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黄金の砂

 まだ少し薄暗い午前6時前、ピンポンとチャイムが鳴り響いた。

 階段を降り、誰がその向こうにいるか分かっていたから確認もせずに扉を開ける。


「おはよう、ヨシキ」


 波打つ焦げ茶の髪を肩まで伸ばし、褐色の頬に笑窪を浮かべるメアリーという名のエジプト人。美人という訳ではないが、人懐っこい顔をしている。動物に例えるなら子犬というところだ。


「おはよう。随分早いな。まだ6時になってないだろう」


「だって出来るだけ早いうちに出発した方がいいでしょ?ヨシキ、すぐバテちゃうんだもの。朝の内なら30度越えないし、ちょうどいい。違う?」


「……その通りです」


 弘子を探しに出て、あまりの暑さに何度バテてしまったことか。そんな俺とは反対に、ここで生まれ育ったために、どんなに歩いてもぴんぴんしている彼女を見ると、毎回笑ってしまうほど自分が情けなくなる。


「じゃあ、車乗ってていいよ。もうエンジンかけてあるから」


「待って」


 外の車庫に促そうとした俺を止め、彼女はレースのついた可愛らしいリュックに手を突っ込んでごそごそと何かを取り出した。


「これ、持って来たの」


 差し出されたのは5冊のノートだった。開いてみれば、中には医師になるために学ぶ講義の内容が分かりやすくまとめてある。


「弘子、戻ってきたら大変でしょ?私と一緒に卒業して医師になるって約束したし……講義の内容、出来るだけ分かりやすくまとめてみたの。私なりにだけど」


 自信なさげに彼女ははにかむ。


「これ、課題やりながら全部書いたの?」


「うん」


 本当に、弘子は良い友達を持ったのだ。これを書上げるのにどれだけの時間を費やしただろう。


「今も2冊ほど書いてるの。まだ出来てないから持って来れないけれど…」


「ありがとう。きっと弘子も喜ぶ」


 そう言った時、後ろから足音が聞こえてきた。


「あら、メアリー」


「おばさん、おはよう」


 振り返ればおばさんが玄関に立っていた。メアリーがいるのを見て、わずかにその顔が綻ぶ。


「おばさん、メアリーが弘子にって。戻ってきても勉強に遅れないようにまとめてくれたそうです」


 5冊のノートをおばさんに手渡すと、おばさんはそれを開いてみるみる内に瞳に涙を溜めた。

 表紙に書かれたアルファベットの弘子という文字を、細い指で撫でる。誰かの頭を撫でるように、優しく、そっと。それだけの仕草で母の娘への愛が滲み出る。

 ノートを胸に抱きしめて、おばさんは玄関に立つ彼女に歩み寄った。


「……ありがとう」


 空いている左腕でメアリーを抱き寄せる。


「弘子はこんな素敵な友達に恵まれて、本当に、本当に幸せよ」


「泣かないで、おばさん。弘子は絶対に帰ってくるわ。信じて」


 静かな声は、朝に沁みこむ響きを持っていた。


「そうね……あの子は帰ってくる。帰ってくるわよね」


 必ず、帰ってくる。

 寄り添う二人の姿を見ながら、その言葉だけを深く胸に刻む。


 それから俺たちはおばさんに見送られ、車でルクソールに向かって走り出した。






 最初は王家の谷だけだったのだが、最近では様々な遺跡を回って行方を探すようになった。

 ラムセス2世が作ったアブシンベル大神殿やナイルの傍に築かれたアスワン。三大ピラミッドのあるギザ、階段ピラミッドで有名なサッカラ。地中海に面し、『地中海の真珠』の別名を持つアレキサンドリア。小さな都メンフィス。そして古代首都の一つだったエル・アマルナ。

 これだけ回ったのは、KV62にから黄金の光に包まれて消えた弘子が、別の遺跡に瞬間移動でもしたのではないかと考えたからだ。そうであることを願い、世界遺産だらけのこの国の隅から隅まで半年間掛けて探し回ったものの、肝心な情報は全くと言っていいほど得られていなかった。


