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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
5章 時代と人
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太陽の人

* * * * *



 鳥の鳴き声が微かに聞こえて、目を開ける。

 部屋の中に伸びた細い陽光が、まだ霞んだままの私の視界を黄金色に染めていた。目に走る細い黄金はまるで鳥──鋭く空を駆けるハヤブサの羽の輝き。

 朝になるということは、太陽神ラーが夜の雄牛からハヤブサに姿を変えることだと彼は教えてくれたけれど、この朝の光を見て、太陽神をハヤブサと例えた古代人の気持ちが分かった気がした。


 また、一日の始まるのだと思うと共に、今日も自分は生きていると実感する。生きて、ここにいるのだと。

 すぐに落ちてしまいそうな目頭を片腕で覆って、大きく息をつく。


 ──起きなくちゃ。


 重たい身体を動かして初めて、何やら生暖かいものが自分の身体に巻きついているのに気づいた。

 何だろう。眠くて頭が上手く回らない。数度起きようと試みても、後ろからぎゅっと締め付けられているようで起き上がれない。

 寝ぼけながらも、上に被さっている寝具をめくってみる。


「……えっ!?」


 視界に現れたのは、がっしりと私のお腹に巻きついている褐色の二本の腕。はっと振り向いて、目の前に現れたものに悲鳴をあげそうになった。

 彼の顔がある。どんと、私の背後に。これでもかと近くに。

 混乱寸前の頭で自分の体勢と彼の位置を考えて、彼が私に背後から抱きついて眠っている状態だと知った。


「は、放してっ!!」


 慌ててお腹にがっしりと絡みつく腕を振り解いて、飛び起きる。


 一体、何があったのだろう。

 待って。あれ?何で。


 飛び跳ねた胸を抑えながら、まじまじと私の背後に寝ていた彼を見つめた。

 どこからどう見ても。もう一度目を瞑って開けてみても。頬をつねってみても。何度目をこすってみても。同じ寝具の中にやっぱり彼がいる。夢じゃない。


「何で…!?」


 私の裏返った声など関係なしに、長い睫毛まつげの影を頬に落して彼は眠っている。いかにも安らかに眠っています、起こさないでくださいと言っているような安眠丸出しの寝顔は、いつもよりちょっとだけあどけなかった。


 改めて辺りをぐるりと眺め回して、私の部屋ではないことを思い出す。昨夜に殺されかけて、彼が寝台を貸してやると言ってくれたことも。目の前にある彼の長い指で、髪を梳かれながら眠ったことも。でも、どうして一緒に寝ているのだろう。


 一緒に、寝て──そこまで言いかけて、ある可能性が浮かび思わず自分の身を確かめた。

 ちゃんと、寝間着。肩紐も肩にかかっている。裸じゃない。乱れてもいない。


「セーフ…!」


 念の為に寝具をめくって、彼の下半身を確認。腰巻発見。こっちもセーフ。

 ほっと胸を撫で下ろして、冷静になれと自分に言い聞かせる。まだ大人の階段登ってない。自分の右腕を左手で擦りながら更にその人から距離を置いた。


 現代に帰るなら何もないままがいい。

 ううん、何かがあっては困る。そういうことは、本当に好きな人、結婚する人とだけだ。こんなところで変な関係も、感情も持ちたくない。帰る時に迷うようなことにはなりたくない。


 何とか落ち着き始めて、隣に眠る人に改めて視線を投げた。どきりとしてしまう。

 何と言っても、彼は楽だと言って寝る際に腰巻しかつけていないから、傍から見れば裸で寝ているように見える。いつも目にしている姿であっても、寝起きだと雰囲気に色気が増して目をどこにやったらいいか分からない。

 丸まった背中が勇ましく朝日に照らされて光り、腕も結構筋肉ついていて雄々しい。細身なのに案外筋肉質なのね。まあ、日常的に胸も足も丸出しなのだから、これくらいのプロポーションじゃないと威厳も減ったくれもないのは確か。


