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崩れた決意

 夜の闇が世界を制し、1時間後くらいにはラーが出てくるような時間帯に、寝台の上で丸めていた身体を伸ばして顔を上げた。

 時が来たのだと悟って、寝台の上で抱いていた膝を冷たさに満ちた床に降ろし、固まってもう動かないのではと感じていた身体を徐に持ち上げる。


 行かなければ。


 この時を待っていたと言わんばかりに隣に置いてあるショルダーを肩に掛けると、以前外に出た時に身に付けた白い麻の上着を、模様が見えないように裏返しで着込んだ。一人で着替えるなんて久しぶりで、少し違和感を覚えながらも、慣れない服装を身に付けた全身を何度か繰り返し見直し、何の綻びもないかを確認する。

 多分、これで遠出する侍女の格好に近いものになっただろう。顔を見られない限り、私だとは分からない。

 胸に手を置いて、自分を落ち着かせながら、これからのことをもう一度頭の中で巡らせてみる。

 侍女を装い、部屋を出て。今頃外で準備されているであろう、彼の馬を奪って。この王宮を出て。そして私を知る人間などいない、知らぬ土地まで行くのだ。

 寝ずに考えた作戦がこんなものかと思うと、自分に対して呆れの言葉しか出てこない。呆れを通り越して、滑稽すぎて笑ってしまう。

 この部屋の外には多くの兵がいるだろうし、まず王宮から外に出るまでの長い距離を走る内に、誰かに見つかってしまうのではとも思う。それにこのエジプトの広大な砂漠を、馬だけで越えられるかも分からなかった。

 途中で、熱中症か何かで倒れたら私の命もそれまで。リスクばかりが高くて、成功なんて夢のまた夢のよう。

 でももう、ここにはいられない。彼の傍にいては駄目だ。多少の無茶をしてでも、私は彼から離れなければならない。

 何度、繰り返し唱えたか分からない言葉を、もう一度自分に言い聞かせる。元の時代に帰ることが出来ないのならば、私は出来る限り歴史に触れないよう、人目につかないよう、生きていくだけ。死んでいくだけだ。


 胸に募る想いを殺して、彼の部屋に繋がるカーテンを音もなく開いた。彼の部屋に踏み入れると、彼の匂いが微かに漂う。

 傍の机の上にパピルスとペンが散乱しているのを見た。きっと、夜遅くまでいろいろと考えていたのね。

 宗教改革、テーベへの遷都。そんな大きなことをやり遂げるあなたを、この目で見ていたかったけれど、抱いてはいけない望みだった。

 視線を動かせば、薄暗い天幕の中の丸められた背中が見える。


 ああ、また。

 また、何もかけずに寝ている。


 風邪を引いてしまうからと、何度も注意したのに。

 かけてあげようかとも思うけれど、もう彼には近づかない方がいいと思い止まり、異一度彼の方へ浮いた足をもとの場所に下ろした。些細と思うすべてのことが、歴史を左右すると思うと怖くて堪らなくなる。

 しばらく、闇に浮かぶ褐色の背中を見つめていた。こちらには聞こえない寝息と共に、上下に動くその陰から目が離せなかった。


 私、あなたといられて、とても楽しかった。

 絶望の底に落された私を救ってくれたのはあなた。この時代の素晴らしさを教えてくれたのもあなた。初めて恋をしたのもあなた。焦げてしまうのではないかと思うほどの想いを私に抱かせたのも、あなた。

