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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
5章 時代と人
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 私がナルメルに文字を教えてもらうのに使っている、いつもの小さな会議室。眩い朝の光が狭い部屋を満たす中、6つの目が虚を突かれたように彼を見つめていた。


「……まことに、御座いますか」


 固まった空気に、今にも消えてしまいそうな声がこれでもかと響く。

 彼の座る黄金の椅子、その前にある神アテンが彫られた小さな木製の机の向かい側に、滅多に感情を表に出さないセテムが目を見開き、悠々と椅子に腰を下ろす彼に対して驚きの表情を隠せないでいた。


「私が嘘など、つまらぬものを言うと思うのか?」


 足を組み直し、彼は得意げに口に弧を描く。

 相変わらず長い脚だと、呑気に彼の足元に目をやっているのはきっと私だけなのだろう。


「いえ、そのようなことは決して…」


 セテムは胸に斜めに手を当て、小さく頭を下げた。

 いつもは深々と下げるのに、驚きのせいか、漠然とその行動をしているだけのようだった。


「……アテンを廃し、アメン神に戻すと」


 カーメスも驚愕の色を濃くし、いつもの抑揚を無くした声を発した。揺れる瞳を彼に向けている。


「そうだ」


 頷いた瞬間、将軍が息を呑んだのを見た。


「首都もいずれはテーベに戻す」


 強い声。真っ直ぐで、彼らしいと思える声色。弱音を並べていた昨夜の人とはまるで別人だった。


「いよいよ……テーベに」


「我らの、都へ」


 都の名に、やっと彼の決意の意味を理解したのか、3人の瞳に光が灯る。嬉しそうな、今から何か大きなことをしてやろうと言っているような。

 セテムは王の決心を噛みしめるように潤む瞳を伏せて胸に拳を当てて俯き、カーメスは顔に花を咲かせ、ナルメルは少し驚いた顔を見せながらも穏やかさを含んだ笑みを浮かべた。

 座る彼の隣に立ち、感動する彼らを目の当たりにして、彼の決意がどれだけの意味を成し、昨夜自分が彼に言った言葉がどれだけ浅はかなものだったかを思い知った。

 根性でやれるなんて、私もよく言えたものだわ。あんな適当すぎることを言った自分に呆れてしまう。


「よくぞ……よくぞ、ご決意なされました」


 空気に沁みる宰相の言葉に、3人が深々と頭を下げた。彼は彼らに対して、うむと頷く。僅かに流れてくる風が、隣に座るその人の焦げ茶の髪を揺らした。


 きっと皆待っていたのだ。ずっと、ずっと待っていた。彼の決意を支えていたアンケセナーメンが亡くなり、彼がその意欲をなくしてしまっても絶え間なく。この宗教改革を。


「しかしながら」


 白い髭を掴むように撫で、顔を上げたナルメルの鋭さを宿す瞳が覗く。


「テーベはまだ都としては荒れていると、ナクトミンから知らせを受けております。壊された神殿や王宮の修復はファラオ自ら指揮を取り進めていらっしゃいますが、遷都するにはまだ時期が早すぎるのでは」


 彼が毎日のように王宮を出るのは、壊されたアメンの地を再び都に戻すためだ。

 しかしまだ都に戻せるほど十分に修復されているわけではない。そんな場所に今すぐ都を遷すことが出来ないことくらい、私にだって容易に見当がつく。

 どうするのだろうと隣を見やると、彼は私に目で合図を送ってきた。この部屋に来る前に持たされた大きめのパピルスのことだとはっとして、それを胸の前に持ち直して進み出る。


 ほぼ部外者の私がこの大事な話し合いに顔を出すのは気が引けたのに、彼に手伝いという名目で傍に立っているよう命ぜられてしまい、仕方なく今ここにいた。


 机の上にパピルスを置き、他の3人に見えるように留め具を解いてくるくると開く。まるで博士のために走り回る助手にでもなった気分だ。


「これは…」


 机の上に広げられたのは、地図のようなもの。地図…なのだろうけれど、見たこともない地形が細い線で描かれている。


「メンネフェル…」


 カーメスが一瞬戸惑った顔をした。


 メンネフェル。

 また私の知らない地名だ。歪な地図からすればどうやら海に近い都市のよう。


「我が王家、始まりの地だ。テーベがまとまるまで、都を一時的にこの地に移そうと考えている」


 彼の解説で、メンネフェルは現代のメンフィスであることに気づく。

 メンフィスはエジプト古王国期の統一王朝から古王国時代、500から600年を通して栄えた都としてエジプト人なら誰もが知る都市名。最も都だった期間が長いとされている、下エジプトの中心地。彼は、そこに一時的に首都を置こうとしている。