 今日はふりだしに戻ってルクソールへ。王家の谷は後にして、先に神殿や宮殿跡がごろごろしている東岸で手分けして聞き込みをすることにした。


「すみません。この女性を探しているのですが、見かけたことはありませんか」


 全身を布で覆った、イスラム教徒だと思われる中年の女性に声を掛けて尋ねる。弘子の写真を受け取った彼女は目を細め、しばらく写真を眺めてから俺を見た。


「この子はどこの国の子?」


 初めての問いかけだった。


「日本ですが」


「混血っぽいね。こちらの国の子のような顔つきにも見える」


 そう言いながら返された写真の中の彼女を見た。彼女の指摘した通り、弘子は日本人でありながら鼻筋の通った、少し外国人のような顔つきをしている。

 母親似であるから、母方の遺伝だろう。弘子の家系に外国人はいただろうか。幼い頃から見慣れてきたせいで指摘されるまで深く考えたことがなかった。

 

「こんな子はこの辺にはいないね」


 そういうと彼女は写真を返した。。結局は今までと同じ反応だったことに肩を竦めながらもお礼を言って、弘子の写真を見やりながらその場から歩き出す。

 セミロングのストレートの黒髪を肩に垂らし、母親と一緒に家の前で笑っている弘子。一番最近の写真だが、今となってはもう数年前のものだ。


「ヨシキ!」


 呼ばれて背後を見ると、メアリーが小走りでやってきていた。彼女もまた別の弘子の写真を持っている。

 多分、学校での写真か、一緒に遊んだ時のものだろう。


「ヨシキの方はどうだった?」


 いいや、と首を振ると彼女は少し項垂れる。


「そっちは?」


「全然。みんな知らないって」


「収穫ゼロか」


 二人の間に沈黙が走る。こんなに探しているというのに、なかなか上手くいかない。何度も何度も同じ場所を行き来して、こんなにも探しているのに手がかり一つ見つかりやしない。

 畜生、畜生、と心の中で悪態をつく。


 かれこれ数時間聞きまくり、腕時計を見ればもう午後2時を回っている。 日本で言えば冬だが、頭上の太陽が猛威を振るい、30度を越える熱で俺を焼いていた。汗が流れるかと思いきや、乾燥しているせいか額に手をやってもまったく濡れない。

 乾燥しているせいではない。滲み出る汗までもが太陽の熱で蒸発しているのだ。それを知って、どれだけ暑いのだろうとげっそりする。


「ヨシキ、疲れた?休む?」


 彼女が心配そうに尋ねてくれる。ここで見栄を張る気にもなれず、口元に苦笑を浮かべながら小さく頷いた。


「少し、いいかな」


 骨の髄まで焼くようなこの気候には、どうも慣れない。身体は鍛えている方だから平気だとは思っていたが、そういう問題ではないと最近になって知った。大事なのは慣れなのだ。


「じゃあ、あそこで」


 ため息をついた俺の袖を引っ張って、メアリーが向こう側を指差した。示す先に、洒落たオープンテラスのある喫茶店がある。おそらく観光客向けに作られたものだろう。色に溢れていて、可愛らしいという言葉が似合う店だった。



 値段は高めでぼったくりだと思いつつも、飲み物を注文してテーブルを挟んで二人で座った。頼んでいたものが運ばれて来て、水滴を散らしながら俺の前に置かれる。温度の差が大きいせいで、透明な雫が涙のようにグラスの側面を滑り落ちて行った。


「次は……王家の谷?」


「ああ」


 そこに行って、今日は終わりだろう。

 肩に掛けていたバッグから手帳を取り出し、弘子の写真をしまおうと開くと、何枚かの写真がはらはらと膝の上に落ちた。


 5歳の俺が生まれたばかりの弘子を抱きしめている写真から、アメリカに移住した時の両親との写真。大学に合格した時と、卒業した時の写真。学友とのものに、研究所の仲間とのもの、そして弘子の医学部に受かった時の写真。整理していなかったせいでこんなにも写真が溜まってしまっていた。

