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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
5章 時代と人
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ヤグルマギク

「しかし、女性でミイラの造り方をご存知の方がいらっしゃるとは驚きです」


 私が案内されているのは、学校の奥にあるミイラ職人を養成する教室だった。

 白い壁に囲まれたその部屋の広さは、現代の学校の教室と同程度。今日はすでに講義は終わっているようで生徒は誰もいない。

 この時代は地べたに座って講義を受けるのが普通らしく広い空間の後ろに木製の台が3つ置かれているだけだった。その台には何かを解説していると思われる文字と、犬を思わせる神様が所々に彫られた石板がいくつか置いてあり、この学校の教訓のようなものかしらと首を傾げてそれを見つめていた。

 ここが世界の解剖学の原点なのだと思うと、無性に胸が弾んで仕方がない。落ち着きなくきょろきょろと見回してしまっている。


「ここに立ち入れる女人は少ないです。先生に許可を頂けるあなたは特別ですね」


 案内してくれていた男性が微笑みながら私に言った。


 ミイラ職人というのは甦る人の身体を処理するだけあって、神聖な役職に値する。この職人になるのには免許のようなものが必要であり、職人希望の男性は必ずここで勉強するとのこと。

 この教室のずっと奥にミイラを作っている場所があって、現在進行形で亡くなった方のミイラを作成中らしいけれど、その現場は遠慮させてもらった。

 その代りにと言って解説してくれたのがミイラの造り方だ。次から次へと知っていることが出てきたことに嬉しくなって、思わずべらべら喋ったら案の上、どうして知っているのかと驚かれてしまっている。


「一体、その知識はどこで学ばれたのですか?」


「か、家庭の事情で……色々ありまして…それから興味も多少こちらの分野に…」


 誤魔化しながら笑って見せる。3000年後の未来で父親に教わったなんて言えない。かと言って、独学しましたなんて安易なことが言えるはずもない。私が思っていた以上に、女性がミイラの勉強なんて奇妙過ぎることなのだから。


「……商家にお生まれになるとまた色々と大変なのですね」


 誤魔化すような曖昧な返事を返しながら横に目をやると、石板の隣から少し離れた場所に医療道具に似た器具がいくつか置かれているのを見つけた。

 様々の形を成すメスが目の前にずらりと並ぶ。金属製のその先端が外から漏れる光に当てられて鋭く光っていた。現代のものとは形が全く違うけれど、切れ味は相当良さそう。

 メスの横にあるのが30cmほどの長い棒。先端部分が丸く、何かを引っかけられるようになっている。これが脳を鼻からかき出す例の棒なのだろう。


 ミイラとは、単純に言ってしまえば人間の干物だ。

 腐敗しやすいものも水分が抜ければ長期保存が可能で、それを人工的に可能にしたのが何を隠そう古代エジプト人。

 砂漠地帯に葬った遺体が自然にミイラ化したのを見て、上手くやれば生き返るかもしれないと思ったのが始まりだとされている。


「お嬢さん、これが先ほど説明しました魔術の粉です」


 棚から大きな壺を一つ取り出し、蓋を開けて見せてくれた。中を覗いて現れるのは白い粉。現代で言う、アンモニアソーダ法で製造される炭酸ナトリウム。

 死体を丁寧に洗い、脇腹を切開し、心臓以外の臓器を取り出した後、鼻から先ほどの専用器具を差し込んで頭蓋骨底部の薄い部分を的確に突き破り、最後に脳を鼻腔から巻き取る。これらの臓器をすべて抜き取った後に使うのが、この魔術の粉だ。炭酸ナトリウムの脱水作用を利用し、遺体を40日間これに浸して水分を抜く。ミイラを作るのにこれほど重要なものはない。


「そしてこれが心の臓以外を入れるカノプスの壺です」


 次に、神様の頭がついた、高さ15センチほどの4つの壺を出してくれた。


「右からヒヒの姿のハピ、人間の姿のアムセト、鷹の姿のケベクセヌフ、ジャッカルの姿のドゥアムテフです。この神々はホルス神の4人の息子たちで、内臓の守護神となります」


