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 この時代の夜には未だに慣れない。電気がなくて、橙色の灯りが寝台の上に小さく揺れている。灯がなければ周りが十分に把握できず、転びそうになることも多々ある。


 柱に寄りかかって、どうにか転ばずに済む方法はないかと考えを巡らしながら外の闇をぼんやりと眺めていた。透き通る月と、散りばめられたように光る沢山の星が浮かび、そのどちらも太陽と同じで現代よりずっと澄んでいる。

 排気ガスがないせいだろうか。それとも私が今まで空をちゃんと見たことがなかったからそう見えるのだろうか。もし排気ガスのせいならば、どれだけ現代がガスに汚れてしまっているかが分かる。



 深く息を吸えば、澄んだ空気が肺を満たしてくれる。全てが透明。濁りが無くて綺麗。

 ずっと下を覗くと黒いナイルが流れている。定期的に起こるナイルの氾濫に備えてか、ナイルに沿うように立つ宮殿は土台がとても厚い。これほどの高さがあるならば、傍のナイルが氾濫しても問題はないし、侵入者なんて入り込めるはずがない。

 何メートルくらいあるのだろう、と再び顔を覗かせた。足を踏み外してしまえばナイルに真っ逆さま。柵くらい作ってくれればいいのにと思わせるほど。


 頭をひっこめ、ハスの花が描かれる柱に頭を付けて、そっと瞼を閉じた。夜の涼しい風が、どうしようもない私の感情まで後ろへと流していく。


 お父さん、お母さん。良樹、メアリー。

 みんな、元気でいる?泣いたりしていない?


 3人は日本に帰った?メアリーは無事試験通った?私はもう予定通り卒業出来ない。一緒に医師になって世界中を飛び回ろうと約束したけれど、無理になってしまった。ごめんね。


 今の私は進路に悩むどころではなかった。この世界に落とされてから半年近くが経っても、私はまだここにいる。年代も分からない、古代エジプトにいる。

 せめて自分がいる年代くらい知りたいと思っても、ほとんど知識が無い私にははっきりとした年代が出せない。無知が恨めしかった。


 流れるように毎日が過ぎて行って、気が付けば私の誕生日も終わっていた。

 1年を通して季節の変化がほとんど無いこの国では、今が何月なのか正確には分からないけれど、気温の変化でそれだけの日数が過ぎてしまったのは大体推測できる。


 18歳になった。まさか古代で、誰にもおめでとうと言われることなく一つ年を取るなんて。こんなはずではなかったのに。

 大袈裟なくらいの大きなため息をついて風を感じながら天を仰いだ。


 夜空は怖いくらいに美しい。月も星もあんなに煌めいて、手を伸ばせば触れそうな気さえしてくる。綺麗で且つ、神秘的でもある。

 届かないと分かっているのに、青を孕む漆黒にそっと指を伸ばした。

 それでもやっぱり届かなくて、触れるかもと思いつつ手を伸ばした自分が少しばかり恥ずかしくなる。


「星占いをなさっているのですか?」


 ネチェルが優しい綻びを浮かべて寄り添うように隣に立った。


「占い?」


「ええ、宰相や神官たちがよくなさっているものに御座います。星の曇り加減や並びを見て国の行く末などを占うのです」


 星占い。古代の国の多くは、占いですべてを決めると聞いたことがある。政治や商売、結婚まで、あらゆるが占いに左右されるとか。このエジプトも例外ではないのだろう。


「例えば……今は見えませんがソティスなどは豊作か否かの占いによく使われます」


「ソティス?」


「女神ソプデトが宿る、夏の最も明るい青き星のことに御座います」


 エジプトの夏に現れる、一番明るい青く輝く星はひとつしかない。


「シリウス星…」


 日本では冬に現れ、オリオン座のベテルギウス、子犬座のプロキオンと共に冬の大三角形を形成する、あの美しい星。

 おそらくネチェルが言うソティスは、現代のシリウス星に当たる。これも現代と古代で名前が違うのだ。


「ナイルの星とも呼ばれ、あの星が早朝、我が国の東の空に現れた時、我が国はナイルの氾濫の時期を、そして年が巡ったことを悟ります。それに備え、多くの民は畑を耕し、船を用意するのです」