 しまうつもりだったのに、その中の見覚えのない一枚をじっと見つめた。弘子が微笑んでいる一枚。少し考えてから、弘子の母親から借りた写真であることを思い出した。


 ──何処に、いるのだろう。


 薄っぺらな紙の中で微笑みを浮かべる彼女を撫でて、その名を胸の中で呼ぶ。


「……ヨシキって、弘子のこと好き?」


 弾けたように顔を上げると、向かいに座るメアリーがストローを口に咥えたまま優しい笑みを向けていた。


「ヨシキが弘子の写真見てる時の顔、とても優しい顔してるんだもの」


 そんな顔を、していたのだろうか。自分の優しい顔なんて想像できなくて、そんな表情を見られていたと思うと苦笑するしかない。俺としては気持ち悪い。──でも。


 再び写真に視線を落とし、瞼を伏せる。


「好きだな」


 彼女の18の誕生日。本当はそこで、告白するつもりだった。こんなことになるくらいだったら、あの時言ってしまえば良かった。


「好きじゃなかったら、自分の進路を棒に振ってまで探したりしないな」


 懸命に書いた論文が認められ、母国に帰って母国の一流研究チームの一員になり、母国の医療の発展に尽くす。それを断るだけの理由と言えば、一つしかない。

 弘子が大切だからだ。何よりも、大切だからだ。


「他に一体何の理由がある?」


 笑みを浮かべて問い返すと、それもそうねとメアリーはストローを口から離した。彼女のグラスには、もう氷しか残っていない。どうにか残っているその氷たちもたちまち溶けて水になるのだろう。


「ヨシキの話は弘子からよく聞いてたけれど……お兄ちゃんみたいなものよって言ってた」


 笑窪を浮かべ、メアリーは眉を八の字にしてほろ苦く笑う。


 お兄ちゃんみたいなもの。弘子にとって自分は恋愛対象外なのだ。覚悟はしていたが、やはり少し気落ちする。さすがに生まれた頃から一緒だとそういう認識になるのも無理はない。


「でも、一緒にいてヨシキの真剣さはすごくよく分かった。いい人だし、親友として弘子の恋人候補として認めてあげる。弘子、なかなか手ごわいけれど、頑張って」


「……ありがとう」


 少しばかり気まずいが、彼女の細やかな良心に素直にお礼を言った。






 午後3時半の王家の谷はまだ観光客で賑わっていた。

 弘子がいなくなったあの時とは大違いだ。がやがやと、様々な国の言語が飛び交って、ガイドを先頭にした団体がいくつも俺たちの前を通り過ぎていく。

 肌の白い人から黒い人。少ないが、俺と同じ黄色の人もいる。

 世界でいう冬の季節がやってきて、気温が下がったのもあり、観光客が増えているのだ。つまりはピークシーズンに当たっていた。俺としては夏だろうが冬だろうが、暑い。とにかく暑い。住宅の方へ向かえばプールに入っている子供たちもいるくらいなのだ。


 視線を落せば、足元の薄い茶色が太陽の光を反射し、黄金に光っているように見えた。

 黄金の砂。エジプトの砂は、異様に光る。


「……弘子、このどこかにいるのかな」


 世界中から集結した観光客たちの声に掻き消されてしまいそうな声で、隣の彼女は呟いた。彼女の真っ直ぐとした視線は、高くそびえる谷に注がれている。


「多分」


 答えながら、古代のファラオの名がずらりと並べてある地図を開いた。

 ツタンカーメンの王墓はもっと空いた頃がいい。あれだけ狭いのに驚くくらい人気なのだ。それに、折角訪れるのならあの日と同じ条件にするのが一番適切だろう。


 王家の谷は1100円払えば1回の入場で3つの墓に入ることができる。墓はどこでも入れる訳ではなく、日によって公開される王墓が違うため、貰ったパンフレットで今日公開されている王墓を確認した。


