3300年の記憶
今回は父の知り合いに会いに行くことが目的で、待ち合わせの時間が博物館閉館近くの時間だったために、父と車に乗り込んだのは夕暮れ前だった。母に微笑んで送り出され、家から博物館までの道のりでは、車に揺られながら昨日の夜から読み進めている『ツタンカーメン発掘記』のページをめくっていた。
詳細さと臨場感に溢れるカーターの文章には、私も読み進めるほどに一喜一憂してしまう。確か、今ツタンカーメン王墓の中を細かいところまで再現できるのは、カーターが古代から眠り続けていた王墓をありのまま残したいとして、早く中を見たい気持ちを抑えながら細かいスケッチと何百枚ものの写真で記録し続けたからだ。彼の考古学に対する熱い想いと、古代の人々に抱いていた尊敬の念を感じることができる。
「着いたよ、弘子」
ちょうど大体を読み終えた時、エジプト考古学博物館前に車が止まった。通称、カイロ博物館。閉館前の博物館から観光の団体客を見送りながら、会うはずだった人を呼び出してもらい、父と一緒に中に入れてもらった。
「こっちだ」
個室に入りながら父に手招きされたが、私はそれに首を振って断った。父たちの話し合いに混ざるためにここに来たわけではなかった。
「少し、見て回りたいの」
父が少し心配そうな顔をするのは無理もない。6年も行方不明だったせいで、まだ私を子供のような扱いをしてしまうのだ。
「大丈夫。心配しないで」
父は眉を八の時にして戸惑ったが、私が頷こうとしないのを悟ると肩を落として微笑んだ。
「何時に終わる?その時間にここに戻ってくるようにするから」
「……20時、には終わるかな。気を付けるんだよ」
分かったと私が頷くのを見届け、父は知り合いの方と一緒に中へ入って行った。
懐かしい空気が辺りを漂う。閉館は18時45分。閉館1時間前となった博物館は、団体客もほぼ帰った時刻のようで、人がぱらぱらとしかいない。むしろ出口に向かって歩いている人の方が多く、奥へ向かうのは私だけだ。
記憶にあるこの博物館はいつも人で溢れているから何だか不思議な心地がする。だが確か、私が行方不明になる前もこんな風に人がまばらだった。もう8年も前になる。窓の外の風景に目をやると、夕暮れのために茜色に燃えていた。
古代の遺物の周りを歩く。カイロ博物館1階は時代別に展示されており、時計回りで古王国、中王国、新王国と時代に沿って見学できる構造になっている。古代エジプトのファラオ像としては最古のカーセケムウイ王座像、階段ピラミッドを作ったジェセル王の座像。古代人の暮らしが分かる副葬品、古代エジプト人が誇りとした黄金やラピスラズリが躍る美しい宝飾品。古王国時代の傑作とされるラーホテプとネフェルとの座像。ハトシェプスト女王の黒いスフィンクス、ネフェルティティ王妃の未完成頭部像。頬がこけたアクエンアテン王の巨像。エジプトを強大国家として築き上げた偉大な人々。
発掘記を読み終わったばかりというせいもあるのだろう。歩いて目に留まるものひとつひとつに新鮮な驚きと感動があった。心が躍って、鞄から先程読み終わえたばかりの発掘記を取り出し、偶然開いたページにさらりと目を通してみる。今この胸に溢れる想いを、カーターがこの本の中で上手く表現していたはずだ。何ページがめくって現れる、ツタンカーメンの棺に置かれていたヤグルマギクの花輪と花束について綴った文章。
『ああ、なんと素晴らしいことか!このヤグルマギクの花束は3300年といってもごくわずかの時間であって、昨日と今日の間にすぎないことを物語っていた。まことにこの一脈の自然は、古代と私たちの現代文明を近しいものにしたのだ!』
第二部第三章の中で、最も印象的なところだった。カーターが興奮し、震えているのが目に見えるように伝わってくる。ツタンカーメンの棺の上にあった3300年前の花束を見て、気の遠くなるくらい昔の古代を、彼は垣間見た。古代の人々の心を近くに感じた。遠い遥か未来にいるはずの自分が。
カーターは誰よりも古代人と心を通わせようとしたのかもしれない。
本を胸に、自分を囲む古代の遺物たちを仰いだ。今の私も、この時のカーターと同じ状況に立っている。ガラスケースの中にあるものは私が生まれるずっと前に生まれたものだというのに、今、それらと私の間にはたった数センチの距離しかない。3300年前であるならば尚更だ。数千年という時間がたった数センチの距離でしかなくなる。そう思うと、私は古代に生きた人々の姿が見える気がしてならない。
昔、ここで誰かが縋って泣いただろう。これらを目の前にして故人を想った人がいた。