「……なるほど。メンネフェルは我が国が生まれた地。ここならば以前の神々も無事に残されている…」


 顎に手をやり、セテムが独り言のような声を漏らした。目を細め、指をその地図の上に滑らせて、やがて無表情の顔に綻びを浮かべる。

 澄んだ目を彼に向け、また腕を斜めに胸に当て敬意を示しながら緩やかに頭を下げた。


「素晴らしきお考えかと」


 彼も満足そうに笑う。


「民の中には隠れてアメンに祈りを捧げる者もいるという話。テーベの修復が完了するまでの短期間、メンネフェルに都を移し、一刻も早くアメン神に戻すことが民のためになりましょう」


 ナルメルも頷き、頬を緩めた。


「いやあ、実に我が主は素晴らしい!」


 カーメスはらんらんと目を輝かせ、大きいとは言えない部屋の中に声を弾かせている。


「アンケセナーメン様がお亡くなりになってからずっと、時はまだだと仰せになっていらっしゃったのに、このような新たな首都のことまで考えていらっしゃったとは!!上エジプト将軍カーメス、惚れ直しましたあっ!昨夜何かあったのでございましょうか!?やはりアンケセナーメン様が甦りになられたことが大きな理由として考えてもよろしいのでしょうか!?」


「そうだな、強いて言うなれば」


 少し言葉を置いてから、彼は横目で私を見やってくる。意地悪そうな笑みが彼の口元に浮かんだのを見て、身を固めた。


「根性でやってしまえと尻を叩かれたのだ」


 一斉に視線が私に飛び、突き刺さってきた。


「痛かったぞ、物凄く。尻を叩かれ、改革しない訳にはいかぬと思ったのだ」


 思わず、は?と声を上げる。

 何を言っているのだろう、この人は。


「姫君…いつの間にそのような野蛮な御方になられたのか…」


 セテムが「何て事を」と頭を抱えている。


「ち、違う…!」


「姫……甦られてから随分と勇ましくなられたのですね……私は嬉しくて嬉しくて…」


 カーメスがおいおいと泣き真似をする。


「だから、違うっ!!」


 私の喚き声にナルメルが笑っている。


「アンク!」


 きっと隣に悠然と座る人を睨み、その名を叫んだ。


「お尻なんて叩いてないでしょ!何嘘ついてるの!」


 慌てて言い返すのに、彼は知らん顔でそっぽを向いてしまう。肘掛けに腕を立て、頬杖をついて、やがてくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。


「今でもひりひりと痛んでいる、どうしてくれるのだ」


 ああ、全くもう。あることないことぺちゃくちゃと。だあっと叫んで髪をぐしゃぐしゃにしてしまいたい気分だ。

 昨日話を聞いて、分からないながらに必死に励ました私が哀れになってくる。


「では、」


 緊張を帯びた声が空間に凛と鳴った。セテムもカーメスもぴたりと動きを止め、ナルメルに視線を移す。その切り替わり様に、私はただ唖然としてしまうだけ。


「どうした、ナルメル」


 口元に笑みを浮かべ、黄金の人は声の主に問う。

 優雅に首を動かし、顎を引き、問われることを既に知っていると言った表情だった。


「いつに、なさりますか」


 宰相が問う。セテムもカーメスも、息を呑んで玉座の王を見つめた。


「我らが神をアメンに戻し、メンネフェルへの遷都はいつになさりますか」


 彼は、その問いを待っていたと言わんばかりに口端を上げた。








 大きな火が燃え盛る。艶めかしい踊りを披露する女の人たち。笛やハープに似た楽器を奏でる演奏家。目の前に並べられたのはフランス料理のフルコースを連想させる御馳走の山。そして大勢の大臣、神官、貴族のお偉方の面々。

