二人の将軍
あの毒草殺人未遂事件から数週間が経った。何も起こらず平和な毎日が訪れては過ぎていく。
命を狙われるなんてことは永久的にないような気さえしてくるくらいなのに、私は一日のほとんどを部屋に籠りっぱなしという、狭苦しい生活を送っていた。
部屋の中に降り注ぐ白い光と、わずかに流れてくるハスの香りだけが唯一の慰めになりつつある。
兵士が部屋の外をぐるりと取り囲み、女官も中にずらり。広いとは言え、お風呂に入る時以外この部屋を出してもらえないというのは苦しかった。
何もやることが無くて、ショルダーから専門書を引っ張り出して開いてみる。
そうだ。現代に戻れた時に備えて、勉強しておかなければ。
「姫!!姫ーっ!!」
滑り込むようにして部屋に突入してくるのはくせ毛を持つあの人。走る度くるんくるんと揺れるから、遠くから見ていてとても面白い。
楽しそうにカーメスを眺めている女官たちの様子からすると、カーメスは陽気な性格から絶大な人気を誇っているようだと最近気づいた。
「あー、またそのような気味の悪い物をお読みになられて」
ぬっと顔を出し、カーメスが腰を屈めながら私の専門書を覗いて眉間に皺を寄せる。
人間の皮という皮をすべて剥がした、内臓丸出しの専門書の図は、この人にとって気味悪い物に分類されるようだった。
「どうして人の皮を剥がしたものをさも楽しそうにご覧になれるのです?昔の姫君はもっと趣味の良い御方でしたのに。……まあ、趣味が悪くとも私にはあなた様しかおりませんけれど!」
猫のように可愛らしい笑みを浮かべて、けらけらと笑い始めた。
「それはありがとう」
この人への返答もすっかり慣れた。
「しかし死後にはそういう書物のようなものを神からいただけるのですね。不思議な材質だ」
カーメスは跪きながら、私の専門書に目をやったままてうーんと唸る。
この時代に紙や本というものはない。あるのはパピルスという草の茎を細かく編んだ黄色い紙状もの。
決して『紙』という代物ではなく、薄くてぼこぼこしているというのが特徴で、それに文字を書き、絵を描き、巻物の形で保管している。だから平らでつるつるした紙の存在やそれらを束にした本は、彼らにとってはとても珍しい物なのだろう。
現代の紙というものが初めて発明されるのは、朧な記憶によれば中国。それも紀元前150年頃だ。
「加えて、記されている文字も読めない。……文字も死後に新しく覚えられたのですか?なんと奇妙なものを覚えになられたのか…」
苦笑してしまう。未来のエジプトで使われる言葉だけれど、彼らにとって意味不明なのは当然だ。
この時代の人々が使っているのは象形文字ヒエログリフ。動物とか、人とか、道具とか、絵なのではないかと思うほどの綺麗で、小さな文字の列を文章としている。私にはそっちの方が難しそうに見えるというのが正直なところ。
「ところで、この書物は一体何を唱えているのですか?神の言葉でしょうか」
気味が悪いと言いながらも、カーメスは興味津々に尋ねてくる。何でも神に結び付けるからつい笑ってしまう。
「ううん、神の言葉じゃないわ。これは人の仕組みを知るためにとても大切な資料なのよ」
「人の仕組み…」
「そう。例えばこれが咽頭、喉頭、気管、食道、肺の末端機構、肺胞……左内頸動脈、左外頸動脈、椎骨動脈、左総頸動脈、左鎖骨下動脈。左鎖骨下静脈は唯一リンパ管と合流している場所よ。それから肺動脈に、肺静脈。あとこれが心臓。右左で心室と心房に分かれていて全部で4つの部屋があるの。それでね…」
話している相手の方を見、初めてそこでしまった、と口を噤んだ。カーメスがぽかんと口を開けて、私を見つめ、明らかに話が追いついていない状態を表している。こんな解剖学を、ミイラ職人ならまだしも将軍にずらずら並べても分かるはずない。久しぶりに勉強の話をしたら、懐かしさに浸って我を忘れてしまった。