「……ねえ」


 そっと彼の肩を揺さぶってみる。


「ねえ、アンク」


 何で私の隣で寝ているの。傍にいてくれるとは言っていたけれど、添い寝なんて聞いてない。


「アンク!」


 叫ぶように呼ぶと、一瞬眉間に皺を寄せてから、うっすらと淡褐色を覗かせた。瞳がこちらを捕えたと思うや否や、また閉じてしまう。


「ちょっと!起きて!」


 うーんと唸り、彼は寝返りを打つ。


「………れ」


 ようやく何か返答したと思っても何を言われたのか分からなくて、耳を近づけた。


「え?」


「……黙れ」


 そのままごろりと転がり、今度はこちらに背中を向けてしまう。


「黙れじゃない!起きて!起きろ!」


 揺さぶっても一向に起きない。びくともしない。ならばと掌を用意する。はあっと息を吹きかけ、その腰目がけて手を振り上げる。

 その偉そうな雰囲気をぶっ壊して、間抜けな悲鳴を上げさせてやろうと思ったその時。


 彼の身体がごろんと動いて、また私の方に顔を向けて来た。それも切れ長の瞳を薄く開いて。


「おい……その手は何だ」


 自分の手が振り上げられたままだったことに気づいて、さっと隠す。どうやら簡単に間抜けな悲鳴を上げさせてはくれないらしい。


「な、何でも」


 ここで叩こうとしてましたなんて言ったら何されるか分かったものではない。それでも彼はますます顔を顰める。


「私を叩こうとしただろう。私が気づかぬとでも思ったのか、愚かな」


「た、叩くなんて、私がそんな野蛮なことすると思う?あははは…ははっ」


 我ながら嘘が下手すぎて、悲しくなってくる。猿芝居であることは自分でも十分すぎるほど分かっていたから、身を固めた。


「まあよい」


 彼は両腕を上に挙げ、大きく伸びをしながら欠伸をした。大きく開かれた口内は、喉の奥まで丸見えだ。さすが葡萄を一口で食べるだけあるわ、とこんな時に納得してしまう。


「ねえ、あなたに聞きたいことがあるんだけれど」


 彼の顔を覗いて、出来るだけ表情を険しくして声を掛けた。


「朝からうるさい女だな……朝くらい良いだろう。昨日はお前のせいで私の貴重な睡眠時間が減ったのだぞ」


 腕で覆っていた目を少し覗かせ、真上の私を映す。

 私のせいで減っただなんて。こっちだって大変な目に遭ったのに。


「何で私と一緒に寝てるの」


 構わず質問を叩きつけた。

 ここからが本題だ。何で恋人でもない人と一つの寝具で寝ていたのか。


「私の寝台だからな」


 当たり前だという素振りで彼は答えた。


「貸してくれるって言ったじゃない」


「貸しただろう、ちゃんと」


 煩いな、と小さく呟き、また欠伸が大きな相手の口から出てくる。


「びっくりしたのよ。あなた、私に……その、抱きついて寝てたから。貸してくれるって言うから、その寝台はてっきり私だけが寝るのかと」


「お前は私に床で寝ろというのか」


 顔を顰め、今度はぱちりと目を開けて私に視線を投げてきた。僅かに怒りに触れたようだ。


「そういう意味じゃなくて」


「私はファラオだぞ。何故床で寝なくてはならぬのだ。本来ならお前が下で寝るべきところを、私が貸したからこの上で寝られたのだぞ。それも私が寝ている間に殺されてはならぬとわざわざ抱きしめて眠ってやったというのに」