 神様の名前も奇妙な物ばかりだけれど、猿と人と鷹とジャッカルの姿の神様がいるらしいということだけは理解した。内臓にまで神様がいるなんて凄い話だ。


「それぞれに、遺体から取り出した小腸、胃、肝臓、肺を入れて保存し、ミイラと共に埋葬します」


「心臓は?」


「心臓は残します」


「どうして心臓だけ身体に残すの?」


 造り方は知っていても、どうして取り出す組織とそうでない組織があるのかは知らなかった。


「心の臓とは人の心、魂の宿る場所です。心が無くては甦った時にただの人形になってしまう。それではいけない」


 欧米人は「心は頭の中だ」と言うけれど、古代人の考えは日本人ととても近いものなのかもしれない。私も心は胸にあると思える。


「それに心臓は最後の審判で使いますので、残さねばなりません」


「最後の審判…?」


 聞き返した私に、相手は驚いた顔を向けて来た。


「まさか、知らないのですか…?」


「き、記憶喪失になってしまって…あの、全然覚えてなくて…」


 私が聞き返したものは、この時代だと誰もが知っている当たり前のことだったらしい。

 日本の首都はどこですかと聞かれて答えられないのと同じくらいなのかもしれないと思うと、知らないことが多い自分がとても恥ずかしくなって、思わず目を相手から逸らしてしまった。


「記憶喪失とは……また大変ですね」


 同情を含んで呟いてから、その人は改めて姿勢を正して説明を始めてくれる。


「死んだ者の魂は、神々の前で将来甦ることができるかどうかの審判を受けるのです。その時に使うのが心臓。真実の羽というものを天秤の左に乗せ、右にその心臓を置く。そして真実の羽根と釣り合った心臓の持ち主だけが甦りを許されます。これが最後の審判と呼ばれる」


 そう言えば、私がこの時代へ来て初めてネチェルたちに会った時、真実の羽根がどうとかと言っていた。これのことだったのかと今ようやく理解する。私の心臓と真実の羽が釣り合ったから、私はここへ甦ったという意味だったのだ。


「釣り合わなかったらどうなるの?」


「真実の羽より心臓が軽かった場合、その者は生前悪い行いをしたということで、甦ることは出来ずそこで魂は消滅します。心臓が真実の羽根より重くなることは決してありません」


 本当に独特な思想。

 心臓は心であり、死後にも重要な役割を果たす。だからミイラの中に唯一残された。


「じゃあ、脳はどうしてカノプスに入れないの?どうやって保存していたの?」


 鼻から出すまでの過程は分かるけれど、それ以降の脳みその行方は聞いたことがない。この際だからこそ、知りたい欲求が生まれた。

 けれど、私の言葉にその人はさもおかしいというように、くすくすと肩を揺らし始める。


「お嬢さんは随分おかしなことを仰る」


 おかしなこと、言ったかしら。

 脳みそだって、心臓と同じくらい大切な組織だと思うのに。


「脳は捨てますよ」


「捨てるの…!?」


 心臓の次に大事だと思えるのに。


「ええ。だって、脳みそは鼻から出るじゃありませんか。……他に鼻から出る物と言えば何です?」


 鼻から出る物。

 うーんと唸って二つ思い浮かんだけれど、どうしてもこれじゃない気がして口にする勇気が出ない。


「たった一つしかありませんよ。ちなみに血ではありませんからね」


 そう言われたら残る候補は一つだけ。一か八かだと思い切って、口を開く。


「……は、」


「は?」


「鼻、水?」


 笑われるかと身構えたけれど、その人はにっこりと笑って頷いた。


「その通りです」


 唖然とする私に、相手は微笑みながら解説を始めた。


「脳は鼻から出す。鼻水も鼻から出る。だから脳は鼻水を出す厄介なものなんです。鼻水というものを好む人なんていませんからね。甦って、第二の人生を歩み始めた時、鼻水に悩まされないよう、原因である脳は取って捨てれば快適な死後を過ごすことが出来る」