 よくよく見てみれば、下エジプト将軍のホルエムへブや、アイの娘であり、かつての王妃であるネフェルティティも宴の席にいる。もちろん、彼の次に偉い人が座る席に、アイもいた。

 時折その神官からの視線を感じるけれど、カーメスとセテムが間に入ってくれるから何とか胸を撫で下ろしている状態。


 もう一度、改めて周りを見渡してみる。この世界に来てから何度も宴の席には出て来たけれど、これほどまでに大がかりなものは初めてで少し新鮮だった。鮮やかであるにも程がある。眩しいくらいだ。

 王宮を支える太い柱の向こうは私の苦手な闇に満ちているのに、こちら側は灯される炎と、あたりに沸き立つ笑い声や話し声で真昼のような明るさを私に錯覚させた。

 隣を見れば、これでもかとくつろいで女官から注がれたぶどう酒を浴びるように飲み干す彼が映る。これで何杯目なのだろう。


「姫様もいかがで御座いますか?」


「お酒は苦手で……でもありがとう」


 毎回笑顔でお酒を進めてくれるけれど、悪いと思いつつ断ってしまう。まず匂いが好きになれない。一度好奇心で一口飲んだだけで咽ってしまって、それ以来遠慮している。

 お父さんもお母さんも少量飲んだだけで顔を真っ赤にしてしまうほど弱かったからあまり飲む人ではなかったし、良樹もちょびちょび楽しむように飲む人だったものだから、こんな豪快にお酒を口に流し込む彼を見ると、肝臓は大丈夫かしらと心配になってしまう。それとも古代のお酒は発酵が弱くて、アルコールが少ないのかしら。飲んだときはそれほど感じなかったけれど。