 ナイルの氾濫は、水位が信じられないほど高くなり、エジプトのほとんどを呑み込んでしまう現象。端的に言えば、大洪水のことだった。


「氾濫は、いい事なの?」


 ネチェルが自然災害をあまりに嬉しそうに話すものだから、恐る恐る尋ねてみる。


「勿論に御座います。あれ以上の神からの恩恵はありません。我が国は他国と比べ、雨と言うものがほとんど降りませんが、夏に数度あるその氾濫により、溢れる川で運ばれて来た肥沃な土が我が国の大地と生活の全てを潤すのです。それが1年の始まりです」


 大河の氾濫だなんて日本で起きたら大災害だけれど、エジプトの大地はそれで栄えていた。だから雨が降らない地域なのにも関わらず、現代にも残る巨大な文明を築けた。

 星を合図にして準備を始めるから、事故が起こらずに済む。災害ではなく、神からの贈り物として崇められているもの。それがナイルの氾濫。

 エジプトはナイルの賜物という言葉は嘘ではないようだった。


「氾濫はとてもありがたいことなのね」


「姫様が甦られた時も、ソティスが現れ、ナイルの氾濫が起きたすぐ後に御座いました」


 夜空の星を眺めながら、ネチェルは懐かしそうに教えてくれた。

 思い返してみれば、私がここへきたのは夏。エジプトの太陽が一番威厳を放つ、あの季節だった。


「星の位置を見る限り……もう半年になります。本当に早いものですわ」


 えっ、と声を上げた。

 ネチェルの言葉を解釈すると、暦というものがこの時代に存在していることになる。


「あの、おかしなこと聞いていい?全然覚えてなくて…」


「何でございましょう」


 戸惑う気持ちを抑えて、首を傾げるその人に、思い切って口を開く。


「……1年って、何日?」


 変な質問だと思う。でも、この時代に1年が何日か分かっていたなんて、そんなこと在り得るのかしら。

 私の質問を受け、ネチェルは小さく肩を揺らして笑った。


「姫様は本当にお記憶を失くされてしまわれたのですね。……1年は365日に御座いましょう?ナイルの水嵩みずかさが減って暑い時期をシュム、増水が始まってから終わるまでをアヘト、水が引き、畑を作る時期をペレト。この3つの時期をそれぞれ4つに分ける……つまり、1年を12に分けることになります」


 凄い。現代と一つも違わない暦だ。狂いがない。まさか、3000年前にすでに暦がしっかりと成立していたなんて。


「ソティスは1年をかけて我が国の空を回ります。それが365日だということは、誰もが知っていることに御座いますよ」


 衝撃を受ける私とは反対に、相手はくすりと笑う。


 1年は365日。現代人にとってそれは当たり前すぎることだけれど、この時代、これほどまでに正確に暦を把握していた国は他にないだろう。

 現代人が採用しているユリウス暦だって、紀元前45年に成立したとされている。それなのに古代エジプト人は星を見て、もうこの時代に暦を作っていたのだ。

 星と言うものが単に夜に光るものというだけではなく、ちゃんと周期を持って回っていることを理解していた。1年が何日であるかも、ナイルの氾濫がいつ来るのかも、星からすべてを悟り、季節を読んでいた。それも読んで悟ったナイルの氾濫を、日本で言うお正月のように祝い、1年の始まりとして。


 古代人の天文学の知識はなんて、進んだものだったのだろう。

 星の動きを、ただの科学としてではなく、生きていく術として見つめ、実生活にうまく取り込んでいたのが、古代エジプト人という人々なのだ。


「ソティスや他の星を見て、民も神官も、これからの1年を占います。星たちが曇りなく現れることは、おそらくいい兆しがあるという神の御達しでしょう」


 今は見えないエジプトの夏の星、ソティス。それも古代人からは神の星として崇拝されている神の青き星。排気ガスのない、透明に澄んだこの時代で、どれほどの美しさを放つのだろう。


