をついた。少し距離のある私の所まで聞こえるほどに深いものだった。
「……カーメス」
「はっ」
呼べばまた人間が一人、どこからともなく現れる。一体何人、柱から出てくるのだろう。
「あの愚かな弟を追ってくれ。宮殿からは一切出すな」
「承知いたしました」
にっこりと、それでも苦笑を交えながら15歳ほどのくせ毛の少年は丁寧に頭を下げた。くるんくるんと可愛いくせ毛が揺れている。
「弟君は、我が命に代えてでもお守り申し上げます」
くせ毛の衛兵は宣言し、私に笑顔を向けて挨拶をすると、颯爽と衣を翻して柱の向こうへと消えていった。
「……困ったものだ」
二人残された空間に響く、短い言葉を兄は吐き出す。
「父上や私がいなくなった後の世をあの弟が一人で背負えるか」
続けて、悩ましげに顔を顰めた。その横顔はあの少年とそっくりだけれど、また違った誇りと威厳と美しさを湛えている。
「お兄様」
私が落ち込む相手に声を掛けた。
「アンクはきっといつか分かってくれます。今国が荒れている理由も、お父様のことも何もかも……賢い子ですもの」
私の口が意に反して勝手に動くのも、夢の中ではいつものこと。驚きはしなかった。夢で私は私であって、私ではない。この感覚を何故かすんなりとこの状態を受け入れている自分がいた。
「カネフェルもアンクの才には感心しておりました。あの子は王家の素質があると」
「分かっている。アンクは誰よりも王家として相応しく生まれた。丈夫な身体と、賢さを持って。ただ、あの幼い弟が心配でならぬ」
私は兄の言葉に瞼を閉じた。弟が背負わなければならないものを思い、弟を憂いた。
互いに黙って庭を見やる。どこからともなく悲しさが零れて、胸が苦しくなった。
「お前は大丈夫か」
視線をやると、兄は私を見つめて尋ねていた。少年とは違った、黒い瞳が私を映して光る。
「いきなり父上の妃という話が出て……それも第一王妃など。ネフェルティティ様がいるというのに。父上は何を考えておられるのか」
「ファラオが王家のため、国のためと言うのなら仕方がありませんわ。それに我が王家に役に立つのならば私は何でも受け入れるつもりでいます」
彼は大きく頭を横に振って俯いた。
「兄などと呼ぶな。お前は私やアンクの母となるのだから」
声は、どうしたらいいか分からないほどに切ない。
「いいえ」
私は一歩前に出て強めに、それでも淑やかな声音で反論する。
「お兄様はいつまで経っても私のお兄様です。そちらこそ、以前のように名で、アンケセナーメンと呼んでください」
私の必死な声に「いいや」と少年の兄は首を横に振った。こうなれば、もう言葉は発せない。相手を囲う雰囲気がそれ以上の発言を許さなかった。
私ではない私は、そんな兄を見て肩を落とす。
沈黙が降り、時間だけが流れていく中、スメンクカーラーは蒼空に浮かぶ太陽に手をかざした。
「……父の政策は、間違っていたのだろうか」
ぽつりとした落された呟きは、哀愁に満ちていた。
「太陽の下に平等であれと説いた父の想いは民には届かなかったのだろうか」
一度目を閉じ、私は答えるべく瞼を開けて彼を見た。
「アメンは我が国の始まりから我らを見守ってきた神。それを捨て、新たなアテンという唯一神などを、民は受け入れられないでしょう。たとえ、お父様の選択がどれだけ民を想ってのものだったとしても」
私の声は寂しさを含みながらも冷静で単調だった。
「父アクエンアテンは今、病に伏している。ヒッタイトとは不仲が続き、民でさえもが暴動を起こす今の荒れた世を、未だ幼き我が弟が治められるか私は心配でならぬ」
「お兄様がいらっしゃるではありませんか。お兄様は次期ファラオとして強く望まれていらっしゃる。お兄様からあの子に…」
首を横に振り、彼は私の言葉を絶ち切った。
「私はそう長くはない。身体に病魔が蝕んでいると侍医にも言われている。おそらく、父と同時期あたり、我が命は尽きる」
胸元に手をやり、静かにその人は告げた。
確かに、頬はこけて顔色もあまりよくはない。何の病気なのだろう。治せないのだろうか。
「私は死に、冥界へと旅立ってオシリスに会う」
死ぬ、だなんて。
普通なら反論してもよさそうなその言葉を、私はただ黙って聞いていた。右と左の指を身体の前で交差させ、それに力を込めているだけ。想いを、言葉を、抑え込んでいる。