 あなたの想いに何も答えないまま去ろうとする私を、許してくれるかしら。

 とても好きだった。今も、これからもきっと変わらない。

 別れる今になって、どうしようもなくその感情が溢れて、その背中に抱きつきたくなってしまう。

 死なないで、離れたくないのだと泣き叫んでしまいたい。こんな想いを抱く季節なんて、もう二度と訪れない。

 それでも私は一人で生きて、一人で死んでいく。歴史の端に埋もれて。時代の欠片となって散っていかなければならない。

 枯れ果ててしまうほど泣いたのに、また目頭が熱くなるのを感じて、彼の背中から目を逸らした。


「……さようなら」


 目元にじんわりと痛みが走るのを堪えながら、重くなった足を浮かせた。後ろ髪を引かれる想いとは、こういうことを言うのかと初めて思う。


 ああ、こんなに。こんなに、辛いだなんて。


 もう行かなければ太陽が昇ってしまう。床に張り付いてしまった足を無理に引き剥がし、彼から背を向けて廊下と部屋を分ける扉に手をかけた。

 侍女の振りを装うため、布の余った部分を頭に深く被る。

 顔を伏せ、考え抜いた侍女の台詞を何度も反芻し、思い切って扉をそっと開いて見えた光景に戸惑い、思わず足を止めてしまった。


 誰も、いない。


 てっきり、ずらりと兵たちが並んでいると思っていたのに。皆一斉に休みにでも入ったのかしら、とありもしない考えまで浮かんでくる。


 不可解さが拭えぬまま、私は思い切ってまだ夜が残る廊下に飛び出した。

 外に向かって走る。いつもは兵士が並び、女官が行き交う廊下をただ走る。


 それなのに行き会う人間が一人もいなかった。誰とも擦れ違わない。──変だわ。

 確かにこんな夜明けに近い夜に部屋を出たことはなかったけれど、これほどまでに人一人いないなんて、おかしすぎる。

 大きな柱が何本も続いてそびえている中に響くのは、走って上がった私の息遣いとぱたぱたという私の足音だけ。怖いくらい人気がない。別の世界にも迷い込んだのかと錯覚を起こしてしまうほどだ。

 彼がこんなに無防備なはずないのに。なかなか警戒心を解かない彼がこんな薄い警備の中、眠りに落ちるはずがないのに。

 それでも、こんな機会は滅多にないと、運がいいだけだと無理に言い聞かせ、緩みかけた足の速度を上げた。


 しばらく走ると、外へ繋がる階段が下に向かって長く伸びているのが見えてくる。ナイルの氾濫を見ていた、白い、大理石とも見える階段。その先。階段の下に、思っていた通り彼の馬がいた。

 私も何度か乗せてもらったことのある、威厳に満ちる美しい彼の馬。

 その白い動物の周りを世話係だと思われる2人の男性が忙しく動き、手綱を付けたり、鞍を置いたりしている。彼が朝早くテーベに向かうから、その準備のために。

 足元に流れる服をぎゅっと握りしめ、覚悟を決めて階段に足を置いた。


「侍女殿…?」


 階段を降りてくる私の姿に、質素な腰巻だけの召使は驚いた顔を向けてくる。無理もない。侍女でもこんな朝早くに外出なんて、無いだろうから。


「どうかなさいましたか?」


 蠢く不安を抑え込んで、口を開く。


「その馬を貸して」


「いえ、これはファラオの御馬ですので」


 彼らは怪訝な表情を浮かべて首を横に振った。


「他の馬を用意して参りますので少々お待ちください」


 空が明るくなりつつある。他の馬の準備を今から始めるには時間がなかった。

太陽が昇れば、せっかくの機会も、私の決心も無になってしまう。焦りが募り始めた。


「その馬を貸しなさい。命令です」


 今まで口にしたことのない言葉を発し、被っていた布を取って顔を明かした。自分の置かれた立場を使って命令をするのはほとんど初めてだった。黒髪がナイルから流れる風に吹かれて後ろになびく。

 明らかにされた私の顔に、二人の男はこれでもかと大きく見開いて数歩後ろに後ずさった。


「ひ、姫君…!!」


 素っ頓狂な声だった。その後に、彼らはすぐさま額を地面につけて平伏す。


「そこをお退きなさい」


「……お、お言葉ながらこれはファラオのみがお乗りになると決められている御馬。それも乗馬の経験が御座いません姫様がお乗りになられるのは危険かと…それに何故お一人で…」