 そんなことを考えながら葡萄を一つ手に取って、ぽいと口に放り込んでみる。酸味と甘みが絶妙に溶け合っていておいしい。これならいくつでもいけそう。


「ヒロコは、飲まぬのか」


 葡萄を口に運ぶ手が止まらなくなって、8個目に突入しようとした時、すっと、私の肩に手が滑り込んできた。

 横に顔を向ければ、間近に彼の顔が現れて、口に含んでいた葡萄を咄嗟に喉に押し込んでしまった。


「お、お酒は苦手なの。水で十分よ」


 彼は鼻を鳴らし、私を抱いている方とは別の手でまたお酒を口に含んだ。酔っているのではと思いきや、そうでもない。視線はじっと、外の闇を見つめている。

 あんな暗い中に何か見えているようだった。私にはどんなに目を凝らしても、何も見えないのに。


 私を抱き寄せるその人の頬は心なしかほんのりと紅色で、その色が彼の色気を増している。何を思うことなく、私はその横顔をぼうっと見つめていた。


「失礼いたします」


 私達の前に宰相であるナルメルが意を決した表情で現れた。

 皺の刻まれた大きな手に、権威の証であろう先端に黄金が煌めく長い棒をぎゅっと握りしめている。


「ファラオ」


 呼ばれた名に、彼の表情もまた変わる。


「時は、参りましたぞ」


「分かっている」


 時が、来た。私の中にも緊張が一気に走り抜けていく。


 今日の宴の最大の目的。アテンをアメンに。アケトアテンからメンネフェル、そしてテーベへ。その宗教改革を、王が声明として発す時。


「鎮まれ!ファラオよりお言葉を賜る!!」


 落ち着いた趣でナルメルは両手を上に広げ、多くの人々に彼の言葉の始まりを知らせた。

 例えるのなら教会の鐘だ。誰もが静まり返る、彼とはまた違う威厳を持っている。宰相の声により、あれほど賑やかに満ちていた世界がしじまに落ちた。


 おそらく誰もが察しているはずだ。ファラオである彼が、何かしら重大なことを口にしようとしていることを。これほど大きな宴を開いているのだから。


「さあ、ファラオ」


 ナルメルの呼びかけにうむと頷き、彼が杯を下に置いた。床に触れて成した僅かな音でさえ、鮮明に聞き取れる。

 すっと立ち上がり、白いマントを翻して、黄金の人はしんと沈黙の中にいる人々に身体を向けた。


 ふと淡褐色と目が合って、私は自然に頷き返した。

 あなたならやれる。大丈夫よ。


 根拠がないのに、未だにそう信じている自分に少し呆れさえ感じてしまう。そう思いながらも、私はその感覚を何よりも信じているのだ。


 彼は私に少し笑みを見せ、一度瞼を伏せた。やがて何かを悟ったようにすっと淡褐色を覗かせる。


 その目。その眼差し。黄金が走る瞳が、素直に好きだと思える。

 高々と右手を上げる仕草は、それだけでファラオの偉大さを辺りに振り撒く。そして──。


「ソティスが東よりラーと共に煌めき、ナイルにハピが現れし時」


 シリウス星が太陽と共に東の空に現れ、ナイルの洪水が起きた時。つまり、一年が終わり更なる一年が始まりを迎える時。


「我が国は先々代アクエンアテンが造りし唯一神、アテンを廃し、古の神アメンを奉ることとする!!」


 玲瓏に、力強く声を貫く。

 呆気にとられたのか、そこにいる人々は皆、どよめくことなくただ彼を見つめていた。


「都は王家最古の都市メンネフェル、そしてその後我が神が治めしテーベへ遷都を行う!!」


「な、何を…!!」


 ざざっと音を立てて、彼の前に滑り込んできたのはアイだった。四つん這いになり、跪くような格好で彼を見上げている。


「何をなさる!!私に相談もなしに!そのようなことをしてはならない!神を替え、都を替えるなど、決して!決してしてはなりませぬ!!」


「神官にも以前と同様、それぞれの神についてもらうこととする」


 彼は、冷たくアイを見降ろして言い放った。


「そのようなことをすれば神の怒りに触れますぞ!!それでもよろしいと仰るのか!」


「アイ」


 喚き散らす神官に、彼が短く呼びかけた。今にも飛びかかりそうな獅子のような笑みを、その顔に湛えている。


「私こそがラーの子、神々と人の唯一の仲介者。その私に立てつく気か」


 一気にアイの顔が青ざめるのを見る。


「言うなれば、我こそが神ぞ」


 彼が言葉を跳ね返した時だった。


「アテンに終焉を!アメンに復活を!」


 よく通る、威を含んだ女声が静寂を切り裂いた。驚いて視線を投げれば、先程までお酒を飲んでいたネフェルティティが立ち上がり、自分の父親とファラオである彼を、微笑を湛えて静かに見据えていた。


「お父様、素直に諦めたらいかかです。このような場で醜態を晒すなど、最高神官の名が廃りますでしょう」


 ふふと色気たっぷりの笑い声を残し、再び高らかに叫ぶ。


「我がファラオ、あなた様の唱えられたお考えはなんと素晴らしいものか!我らはアメンの下に生きる者!あるべき魂!我が神はアメン!そして誇り高き、勇猛なるファラオ!!私はあなた様に忠誠を誓いましょう!」


