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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
1章 黄金と茶色
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カイロ博物館

「お父さん、これで最後?」


「そう、それで最後。終わったー!」


 荷物がびっしりの段ボールの蓋をしめて、体重をかけながら伸し掛かるようにしてガムテープで封をした。

 額の汗を拭いてから山積みの段ボールを避けて、他の職員と話し始めていた父の横を通り、カイロ博物館の職員事務室から出てみる。


 夕方になり、閉館してしまった後の博物館は水を打ったように静かだ。そのせいか、自分の呼吸が取り残されたように大きく響いた。

 職員と、警備員の人がちらほら見えるだけの空間を、もう一度ぐるりと見回してみる。

 大きな石像に、綺麗な細工のグラス細工。黄金の椅子に、動物たちのミイラ。黄金に輝く厨子に、色がならべられた紙代わりのパピルス。そして故人の似顔絵が描かれるという木製の棺。

 父とは違って考古学にはあまり興味はないけれど、古代の遺物が20万点以上も収容されていて、素人の私でも古代人の息が感じられるこの博物館が好きだった。

 古代人の遺跡を補完するこの大きな博物館は人類の宝物とも呼ばれ、世界に誇る博物館の一つ。

 考古学者なら誰もが憧れる素晴らしい場所――それがエジプト首都カイロにある、エジプト考古学博物館。


「何だ、弘子。お前もやっと考古学に興味を持ってくれたのか?」


 声に反応して振り向くと、嬉しそうににっこりと笑顔を浮かべた父がこっちに歩いてきていた。


「残念ながら、そのようなことはありません」


 いつも通りの即答に、父は苦笑する。


「この文明は医学も発達してたんだぞ。ミイラの造り方、お前も知ってるだろう」


 ミイラの造り方は現代人の発想を超えている。特に驚くべき点は30cmほどの棒で鼻から脳みそを巻き取るという過程と、内臓を取って、徹底的に殺菌と除湿を行っていた点。また、腐りやすい内臓をしっかりと見極め、防腐剤を施し、数千年経った現在まで遺体を残すことに成功した点。

 エジプトで作成された王族から庶民までのミイラはほぼすべてが綺麗に脳みそを取り除かれているのに、ギリシャ人が真似して作ったミイラには脳みそが残ってしまっている。脳みそ取りは現代人でも難しいと言われる至難の業でもあった。多分、古代エジプト人は物凄い器用な人々だったのだ。


「どうして古代人はミイラを作ったのかしら」


 この博物館にもミイラ室というものがあって、10体ほどのミイラを別料金で見ることが出来る。

 身近にあるものの、3000年も前に生きていた人を見るのは少し怖く感じて未だに見に行ったことがない。

 死後に時間をかけて乾燥させ、内臓を取り出し、腐らないよう加工して、わざわざ死体を残す。王族だけでなく、罪人以外の庶民のミイラも何百体とも見つかっているから、信仰的な理由が思いついていた。


「前に教えただろう」


 不意に口をついて出てきた疑問だったけれど、父はあっけらかんと私を見ていた。


「そうだったっけ?」


「わ、忘れたのか?」


「きれいさっぱり」


 父はがっかり、と肩を落とした。

 一度や二度、そんな話をされているのかもしれないけれど、興味のないことはどうしても左から右へ抜けて行ってしまう。ただでさえ父は暇さえあればエジプトの話をするから、いちいち覚えていられない。


「古代エジプト人は死んだ人は生き返ると信じてたんだ。魂がイアルの野というあの世の楽園に行った後、いつかはその魂が元の身体に戻ってくるって。死後の復活だな。イエス・キリストみたいな」


 父が口から魂が抜けていく仕草をして見せる。


「その魂が戻る場所がないと困るだろう?」


「ちょっと、困るね」


 魂が戻ってきて戻るはずの身体が無かったら、きっと魂はびっくりしてしまう。慌てる幽霊の姿を思い描いて、少し笑ってしまった。


「だから古代人はミイラにして、魂の器になる身体を残しておくんだ。そして墓の中には生き返ってからも生活に不憫しないように、下着とかゲーム版とか楽器とか、食糧とかも一緒に埋葬されるんだよ」


 生き返ることを信じたエジプト人だっただから、ミイラとして遺体を残しつづけた。罪人は生き返る必要がないから、ミイラで残されることはない。

 なるほど、と納得したように顎に指を当てて頷いてみる。でもまた忘れてしまいそうだ。


「それでだな、ミイラは……」


 お得意のエジプト演説始まってしまったのだと悟った。このおかげで、随分と古代エジプト文明には断片的に詳しくなってしまった。断片すぎて使い物にならないのだけれど。


「まずはすぐに腐る脳みその除去を行う。鼻の奥には骨があるからそれを突き破って出すんだ。綺麗に出ない場合は首を切ってそこから出したり、眼球をくり抜いて出すこともある。その次は……」


 話し続ける父を残して、ひょこひょこと歩き出した。こうなってしまったら話しかけても止まらない。

 この博物館の奥まった場所、そこから少し行ったところには、あの世界的に有名な『黄金のマスク』が置いてある。

 第18王朝の少年王、ツタンカーメン。エジプト人で彼の名前を知らない者はいない。なんと言ってもエジプトのスター。有名な大王ラムセス2世にも匹敵するほどに彼は有名だ。