畏怖の念を感じ、この王の時代が未来永劫続けばよいと思った人もいたに違いない。平和を願い、幸せを祈り続けた人も。
もし、ここで時の流れを遡ることが出来たのなら、私はその人に出会える。出会うことが出来たなら、きっと心を通わすことも出来たのではないだろうか。彼らが見ているものや感じることは、私が感じているものと少しも変らないのではないだろうか。
そうだ。ここに残るこれらは時として残るもの。時は瞬間瞬間に消えて去るもので、どんな人でも時の流れを目で見ることはできない。しかしここにあるのはすべてが時を越えてやってきて、今を生きる私の目の前にあり、私が死んだ後も残っていく。決して見ることが出来ない過去と今を生きる私を繋いでくれるものたち。
遺跡や遺物は、ただひとつの、過去と未来と私を結ぶ場所。過去の人々と私を繋いでくれる唯一の場所。
私が見ているのは古代に生きた人々の記憶、そして永遠に流れ続ける時そのもの──。
感動に胸が打ち震えた時、不意にいつか私は同じような感動を持って、同じようにここで古代のものを仰いでいた記憶が甦った。
仰いでは振り返り、そして前を向いて走り出す。母に結んでもらった三つ編みを振り乱して、とにかく楽しそうに走る小さな私。古代からの時を確かに感じて、展示品の間を飛び跳ね、笑って、駆けていく。
幼い日の私は父に連れられて、毎日のようにここへ来た。何よりも好きな場所で、私はお父さんについて行きたいと駄々を捏ねたのだ。
足が進み出す。もう消えて見えなくなった幼い日の自分の跡を歩き出した私の足は、何かを急くように早めに進み始め、最後には走るようにして博物館の中を進んでいた。
ほとんど人がいなくなった館内に私の足音だけがこだまのように響き渡る。忘れていた感情が今の抱く感情とじわじわ重なっていく。
父の仕事場だったカイロ博物館は私の遊び場。古代の動物や人を象った像たちは私を見守ってくれる神様。小さな置物や道具は、私を見下ろす大きな像のもの。溢れんばかりに入ってくる観光客の中をジグザグに走り抜けて、息を切らしながら走って。窓から零れる眩しいほどに煌めくラーの金色の光は、黄金の雪のように私に降り注ぐ。耳に入ってくる世界中の多くの言語。英語にアラビア語、時々日本語。そして私の知らない言語を持つ国までを、世界を、ひとつの場所にまとめてしまったような空間。
巡り巡ってそして辿りつく、一番奥、それこそ観光客はぐるぐる回ってやっとたどりつけるような場所がこの博物館の奥に構えられている。そこが、カイロ博物館の目玉、黄金のファラオの空間。私のゴール。
黄金の色がどのブースよりも暖かくて、ゴールと決めて走っていた。
どうして忘れていたのだろう。あれほどに好きだったというのに。あれほどに、楽しかったのに。
名を失った少年王の空間が、私の目の前に広がっていた。
目映く黄金に満ちる展示室。閉館間際の博物館の奥に当たるこの部屋には、すらりとした男性が奥に背中を向けて一人立っているだけで、他には誰もいない。
午前中は人だらけで息も苦しいほどだが、閉館間際まで奥でゆったりしている人が大勢いる訳もなく、この光景は不思議というよりは当たり前なのだろう。
息を整えながら周りの黄金たちを眺めて歩く。歩いて進む空間、その中にたった一つ、寂しい色をしたものがガラスケースの中に横たわっているのを見つけた。眩しいほどの色が溢れているのに、これだけが悲しい砂の色を湛えている。その花を目にした途端に足が止まり、自分の奥が大きく騒ぎ出すのを覚えた。
その時、胸に抱いていた本が私の手から離れ、進みかけていた私の足に当たって蹴られ、方向を変えて床を滑った。我に返って落ちたはずの本を探すと、それは無残に背表紙を天井に向け、ページを広げて落ちている。あの形で落ちたのでは中のページも折れているに違いない。父の本なのにと慌てて踏み出し、拾おうとすると、私の手が本へ達する前に褐色の手が先に本へと行きついたのを見て、思わず立ち止まった。
持ち上げられた本を視線で追うと、本を見つめる人がいた。私より先にこの空間に佇んでいた男の人だった。
「ツタンカーメン発掘記ですか」
静かに尋ねられた声は、館内に心地よい響きを成した。褐色の手は表紙の汚れを軽く掃い、私に差し出してくれる。
「素晴らしい本です。これ以上に古代への情熱を書いたものはない」
「ありがとうございます」
手渡されながらお礼を返して、そのまま相手を見上げた。