「ごめんなさい……分からないわよね。人の仕組みについて名前と位置が書いてあるものだと思ってくれればいいわ」
一人で突っ走ってしまったことが恥ずかしくなって、いそいそと本をショルダーにしまい込んだ。さっきの自分を思い返すと、顔を両手で覆ってしまいたくなる。
「いいえ」
目の前の将軍は首を振って私に柔らかく笑いかけてくれた。
「姫がミイラ職人の知識をお持ちになったのだと分かりました。その知識は素晴らしきものです。ファラオに伝えておきましょう。姫はミイラ職人並みの素晴らしい知能をお持ちになられたと」
ミイラ職人だなんて。
嬉しいような、嬉しくないような、複雑な気分になる。でも褒め言葉だろうから、ありがとうとお礼を言って笑みを返した。
医学が初めて進歩したのは古代エジプトであるとされているのは、ミイラを作ることによって解剖学が進んでいたからだと言われている。ミイラ職人は医学の根本にある解剖学において、とても重要な役割を担っていたのだろう。
「そう言えば、アンクはどこにいるの?少し話したいことがあるのだけれど」
ここに籠ってばかりでは息が詰まってしまいそうで、せめて庭に出る許可が欲しかった。今の私は彼の許可がないと何も出来ない。ナイルが流れるあの廊下に行き、ハスの花でも摘みに行きたかった。
質問を受けたカーメスは、ああ、それならばと口を開いた。
「ファラオは只今、テーベにて新しく作る神殿の建設の監督をしております。夕方にはお帰りになると思われますので、その際にでもお話になればよろしいかと」
「建設の監督…?」
思いがけない答えに耳を疑った。
「そんなことを彼がしているの…?」
私の驚きように、カーメスも目を丸くしている。
「何を仰せです。あの御方は何でもできますよ」
「何でも…?」
ええ、とその人が丁寧に頷く度に、くるりと回った黒髪が揺れた。
「ファラオは御年4歳の王子でいらっしゃった頃から教育をお受けになり、文字は勿論、作文は教師たちに褒められるほど素晴らしく、オベリスクや神殿などを作る際の材料や人数の算出などはお手の物、水泳、乗馬、洋弓、狩り、軍事訓練、これら全てにおいて幼き頃から優秀な方でいらっしゃいました。全てを可能にする御方、それがファラオでいらっしゃいます」
カーメスの当然だという言葉に、開いた口が塞がらない。
凄まじい経歴。さすがは古代エジプトの王子、というものなのだろうか。
頭の切れる人だとは感じていたけれど、まさかそれほどだとは思っていなかった。
「本当に素晴らしい方です。我々もあの御方にお仕えしていることを、心より誇りに思っております」
カーメスの話し方がとても優しい。カーメスは彼よりいくつか年上だと思うけれど、彼を心から慕っているのがよく伝わってくる。
「王子の頃より、誰よりもファラオに相応しき御方だと、それはもうご即位が決まる前から噂されるほどで御座いました」
「……おいおい、相変わらず笑っちまうほどの忠誠心だな」
いきなり空気を破った声に驚いて扉の方を見やると、見たことのない人が入り口に寄りかかって立っていた。
カーメスと同じ色の腰巻に、白いネメスの頭巾を被っている。
マッチョ。
見た途端、その言葉しか思いつかなかった。屈強な筋肉が身体中にくっついていて、言ってしまえば筋肉の塊。
「ファラオ、ファラオって、あの方だって俺たちと同じ人間だろうが。偉いのも分かるが、どうしてそんなに神の如く崇めるかなあ」
「ホルエムへブ」
笑顔だったカーメスの顔が一瞬のうちに険しくなる。あの儀式の時もそうだったけれど、この人は普段と警戒している時でよく雰囲気が変わる。今の表情の方が将軍としての顔なのかもしれない。
カーメスは寝台に座る私の横に立ち上がって、私を隠すように前に出た。
「何故あなたがここにいるのです、ホルエムへブ」