「今夜もあのように煌めいて……きっといい事があるという兆しですわ。さあ、もうお時間です。お休みになりませんと」


 古代人の知識の深さに驚いた余韻に浸りながらそうね、と頷き、ネチェルと共に寝台のある奥へと入って行った。





「おやすみなさいませ」


「おやすみなさい」



 風がぴたりと止んで、静けさが私を取り囲む。

 ネチェルの去って行く足音を微かに聞きながら、寝台の白さの中に身を埋めて目を閉じた。最初は切なさで眠れそうにないと思うのに、いつの間にか眠りについている。それが、繰り返される一日の終わり。

 次に目を開ける時には、朝日が私の部屋を覆っているはず。そしてまた、古代での一日が始まる。


 さっき見た、夜空に浮かぶ白い煌めきを瞼の裏に描いた。いい事があるといい。あの星のように、私の未来が光り輝いてくれるといい。

 現代に帰れる兆しだったら、ずっといい。蜘蛛の糸に縋るような思いで、願っていた。






 音が聞こえて、ふと夢から現実へと目を覚ましたのはいつのことだったか。

 ぼんやりと自分を包む夜の闇を眺めてから、まだ眠っているおぼろげな聴覚を澄ませて、微かに鳴る音を探す。


 足音がする。静かにこちらに歩いてくる。

 ネチェルだろうか。それとも他の侍女か。

 気になるけれど、瞼が重くて、開けようとしても自然と瞳を覆ってしまう。


 まあいいかと寝台にしがみ付く。眠くてそれどころじゃない。

 部屋の周りには相変わらず兵士がいるし、入ってくるのは親しい侍女だけであると決められている。

 明日の私の服でも用意してくれているのだろう。

 お疲れ様です。ありがとうございます。

 気が利かない私には侍女なんて仕事は絶対に無理な気がする。

 うつ伏せに寝返って、寝台の柔らかさに心地良さを覚えながら、息をついた。



 足音が近くなったと思ったら、やがて聞こえなくなる。

 消えた、のではなく、止まった。


 どこに。


 気になって、ゆっくりと目を開けてみる。視線だけ動かすと、その先に黒い影が浮き出ていた。

 黒くて、黒くて、吸い込まれてしまいそうな影の色。


「……だあれ?」


 出てきた声も他の感覚と同様におぼろだった。自分でも笑ってしまうくらい間抜けな滑舌しかできない。


「……どうしたの?」


 聞いても、答えてくれない。影の形からして女の人。頭巾を被っていないから、ネチェルではない他の侍女だと思う。

 でも、何か様子がおかしい。緊張しているのか、肩を上下させて乱れた呼吸を辺りに響かせている。心配になり、身体を起こして相手を見つめた。


「どうかしたの…?」


 やっぱり、古代の夜は苦手だ。目を凝らしても何も見えない。


「何かあったの…?ねえ、大丈夫?」


 言葉が終るや否や、影が発した小さな悲鳴が私の眠気を吹き飛ばし、目の前に浮かんでいた影がいきなり動いて、私の上に飛びかかってきた。

 半分起こしていた身体は寝台に打ち付けられ、呻き声が漏れる。何が何だか分からず目を開ければ、黒い影は私の上に跨っていた。


「な、何…」


 悲鳴を上げる間もなく、その影の二つの手が私の首に巻きつく。

 細い指に、力が籠る。


「あっ…!」


 首が絞めつけられて、声がくぐもり、反射的にそれを離そうと手が首元に伸びる。でもうまく力が入らない。驚きと恐怖と戸惑いが混ざって、視界を黒に染めて、霞ませる。


 苦しい。息が、出来ない。

 噛みしめられた私の歯が、きりきりと音を成した。途切れた、自分のものとは思えない声だった。


 私が、何故侍女に首を絞められているのだろう。どうして。