「おそらく、近い未来、弟がファラオとなろう。弟は私より賢い。力もある。民からも神からも愛されるラーの子となろう。それが我が願いだ」
私は黙る。寂しさの中に、泣き出しそうな感情を堪えて押し黙る。
「若きファラオ、トゥト・アンク・アテンの誕生の日は最早、目の前」
あんな小さな子が、王になるのか。まだ10歳ほどの、無邪気なあの子が。
「アンケセナーメン」
相手が私を呼んだ。私のものではない、その名を。
私は、弘子なのに。そう叫びたいのに叫べない。
「トゥト・アンク・アテンを」
私は徐に顔を上げた。そこにあるのは、優しい、けれど哀愁の漂う微笑みだ。
「我らの弟を、頼む」
瞼を伏せ、相手は続けた。
「お前の手で、あの者を、我が国の太陽として欲しい」
「お兄…」
「頼む」
私の言葉を遮って、それだけを言い残し、兄は歩き出す。太陽の光を反射し、白く光るその長い廊下を、小さな咳を零しながら、ただ一人。
その悲しみに満ちた後ろ姿を追うことはなく、私は俯き、自分の足先を見つめていた。
けれど、私はすぐに何かを決意したかのように顔を上げ、夢の始めと同じように碧空を仰ぐ。強く、しっかりと。
ナイルの音を聞き、風を感じて砂漠の唸りに耳を傾け、神のような威厳を惜しげも無く放つ太陽に、大きく開いた手をかざす。
遮られてもその陽の光が衰えることはなく、指と指の間から零れ、私の顔に降り注ぎ、横を通り過ぎては消えて行くのを見ていた。
* * * *
目を開けたらいつもの風景が視界を覆う。見えたのは眩しい太陽ではなく、白を湛える私の部屋の天井だ。
ぬいぐるみや教科書とペン立てが並ぶ、私の机。クローゼットに本棚にクッション。そして私が横たわっているのは柔らかい、水色のベッド。
壮大で、それでも切なさに満ちた世界がすべて消滅し、見慣れた世界が私を包んでいる。
夢から覚めたのだと知った。
それでもまだ、あの奇妙な夢の中にいるような感覚が私を取り巻いていて、それを振り払ってしまおうと片腕で両目を覆い、深く息をついた。
「弘子…?」
声が聞こえて、左側に視線を向ける。一つの影が窓から射し込む夕陽に浮かんでいた。
「…メアリー?」
私の呼びかけに親友は笑窪を浮かべて微笑んだ。
「どうしたの?学校は?」
寝起きの声は掠れ気味で、数回咳払いをした。
「今日は早めに終わったの。何にも目をくれず、すぐここに飛んで来たんだからね」
ベッドの横に椅子を置き、そこに座る彼女は若干肩を上げて私に顔を近づける。やっぱり、この笑顔を見るのもすごく懐かしい。
「弘子に会いたくて、早く講義終われって祈ってたくらい」
まるで恋したみたいよ、と彼女は冗談を言う。ウエーブのかかった髪を肩に揺らす親友の言葉が素直に嬉しくて、私の口角も自然と持ち上がった。
こうして見ると、小さい頃に私の隣で泣いて、私の後ろをひょこひょこついてきて、まるで妹のようだった彼女が、何だか急に女性らしくなった気がする。
「起こしちゃったならごめん」
「ううん。熱も何もないのに、ずっとベッドの上で退屈だったから。みんな動いちゃ駄目って言うんだもの」
「そりゃあね」
答えて笑ったら、ふと彼女が瞳を揺らしながら私を見つめているのに気づく。何かを口にするわけでもなく、ただ、黒い濃褐色の目に私を映している。
どうしたのだろうかと私が首を傾げると、彼女の両目に透明な液体がみるみるうちに浮かんできて溢れ、ぽたりと一縷落ちていった。
「…メアリー?」
心配になって、左手を掛布団から出して彼女に伸ばす。
「……弘子、本当に帰ってきてくれたんだと思って」
メアリーは私の左手を取り、ぎゅっと両手で握った。ぬくもりが手を通して私の身体に達する。
「私……私ね、ずっと弘子に会いたかったの。弘子を考えなかった日なんて一日もなかった。何も手につかないくらい、ずっと探して…」
温かい涙を私の手に落としていく。表情はもう泣き顔で、どうしたらいいか分からないくらい歪んでしまっていた。
「戻って来てくれたことが嬉しい。弘子を見る度泣いちゃうほど、嬉しい」
ああ、私はどれだけ心配をかけてしまったのだろう。
「……嬉しい、私も。戻ってこられて」
やはり変わっていないと思えた彼女と、彼女の気持ちに泣きそうになりながら返したら、相手は泣きながらも笑ってくれた。可愛らしいその笑窪が、褐色の肌に浮かび上がる。