「よっ!元気だったか、上エジプトの将軍さん」
寄りかけた身体を起こして、ホルエムへブと呼ばれるその人は片手をあげて軽い挨拶をした。
背も、年齢的にも、カーメスより上だろう。三十前後くらいだ。
「アンケセナーメン様が甦られたと聞いてね、謁見させていただこうかと思って。やっぱり将軍という身分は素晴らしいねえ。止められても将軍だと言って睨みつければ誰もが怖気づいて道を開けてくれる」
ただ権威の乱用しているだけじゃないの、と突っ込みそうになるのを堪えた。とてもではないけれど口を出せる雰囲気ではない。
「ファラオからの御達しはあったのですか?御命令もなく、お前が下エジプトから出てくることは断じてあってはならないはず」
「お堅いこと言うなよ。今、我が国は平和の他の何物でもない。長年敵国だったヒッタイトとは同盟を結び、隣国ヌビアとも和平を組んでいる。俺たち将軍なんて、今は用無しなのさ」
マッチョはくつくつと喉を鳴らすと、前へ進み出した。
「どれどれ、その後ろにいらっしゃるのが姫様か?相変わらず美人か?姫様ー。俺ですよ、ホルエムへブですよー」
足音がこちらに向かってくるのが聞こえる。
どうしよう。
危険な人なのか、それとも安心して付き合える人なのか分からない。怖くなって、咄嗟にカーメスの背中に身を縮めた。
「なりません。今は厳重警戒という御命令を受けています。他の誰とも謁見はなしとの御達しです」
カーメスがさっと前に出て、その人の行く手を塞いだ。
「いいじゃねえか。ちょっとだけだよ。ちょっとだけ。な?生前のお美しさは健在なのか、見るだけだって」
「生前の如くお美しくていらっしゃる」
アンケセナーメンとは大違いだと言われているのに、そんなことを言われても困る。
「生前の如く麗しいか?」
「麗しくていらっしゃる」
「じゃあ、お淑やかな王家の姫君?」
「ああ、お淑やかで素晴らしき王家の姫君だ」
頭を抱えたくなった。ハードルを上げまくっている。あまりにも高いハードルを、こんな私が飛び越えられるはずが無い。
「とにかくお前になどお会いにならぬ。北へ帰れ、ホルエムへブ」
カーメスが身を張って、左右に機敏に動き、マッチョの目に私が触れないように頑張ってくれている。
どうしよう。隠れた方がいいのかしら。
そう思ってきょろきょろしていると、背後に繋がっている奥の部屋からネチェルと女官がそっと顔を出して、私に手招きをしているのが見えた。見慣れた人の姿に安堵を覚える。
今行くと合図をして、こっそりと動いた途端。
「ほら……だからお前はよそ見しすぎなんだよ!!」
カーメスの横から手が突然伸びてきて、強く引っ張られたと思ったら、声を上げる前にマッチョの顔がでかでかと目の前に拡大されていた。
ぎょっと、その陽に焼けた黒い顔を凝視する。
太い眉に、黒い肌。濃い顔。
かっこいいと言えばかっこいい方の部類かもしれないけれど、私の苦手な顔立ちだ。
「ひ、姫様!!」
ネチェルの悲鳴が響く。
「お前は複数のことを同時にできないのが欠点さ。二つあれば一つに集中しちまうんだ、カーメスは」
「ホルエムへブ…!!」
カーメスの荒げた声なんてそっちのけで、すぐ目前に浮かぶ二つの目玉が、品定めをするように私の視界を何度もゆっくりと行き来した。
本当に、真っ黒な目。
圧倒されたら負けだと唇を噛んで、その瞳を睨みつけるように見つめ返した。
「これはこれは…」
驚いたのか、その人は黒い瞳孔を丸くした。
「ホルエムへブ!姫君に何たる無礼を…!!」
「黙れ」
悪寒が走る声を発して、ホルエムヘブはカーメスを止めた。ひやりとしたその人の本性を垣間見た気がした。
「随分と、少女のようにお成りあそばされましたなあ…」
嫌らしい目がぐるりと動いた。眼差しがどこかアイのものと似ている。