「それが余計なの!」


 あんな体勢で一晩中寝ていたなんて、想像しただけで耳まで真っ赤になる。ただでさえ、お父さん以外の男の人となんて寝たことがなかったのに。


「案ずるな、何もしていない。女と寝ていると言うよりは、泣く子供をあやす母になった気分だった」


 まるで野良犬でも追い払うように、しっしっと手を振ってからまた瞼を落としてしまう。


「とにかく私は寝る。起きるなら勝手に起きていればよい。わざわざ起こすな」


 私に広い背中を向け、二度寝の開始。寝息が沈黙の中に降ってくる。

 私のせいで眠いというのなら、彼の安眠を邪魔するわけにもいかず、それ以上問い詰めるのは憚られた。


 ふうと息を上に向かって吐いたら、私の前髪が上に舞う。寝起きで乱れた髪を直すために指で髪を梳かしてみて、ふと気づいた。

 髪が、伸びている。ここに来る前は肩につかない程度だったのに、今はしっかりとついてしまっている。それだけの時間が流れたのだと、切なさが私の胸を苛んだ。


 半年。1年の半分。それ以上の時間を私はここで過ごしている。帰る方法も見つけられないまま。

 昨夜、私が眠る前に彼は帰してやると約束してくれたけれど、そう言える根拠なんて一つもないのだと思う。


「……ファラオでもね、出来ないこともあるのよ」


 寝息を立て、小さく上下するその褐色の背中に、相手に聞こえないくらいの大きさで呟いた。

 太陽のハヤブサが走る部屋の床を見て、現代に思いを馳せる。と、その時、すやすやと眠っていた彼が、いきなりがばりと音を立てて飛び起きた。


「……ど、どうし、」


 驚いて後ずさると、ぎしりと寝台が軋んだ。


「思い出した。寝てなどいられぬ」


「え?」


 一度大きく伸びてから、寝台の上に座って焦げ茶の髪を掻き上げ、呆気にとられる私に顔を向けた。にっと、太陽のような笑顔を見せてくる。


「ヒロコ、今日は出かけるぞ」


「……出かける?どこに…」


 質問には答えず、その人は寝台から素早く降りてもう一度大きな背中を伸ばす。


「着替える」


 その一声で、女官数人がぞろぞろと入って来て、深々とお辞儀をしながら彼を囲んだ。

 彼女たちの手にあるのは衣類と装飾品と、あと香油をいれた細長い壺。何をするのかと思いきや、瞬く間に女官たちが彼に首飾りを付け、サンダルを履かせ、歩き出す彼を追いかけながら慣れた手つきでどんどん装飾品やら衣類を着付けていく。

 茫然と眺めていると、最後に腕輪という時に、椅子に腰を掛けた彼が侍女の手に待ったをかけた。


「いかがいたしました?御召し物がお気に召しませんでしたでしょうか…」


「違う」


 口元に笑みを浮かべながら、寝台の上に座り込んでいる私へ視線を移してきた。


「間抜けに口開けて見ているくらいならばお前が付けよ」


 そこで一度言葉を切り、侍女から腕輪を取り上げて私に突き出した。


「ほら、早くしろ」


 偉そうに胸を張って要求してくる。


「……はい?」


 向こうで彼の手から零れる黄金が光り輝く。


「聞こえぬのか。付けろと命じている」


 そんなの、腕に巻いて止めればいいだけのものじゃない。どうしてわざわざ私に命令するのか分からない。侍女が周りにいるのに。


「お前たちは下がれ。あとは全てアンケセナーメンにやってもらう」


 命令を受けた侍女たちは、微笑みを浮かべてそそくさと去って行ってしまった。残されたのは私と、我儘なファラオだけ。


「何をしている、早くしろ」


「何で私が」


「はて。昨夜、お前の命を助けたのは誰だったか…」


 顎に手をやってわざとらしく言う姿に、うっと言葉が詰まる。


「まさかその恩を一晩のうちに忘れたというのか……それほど愚かだとは…」


「やります!やらせていただきます!」


 頭を抱えてため息をつく彼に叫び、思い切って寝台を飛び降りた。


「それでよい」


 にっこりと柔らかく笑った顔さえ、憎たらしい。

 その手から黄金を受け取り、差し出された腕に巻きつけて止める。細長く作られた金を繋げ、様々な角度に調整できる腕輪はとても精密だった。エジプト人の器用さをここにも見つける。

 両腕と両手首。そして最後、右の足首に黄金をつけていた時に、何気なく口を開いた。


「この金は、どこから採れるの?」


 エジプトという文明にはやたら金が多い。彼や私の装飾品は勿論、王宮などの身の回りのすべてがそれできらきらと輝いている。

 金が無かったら四大文明の一つとして成り立たなかった、という文句はお父さんの口癖だったくらいだ。


 現代でも博物館で目につくのは、像や人形の他に黄金しかない。どこを見ても黄金で、こちらが飽きてしまうほど。

 けれど、この砂漠の国に黄金と所以のある場所なんて思い浮かばない。ナイル川が運んでくるわけであるまいし、一体どこから入手していたのかしら。


「お前は実に変なことに気を止めるのだな。……そうか…どこから、か」


 彼は少し悩むように瞳を上げる。


「まあ、我が国で取るならば鉱山」


「鉱山?」


 繰り返した私に、そうだと彼が頷いた。


「我が国南部には鉱山がそびえる。そこから発掘した石の中から職人が探し出すのだ。だがそこから取り出す金はあまりにも少量だからな、他国から砂金を貰い受ける場合が多い」