「あ、そうそう、あのね」
私が身体を起こすのを手伝いながら、思い出したように涙を拭ってメアリーは話題を変えた。
「ヨシキ、弘子の精密検査の結果見に行くって言ってた。異常なしだといいね」
「もう?……早いね」
普通なら1週間くらいかかるはずなのに2日だというから驚いた。
「多分、権威を乱用してるんだよ。早く出せーって他の先生を脅してるの、きっと」
私は今まで1年以上行方不明で、2日前にエル・アマルナで倒れているところを、その遺跡を管理しているおじさんが発見して救急車を呼んでくれたらしい。
病院で目覚め、そこで検査を受けて、結果が出るまで入院するはずだったけれど、良樹の計らいで家で静養という形にしてもらっていた。
「ヨシキったら、あの病院で神様みたいに崇められてるよ?凄い評判。アメリカ帰りのお医者様だって。信者だっているんだから」
けらけらと彼女は笑う。
勉強の時間を削ってまで私を探してくれていたという彼女。なんてお礼を言ったらいいか分からない。私がいない間のメアリーの話を両親から聞いて、なんていい友達を持ったのだろうと何度繰り返し思ったか。
「ヨシキ、暑さには凄まじく弱いのに、病院では神様なんて変よね。患者さんに見せてあげたいものだわ」
「良樹、暑さにだけは弱いから……猫舌だし」
エジプトの暑さなんてあの人にとっては天敵のようなものなのに、私のために日本に帰る話まで蹴って残ってくれていたことを聞いた。
色々と慌ただしくて、まだちゃんとお礼を言えてない。次に会ったらきちんと言わなければ。
「弘子、いつになったら学校に来れる?」
学校。これも久しぶりに聞く響きだ。
「まだ、分からない……事件の関係性とかどうとかで警察にも行かなくちゃいけないし、検査の結果で色々と変わってくると思うから…」
そうだね、とメアリーはクッションを拾って胸に抱きながら頷く。その振動で、彼女が腰かける椅子がギイと音を鳴らした。
「でも、本当に弘子が見つかってよかった」
独り言のように小さく連ねられる声に顔を上げる。
「おばさんなんて、弘子がいなくなってから本当に…」
そこまで言って口を噤み、彼女はううんと首を振った。
どうしたの、と問うと、彼女は言いかけた言葉を振り切るように笑顔をその顔に再び浮かべた。
「無事に帰って来てくれたんだからいいの。他のことは気にしないで」
痩せてしまった、お母さん。お父さんも、あんなに顔を真っ赤にさせて古代の話をしていたのに、今は何だか顔色が悪い。心配かけてごめんなさいと、何度謝ってもきっと足りることはない。
肩を落とした時、コンコンと扉からノックが聞こえた。
「弘子、起きた?」
開いたドアの隙間から顔を出したのはお母さんだ。
私が身体を起こしているのを見てほっと息を漏らし、薬箱を右手に、左手には飲み物とお菓子が乗ったプレートを持って入って来た。
「熱、計りましょうね。良樹に言われてるのよ、定期的に計るようにって」
差し出された体温計を取って言われるままパジャマのボタンを外して脇に挟む。
お母さんはメアリーの反対側、私の右側に腰を下ろして今度はプレートを差し出してきた。
「はいメアリー、お菓子をどうぞ」
「うわあ、ありがとう!おばさん」
小さなチョコレートクッキーを一つつまみ、メアリーは嬉しそうに頬張る。
「夕飯食べていく?」
「ううん、お母さんが今日は帰ってきなさいって。工藤家の家族水入らずを邪魔しちゃ駄目でしょって」
「あら、そんなことないのに。食べて行ったらいいわ」
「いいえ、今日は帰ります。工藤家だけで今夜は楽しんで。私はまた別の日にしっかりとお邪魔させていただきますから」
彼女の冗談めかした言葉に、お母さんが楽しそうに笑った。両側から生み出されるそんな微笑ましい光景を見て、私の口元も自然と緩む。
二人の光景をぼうっと眺めていたら、ピピという電子音が鳴って体温計を取り出した。
「どうかしら」
私から受け取った体温計の数値を確認して、お母さんはまた安堵の息をつき、「大丈夫ね」と呟く。
「平熱よ。…じゃあ、またこれ飲んで」
水と一緒に手渡されるのは精神安定の薬だ。白さに、一瞬吸い込まれそうになる。これを飲んだら、また眠くなって、私はまたあの夢を見るのだろう。
見たくない訳ではない。嫌な夢という訳でもない。それでも、夢とは思えないあの映像が、私の記憶に降り積もるような不思議な感覚が付きまとってくると思うと、少しだけ抵抗がある。