私の腕を掴んで、もう一歩私を引き寄せた。動きたくないのに、力に負けて足が進んでしまう。
「以前のような艶めかしさもなく、華奢で…孔雀のようだと謳われた面影がない。女というより少女。まるで、色気もない子猫」
あまりの言いように、眉が上がる。
「胸もほぼ平ら……凹凸がまるでない。生前の魅力は一体どこへ行ったのか…本当にアンケセナーメン様な…」
「うるさいっ!!」
我慢できなくなって、相手の手を振り払った。その反動によろけ、ホルエムへブは私から一歩後ずさる。
「言わせておけば、あなた一体何様よ!それも色気がないだの、孔雀が子猫に成り下がっただの、聞いてれば勝手にずらずらと!!バッカじゃないの!!」
指差して怒りに任せて叫んでやった。黒い目が私の指先に向かって寄り目になる。
腹が立つ。怒りが溢れかえり、一歩前に進んで口を開いた。
「人の部屋に勝手に入って、私を無理に引っ掴んで、嫌らしい目で眺めたと思ったら色気なしでがっかりだ?ふざけないでよ!失礼だわ!失礼にもほどってものがあるでしょ!言っておきますけどね、身体に凹凸がなくても女は生きていけるの!!人を色気で判断するなんて、男として最低!ミミズの足元にさえ及ばない女の敵!!全世界の女性に謝れ!!このエロガッパ!」
言い切ると同時に、一歩強く前に出て、その真っ黒の目を睨みつけた。
この時、私の中でのこの人のあだ名がマッチョからエロガッパに変更されたのは言うまでもない。
黒い瞳に映った私がゆらゆらと揺れていた。言葉というものを綺麗さっぱり忘れてしまったかのように、ホルエムへブは口をぱくぱくさせている。
やればできるものだと鼻を鳴らした。少々下品だったかもしれないけれど、案外言えるものだ。
留めに、その間抜け顔にもう一度フンと鼻で笑ってやった。私の悪口言った罰よ。ざまあみなさい。
「お前もなかなか言うのだな、アンケセナーメン。見直したぞ」
聞き覚えのある声に振り返れば、口元に笑みを浮かべる彼が部屋の入口に立っていた。ファラオと呼ばれる彼の後ろにはセテムが控え、細い眉を顰めている。
「……アンク!」
「なかなか面白いものを見せてもらったぞ」
こちらに歩む彼は、随分とご機嫌な様子だった。
「アンケセナーメンが出迎えに来ぬと思えば、なるほど、こういう訳か」
腕を組んで、ゆっくりと足音を部屋に響かせるその姿は、演劇で主役が登場してきたような雰囲気を醸し出す。音が一つ一つ部屋に鳴るたび、息を呑んでしまうほどの威圧を辺りに振り撒く。静まり返って、そよそよと流れていた風もぴたりと止んだ。
「下エジプトから無断で帰って来たのか、ホルエムへブ」
「ファラオ…!い、いつお帰りに…」
動揺を隠せないまま平伏すエロガッパを、彼は静かに見降ろした。
「やることが終わったからな、早めに帰って来たのだ。ただそれだけの話」
彼は穏やかに語る。その穏やかさが逆に怖い。
よくよく周りを見渡せば、ネチェルもカーメスもそのほかの女官の「お帰りなさいませ」と言って平伏していた。圧倒される光景に、また彼の立場の大きさを思い知る。
「私に無断とは何か大きな理由でもあるのか?それも我が妻となるアンケセナーメンの部屋に将軍という権威を乱用し、侵入するなど何を考えている」
口元は笑っているけれど、雰囲気が重かった。私も跪いた方がいいのかしら、と挙動不審にきょろきょろしてしまう。
「い、いえ…!」
ホルエムヘブはそのまま口籠った。さっきまでのへらへらとした態度は一体どこに行ったのだろう。
「はっきり答えよ!ファラオの御前であるぞ!!」
セテムが追い打ちをかけるように叫んだ。笑っている彼に対して、セテムは険しい顔を湛えている。腰に付けている剣を今にも引き抜いてしまいそうなくらいだ。