 輸入。

 鉱物から金が出るとしてもそれはわずかで0.1パーセント、多くても1パーセント程度で、こんな腕輪やら首飾りやらを作る量を採取することは難しい。


「貰い受けると言ってもただそれだけでは他国が不利になり、戦が起きかねない。故に我が国は砂金の代わりに、その砂金から作った製品と交換しているのだ。我が国以外に金をこれほどまでに美しく加工できる国はないからな」


 へえ、と声を漏らす。


 国と国の間で立派な物々交換が成立していた。この時代、外交もしっかりと成り立っていたようだ。

 話から察するに、エジプトの器用さには他国も顔負けだということになる。黄金を加工する技術を、この国以外はまだ持っていないのかも知れない。出来たとしても、エジプト以外ではあの繊細な飾りは作れないのだ。

 それも、鉱石から黄金を取り出せたということは、少なくとも古代人が金の融点を利用していたということになる。そんな知恵がこの時代にあったということは、なんて凄いことだろう。


「何をぼうっとしている。次はこれだぞ」


「え?」


 しゃがみ込んで彼の足元の黄金を見ていた私に押しやってきたのは香油の壺だった。押しやられるまま受け取り、その壺の中身を覗いてみる。ふわりとした嗅ぎ慣れた匂いが私の顔に向かって伸びる。


 彼の、だわ。多分、彼の愛用の香油。

 一晩彼の寝台で眠ったせいか、私の身体からも僅かながらにこの匂いがする。


「塗れ」


 ぐいと私の目の前に彼の右腕が突き出された。


「こ、これも私?」


「他に誰がいる」


 決まりきったことだと目の前で笑う顔が言っている。


「嫌よ、塗るだけでしょう?ぱぱっと自分でやればいいじゃない」


 何で私が人の身体に香油なんて塗ってあげなくちゃいけないの。

 壺を彼の手に押し返すけれど、彼はそれを受け取らず、また恍けるような声を出した。


「昨夜助けてやったのは一体どこの誰だったか…」


「その恩返しはもうしたでしょ。感謝してます、ありがとう」


「命を助けたというのに、腕輪をつけるだけでその恩が返せたと思っているのか。恩知らずめ」


 言い返す言葉が、跡形もなく消え失せる。

 この人、恩返せと言って私に何でもかんでもやらせる気ではないだろうか。それでもきちんと筋が通っているのが腹立たしい。

 腕輪をつけてあげただけで、命を助けてもらったという恩を返せるはずがないのは私にだって分かる。感謝してもしきれないだろうし、もし両親がいたら跪いて神様として奉ってしまうほど有難くて有難くて堪らないこと。

 でも、悔しい。けれど、何も言い返せない私の負け。

 悔しさを呑み込み、私を見つめる意地悪い笑顔に小さくため息をつく。


「……分かりました。塗って差し上げます」


「それでよい」


 壺からゆっくりと流れてくるそれを手に取って、差し出された腕から塗っていく。マッサージ師にでもなった気分だった。


「ヒロコは下手だな。斑が出来ているぞ」


「文句言うなら侍女を呼べばいいじゃない。これから私にやらせないことをお勧めします」


 こちらは慣れない作業に戸惑いながらも、恩を返そうと頑張っているのに。


「何を言う。夫に香油を塗るのは妻の務めだ。これからは毎日やってもらう」


「嫌よ。私はあなたの妻でも姉でも妹でもないの。結婚する気も無いですからね」


「アンケセナーメンは正式な妻ではなかったが、毎朝私に塗ってくれていた。アンケセナーメンを名乗るならば、同じことをやるというのが筋ではないのか?」


 言い返す気力さえ、そのぺらぺらと吐き出される言葉に奪い去られてしまう。記憶の糸をよくよく辿ってみれば、旦那さんに香油を塗る奥さんの姿が描かれた壁画があった気がしないでもない。一応、アンケセナーメンを名乗っている以上、彼女が日常的に行っていたことはやらなければならないと分かっている。けれど、そう思うと瞬く間に疲れがどっと押し寄せてくるものだから困ったもの。もうストレスの他の何物でもない。