エジプト人のような褐色の肌に欧米人の瞳の色。私の顔を視線に捉えるや否や、彼は少し驚いた顔をして目を見開いた。私も相手の反応とその容姿からもしかして、と息を呑む。
「……ウィナーさん?」
半信半疑のまま囁きかけるようにして呼ぶと、彼は大きく瞳を揺らした。イギリス人であるもののエジプト人の血がクオーターで入っていると聞いていたから顔を見て直感した。綺麗な褐色に、白人の顔立ちが映えている。エジプト人の血が入っているのは間違いない。
やがて淡褐色の瞳が細められ、その人は薄い口元で弧を描いた。
「アーサー・ムハンマド・ウィナーです。会えるとは思いませんでした……弘子さん」
アラビア語でありながら、「弘子」の発音をしっかりと熟す彼の、私を呼んだ声に身体の芯が震えた。醸し出される気品は、エジプトの黄金と砂漠の色が、よく似合う。
「はい、工藤弘子と申します……あの、今日は」
会うのは明日だったはずだと戸惑ってしまう。何の準備も、用意もしてきていない。
「仕事が早めに終わって来てみたんです。よくここには来るので」
「実は私も、父について来て8年ぶりに立ち寄っただけで……」
どうやら偶然にも会ってしまったようだ。まずは何から話すべきかと混乱する頭で悩み、最初はお礼だろうということにようやく行き着いて再び彼を見上げた。
「2年前、お礼も言えずに終わってしまって、本当に申し訳なく思っています。母から聞きました。私を助けてくださったと。命の恩人だと。何てお礼を申し上げたらいいか分かりません」
いいえ、と相手は首を振る。
「……あの、今日手ぶらで来てしまっていて……明日、またきちんとした形でお礼をさせてください」
何かお礼になるものがあれば良かったのだが、生憎私が持ってきているのはこの本だけだ。博物館に行くだけだと思っていたから、このまま食事に誘えるお金も持っていない。
「初めてちゃんとお会いするのに、こんな状態でごめんなさい」
謝ると、何故か彼は少し悲しげに微笑んだ。
「いいえ。お礼されるようなことは何も」
この人が私を見つけてくれた人。私の何かを知っているかもしれない人。私に、会いたいと言っていた人。
私は彼を見つめ、彼もまた私を見つめていた。時間が止まったようにも感じた。彼の眼差しには、何故だか寂しげなものがある。私に何かを見ているような。
聞きたいことが山ほどあるのに何から話せばいいか分からない。会いたいと願っていたのに、いざとなると何の言葉も出てこなかった。
そんな彼は、ゆっくりと私から視線を逸らすと、私の背後にある展示品に移した。私も同じように身体を展示品に向け、彼に並んで目映い黄金の品々に目を細める。
神々しさと威厳のある色だ。ここの場所だけ空気が違う。懐かしい。泣きたいほどに懐かしいと思える。瞳を閉じて、大きく呼吸をしてから目を開けた。
「……美しい黄金ですね」
わずかに床に零れる夕陽の色と溢れるばかりの黄金、ケースを縁取る周りの茶色に、私の口は自ずと言葉を発した。
「これほどエジプトに似合う色はない」
彼が頷きながら返してくれた言葉に、私も感嘆の声を漏らす。
「エジプトは太陽の国です。黄金は太陽の色……この国に何よりも似合います」
自然と返答が口から出てきた感覚だった。自分の返答に少し驚きながら相手を見上げると、彼もまた驚いたような顔をして私を瞳に映していた。彼は宙に視線を移し、何かに想いを馳せるかのように瞼を伏せる。やがて口元に柔らかな綻びを浮かべると、背後にあった茶色の展示品を振り返り、歩み寄った。
手招きをされたものだから、私もそれに続いて足を進め、一歩引いて隣に立つ。目の前のケースに納められているは、最初に目についた萎れた茶色のヤグルマギクの花束だった。
あの鮮やかな色はどこにも残っていなくとも、それでも分かる。ナイルのような青さを湛える、あの花。
「本を、貸していただけますか」
持っていた発掘記を手渡すと、受け取った彼は本を開いてあるページを探し当ててその中の一文を私に示した。
「この文章をご存知ですか」
一歩彼に歩み寄って本の中、示された英文に目を通す。
『──墓の中は輝かんばかりの黄金に満ちていた。しかしどの黄金の輝きよりも、その王墓の中に眠る枯れたヤグルマの花束の方が、私は何よりも美しいと思えた』
カーターの言葉だ。KV62の埋葬品を目の前に、その感想を述べている場面。黄金の煌びやかな光を放つ多くの埋葬品の中で、茶色に枯れ果てた花を、最も素晴らしいものだったとする言葉はあまりに有名だ。
「この花がこれです。王妃は先に死んだ夫に永遠の愛の証を残した」
彼は私たちの目の前に横たわる花束に視線をやった。