「……あ、アンケセナーメン様が甦りになられたと聞き、下エジプトより姫様のいる南の空をずっと恋しく思っておりました…!我が主の神に愛された姫君を一目見たいと思い、居ても立ってもいられず、この下エジプト将軍ホルエムへブ、ここまで馳せ参じた次第であります!」
一息で吐き出された、飾り立てられた台詞だった。全部嘘ばかりじゃないの、と言いたくなりつつも、下エジプトの将軍という単語がひっかかった。
カーメスも将軍なのに、エロガッパも将軍だと言う。将軍は二人いるのかしら。将軍は一人というイメージがあったから違和感がある。
「アンケセナーメンの顔を見て、満足したか?随分な罵られようだったが」
低い、穏やかな、それでも身を竦めてしまうほどの雰囲気を孕んだ彼がホルエムヘブに尋ねた。足元に平伏すホルエムヘブを見下ろす淡褐色が鋭く光る。
「と、とても満足いたしました…!!」
「ならば去れ。今すぐに下エジプトに向かい、兵たちの軍事強化に努めよ。私はお前の能力を買っているのだ、変な行動を起こし、私の期待を裏切るようなことがあれば…」
一端言葉を切り、地を這うくらいに低い声を轟かせた。
「どうなるか、分かっているのであろうな」
身を怯ませ、ホルエムヘブは再び額を床に擦りつけるほどに平伏す。がたがたと肩を震わせているのが、少し離れている私の所からでも分かった。
「し、失礼いたしました!ホルエムへブ、今すぐ我が領土下エジプトに帰らせていただきます!!…そして我が主、アンケセナーメン様!!」
平伏したまま、身体を素早く私の方へと向けて叫ぶ。
「ご無礼仕りましたっ!!!」
私や彼の返答を聞かず、将軍ホルエムへブは逃げるように去って行った。あんなに怯えて、少し可哀相だと去っていく背中に思ってしまう。
「そんなに怒らなくても…」
再び戻った静けさの中、ぽつりと零した私の声に彼は笑った。彼の表情はへらへらとしていて、先ほどの重圧をすっかり消し去っている。
「これくらいのもの、怒った内に入らぬ」
言われて、生贄事件の時は物凄い剣幕だったのを思い出す。確かにあれと比べればずっといいかもしれない。
「これくらい脅しておいた方が良いのだ。ホルエムへブは怠け癖があるからな」
疲れた、と肩を回しながら私の寝台にどっぷりと座った。まるで自分の寝台だと言わんばかりだ。
「……ファラオ、姫、」
流れてきた呼び声に、一瞬それが誰のものか分からなかった。
まだ知らない人がいたのかとつい身構えてしまって、声の主がカーメスだと知った時は虚を突かれてしまうほどに驚いた。
「……私めの力不足に御座いました。姫君にもご不快な思いをさせてしまい…申し訳ありませぬ」
いつもの陽気さを失っている。悔しそうに顔を顰め、カーメスは彼の前に跪いた。
「……まことに、まことに、申し訳ありませぬ」
「まあ、暴走するホルエムへブを止められなかったことはお前に非があるが、それほど気にすることでもあるまい。何と言ってもアンケセナーメンが自分で黙らせたからな」
私を横目で見やって、口端を上げた。
セクハラまがいのことを言われて、怒りにまかせて叫んだだけなのに。私がどんなに嫌な思いをしたか、この人は分かっているのかしら。
「この調子では何かあってもアンケセナーメンが自ら撃退するかもしれぬな。実に面白いものを見た。……とにかく、それだけで落ち込むな。相手は我が国の将軍。ホルエムヘブは敵国の者という訳ではないのだ、問題はない」
納得いかないようだったけれど、カーメスは彼の言葉に小さく頷いて返事をする。
「……ここを失礼させていただいてもよろしいでしょうか。自分と言うものを見つめ直したく存じます」
あの明るさが無くなって、別人のように見えた。ついさっきまでの、少年のように笑っていた面影が、全くと言っていいほど感じられない。
「下がってもいいが……カーメス、お前の力はこの私が認めているのだ。今回のことのみで、アンケセナーメンの側近を止めるなど、決して許さぬぞ。己を卑下し過ぎるな」