「そうだな……じゃあセティ1世王墓から行こうか。一番でかい」


「うん。近場を一個一個回って行きましょ」


 俺たちは意を決し、その黄金の砂を踏みしめた。






 近場の3つの王墓を回った俺たちがツタンカーメン王墓に入ったのは、午後5時過ぎ、黄金だった太陽が茜に染まる時間帯だった。


 王家の谷の中で唯一別料金を要求される王墓であり、入場料は時期によって変わるものの1人80LEエジプトポンド、つまり約1600円強かかる。

 黄金のマスクを始め、金銀宝石をふんだんに使った2000点を越す副葬品が発見され、『発掘至上の奇跡』とまで呼ばれた場所。

 ぽっかりと開いた穴から続く16段の長い階段を降りると、10メートルほどの下降通路があり、その先に前室と呼ばれる部屋が現れる。そこは二つの部屋に繋がっており、一つは副室と呼ばれている。そしてもう一つが、鮮やかな壁画が踊るツタンカーメンが眠る玄室。弘子が消えた部屋だ。


 狭い、棺を納めたガラスケースがあるその部屋に俺たちは佇んだ。セティ1世、大王ラムセス2世や隣にあるラムセス6世のものと比べれば、この墓はずっと小さい。いや、この王家の谷の中のどの墓よりも小さく質素だろう。

 見て回るだけならば10分もかからないに加え、壁画も玄室に以外に描かれておらず、どこよりも少ない。

 第18王朝の大国、エジプトのファラオとして君臨した男の墓のはずなのに、この墓の大きさは何を意味しているのだろう。

 現代人に、何を伝えるのだろう。


「ここで、弘子は消えたのね…」


 隣から聞こえた声は、恐怖を呑み込んだようにくぐもっていた。


「ああ」


 ここを見るたび、あの時のことを生々しく思い出す。

 弘子が消えた後、何事もなかったように元に戻った部屋。残ったのは俺たちと弘子がかぶっていた白い帽子だけだった。


「あの言葉、これでしょ?」


 メアリーが玄室の隅に書かれた、ヒエログリフの列を指差す。

 鳥や人、何かの道具のようなものの絵が並べられた、壁画とも見紛うばかりの象形文字。


「……御身、生きてある限り心正しくあれ。人は皆死後に世界在りて、なせる業ことごとく屍の傍らに降り積むなればなり」


 覚えてしまったその言葉を、唱えてみる。

 あの後、弘子の父親から弘子が叫んだこの言葉の意味を教えてもらった。

 言葉自体に深い意味があるわけではなく、古代エジプト人の死生観に乗っ取ったよくある言い回し──ある種のことわざのようなものだそうだ。他の王墓にも似たような言葉が沢山書いてあるという話だった。


 だが、いくらありきたりな言葉だからと言って、それを弘子が知っているはずがない。ただでさえ弘子は、エジプト史にさほど詳しくない俺よりもずっと無知だったのだ。知っているのはミイラの造り方と有名なファラオ数人、そして継ぎ接ぎだらけの、役にも立たない小さな知識の欠片だけだろう。

 なのに、どうしてこの言葉を一言一句間違えずに彼女は叫んだのか。唱えることが出来たのか。


 この言葉が原因だったのではと考えて、何度か弘子と同じ場所で唱えてみたが無駄だった。何も起こらず、何も分からず終いだった。



 王墓内を見渡してみたら、さっきまでいた欧米人の観光客が出入り口に引き返したらしく、貸切状態になったことに気づいた。

 すぐ近くに見える黄金の棺がライトに淡く照らされて不気味さを増している。ガラスの向こうでぼうっと光るそれは、近寄りがたい何かを醸し出していた。壁の文字に首を傾げるメアリーを置いて、そっと棺に顔を近づけてみる。


 いくつもの傷が走るガラス。その奥に映るのは、無愛想な顔を描く、黄金の人型館。何やら、寂しさに似た感情が俺の中に落ちてきた。


 3300年。

 誰からも忘れ去られ、眠り続けた彼に、知らず知らずのうちに同情でもしてしまったのかもしれない。


 それでも。この中で、謎の少年王、お前は眠り続ける。

 今も尚。

 3300年の悠久の時を越えて尚。

 沈黙を貫いて。



「お客さん!もう閉める時間だから出て行ってくれ!王家の谷も閉めるよ!」


 聞き覚えのある声だと思ったら、顔を出したのはあの時のターバンの係員だった。弘子の父親の知り合いであり、弘子失踪の瞬間を見た、数少ない一人だ。


「あ、あんた…」


 俺の顔を目にした途端、顔を真っ青にさせる。係員のごくりと唾を呑み込む音が、聞こえた気がした。

 一度大きく頭を振ると、係員は俺に向かって口を開いた。


「あの子はいないよ!見てない!警察も何かの事件に巻き込まれたって言ってただろう!何度来ても無駄さ!あのお嬢ちゃんはこの墓にはいない!頼むからもう来ないでくれ!俺に思い出させるな!」