 声にならない喘ぎが、唇から漏れる。酸素を求めて、口を開く。


「……や、やめ…」


「あなたさえ殺せば…!!」


 掠れた声に上乗せするように、もう一つの声が聞こえてきた。


「あなたさえ殺せば、あの人は甦る…!!!」


 聞いたことのある声音だった。私の知っている、侍女のものだ。


「……どう、し…」


 霞む視界を凝らし、浮かぶ顔を見やった。


「あの方は私に言った…!本当は私の恋人が甦るはずだったと!」


 涙を散らして彼女は叫ぶ。飛び散る雫が私の頬や手の甲に零れて、生温かさを落した。


「あなたが甦ったせいで、私の恋人は甦ることが出来なかった…!あなたを殺せば、代わりにあの人が…私の愛したあの人が…!!!」


 意味が分からない。訳が分からない。私を殺して、この人の恋人が代わりに甦る?そんなことがあるはずない。

 私はもともと甦りなんかじゃない。未来から落ちて、ただ甦りとして生きているだけ。そういう位置にいるだけ。決して、死んで甦った訳じゃない。


「あなたが憎い…!!」


 憎いの一言で、首に巻きつく指に力が加わる。喉の中心を締め付け、私の呼吸を止めてしまう。


「憎い…!憎い!!」


 どうして、私が憎まれるの。

 ねえ、どうして。


 憎まれる覚えなんて一つもない。殺されるくらいのことをした覚えなんて、一つもない。普通に生きていただけなのに。ただ普通に、生きていただけなのに。


 やがて、視界がぼやけて、抗っていた手から力が抜けて、目の前を下にずるずると落ちていく。涙が一つ、右頬に流れた。


 ここで、死ぬのかしら。

 死にたくないと唱えるのに。暴れようと思うのに何も出来ない。身体が人形にでもなってしまったかのように動かない。絶望に打ちひしがれる。


 薄れゆく意識の端に、ぼんやりと何かが浮かんだ。


 懐かし過ぎる姿。泣いてしまうほど、懐かしい人たち。

 お父さん。お母さん。良樹に、メアリー。私の、大事な人たち。


 みんな。私、ここで。帰ることもできずに殺される。殺されてしまう。


 会って、笑い合って、他愛のない会話を交わすような、当たり前の幸せに帰りたかったのに。帰りたかっただけなのに。

 身体中の力が抜けて、痙攣したような瞼までが落ちて視界を塞ごうとしている。

 瞼が落ち切って、私の視界は一点の光もなくなった。



「何をしている…!!」


 絶望を破ったのは、その声だった。思い描いたシリウス星のような蒼さを孕んだ銀が漆黒を横切ったと思ったら、私の首に巻きつく指がびくりと動き、悲鳴を上げながら寝台から崩れるように消えた。


「──っ」


 一気に冷たい酸素が気道に流れ込むのを感じ、何かを吐き出すように寝具に向かって勢いよく咽た。げほげほと、肺まで一緒に口から出てきそうなほどの咳の音が響く。


「ヒロコ…!」


 温かい手が、私の肩を掴んで強く揺さぶった。霞む視界を凝らして、やっと浮かぶのは誰かの顔だ。


「ヒロコ!」


 一瞬、良樹のようにも見えたけれど、違う。

 小さな咳が口を突いて出てくるのを感じながら、闇に浮かぶその人をぼんやりと見つめた。


「ファラオ!!いかがいたしました!?」


 ファラオ。あなた。

 間違えて、私をこの時代に呼んだ張本人。


 橙の炎がいくつも部屋の中に走り込み、彼の褐色の肌を照らし出す。切れ長の瞳がやっとのことで私の視界にはっきりとした輪郭を伴って現れた。

 返事をしようと思うのに、苦しさが喉元を支配して、喘ぐような声しか出てくれない。声と言うよりは、ぜいぜいとした雑音だった。まだ首にあの指が撒きついているような感覚が消えていない。