 同じ鼻から出る物だから、鼻水の原因が脳みそ。だから捨てる。ある意味凄い発想だわ、と感心してしまう。


「では、最後に特別な物をお見せいたしましょう」


 そう言って、今度は部屋の一番奥にしまわれていた一辺が50センチほどの割と大きな木箱を取り出した。


「これは?」


「我ら、ミイラ職人を志す者たちにとっては憧れのものが入っています」


 木の擦れる音と共に、その蓋が開かれる。中から現れたのは黒い犬のような動物の縦長のお面だった。さっき見た石板に描かれていた犬の姿をした神だ。


「死者を守る神、ジャッカルの姿を持つアヌビス神」


 そっと取り出し、私に見せてくれる。


「ミイラ職人はこの神の姿を借り、ミイラを作るのです」


 鋭い目と長い鼻を持つ漆黒の神様。

 そろりと触ってみると、木製で案外重そうだ。これを被って作業したら首を痛めてしまうだろう。だから男性の専門職になったのかもしれない。女性がこれを被っての作業というのにはちょっと無理がある。


 ミイラ職人にとって、そしてミイラを作ると言う行為において、このお面こそ最も大事な意味を成すから、被らず作業するわけにはいかない。


 神が人を死後に送り出す。その神の権威を借りてミイラを作り出したのが、解剖学を学んだミイラ職人だった。


「さあ、そろそろ戻りましょうか。お客様と先生のお話もそろそろ終わるでしょう」


 ここでエジプト人は医学の基礎を作った。それを思うと自分がこの場にいたという事実に感動してしまう。


「ありがとう。とても楽しかった」


「いいえ、楽しんでいただけたようでこちらとしても嬉しいです」


 お父さんから飽きるほど聞いてきた知識を掘り返して、ミイラについて語らいながら私たちは職人の部屋へを出た。






 戻ると、話を終えたカネフェルと彼が私を待っていた。

 何を話していたのか気になるところだけれど、第三者が口を出すことではないと考え直して好奇心を止む無く呑み込む。


「……良いですか、今はあなた様の御代に御座いますぞ」


 外に出ようとした時、カネフェルが彼に声をかけた。


「先々代がなさりましたことを否定することになろうとも、己の信じる道を生きなされ」


 振り返れば、何かを諭さんとする表情がある。


「己を信じなされ」


 ああ、と彼が深く頷いたのを見て、カネフェルは再び仏様のような微笑みを湛えた。


 話の流れが掴めない。彼が相談したという話の続きかしら。


「では、御息災で」


 深々と頭を下げるその人に、彼はうむと頷く。


「お前の力を必要とすることがおそらくこの先あるだろう。その折は王宮への来訪を命ずる」


「御意」


 息災でな、と返事を返し、麻布を被り直した彼は私の背中を押した。


「行こう。夕暮れが近い」


 彼の言う通り、外の陽はもう傾きかけていた。






 馬上から見た、西の空に浮かぶ太陽はいつものように深紅色。どうして太陽は朝から夕方にかけてその色を変えるのかしら、と馬の上で漠然と考える。

 橙に揺れる古代の町を人々が横切って行く。現代人と変わらない笑顔を煌めかせて。黒く伸びる影を私の視界に残して。


 夕方でも古代の人々は、こんなにも活き活きとして輝いている。なんて美しいのだろうと目を細めた。


「私ね」


「ん?」


 適当に打ったような相づちが返ってくる。背後を振り返らず、前の夕陽を見つめてもう一度唇を動かす。


「私ね、分かったの」


「……私がどれだけ偉大な存在であるか?」


 ふざけた声に、違うわよと笑う。


「分かったのよ」


 自分に確かめるように言葉を繰り返した。今度は彼は何も言わなかった。小さな子供たちがはしゃぐ声を遠くに聞きながら、そっと目を閉じて耳を澄ませる。

 目を閉じたら、馬上を吹き流れる風も、私を照らす夕陽も何もかもが鮮やかに感じられた。


「みんな、生きているのよね。……私と、変わらないのよね」


 瞼を閉じても、夕陽の色が瞼を越えて瞳に達する。

 すると、人を小馬鹿にするような彼の笑い声耳を突いた。


「何を言うかと思えば。皆死んでいるとでも思っていたのか?おかしな女だな」


 そうね。きっとあなたにとっては馬鹿らしい、当たり前のことだ。でも、それがどれだけ私にとって素晴らしい発見か。

 私は今まで古代人だから、現代人だからと言って自分と周りの人を区別していた。現代人の私にとっては、古代人はすでに死んでいる、存在がありえない人たちという認識があった。悪く言えば、差別や軽蔑に似たものだったかも知れない。それがどれだけ愚かだったのか、この時代という場所に生きる人々を見て分かった。