 ここで足止めを食う訳にはいかない。彼は私が居ないのに気付いたら、すぐに追いかけて来てしまう。


「お退きなさい!!」


 叫んだ声がこだまして、私の目の前の二人が何か恐ろしいものにでも出くわしたかのように、ひっと声を上げた。


「は、ははっ…!」


 やがて、頭を一度下げてから馬への道を開けてくれる。

 時間がない。太陽が出てしまう前に、アケトアテンの都を出て、ナイルの西岸に渡り、一日が終えるころには国境を出てしまいたい。


 用意されたその馬に慣れない手つきで、やっとのことで跨る。一人で行けるか分からないけれど、もう一か八か。


「あ、あの、どちらに…」


「……分からないわ」


 震える質問に、私の本音が混じった答えが口をついて出てきた。枯れ果てた声で、それが訪ねてきた相手に届いたとは思えなかった。


 自分がどこへ向かおうかなんて、私にも分からない。これから生きられるかも分からない。


 不安を押し込めるように目をぐっと閉じてからゆっくりと開く。馬のぬくもりと暖かさを感じた私は、固い手綱を握る。彼がやっていたことを、見よう見まねだった。

 緊張で汗ばむ指を手綱に絡ませ、ごくりと唾を飲んだ時。


「何をしてらっしゃるのです!!」


 怒鳴り声に階段の方を見たら、セテムが血相を変えて駆け降りてきていた。


 ああ、駄目。セテムが馬にでも乗って追いかけて来たら、すぐに捕まってしまう。


「馬になど、ご乱心召されたか!!何をしている!姫をお止めせよ!!」


 セテムの叫び声と共に私は馬を蹴って、手綱を勢いのままに引いた。


「走って…!お願い!」


 馬が小さく嘶き、そのまま勢いよく地を駆け出した。

 勢いに飲まれて、身体のバランスを崩し、咄嗟に馬の首にしがみ付く。風が突き刺さるように流れてくる。砂が目に入る。

 怖かった。いつも彼に支えられるようにして乗っていて気づかなかった、馬の高さと速さを今更になって思い知る。

 がくんと大きく揺れ、馬の独特な臭いが私を取り巻き、上下に動くたび、恐怖が増した。


 どうであれ、まずは王宮の門を出なければ。

 東へ。太陽が出る、あの明るくなり始めた方角へ、そのまま。


「どこへ行かれるのです!!」


 馬にしがみ付きながら振り返るとセテムが追いかけてきているのが見えた。険しい表情で、茶色の馬に跨って。


「走って…!!もっと早く!」


 伝わらないと分かっているのに、馬に向かって叫んでいた。

 ここにいる訳にはいかない。ここにいれば、私は少なからず未来を変えてしまう。彼に関わることで、多くの禁忌を起こしてしまう。彼の死の知らせが届かない場所へと行ってしまいたい。彼の名も、エジプトの名も、聞こえないそんな場所へ。


 やっと門が見えて来た時、4人の門番が視界に入った。驚愕を顔に浮かべ、今にも落馬しそうな私を見つめている。


「そこを動くな!何があろうと姫君の馬をお止めせよ!!」


 セテムの声が後ろから追ってくる。そんなことを言っても、私は門番たちを越えることは出来ないだろうし、しがみ付くのに精一杯で、この馬を止める方法も知らない。

 門番たちが動かなければ、馬は彼らを踏みつけることになる。人を傷つけてしまう。今までに感じたことのないものが私の背筋を舐めた。


「だ、駄目…!退いて!!!」


 馬が人を踏みつけたら、どんな事故になるか。さっと自分の顔から血の気が引く。


「退くな!!死んでも退いてはならぬ!!」


 私の声に反して、セテムが叫ぶ。私の馬を迎える門番たちの顔に恐怖の色が走る。


「お願い!退いて!」


 なのに、動いてくれない。命令を全うしようと、私の乗る馬の前に立ち憚っている。止められない。私の力では止められない。


「駄目…!!」


 本当に一瞬だった。もう駄目だと悟った刹那、黒い大きな影が突如横から飛び出し、私の行く手を遮った。それに動じた馬が、2本の前足を高々と上げ、悲鳴のような鳴き声を響かせ、私の腕を振り払う。

 勢いに負けた私の手が、馬の身体から離れる。白い毛並から離れた私の指先が見えたのが最後。あとは目を瞑ってしまって、ぐるりと世界が回り、上も下も右も左も分からなくなって、左肩に強い痛みが響いた。痛みと衝撃に、小さく呻いた。


「……い、…痛…」


 馬がどこかへ駆けて行ってしまう音を耳で聞きながら、うっすらと目を開けて見えた黒い大地に、自分が馬に振り落とされたのだと知った。打ち付けた左肩を右手で抑え、どうにか身体を起こす。