 怒ったように目を見開き、俺の方へと歩み寄ってくる。それに構わず、俺も言い返そうと前へ踏み出した。


「係員さん、あれ以来弘子を見てませんか?似た女の子がいたら教えてくださると嬉しいんですが」


「知らないって言ってるだろう!!」


 唾を散らし、褐色の顔に赤を走らせる。


「あなたも見たでしょう。ここで弘子が消えるのを。あの黄金の光に包まれて、引き込まれるようにして消えた瞬間を、あなたも…」


「知らない!俺は知らない!さあ、早く出て行ってくれ!もう閉めるんだ!」


 俺の肩を押しやりながら、相手は叫んだ。


「係員さん」


 腕を振り払って、出来るだけ気持ちを静めて唇を動かす。

 やけに静かな俺の声に、ターバンの男はびくりと身を怯ませた。


「あなたは見た。そして聞いたんだ。あの時、弘子が『私を呼んでる』と呟いたのを。そうじゃありませんか。俺たちに話してくれたじゃありませんか」


「知らない!あんな娘、俺は知らないっ!」


 わなわなと震え出し、褐色の顔をこれでもかと歪ませる。

 見たはずだ。聞いたはずだ。なのに、知らないと言う。何故。


「何も、知らないんだ!!」


 そのまま、彼は何かに怯えるように蹲ってしまった。


「ファラオの呪いなんて、俺は知らないっ!!」


 なるほど、それに怯えているのか。

 怯えて、あの忘れられない記憶を無理に消し去ろうとしているのか。


 その呪いは、ツタンカーメンのミイラに関わった記者や学者が次々と病死したというもの。だが、死んだ人々というのが70から90歳代という高齢で、たまたま死期が重なったという考察がなされている。実際にツタンカーメンの発見者ハワード・カーターは健康な人生を送り、発見から17年後の1939年に64歳で息を引き取っている。