「返事は?」


「わ、分かりました」


 自分が惨めすぎる。腕と胸を塗り終わって、首元に取りかかった。上半身だけというから、これで最後。


 首筋だ。それに繋がる鎖骨の綺麗なラインが浮き出ている。色気が湧いてきて、塗るほどに恥ずかしさがますます私の中に募っていく。

 真っ赤なった顔を見られるのが嫌で、俯きながらの作業だった。

 意識したら、指から伝わってくる体温さえどうしたらいいか分からなくなる。

 早く終わらせよう。まだ18の私には刺激が強すぎる。


「ヒロコ、顔が赤いぞ」


 からかうような声色が鼓膜を叩いたと思えば、いきなり視界にその整った顔が広がった。その首元から咄嗟に手を離して、私は身をのけぞらせる。


「あ、ああ赤くなんて…」


「真っ赤だ。まるで太陽神」


 けらけらと声をあげて、その人はこちらの気も知らずに笑い始めた。


「何故赤くなる。私に見惚れたか?」


「見惚れてません」


 そっぽを向いて、負け惜しみの減らず口を叩いた。これまで認めてしまったら、もうプライドも何もない。

 見惚れていたわけじゃない。慣れないことに戸惑っていただけ。


「ならば、」


 彼が立ちあがる気配がした瞬間、腕が二本、私の身体に巻きついて来る。


「な、何し…」


「どうだ?また抱きしめて寝てやっても良いぞ。それとも毎晩が良いか?」


 息がかかるほどの距離にあるその顔と耳もとで囁かれた艶めかしい声に、かあっと音を立てて全身が爆発してしまいそうになる。


「じょ、冗…」


「冗談だ」


 私をぱっと放して、彼は笑って寝台の方に歩いて行った。


 ああ。もう嫌。

 からかっていると分かっているのに、その度に顔を真っ赤にさせる自分に嫌気が差す。

 何度胸から心臓が飛び出しそうになったか分かったものじゃない。あと100個ほど心臓を追加してもらっても足りないくらい。こんなことなら、もう少し異性との交流を持って、恋愛の一つでもしておけば良かった。



「失礼いたします」


 ネチェルを先頭に侍女が数人、頭を下げて入って来た。彼女たちが手にしているのは私のだと思われる衣類と装飾品だ。


「ファラオ、そろそろ姫様のお召し替えを」


「そうだな、時間が惜しい。早く済ませよ」


「畏まりました」


 さあ、とネチェルに促され、私は奥の部屋へと入って行った。






 着替えを済ませて元の部屋に戻れば、彼は寝台に座って何やらをじっと見ていた。


「何を見てるの?」


 声をかけると、彼が顔を上げて私を見る。


「これはヨシキと言ったな」


 褐色の手にあったのは、私のスケジュール帳と、一度見せたことのある良樹の写真だ。優しい微笑みを浮かべる、白衣を着たその人。

 また私のショルダーを勝手に漁ったのね。もう漁られようが何されようが、気にしなくなっている自分がいた。


「そうよ、中村良樹。医師をしてるの」


 良樹の声を聞いた気がしたあの時から、随分の時間が経っている。

 元気かしら。日本に帰ったかしら。それともまだ、私を探してくれている?


「ヒロコの家族か?」


「……まあ、そうね。お兄さんみたいな人よ」


「ならばヒロコはこの男の妻になるのか?」


 彼の言葉にぎょっとしたけれど、近親婚が当たり前だったことを思い出す。この時代は兄妹同士の結婚がごく普通のことだから、兄だと言えば良樹が私にとっての最適な結婚相手に当たるのだ。


「違うわ、良樹と私はそんな関係じゃないの。よくしてくれる、優しい人というだけ」


 少し笑いを混ぜて言うと、彼は分からぬと顔を顰めて首を傾げた。意味ありげな眼差しで、写真の中の微笑みに釘付けになっている。


「どうかした?」


 恐る恐る聞いてみれば、いいやと首を振り、写真を置いて立ち上がった。自分の中で解決できたようだ。


「出かけるぞ、ヒロコ」


 そう言えば朝起きた時も同じようなことを言っていた。


「私も行くの?」


「ああ、お前のために行く」


 きょとんとしている私を尻目に、寝台にあった唐草文様の刺繍が踊る麻布をコートのように羽織って、頭に被る。余った部分で口元を隠し、雰囲気を変えた。

 例えるのならアラブの商人。アラビア物語に出てきそうな服装だ。それに加えて彼から滲みでる威厳が邪魔をして、盗賊の若頭と化していた。正直に言ってしまうと、あまり印象は良くない。