 重い。自分の身体ではないような感覚だった。それよりも、さっき横から飛び出した影は何だったのだろう。何が起こったのか分からない。

 口に入った砂で、小さな咳がいくつか漏れた。


「何をしている」


 まだ薄暗い世界に、光のように貫いたその声に、背筋が震えた。


「ヒロコ」


 名を呼ばれ、息が止まってしまう。

 顔を上げて相手を見上げる勇気さえなく、ただ瞬きを忘れた目で、少し緑の混じる地面を見つめていた。ナイルの氾濫で黒くなったその土を、身体が動くことを忘れてしまったように。


「まさか乗れもせぬ馬に跨るとは、お前の行動には驚かされるばかりだ」


 聞き慣れた声が、私の鼓動を速め、私の身体をますます固めてしまう。沢山の足音が聞こえてきて、兵士や女官が周りを囲むのを感じた。姫様、とネチェルの心配そうな声もどこからか私の耳に届く。


「あれだけ様子がおかしかったのだ、何かを仕出かそうとしていることくらいは容易に想像がついた。……まあ、今更脱走などとは考えてなかったが」


 その言葉に、はっとする。


「試に兵や侍女共を下がらせてみたが…ほとほと呆れるな」


 彼は、気づいていたのだ。私の様子から、私が何か行動を起こすことを。背中を向けて寝ていたのも、ただの振り。兵士がいなかったのも、私が外に出るまで誰にも会わなかったのも、私の行動を見るため。何も言わない私が抱く理由を、私の起こす行動から推察しようとしていたのだ。