 厳かで、そして優雅さを忘れてはいない、元王妃の気品を溢れさせて彼女は彼に平伏した。その声の余韻が消える間もなく、彼は再び周りに向かって唱える。


「これより、我らはアメンを讃えんとする!異議ある者は私にその意を述べよ!その愚かさをこの場で晒すがよい!」


 静寂が落ちる。その中で頭が一つ一つ、徐々に深々と平伏し始め、気づいた頃にはすべての人が彼に敬意を示していた。


 彼の前で歯噛みをするアイだけを残し、誰かが『アメンこそが我らが神』と唱えるのを、王の傍らで私は聞いていた。







「……どうなることかと思っていた」


 宴を終えた後、彼は部屋に戻るなり寝具にぐったりと腰を下ろし、顔を両手で覆ったまま、頼りなさげなその人とも思えない台詞を零した。

 夜も深く、安心したのもあってか、彼を眺める私にも眠気がうっすら取り巻いている。


「そうなの?心配しているようには全く見えなかったけれど」


 彼の向かい側の椅子に座って足をぶらぶらと揺らしながら答えると、相手は顔をあげて眉を顰めた。


「馬鹿にするな。どれだけ不安だったと思っている」


 そんなこと、これっぽっちも思えなかった、と言う台詞は呑み込んでおく。本当に不安だったのだろう。それを周りに微塵にも感じさせないあなたは凄い人。


「アイが出て来た時などはとにかくどうしたものかと」


「でも乗り切ったじゃないの。偉い偉い」


 ぱちぱちと拍手を送ると「まあな」と彼は照れくささを含んで苦笑する。


「だが父の神を否定し、自分こそが神だなどと言ってしまった。何か罰が下るやもしれぬ」


 もう駄目だと彼は再び顔を抑えてしまった。


「罰なんて弾き返せばいいのよ。あなたは正しいと思うことをしただけだもの、それくらいできるでしょ」


 私がけろりと笑うと、信じられぬと相手は目を丸くした。


「ヒロコは実に神をも恐れぬ女なのだな。最早、お前が強いのか馬鹿なのかも分からなくなってきた」


 ため息交じりの彼の声に、私はにっと口端を挙げて見せる。


「無神教ほど強いものはないのかもしれないわ」


 神様を否定することは、おそらく彼や他の人にとって一大事なのだろうけれど、どの神様も中途半端にしか信じていない私は、いまいちその重大性が理解できないでいる。信じる時があったとしても、それは本当に絶体絶命の時だけだ。ほとんどノータッチでテストに挑んだ時とかは必死に神頼み。テストが終わればまた無神教。なんて都合の良い。


「信じる神がいないとは、なんと奇妙なことか…」


 私の無神教よいう状態を真剣に悩むように、彼は顎に手を当て、首を大きく傾げた。


「やはりヒロコはアメンの下に入るべきだ」


 しばらく悩んでから、私に了承も得ずにうんと頷いて一人で勝手に納得してしまっている。アメンと言われても、心から祈ることもないと思うのだけれど。


「だが、ヒロコの話を聞くと神の怒りも弾き返せるような気さえしてくる。不思議なものだな」


「そう?」


 ああ、と深く頷く相手の仕草に、少し照れて「なら良かった」笑った。

 あなたも神様なんて信じないで、自分を信じてあげればいいのに。それだけ素晴らしい素質を持っているのだから。


「ヒロコがいると隣にアンケセナーメンがいるようだった。だからあそこまで言えたのだぞ」


「全く力になれなかったと思うけど……だって傍に突っ立ってるだけだったのよ?」


 彼を見れば、優しい微笑みを湛えていた。

 思わず見惚れてしまうような、優しくてふわりとした綻びに思わず私は息を呑む。


「それだけで良かった。やれると思えたからこそ、ナルメルたちに話す時も今回の宴の席にも出てもらったのだ。本来ならアイが出てくるあの席には出さぬ方が最善だったのだが隣にいてもらった。……まあ、言ってしまえば今回は私の我儘だな。怖い思いをしただろう、すまなかった」


 素直に物を言う彼なんて初めてで、拍子抜けしてしまう。いつも意地悪そうな顔をして私をからかうのに。


「……お役に立てたのなら光栄ですわ、ファラオ」


 ふざけてセテムたちの真似をして、胸に斜めに片腕を当てて、座ったままお辞儀をしてみる。


「冗談はよせ」


 相手は眉を顰めつつ肩を揺らした。


「立っているだけであなたの自信に繋がるのなら、いくらでも立っててあげる。立つだけならお安い御用よ」


「何を偉そうに」


「偉そうになんて言ってないでしょ。本当にあることないこと言う人ね」


「今のは随分と自分を棚に上げていただろう。それよりまだ尻を叩いたと言ったことを怒っているのか。執念深いのだな、ヒロコは」


 彼の口から軽やかに笑いが奏でられる。宴での悩みは吹っ切れたようで、私の頬まで自然と緩んでしまった。


「あれは面白かったから良い。そういうことにしておけ」


「よくない!どれだけ恥ずかしかったか!私はそんなはしたないことしません。ちゃんとセテムとカーメスに言っておいて。あとナルメルにも」


 必死に笑いを堪える素振りをしながら、彼は分かったと了承してくれた。


 わざとらしくふんと鼻を鳴らして彼から目を背けると、視界を闇が包んだ。何もかもを吸い込んでしまいそうな漆黒だ。

 炎を背にした太陽のようなこの人の傍にいたせいか、こんなに辺りが暗くなっていたことに全く気付かなかった。何時なのだろうと疑問を持っても、夜では日時計もその時刻を教えてはくれない。