「外へ行くとなると、これくらいでなくてはな。ラーは容赦がない。ヒロコも着ろ。その珍しい黄色の肌が焼かれるぞ」


 もう一着用意してあった同じ黒い上着を手に取って私に被せた。話を聞く限り、日除けという働きがこの上着にはあるようだ。

 確かに現代でもエジプトの太陽による肌の老化は普通の3倍速だというのだから、もちろんこの時代でも日除けは欠かせない。

 上着の麻製の布に触れると、ネチェルや他の侍女がそそくさとやってきて丁寧に着せてくれる。帯状の黒い紐で身体に固定されていく。彼のものも他の侍女が直し、形が綺麗に整えられた。


「本当に、外に行くの?……出ていいの?」


 思い切ってもう一度尋ねてみる。暗殺未遂があってから、今まで部屋に閉じ込められてばかりだった。外どころか、廊下にさえ出してもらえなかったから嬉しいけれど、理由が分からない。


「昨夜、お前が言っただろう。私の治めるこの国のことを『こんな最悪な国』と」


 言われてみれば動揺しすぎてそんなことを口走った気がする。こんな世界、大嫌いだとも。

 その国の持ち主の前でそんなことを叫ぶなんて、とんでもなく失礼なことを言ってしまった。思っていても、口に出してはいけないことだったのに。


「故に、お前に我が国の栄華を見せてやることにした。もう最悪だなどと決して言わせはせぬぞ。お前の国も素晴らしいのだろうが、我が国も捨てたものではない」


 『国』ではなくて『時代』だと思うのだけど、それは言わないでおく。彼の中でも、私の中と同じで、私が生まれた未来の世界が別のどこかで同時進行しているような感覚なのだと思う。


 21世紀がまだ起こりもしない未来のことで、反対に21世紀ではこの古代がもうすでに終わり、忘れ去られた時間だなんて信じられない。

 今ここで、現代で死んでいるはずの彼は息をして、現代で生きるはずの私はこの古代で息をしているのに。

 考えれば考えるほどに時間軸という一本の線が私の中で崩壊してしまう。


「ファラオ」


 扉から現れたセテムは、ちょっと気難しい表情を浮かべていた。


「馬の用意が整いましてございます」


「ご苦労」


 目を伏せて答える彼に、セテムは心配な面持ちで一歩前に出た。


「恐れながら申し上げます。誰も連れずに外をご散策とは…」


「お前の愚痴を聞く気はないぞ」


 彼がセテムの言葉を鞭のような声色で弾き返すと、申し訳ありません、と彼の犬は身を小さくした。


「行くぞ」


 私の腕を引っ掴んで、彼は相変わらずの大股で歩き出した。勢いに転びそうになる。


「案ずるな、夕暮れには戻る」


 頭を下げるセテムを越え、いってらっしゃいませ、という侍女たちの声を背中に聞きながら扉を出た。


 扉のすぐ向こうで、おやおやと笑みを浮かべるナルメルと鉢合わせした。宰相は愉快そうにその長い髭を揺らしている。


「お出かけに御座いますか」


「久しぶりにな。我が民を見てくる」


「くれぐれの御身分が露見しませぬよう。それとお帰りになりましたらちゃんと会議をお開きになれますよう」


「言われずとも分かっている」


 止めても無駄ですな、と小さく微笑み、ナルメルは道を開けた。


「では、お気をつけ下さい」


 ああ、と頷いて彼は嬉しそうに笑い返す。ついて行けない私を抱き寄せて、白い廊下を大股で進む。



 廊下の明るい日差しが視界に溢れ、眩しいほどの黄金を煌めかせる。眩さが散った。

 威を振りまいて、切なさも悲しさも不安も昨夜の恐ろしさも、絶望さえも、何もかもを晦まして、私の中から消し去っていく。そして見上げれば彼の無邪気な笑顔が傍にある。

 ファラオは太陽にも例えられるけれど、まさしくその通りだと思った。


 あなたは、太陽の人だ。

 太陽神に愛されたファラオだったのかもしれない。現代に名前が残っていたら、きっとそう呼ばれている。

 太陽王トゥト・アンク・アテンと。


「ヒロコ」


 光を撒き散らし、太陽を笑顔に浴びて、その声で私を呼ぶ。兵士が並ぶ階段を駆けるように降り、用意してあった白い馬に飛び乗った。


「神の住みし美しき我が国をその目に映すが良い。行くぞ」


 私を片腕に抱き、褐色の手が手綱を握る。あっと声を上げる間に、透明に澄んだ古代の風の中へ馬が駆け出した。



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