 太陽を愛し、ナイルと共に生き、笑い声を、時には泣き声を立てながら生活している人々がいる。彼も、先ほど会ったカネフェルも、学校で学ぶ子供たちも。

 そして何より、私を取り巻くすべての人々はここで『今』と言う時を、刻一刻と過ぎて行く時の中を、その命を輝かせて確実に生きている。『今』を生きる。それは現代人も古代人も変わらない。


 古代が、未来が、何だと言うのだろう。何を意味すると言うのだろう。ここにいる人々にとって、この時代こそが現代だというのに。

 彼も、私を囲む人々も、未来では名前も存在も、寂しい茶色の砂に時代の川に埋もれてしまう人かもしれない。それでも今、ここで笑っている。今ここで、息をして私をからかう。未来へ返すと出来もしない約束を私にしてくれる。

 古代人ではない。ここで生きる、彼もまた一人の人間。周りを囲む人も皆、命ある輝く人。


 3000年。

 確かにそれは目が眩むほど遥かな年月で、これから先、沢山のものが移り変わり、忘れ去られて行く。それでも変わらないのはこの時代を、今を、懸命に生きぬいている人々がいるという事実。


「古代なんて、もう言わない」


 西の空に浮かぶその太陽を見上げ、ナイルから運ばれる風を頬に感じる。


「もう、言わないわ」


 この時代にいる間、私はこの時代の人間として生きよう。今流れる時を現代とし、未来に帰るその日まで。


「決めたの」


 久しぶりに清々しさが私を包むのを感じ、自然と口元が緩んだ。


「何を一人で笑っている。ヒロコは気味が悪いな」


 顔を覗いてきた彼に、私も笑う。


「色々と悟ったの。それが嬉しいのよ、多分ね」


「多分とはなんだ」


「多分は多分よ。悟りが開けそう」


 馬が揺れる。風が私の零れた髪を流していく。ずっと向こうにある砂漠の砂が、風に乗せられ飛んでくる。取り囲む風景が、だんだんパピルスが生い茂る緑に移ろう。

 温かい風が、先ほどより少し冷えたのを感じて、ナイルの岸が近いのだと知った。


「ここから見える景色は格別だ」


 馬から降り、生い茂るパピルスに足を下ろした。パピルスの根元までナイルに浸っていて、あと数歩ほど行けば水に足が入ってしまう。


 視線を移し、じっと広がるその光景を眺めた。

 壮大とは、こういうことを言うのだろう。

 エジプトの太陽と同じくらい威厳に満ちた母なるナイル。国の黄河、メソポタミアのユーフラテス・チグリス川、インダスのインダス川。巨大な文明には大河がつきものだと言うけれど、まさにその通り。太陽がこの国の父ならば、ナイルはこの国の母なのだろう。


 ここに来て何度見て来たか分からない夕陽がナイルに沈み、向こう西岸に隠れていく。何度見ても飽きることはない。溜息が出るほどに美しい。空にも大地にも神を感じる。エジプトは神の住まう国なのだ。



 ふと足元を見ると、小さな石板が落ちていた。拾い上げて泥を払うと、細かく刻まれた一文字も読めないヒエログリフの列が現れる。


「落書きだな」


「落書き?」


 そうだと頷いた彼は私から石板を受け取った。


「そこらに落ちている石板に文字を彫って遊ぶことがある。手紙にしたり、伝言板にしたり、誰に渡すわけでもなく日常のことを書いてみたり……時折神々の像などに刻む者がいるのには困っているが」