また深々と頭を下げて、カーメスは私の部屋からとぼとぼと去って行った。その長身の背中が、哀愁をこの部屋に漂わせる。
「気にしているのだ」
カーメスの背中が去ったのを眺めながら、彼はそう呟いた。
「将軍としての力はホルエムへブの方が上だからな。意識している相手を止められなかったことを、相当気に病んでいる」
カーメスがホルエムへブを止めようとした時、黙れの一言で怯んでしまったことを思い出す。あれで怯まない方がおかしい。私だって、一瞬恐怖を感じた。
「……ホルエムへブって、どんな人なの?」
寝転がる彼を見やりながら、椅子に腰を下ろして尋ねてみた。
気づけば、周りにいたはずのセテムも女官たちもいなくなって、私達二人だけになっている。
「カーメスが上エジプト将軍ならば、ホルエムへブは下エジプト将軍」
上下エジプト。
これは現代でも区別するために使われる呼び名だ。
エジプトの北、有名なギザの三大ピラミッド、メンフィスの遺跡、現代のカイロがあるナイル流域地帯が、下エジプト。そしてエジプトの南のナイル流域地帯が、上エジプト。
もともと小さな国の塊だったエジプトは、紀元前3150年頃に統一され、ナイルを基準にこの二つの地域に分けられた。それ以降、ファラオは上下エジプトを治める神の化身として崇められ続けている。ファラオの別名が「二国の王」であるのもこれが理由だ。
「カーメスの生まれは貴族、あの柔らかい好かれる人柄で軍事もなかなか出来るため私が任じ、将軍になってもらったのだ。それに対し、ホルエムへブはもともと兵士、民の生まれだ。軍事に関しては我が国で誰よりも秀でて、才もある。その質が見込まれ、カーメスより前、私の父に将軍として抜擢されている」
貴族生まれで親しみやすいカーメスと、庶民生まれで実力のあるホルエムへブ。彼らが上下エジプトを支える、二人の将軍。
「……カーメスは自分が劣っていることを、昔から気に病んでいるのだ。十分すぎるぐらい働いてくれているのだがな」
「でも、あなたはカーメスの方に信頼を置いているからこの上エジプトの将軍にして、傍においているのよね?」
未だにアケトアテンがエジプトのどこだか分からなくとも、エジプトの南、上エジプトに位置していることは何となく分かる。傍である上エジプトにわざわざカーメスの役職を置いているということが何よりの信頼の証だろう。
天井を仰ぎながら、彼はそうだと頷いた。
「カーメスとは昔馴染み故、色々と私の考えを言わずとして汲み取ってくれる。空気を読むのが上手いのだ。ホルエムへブは稀な才能の持ち主だが、アイと良好な仲を築いていることもあって、首都から離れた下エジプトを任せている。今、我が国は平和だ。将軍としての仕事がなくてあの者は暇を持て余しているのだろうな」
「アイって……少し危ないんじゃない?将軍とあなたの敵が仲良しだなんて…」
彼の敵とも言えるあの神官の仲間を自分の腕として置いているだなんて。
「まあそうだが、それほど深刻なことではない。実際離しているのだからな。それにホルエムへブの本当の目的はネフェルティティだ」
ネフェルティティはアイの娘で、あのボンキュッポンのお色気むんむんの超美人なお姉さま。確かにあのエロ将軍の好みというのも頷ける。ネフェルティティに関心があるから、エロ将軍はその父親であるアイ側についているという訳なのだろう。そして政治の中心から離しているから、問題はないということ。
「まあ、カーメスとホルエムへブ、二人の将軍が犬猿の仲なのは問題だが、どちらも欠かせぬ要素を持っているからな、将軍を一人にするつもりはない」
カーメスというのはもともと将軍としての才能のあるホルエムへブに対し、自分が劣っているのを気にして、ホルエムへブもまた、それを鼻に掛けてカーメスをからかっている。