「……私、そろそろ寝るわ」


 椅子から立ち上がった私に、淡褐色が向く。背後に揺れる炎で、橙色を孕んでいた。


「もう寝るのか」


「明日も朝早くからナルメルに文字を教えてもらうから。早く一人で読めるようになりたいしね」


 そうかと呟いて、彼は小さく顎に手を当てて視線を落とした。何かを考えているような仕草だった。


「今日は本当にお疲れ様。……じゃあ、おやすみなさい」


 彼の様子が少し気になるけれど、まあいいかと妥協して、その場から去ろうと足を動した。


「ヒロコ」


 突然、後ろから腕を掴まれて、ぐいと引かれた。見事なほどにバランスを崩して尻餅をつきそうになったのを、がっしりとした二本の腕に抱き止められる。


「……どうしたの。びっくりするじゃない」


 体勢を整えながら、腕を解こうとするのに離してくれない。それどころか、私を包むように腕に力が籠る。


 様子が違う。そう気づくのに、時間はかからなかった。


「……ねえ」


 戸惑いながら、彼と向き合う体勢になって顔を覗いた。


「もう一つ」


 耳元に彼の声が落ちる。


「もう一つ、聞いて欲しいことがある」


 目を伏せがちにして、その人は言う。夜のせいもあるのか、表情がよく見えない。


「私が最近、思うことを」


「……思う、こと?」


 闇に消えてしまうほどの声で、彼に聞こえたかどうか分からない。

 私の身体に腕を回したまま、彼の唇が静寂を切った。


「どうようもなく願う」


 取り巻くものが一変する。穏やかな、それでも一瞬胸が高鳴る、空気。


「お前が本当にアンケセナーメンの甦りだったならばと」


 音も無く顔を近づけ、私の額に口付けた。額に感じた感触に驚いて身を竦めれば、抗う暇も無く、嗅ぎ慣れた香りの中に包み込まれる。


「帰る場所など無く、ここで生きる存在ならばと」


 彼の匂い。背中に感じるのは、彼の腕。抱きしめられて、いるのかしら。


「……アン、ク」


 見上げて視界に入ったのは、淡い灯火の中で熱さを増す淡褐色の瞳だった。その熱に、言葉が奪われる。声を盗られてしまう。


「ヒロコ」


 名を呼ぶと同時に、彼の手が私の頬に触れた。逃げようと思うのに眼差しがそれを許さない。身体が言うことを聞かない。熱い瞳に、身体が、心が焦がされていくのを感じる。

 そして、そのまま。


 唇に柔らかさが落ちて、もう一つの唇と重なった。

 互いの熱を、互いの口の先に感じる。軽く離れては、離れ切らない内にその角度と深さを変えてまた再び。どうしようもないほどの柔らかさが私を襲う。溺れてしまう。


 抗うことも出来るのに、やめてと叫べばやめてくれるだろうに。

 何も。腕も、言葉も、何も出なかった。


 私の声が唇から微かに零れた後に、やっと唇が解放され、互いの顔の間にある程度の距離が生まれた。

 間近にある彼の口から小さな吐息が漏れる。私からも漏れる。

 私の世界を埋め尽くすのは早くなった胸の鼓動と、熱が身体中を駆け巡る音。


「……わ、私」


 自分の上がった息を聞きながら、身体が小刻みに震え出すのを感じた。


 私は、何をしていたのだろう。どうして、抗わなかったのだろう。我に返った自分に溢れるのは、そんな疑問だけだった。

 どうして、前のように駄目だと言って彼を止めることが出来なかったのかも。今までにないくらい熱を含んだ唇が、どんな意味を持つのかも。何も。今の私には、何も分からなかった。


「私…っ!!」


 乱れた息と共に漏れた声は、自分の声かと疑うほどに掠れていた。身体に宿る熱を、首を振って薙ぎ払い、彼を押しやって自分の部屋へと我武者羅に駆け出した。

 彼の顔を見ることもせず、身体に纏わりついた体温を断ち切って。



 変になってしまいそうで。どうしたらいいか分からなくて。自分が分からなくて。

 何も分からないまま寝台に埋もれて身体を小さく丸めた時、涙が一つ、私の右頬に伝っていたのを知った。



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