 ファラオの呪いなど、どこにも存在しないのだ。


「帰ってくれ!!帰れえ!!」


 幽霊でも追い払うような扱い方だった。もう何も答えてはくれないだろうと、諦めて足を動かした。


「メアリー、行こう」


「……う、うん」


 蹲り、震えるその係員を残し、俺たちは玄室を後にした。



 今日も何の情報も得られないまま帰ると思うと、気が重い。弘子の両親の落ち込んだ顔を見るのが辛い。


 階段を登り切り、外に出た途端、風が吹き荒れ、砂漠の砂が目の前を舞った。茶色が一瞬にして黄金に変わる。

 思わず腕で目を覆い、風が止んだのを確認してから視界を凝らすと、茜に燃える夕陽の中、黄金の砂に包まれた誰かがずっと向こうに立っているのを見た。


 褐色の肌──エジプト人か。若い男だ。

 白い半袖のシャツが、風に揺られ柔らかく宙にその白をなびかせている。


 年は、俺と同じくらい。

 結構な距離があるはずなのに、エジプト人らしくない独特な色を宿すその瞳が異様にはっきりと見えた。


 その色から目が離せない。惹かれてしまう。だが、俺を見ている訳ではなかった。

 男の瞳は俺を越えたこの墓をまじろぎもせず見ているのだ。

 KV62を。ツタンカーメン王墓を。


 なんて哀愁を漂わせるのだろう。悲しいのか、目を細めて薄い唇を横に引いている。

 寂しいエジプトの茶色がよく似合う男だった。

 いや、黄金の砂。周りを取り巻くそれの方が、ずっと相応しい。


 その男と俺の間に、谷の砂が踊る。昼の黄金と、夕方の茜を宿す砂が。

 茫然とその光景を見ていると、ふと短い髪を揺らすその男とどこかで会った記憶が蘇った。


 風を感じながら、湧きあがる記憶にはっと息を呑む。


 エル・アマルナ。あそこだ。


 いつ?弘子の行方を捜して、行った時。その時、俺はあの男を見たのだ。

 同じような表情を浮かべて、あの寂しい遺跡の中を佇んでいたのだ。

 そして俺は弘子の気配を感じた。すぐ傍にいるように感じ、弘子の名を呼び、「どこにいる」と叫んだのを覚えている。何度も、何度も。


 結局、彼女を見つけることが出来ず、気のせいだったのだと諦めて終わってしまった。


「あの…!!」


 メアリーを置いて、墓から飛び出し、男に向かって駆け出した。

 後ろから彼女の驚いて呼び止める声が聞こえたが、砂と風の音でかき消された。


 何故。どうして俺は慌てて駆け出したのだろう。理由なんて分からない。

 強いて言うなれば直感と言いようがないものが、俺の中を駆け廻ったのだ。

 今にも消えてしまいそうなその黄金の砂に浮かぶ姿と、記憶の間に稲妻のようなものが走って居ても立ってもいられなくなった。

 砂の黄金に浮かぶ男が、弘子の居場所を知っている気がして仕方がなかった。


「すみません…!」


 あと10メートルほどだというところで再び砂が勢いよく舞い立ち、俺の足を止めてしまう。


 砂の中、男の目が俺を捉えるのを見た。真っ直ぐと。瞬きすることなく。意味ありげな眼差しで、こちらを見据えている。穏やかさの中に矢のような鋭さを持った光を宿して。


 どんな感情が、その光に込められているのか読み取れない。何かを訴えようとしているようだが、分からない。

 それより気を引くのは、男が漂わせる雰囲気だった。気品というものが感じられた。今まで色んな人間と会って来たが、これほどまでに冴え渡った何かを感じさせる男になど会った事が無い。


 澄んでいるような、透明という言葉が似合うような。すべてを見通しているようであり、例えるにはまだまだ言葉が足りない。頭の中に浮かぶどの言葉にも当てはまらなかった。


「あの…!お聞きしたいことが…!」


 風を防ぎながら、その人の元へ足を進めようとした時、今まで以上の風が凄まじい音を谷に轟かせた。


「──っ!!」


 砂嵐のような風に耐えきれなくなって、両腕で顔を覆う。息さえ詰まってしまいそうなエジプトの砂に、埋もれてしまう。


「ヨシキ!大丈夫…!?」


 メアリーが横に駆けて来て、慌てて男のいた場所を見ると、そこにはもう誰もいなかった。茶色の砂が茜に染められているだけで、取り巻いていた黄金の砂も消えていた。

 一気に全身の力が抜けてしまう。


「さっきの人、知り合い?」


「……いや」


「じゃあ…どうして声をかけたの?顔もよく見えなかったし、観光客かと思った」


 誰もいないその場所を何度も見て、何かが残っていないかを探したが、人がいた気配さえ綺麗に消え去っていた。幻でも見ていたのだろうか。


「凄い風ね。強風だなんて、天気予報で言ってなかったのに。これじゃヨシキの車、砂まみれね」


 メアリーが自分の髪を抑えながら、目を細めて周りを見渡す。


 意味の分からない自分の行動に放心しながら、自分の靴を見やった。靴の上には小さな砂が竜巻のような絵を描いては、風に吹かれて消えていく。そしてまた新しい絵を生む。

 エジプトの砂は生きている。夢うつつに、そう思った。


 息をついて空を仰ぐ。茜に染められた頭上。その中に、あの独特な瞳の色が浮かぶ。

 知らない男なのに、さっき走り抜けた感覚は一体何だったのだろう。思い出しただけでもざわりと鳥肌が立つ。恐怖からではない、何か感動するものに巡り会った時に立つ鳥肌だった。


 風が俺の短い髪を巻き上げ、後ろへと流していく。いくらか涼しくなった風が頬の熱を奪っていき、頭を冷やしてくれる。


 そうだ。あんな知り合いでもない男のことを気にかけてどうする。

 今、俺が胸に抱くのはただ一人。この空をどこかの地で眺めているであろう彼女だけ。


 弘子。お前だけ。



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