 手紙や伝言板。メールや電話がないこの時代の独特の通信手段なのだろう。


「何て書いてあるの?」


 彼は、しばらく手元の石板を砂を払いつつ見つめてから、唇をゆっくりと開いた。



『──私の望む恋人は、ナイルの向こう側で眠っている。

荒々しい水が私たちを隔てている。浅瀬にはわにが待ち伏せている。

私は川に飛び込み、歩いて渡りはじめよう。

深みなど怖くはない。鰐さえも怖くはない。私にとってナイルは乾いた大地と変わりはない。

愛が私に強さをくれる。愛は私の魔法の呪文。

私は、恋願う自分の心をじっと見つめる。彼女が私の前に立っていてくれたらと』



 彼の声だからか、夕陽の色に随分と沁みる言葉の調べだった。


「……おそらく死んだ恋人に男が向けた言葉だな」


 そう言って、彼は顔をあげて西に沈む陽に顔を染める。ナイルに埋もれて、向こう岸はほとんど見えない。


「ラーが昇り、ハヤブサとなる我らがいる東は生の地。ラーが沈み、雄牛になる西は死の地と呼ばれる。そのために墓はすべて西側に作られる。おそらく相手の女はこの川の向こうに眠っているのだ」


 お父さんも同じようなことを言っていた。

 太陽の昇る東は生きる人々の世界で、沈む西は死んだ人の世界。エジプトの人々にとって、これほどまでに偉大な太陽はすべてと言っても過言ではなかったと。


 これを書いた男の人がどうなったのか、私たちには分からない。でも、この文章に私の時代と変わらない愛があるのだと知る。人の感じるものは、3000年経っても変わらない。

 喜びも悲しみも。怒りも楽しみも。そして愛情も。


 今になって分かる。お父さんがエジプトをあんなにも好きだったのは、3000年前に生きていた人々の呼吸を感じていたから。残された文字から、壁画から、そしてたくさん遺物から、古代人ではなく、同じ人間が生きていた証を感じていたからなのではないだろうか。

 文明自体ではなく、この時代と言う時に生きていた人が、彼らの生き方が、好きだったからなのだ。

 だからあんなにも目を輝かせて、遺跡を回る度に感動していた。

 届くとは思わないけれど、3000年後も同じようにエジプトを照らすその太陽に、3000年後も流れ続けるナイルに、遠くにいる父へこの想いを届けてほしいと胸の内に語りかける。


 今の私なら、お父さんと一緒にエジプトについて語り合えそうな気がする。ここで彼から教わったことも。外で学んだことも。エジプトに生きていた人々がどんなに素晴らしいのかも。

 全部。全部、話してあげたい。帰ったら、たくさん、たくさん、話を聞きたい。この素晴らしい時代のことを、もっと知りたい。


「そろそろ帰らねば。陽が暮れてしまってはさすがにナルメルに叱られる」


 彼に言われて、それは大変だと私は石板を元の場所に戻し、急いで彼と共に馬に乗りこんだ。






 茜が今にも闇に消えようとしている中、馬に乗って来た道を戻っていると、視界の端に鮮やかな青が走ったのを見、私は思わず振り向いて色の源を探した。

 色の源は、小さく品物として並べられた花にあった。

 たくさんの薬草やハスや、見たことも無い花を置いている日干し煉瓦の中、何よりも輝いて見えたその青。鮮やかな私の好きな色。


 私が僅かに馬の行く手に抗ったのを見て、彼が馬を止めた。


「どうした、いきなり」


「花よ。アンク、ほら見て」


 私の腕がすっと動いて、迷うことなく指で向こうに見える小さな青を指し示す。細々と経営しているような、この時代の小さな花屋さんなのだろう。沢山の花を水につけて並べていた。