 有名であっても、私自身この人物が一体どんなことをしたのかは知らない。興味がないから調べようとも思ったことがなかった。 唯一知っているのはこのマスクがアメリカの国家予算一年分という、とにかく値段のつけられない価値があるということ。


 黄金色がライトに照らされて、威厳を含んで光る。それが眩しくて思わず目を細めた。

 目には綺麗な黒の石がはめ込まれており、その周りを青色が囲んでいる。これは古代エジプト人独特の化粧で、現代人でいうちょっと変わったアイラインだと教わった。日本人の私がやったら似合わないだろうけれど、この端正な顔立ちのこの人ならば、きっと似合ったのだろう。

 厚めの唇を乗せた無愛想な顔を見つめて、笑顔にしてあげればよかったのにと少し哀れに思う。それでもこんな黄金の仮面を被って3000年も眠っていたなんて、絶対重い。


「何だ、弘子はツタンカーメンに興味があるのか」


 父がまた嬉しそうに笑いながら私の隣にやってくる。曖昧な返事をする私の横に立ち、しばらく黄金のマスクを見つめていたお父さんの目が、寂しそうに光った。


「3300年も前の人だね」


 3000年ではなく、プラス300年だったらしい。イエス・キリストが生まれる1300年も前に存在していた人なのか。日本では、まだ縄文時代、謎と言われる時代だけれどエジプトほどの国は築けてなかった時代ではないだろうか。

 そんな時代に古代エジプト人はピラミッドを作り、文字を発明し、金や銀を加工してこんな綺麗な仮面まで作っていた。世間で、宇宙人か何かが手伝ったのだ、という考えに至ってしまうのも無理はない。そんなに昔となると、現実味が湧かなかった。


「彼はね、とても可哀そうな人生を送るんだよ。最愛の奥さんもいたのに。その奥さんというのがまたね……」


 またあの長い退屈なスピーチが始まりそうな気がして、慌てて父の背中を押した。


「お母さんも待ってるし、帰国、今週の日曜でしょ?家でも準備があるし、早く帰ろう!そうしよう!」


 お父さんはすぐに感情移入して泣き出すから困ってしまう。


「おお、押すな、押すな」


 この黄金に輝く人が悲しい人生歩んでいたなんて、今を生きる私には関係ない。


「わかった、わかった。でもまだ車のエンジンかけてないから中が暑くて、父さん死んじゃうよ」


 エジプトで車を放って置いたら、車内温度は簡単に50度を超える。そんな車に入ったら、いくら暑さに慣れていても熱中症にかかるのは必然的。即死してしまう。


「先にエンジンをかけてくるから、弘子はここで待っていなさい」


「うん」


 返事をして、父が車の方へ向かっていくのを見届けてから改めて博物館内を見渡した。


 何度も学校の遠足で来た場所でも、こうやって静かな空間で眺めるのは初めてかもしれない。

 毎日のように、やってくる世界中からの観光客で、足元が見えないほどに埋め尽くされてしまうのがこの博物館の日常でもあった。


 何も考えず周りをぼんやり眺めているうちに、気づけばまた黄金のマスクの方へと足が向いていた。理由はない。本当になんとなくだ。

 引かれるような、そんな感覚が取り巻いている。そうして目の前に一人で立ち、少し感嘆を漏らした。

 あまりにも綺麗なその色に、触れてみたいとさえ思える。こんなに黄金を使えるなんて、どれだけ豊かな国だったのだろう。


『――彼は可哀そうな人生を送るんだよ』


 さっき切れた言葉が脳内で再生され、不思議なほどにこだまする。ちょっとその先が気になるかもしれない。

 一人残された奥さん。きっと、辛かっただろう。

 可哀そうな人生だなんて、この黄金の煌めきからは全くそんなこと感じられないのだけれど。


「……あなた、奥さん残して死んじゃったのね」


 何気なく、黄金に光るその人に聞いてみる。私の声が音の波紋になって広間に響いた。


「駄目じゃない、奥さん可哀そう。もっと長く生きてあげなくちゃ」


 冗談めいてそんなことを言った瞬間。



『――すまぬな』



 声が、聞こえた。綺麗な、透き通るような声。

 慌てて辺りを見回しても誰もいなかった。古代の遺産が所狭しと並んでいて、ずっと遠くに警備員のおじさんがいるだけだ。


「……お父さん?」


 父がふざけてどこかで隠れて言ったのかもしれない。そう思って父の姿を探してみるけれど、やっぱりいない。こんなに早く駐車場から戻ってくるはずもない。そもそも父の声ではなかった。

 空耳だったのだろうかと首を傾げて改めてマスクを見つめた時、あっと声を上げた。


 ガラスケースの向こう。

 マスクの無愛想な唇の端が上がり、滑らかな微笑みを浮かべたのを見た。

 その頬は黄金ではなく、褐色で。頭巾だったはずの頭部は、焦げ茶の短い髪になって、涼やかな風に揺れて。人形のような目は黒ではなく、淡褐色の綺麗な切れ長で。その美しく澄み切った瞳が優しく私を捉えている。