「……生きていたか」


 ほっと息をついてから、彼は淡褐色を私から逸らし、ゆっくりと寝台の下、その向こうに動かした。映える淡褐色に赤を走らせる。


「……お前、アンケセナーメンの侍女であろう」


 自由の利かない身体を動かして、彼に支えられながら淡褐色の先を見る。

 橙の炎を片手に持った5、6人の兵に囲まれ、腕から血を流しているのは、侍女の衣をまとった女の人だった。


 私の侍女。何度か会話を交わした、私の傍にいた人。信用していた人。


 いつもの面影を失い、息を切らし、赤い血が溢れる腕を抑えながら座り込むその姿は亡霊のようだった。

 乱れた長い髪の間から憎しみを帯びた瞳を覗かせ、私を睨んでいる。鈍く光る鋭い眼差しが、橙色に照らされ不気味さを倍増させる。

 身を凍らせるような悪寒が走って咄嗟に彼に身を寄せると、彼もまた私の背中を撫でて腕に力を込めた。


「何故、己の主人を殺そうとした」


 片腕で私を抱き寄せ、寝台の上から、彼は彼女に問う。


「誰の差し金か」


 おそらく、彼も私も分かっている。誰の差し金で、彼女が動いているか。浮かぶ名前はただ一つ。

 ここで名前が出れば、問答無用であの人を最高神官という役から落とすことが出来る。

 でも、私を睨みつけるその人は、彼の声に怯えることはない。答えることもない。これでもかと呼吸を乱し、私に視線を注ぎ続ける。憎いと言っているのが嫌でも分かった。


「答えねば、命はないと思え」


 彼がそういったのを合図に、兵たちが槍の銀に光る先端を彼女に向ける。


「お前の犯したことは、王族殺し。何を言っても免れず、死罪。だがここで吐くならば」


「……私の、愛しい人」


 ゆら、と髪を揺らし、彼女は呟いた。

 彼は言葉を止めて眉を上げる。


「私の…」


 はっきりしない彼女は、彼の声が聞こえていないようでもあった。


「私の愛しい人の甦りを奪った女…!」


 どこを向いているか分からなかった彼女の瞳がぐるりと回って私を捉えた。恐怖が槍のように私の胸に刺さって、小さな悲鳴が口から漏れる。


 目が、怖い。狂っている。この人は狂っている。


「あの方は言った……その女を殺せば、代わりに甦るはずだった私の人が…」


腕に刺さった銀のナイフを、ずぶりと抜いた。どくどくと一層流れ出る血など気にも止めず、彼女は口を開く。


「……甦ると!!」


 充血したその目を見開き、ナイフを掲げ、床を蹴る。

 銀が再び走ったのを見て、私が悲鳴を上げる寸前、褐色の腕が素早く伸びてその銀を奪い取り、彼女の胸に突き刺した。

 時間が静止したように、びくりと動きを止めた彼女の胸から流れるのは、見たことも無い赤。炎の橙が混ざった深紅。


「逆賊」


 声が冷たく闇夜を響き渡った途端、兵士たちの銀も、一斉に彼女を貫いた。耳を塞ぎたくなるような、鈍い音を轟かせて。


 深紅が散った。まるで水しぶきのように。

 私の知っている人が、糸の切れた人形のごとく、その場に崩れ落ちた。


 寝台の上にその顔が乗り、見開かれた虚ろな瞳が、未だに私を睨んでいた。白目が、ゆらりと揺れる。睨んで光っている。死んでも尚。


「あ……あぁ」


 恐ろしさに私の喉が鳴った。


「あ、…ああっ、あああっ!!!」


「ヒロコ!!」


 頭を抱え込むようにして、私は蹲った。彼の腕から離れて目の前の死体から離れようとする。


 怖かった。恐ろしかった。何が何だか、理解できなかった。

 今までに感じたことのない何かが、私を突き破る。

 聞いたこともない声が、違和感のある喉から飛び出していく。


「ああああああああっ…!!」


「ヒロコ!」


 深紅が流れ出る死体を塞ぐように視界を覆った褐色の胸に、私は涙を散らして、千切れんばかりの悲鳴を上げていた。



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