 それに気づいたら、遣る瀬無くなって、自分を抱きしめるように土に汚れた上着を力いっぱいに握りしめた。


「顔を上げろ、ヒロコ」


 少しばかり怒りを含んだその声が、光を帯び始めた空気に静かに響く。麻の上着を握りしめながら頭をぎこちなく動かすと、乱れた黒髪が麻に擦れる音が耳を打った。

 視界に浮かぶのは、黒い馬の足。上へと視線を動かして見えたその光景に、目を細める。

 悲痛に満ちた自分の小さな声が、黒い大地に落ち、空気の中に消えていく。

 東の空。ラーがハヤブサに変わり、世界に光をもたらす。白に近い黄金の光を背に、神々しさを振りまきながら茶色の馬に跨るその人。──彼。


 ツタンカーメンの名を持つ、その人。

 逆光で影になりつつも、強い眼差しだけは独特な光を宿している。


 なんて、威厳に満ちる人だろう。これほどまでに太陽の似合う人が、この世のどこにいるというのか。

 彼の印象的な目を見たら、私の中の決心が音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

 ここにいてはいけない、歴史を変えてはいけない。何度言い聞かせてきたか分からない言葉が、ラーに照らされて、白に霞んでどこかへ散って消えていく。

 決意なんて、結局は言葉だけだった。こんなにも、脆いものだった。


「ヒロコ」


 相手が馬から降り、いつもの黄金のサンダルで黒い大地を踏みしめ、こちらへ歩み寄ってくる。


「怪我はないか」


 怒りを治めて、心配そうな眼差しが上から私を捉える。少し、呆れも見え隠れさせる彼は、屈んで俯く私の顔を覗いた。


「一体、何があった。何故何も話さぬ」


 私の地面に流れる麻についた土を掃いながら、私にしか聞こえない声で語りかけてくる。


「ここを出て何になるというのか。お前のいる場所はここの他にないだろう」


 ううん、どこにも無いのよ。

 私の居場所なんて、もうどこにも。


 泣くのを必死に堪えている私の顔は、きっと汚く歪んでいる。

 私を立たせようと彼が、黄金の腕輪の無いその手を伸ばし、力を失くした黒の土に汚れた私の手首を掴んだ。


「……駄目」


 空気を裂く音を、涼しい空気の中に弾かせ、私は相手の手を払う。長い指が、私の前で動きを止めるのを見た。


「ヒロコ?」


 彼を見る勇気なんて湧かず俯いたままだったけれど、彼の驚いたような顔が目に浮かぶ。


「駄目」


「何が」


「戻れない」


 約束したけれど。この時代にいる間は、あなたの傍にいると約束したけれど。一緒に生きたいだなんて、思ったりもしたけれど──もう。


「……あなたと、一緒にいられない」


 一呼吸置いて、今度はさっきよりはっきりとした声で彼に告げる。


「……もう、あなたの傍にはいられない」


 声が滞り、語尾は呼吸音に掻き消されてしまう。指先が震え初めて、手元に流れる白い麻を握りしめた。その皺が長く伸びる。


「何を、言っている」


 いきなりこんなことを言われたら、彼だって驚くだろう。それでも頭の中が色んな感情でいっぱいになって、崩れた言葉しか出てくれない。


「私の、願い…」


 本当なら、誰とも会わずに出て行きたかった。あの背中を見て、最後にしたかった。


「あなたの前から消えるから」


 会えば、決意は無に等しくなる。崩れるどころか、その欠片さえ消えてしまう。だから、完全にその欠片が消えてしまう前に。


「私を忘れて」


 すべて。

 私に関するすべてをその記憶から消してしまってほしい。


 本来なら、その目に、私が映ることはなかった。映ってはいけなかった。私はこの時代の人にとって、そんな存在でしかない。


「アンク」


 意を決して顔を上げ、目の前に屈む相手を見つめた。乱れた髪がだらりと垂れ、黒い線を私の視界に引いた。黒を越えて見えるのは、あの淡褐色。


「行かせて…」


 泣くのを堪え、ただ懇願した。今にも跡形もなく消えてしまいそうな決意の破片を拾い集め、歴史を守らなければと自分に言い聞かせながら。


「傍に、いられない……いてはいけないのよ……この王宮から、私は出なくちゃいけない」


 傍に居れば、未来を変えてしまう。こんなちっぽけな私でも。


「……お願い」


 彼の目が揺れた。私の決意を察したかのように。


「私を、行かせて」


 言ったら、胸がどうしようもなく苦しくなって俯いた。泣くまいと唇を噛む。鉄の味が、私の舌先を侵した。


「行かせ…」


「ふざけるな」


 地を這うくらい低い声が、走ったと思った瞬間、素早く彼の腕が動いたのを見たと同時に、自分の肩に鋭い痛みが走る。痛いと叫ぶ前に、彼の肩が目の前に迫って、私の声を塞いだ。


「戻るぞ」


 駄目。もう戻れない。

 抗った私を、彼が無理に抑え込んで立ち上がる。


「静まれ」


 騒然とする周りの人々をなだめる声が放たれた。いつもの自信に満ちた、誰もが信用する神の声と等しいとされる言葉をその口から彼は発す。


「アンケセナーメンは神の声が聞こえたために動転し、奇行に走っただけだ。皆、持ち場に戻れ。ご苦労だった」


 違う。違うの。

 反論しようと足掻くけれど、きつく抱きしめられて声が喉で止まって消えてしまう。苦しさに咳き込むばかりで、彼の強い力に耐えるのに精一杯だった。


「セテム」


 彼が呼べば、素早く側近が現れる。


「今日のテーベ視察は取りやめる。お前のみ出向き、私に状況を伝えよ」


「はっ」


 また彼が足を進めると、誰かが駆けてくる音がした。


「……ファラオ!」


 ネチェルだった。


「やはり侍医殿にお診せした方が…!神の御声が聞こえたなど、もしや冥界に御帰りになれる兆しでは…」


 今にも泣きそうな様子だった。今回の私の行動に、あの世に戻ってしまうのではないかと本当に心配してくれている。


「侍医はいらぬ。これからヒロコと二人で話す。誰も部屋に入れるな」


「はっ…」


 そして先程彼が乗ってきた黒い馬に私を抱いたまま飛び乗って、私が必死の思いで走ってきた道を、彼は戻っていく。東に昇りゆく太陽を浮かべた、白い石で作られた大きな門が、どんどん遠ざかっていく。


「は、離して…!私…私はっ!!」


 彼の力が緩み、やっとの思いで出した声は信じられないほどに擦れていた。だけど、すぐに抱き込まれて、またぷつりと途切れてしまう。


 太陽が昇る。眩しいその光に、目が眩んだ。


「離しはせぬ」


 今にも崩れていく私の言葉に、彼は腕に力を込めて返してくる。


「決して、離しはせぬぞ」


 彼の腕を感じながら、私は遠のく太陽を霞む視界の中に見つめていた。


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