なかなか難しい将軍たち。そんな二人に将軍という役職を任せていて大丈夫なのかしら。
「今までもなんとかやってきたのだ、おそらくこのままで大丈夫だろう」
私の心を読み取ったように、彼は付け加える。
でも、彼が二人の長所と短所をしっかりと把握しているということに少し驚いた。やっぱりエジプト王家の王子として育てられ、見事ファラオとしてエジプトを治めている人なだけある。
「……疲れた。寝る」
目元を褐色の腕で覆ったと思ったら、そのままごろりと背中を向けてしまう。
いつもそう。帰ってくるとずかずかとこの部屋に入ってきて、思う存分ぺらぺらと話してから私の寝台で寝てしまう。こうなれば、もう何を言っても起き上ってはくれない。
最初は抵抗があったけれど、今は「ああ、また」と思うだけになった。
ふう、と息をついて自分の膝を見下ろすと。
「……気にすることはないぞ」
彼が身体を動かしてちらと私に視線を投げていた。いつもと違ったとろんとした目元で、今にも瞼が落ちてしまいそう。
「女は、いくら子供で子猫やら色気がないやら言われようとも、時が経てばいつかは美しくなるものだ」
「は…?」
間抜けな声に、彼の鼻が笑う。
「故に、お前がいくら色気皆無な女だと言われても、ネフェルティティのように女らしくなる時が来ると言うことだ。女というものは分からぬ。いくら凹凸のない平らな身体でもいつかは成長する、気にすることはない」
「な、何言って…!!」
「ホルエムへブの言い分はなかなか的を射ていて、面白かった」
にっと、その憎たらしい顔が笑う。
何だかんだ言って、私とあのエロ将軍の言い合いを一部始終全部聞いていたってことじゃないの。見つけたらすぐに止めてくれればよかったのに、わざわざ全部聞いてから出て来たなんて、最悪すぎる。
「あなたね…!」
「いつかお前も美しくなる時が来るぞ。気に病むことはない。その時が来るまで、待ってやってもいい」
「何を勝手に」
「アンケセナーメンのように気品を身に付ければ、外見がどのようであっても、光り輝くようになる。おそらくヒロコは美人になる。その素質は十分にある」
そこで口籠ってしまって言い返せなかった。
美人になるなんて言われたのは初めてで、えっ、と素っ頓狂な声まで上げる始末だ。
「まだ子猫以下だがな。いつか美人になると言っても、ヒロコの美しき女への道のりは遠い。せいぜい頑張れ」
「…は!?」
「言うことはそれだけだ。寝る」
唖然とした私を残し、悪戯好きの子供のような無邪気な笑顔を見せてから、彼は顔を逸らしてしまう。
「ちょっと…!」
色々と文句があって、その人が顔を向ける方を覗いてみたけれど、時はすでに遅し。彼は静かな寝息を立てていた。そっと揺らしてみても、淡褐色が覗くことはない。
「寝るの早い…」
サンダルを履いたまま寝台に寝ているのに気づいて、ため息をつきながらそれを脱がせて下に並べる。
「脱いでって何度言ったら分かるのかしら…」
脱力して、その場にへなへなと座り込んだ。
私、振り回されてばかり。あっちにぶんぶん。こっちにぶんぶん。まるでハンマー投げのハンマーにでもなったよう。
ふと顔を上げれば、彼の寝顔が見える。
綺麗な人だ。黙っていればずっと素敵な人だと思うのに。気品というものを、この人を見て初めて感じた。
目を瞑れば、漆黒の世界が生まれて、近くから聞こえる寝息がその世界に落ちてくる。私の首筋を、そよそよと流れるナイルからの風が撫でた。
目の前に眠るこの人と私の間には、手を伸ばしても届かない時間が流れているのに、それさえ忘れてしまう時がある。
あまりにも近くにいて。彼は古代人で、私は現代人。目の前で生きているこの人が、私の時代では死んでいるなんて変な話だ。今ここで息をして、眠っているのに。
ぼんやりとそんなことを考えながら、眠るその人の上に麻製の寝具をかけた。