しばらく視線を彷徨わせていた彼は、やっとのことで発見できたらしく、ああと声を上げた。


「ヒロコは花が好きなのか?」


「とても好きよ。一番好き」


 この世にある何が一番好きかと聞かれたら私は同じことを答える。理由は分からない。小さい頃から好きだった。


「分かった」


 何が分かったのかと私が声を上げる間もなく、彼は馬を今にも閉店しそうな小さなお店の前に引き戻した。


「そこの者」


 眠るように俯いていたおばあさんが、私たちを見上げてぎょっとする。

 そこの者だなんて、他人を呼びかける時に使う言葉ではないし、そもそも馬から降りずに見下ろすなんて驚かせてしまうに決まっている。かなり失礼なことだ。


「その花を譲れ」


 彼の言い様に頭を抱えてしまう。

 譲れだなんて。もっと言い方があるだろうに。


「何言ってるの、商人様。わたしゃら商売してるんだよ。譲るなんてできるはずないだろうさ」


 案の上、おばあさんも少し怒り気味だった。


「欲しいのなら小麦」


 相手は苛立たしげに掌を彼の前に出した。

 この国のお金が小麦だ。花が欲しいならば、小麦と交換しなければならない。


「小麦など無い」


 彼の自信満々の答えに、おばあさんはますます顔を赤くする。


「馬鹿にしてるのか!若造!だから最近の若者は…!!」


 ああ、もう。


「アンク、いいから。……おばあさんごめんなさい、この人ちょっと変なの」


 怒っているおばあさんに無理に笑みを向けて謝りながら、早く帰ろうと彼を促す。


「変とは何だ、変とは。お前が欲しいと言うから貰おうとしただけだ」


「好きだって言ったの。欲しいなんて一言も言ってない」


「好きだと言うことは欲しいということだろう。私の場合ならそうだぞ」


「だから…」


 私の言葉を遮って、彼は自分の腕に巻きついた黄金を外しておばあさんに手渡した。


「仕方がない。それで譲れ」


 皺のある小さな両手で受け取った黄金に彼女は見開いた目をますます丸くする。


「お、黄金…!」


 まじまじと私たちを見ながら、彼女は叫んだ。


「小麦ではないが、それをやる故一本でいい、譲れ」


「一本と言わず全部持ってお行き!最近の若者は太っ腹だねえ!」


 バシバシと彼の足を叩き、さあ持って行けとにこやかに花を差し出した。さすがの彼も、おばあさんの変わりように驚いて目を丸くしている。


「……そうか。感謝する」


「いいんだよ、いいんだよ」


 小麦より黄金の方をもらって喜ぶのは当たり前のことだ。

 彼は頭の切れる人だけれど、王家と言う身分で金銭感覚が麻痺している気がする。少しばかり他人とずれている所がある。


「ヒロコ、全部いいらしいぞ。全部貰って行こう」


 無邪気に喜びながら、彼は馬を降りてはしゃいだ。


「全部なんて持って帰れるはずないでしょ。ちゃんと考えて」


 私の言い様に、今度は口を尖らせてしまう。


「何だその言い方は」


「はいはい、口が悪くてごめんなさいね」


「早く選べ。そろそろ帰らなければセテムが大量の兵を派遣して国中が兵だらけになるぞ」


 セテムでは遣りかねないと、慌てて馬を降りて並べられた花を眺めた。その中の一つに、迷うことなく手を伸ばす。

 私の、一番好きな花。


「その花は…」


 彼が驚いたように花の青を瞳に映した。

 知っているのかしら。花になんて興味なさなさそうなのに。


「すごく綺麗よね、ヤグルマギク」


 手の中に健気に咲き誇る青が嬉しくて、沈む茜に重ねてみる。


「私の一番好きな花よ。見て、花弁が矢車みたいでしょう?だからこの名前になったの。ヨーロッパ生まれの花だけれど、この時代にはもうエジプトに入って来てたのね」


「好きな、花…」


 顔を上げると、彼が瞳を揺らして私の手元の青さを見つめていた。こんな驚いた彼の顔を見たのは、私と初めて会った時以来だ。


「どうしたの?」


 花と私を交互に見つめ、彼は結んでいた口を開く。


「……理由」


「え?」


 いつも真っ直ぐのその声が、揺れている。震えている。


「その花を、好きな理由は」


 どうしていきなりそんなことを聞くのかしら。


「ヒロコ」


 答えろ、とその真剣な表情が訴える。真剣というよりは、戸惑いの色の方が濃かった。


「理由?……そうね」


 好きな理由。ただ、小さい頃から好きだったから。そう答えようとして、開いた口から出て来たのは。


「──王家の花だからよ」


 落ち着いた響きだった。余韻が、取り巻く空気に染み入って消えていく。

 それが自分の発したものだと気づくのにしばらくかかり、口から放たれた言葉の意味を理解するや否や、我に返った。


 何を。

 私は、一体何を言っているのだろう。


 違う。そんなこと、一度も思ったことなんてない。私の理由は、違う。


「私の愛するエジプト王家の、花だから」


 まるで稲妻でも浴びたように、彼も目を見開き、その中に大きく私を映した。


 そして呼ぶ。その薄い唇で。その、声で。唖然とする私に向かって。


「……アンケセナーメン」


 彼女の名を。




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