 逸らすことを許さない、静かな眼差し。仮面などではない。これは人間だと思わざるを得なかった。

 金縛りにあったように身体が動かなくなって、信じられない光景に身体の奥底が大きく震えた。


『――弘子』


 薄い唇が静かに動き、声を象った。


 私の名前。

 そうだと分かった途端、びくりと背中が脈打つ。


 この人、私の名を、呼んだ。


 そのままどこからともなく、透き通る褐色の手がふわりと私に伸びてきた。ゆっくりと、まるで幽霊がおいでと、誘っているかのように。


『――弘子』


「……い、…いやあああああっ!!」


 目を瞑り、頭を抱えて変な悲鳴を上げて後ずさった。後ろの柱に勢いよくぶつかって、そのまま屈み込む。


 目の前に何があるのか知りたくなくて、目をぎゅっと固く閉じ、守るように両手で自分の頭を抱えた。


「弘子!?どうした!?」


 次に聞こえたのは、父の声だった。

 父親に助けを求めようと目を開くと、私の悲鳴を聞いた父が警備員の人と走って来た。父はすぐ傍に膝をつき、私の背中を擦って、私の視線の先を何度も見回す。


「どうした、何があった?」


「い、今!!マスクが!マスクがっ…!」


 肩を支えられながら震える指で目の前のマスクを指差した。

 父たちを越えた先に見えた仮面は、普通に無愛想な厚い口元に戻っている。切れ長の綺麗な淡褐色の目も、褐色の肌も、ない。煌めく黄金の愛想のない仮面が、ガラスケースの中に置かれていた。


「あ、あれ?」


 不思議そうに警備員のおじさんと父が顔を見合わせ、それから私を心配そうに覗きこむ。


「マスクがどうかしたのか?」


「何か、不審者でも?」


「いえ……その、マスクが、笑って……私の名前を…それで、手を、伸ばしてきて…」


 上がる息で言い切った途端、二人がいきなり声を立てて笑い出した。


「弘子!頭でも打ったのか?まったく、お前の考えることは!母さんに話したら爆笑ものだなあ!」


「きっと影だよ。ここはライトがちょっと壊れていて、その関係でよく影が動くから。だから笑ったように見えたんだよ。音も反響するからね、それが名前に聞こえたんじゃないのかい?」


 あまりにも笑われるから拍子抜けを通り過ぎて、だんだん恐怖より羞恥心の方が勝ってきた。


「そんなに笑わないで!きっと見間違いです!ごめんなさい!これで終わり!」


 やけになって言った言葉の後にもくすくすと笑いが二人の口から漏れている。


「お嬢さん、ファラオの呪いにでもかかったかな?」


「……呪い?」


 警備員さんのふざけた言葉に目を丸くする。耳にしたことはあっても詳しくは知らない。そんなオカルトじみたことを信じるような性質たちでもなかった。


「そう、ファラオの呪い」


 『ファラオ』は古代エジプトでいう『王』の呼称。

 確か、『ファラオの呪い』は安らかな眠りを妨げられた王族たちの呪いだった気がする。


「これからお嬢さんの身に何かが起こるのかもね」


 にっこりとエジプト人特有の褐色の顔で優しく微笑んでくれるけれど、呪いだなんて言われてごくりと喉を鳴らしてしまった。


「あー、駄目ですよ。娘にそんな変なこと吹き込まないでください、警備員さん。見た目に寄らずこの子、臆病なんですから」


 父は警備員さんの肩を笑いを堪えながら叩いた。


「ああ、そうかそうか。ごめんね、お嬢さん。冗談だから。あれはもう90年前の話だから大丈夫だよ」


「そうですよ、この黄金のマスクが作られたのだって3300年前。そんな長い期間続く呪いなんてあるはずがない。あったら私が先に殺されてるかなにかされているはずですからね」


「それもそうだ」


 けらけらと二人で笑う中、ふとあのマスクに目をやった。

 変哲もない、エジプトのシンボル。笑いも話しもしない、ただの仮面。


「さあ、弘子、帰ろうか。母さんが夕飯作って待ってるよ」


 父に背中を押されて、外に向かって歩き出す。


「じゃあ、お世話様でした」


「ええ、気を付けて」


 二人の挨拶を聞き流しながら歩いて、黄金の仮面が過ぎた先に、ひとつのガラスケースが目に入った。

 寂しく、壁側に沿って置いてある、黄金に煌めく中で一つだけ寂しい茶色。それを見た途端、何故かちりと胸が疼いた。

 きっとどこからか出てきた古代の遺物の、枯れて本来の色を失った茶色の枯れた花束だ。

 何度も来た場所なのに、今まで存在にさえ気づいてなかった。いつから置いてあるのだろう。


 あの葉の形は、おそらくヤグルマギク。ガラスの中にあるそれは茶色でも、元は青い、矢車状のとても美しい花。

 優雅という花言葉を持つ、私の一番好きな花。


 エジプト王家に一番似合う、王家の花。




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