「弘子、ちゃんと飲まないと駄目でしょ。もしかして、錠剤だと駄目だとか?」
「そ、そんなことない。赤ちゃんじゃないんだから」
私の髪に手を伸ばすお母さんに笑って言い返す。水と小さな白い粒を見つめ、覚悟を決めてごくりと呑み込んだ。
喉を、あの白いものが水と一緒に流れていき、やがて胃の中に消えていくのを感じて小さく息をつく。
「はい、よく出来ました」
私からコップを受け取って部屋を出る準備をするお母さんの姿を見ていたら、ふと蓋が開いている透明な救急箱の中に見覚えのある錠剤があるのに気付いた。ただ視界を泳いでいただけのものに、一瞬で釘付けになる。
「……それ」
「え?」
「その、薬……」
お母さんが首を傾げながら、これ?と言って差し出してくれた蛇の図柄の薬の小箱。蛇に噛まれたらこれを飲みなさいと何度も言い聞かせられてきたものだ。
「コブラの解毒剤よ。これがどうしたの?」
コブラ。解毒剤。胸が騒いだ。
「……おかあ、さん」
私の途切れた呼び声に、お母さんの顔に戸惑いの色が走った。
「もらってもいい?その薬」
「いいけれど、どうして?」
聞かれて、我に返る。
どうして。どうして、かしら。
コブラになんて噛まれたことないのに。必要なんてないのに。
「……私…どうして?」
自分の両手を見て、自分に問う。
私、やっぱりおかしい。変だ。
記憶だけじゃない、自分の行動の理由さえ分かってない。
「わ、私…」
「……弘子、」
自分の発言の糸が分からず茫然とする私を、お母さんは静かに腕を伸ばして抱き締めた。髪を撫で、呼吸を乱し始めた私を落ち着かせるように。お母さんの匂いが私を包んで、その柔らかさに埋もれる。
「弘子、大丈夫。…大丈夫よ」
お母さんは笑顔を浮かべ、私の頬を撫でてから、箱から6つ入った1セットを取り出して私の手に握らせる。
「コブラがいない訳じゃないから、持っていても損はないわね」
そう言って口元に弧を描くお母さんの顔には動揺が走っている。また心配を掛けてしまったのだと気づいた。
「まだ疲れてるの。寝ていなさい。…良樹とお父さんが帰ってきたら起こしてあげるから」
私の身体をそっと押して、またベッドへと戻してしまう。
お母さんの眼差しは憂いを秘めていて、私の額からこめかみにかけて伝う白い指は、私の存在を確かめるように流れていく。
本当は寝ていたくない。1年間の失くした記憶を探したい。
けれど、これ以上心配は掛けられないと思うと、お母さんの言うことにただ頷くことしか出来ない。
「……じゃあ、私も帰るね、弘子。明日も来るから、絶対に」
椅子から立ち上がり、私を覗く唯一無二の親友に、小さく手を振り返す。
横たわる私の上を、お母さんとメアリーの会話が二言三言通り過ぎ、またこちらに声をかけて二人は部屋から去って行った。
私、一人。夕方の暗めのオレンジ色が差し込む部屋のベッドの上に一人。
手に握られた6つの錠剤を横になりながら茫然と眺める。理由は分からないけれど、これを手放してはいけないと私の何かが叫んでいる。
失われた記憶。ぽっかりと穴が開いている私の胸。一人になって考えるのはいつもそのことだけだ。
何度も思い出そうとしても、この錠剤のような白さが邪魔をして何も出てきてはくれない。
何か。何か、とても大切なものを。想いや、人たちを。私はどこかに落としてきた、そんな気がする。
無理に引き出そうとすると、記憶が無いという不安からか、忘れてしまった悲しみからかは分からないけれど、知らず知らずのうちに私の目頭は熱を持ち、涙を生み出す。
自分でも分からない想いに埋もれてしまいそうになって。そのどうしようもない感情から逃れようと理由もなく解毒剤を握りしめ、枕に顔を押し付けてまた目を閉じた。
そうすれば、暗闇が私を包んで、ほら、また。
聞こえてくるのは黄金のサンダルの音。鈴の、鳴るような。
『──アンケセナーメン』
弾けるような、少年の声。淡褐色の目を輝かせた男の子が、きらきらと笑顔を振りまいて、走ってくる。
『──アンケセナーメン、共に治めよう』
その子は、呼ぶ。
遠くで。ずっと、ずっと、遥か遠くで。
『──約束だ、アンケセナーメン』
私の知らないあの子は、透き通った強い声で呼ぶ。
私の名ではない、私の名を。