「愛の証?」
問い返す私の隣で、彼はその淡褐色の瞳で茶色に萎れた花を見つめている。
「3300年を越えても尚、残された唯一の妻の声そのものだ」
まるで自分の妻のことのように彼は呟く。不思議に思いながらも、その人の悲しげな笑みに、どうしようもない感情が押し寄せる。
どうしてここまで、懐かしいと思うのだろう。どうしてここまで、切なくなるのだろう。
「3300年の時を越えた想いが、今なおここに色褪せても残っている……いや、褪せてなんかいない、俺には今でもとても鮮やかに見えるんです。このヤグルマギクの青が。ここにきて目にするたび、いつも泣きそうになる」
3300年。その数字に胸が大きく騒いだ。
彼はそんな私をゆっくりと振り返る。
「君は、覚えているだろうか」
はっきりと、それでも柔らかく尋ねかける彼の声は、私の中に大きく響き渡った。
「え……?」
瞳が。淡褐色の瞳が、私を映している。吸い込まれてしまいそうなほどに。
「俺のことを、君は覚えているだろうか」
いつだっただろう。その色の中に、たくさんの私が映っていた気がする。そう思った瞬間に、瞼が熱を持ち始めた。
分からない。
いつか。白い靄の、その先の。
彼は、私に何かを求めるかのように、儚くも柔らかい笑みを浮かべて私を呼んだ。
「悠久なる君よ」
溢れる涙に、目の前にいる人の姿が霞む。代わりに現れるのは靄の中に佇む人の姿だ。
二つの姿が、一つになる。今まで微かにしか見えなかったあの影と。私を何度も呼び続けた、遠い、遠い記憶の中のあの白い靄の中の影と、今目の前にいる彼が。
私は向かいに立つ彼から目が離せなかった。零れ始めた涙が頬を伝っていく感覚だけが鮮明で、身体が動かない。涙をぼろぼろと落とす私の頬に、ためらいがちに彼の手が進んだ。私は拒むことなく、彼のぬくもりを受け入れる。頬を包むように触れるその手。彼の親指が頬を撫でて流れる涙を払ってくれ、ようやく瞼を閉じると、一層大量の涙が落ちて行った。
ああ。
私は、知っている。
この手を。
この人のぬくもりを。
この人を、私は──。
『――遠い遠い遥か昔もまた、お前と共にいた気がする』
『──そうよ、私たちはそういう星回りの中にいるのよ』
『──幾千年だろうが、どれだけ離れていようが……この太陽と砂漠の地で、いつまでも、お前を待とう』
『──遠いその先で、また共に生きよう』
誰かと私が交わした約束。私はそれに何度も頷いて手を握り返した。
懐かしいのに、これほどまでに懐かしいのに。それなのに、名前が分からない。思い出せない。とても、とても大事な人だったはずなのに。
何か、何かが自分の奥から引っ張り出せそうでありながら出てこないもどかしさが私を襲う。何かがまだ堰き止めてしまっているような。あと一枚の薄い壁しかないようにも思えるのに越えられない。
「……だ、れ?」
再び目を開き、視界いっぱいに映る相手に尋ねた。声は涙のせいで掠れている。頬に宛がわれる彼の手を自分の両手で包んだ。このぬくもりに溢れる自分の気持ちの理由が分からない。
「……あなたは、誰?」
縋るように尋ねた私に、彼はゆっくりと口を開く。
その時、突如重なる光景が脳裏に鮮やかに甦った。どっぷりと腰を下ろす誰かが、床に座る私を見下すようにして嗤って物を言う姿。目元が見えないその人は、自信満々の笑みを薄い唇に描いている。
『──お前が来たという3000年後に我が名は残っているのか』
そうだ、誰か。私に。
自分の名の存在を問うたのだ。
でも私は彼の名をまだ聞いていなくて。それに気づいた彼は口角を上げて、自慢げに教えてくれる。
『教えてやろう、私の名は──』
誇り高き、神の名を持つ己の名を。
閉ざされた場所に、風を感じた。夕陽の紅に染められた黄金の風が大きく吹き荒れ、鼓膜を揺るがし、澱む白さを吹き流す。正面から吹き抜け、私の記憶の微睡を一瞬にして拭い去る。
光り輝く中に、見えるものがある。あらゆる記憶、あらゆる想い。多くの決意の中心にいた太陽のような、威厳溢れる後ろ姿。
神々しい眩しすぎる太陽に照らされた黄金の砂漠。風と共にその香りを運び、夏に豊穣な土を運ぶ、空のように青いナイル。地平線の地、緑の地、そして神々の地。一面が透き通る青に満たされたヤグルマの庭。迷いと決断。私に差し伸べられた、骨ばった大きく温かな手。それを掴んだ私の手。
幸せと、喜び。多くの出逢いを、多くの悲しい別れで塗り替え、そして胸を張って立ち憚った茶色の谷に眠る王墓。
沢山の顔が見えた。私に手を差し伸べて微笑む、遠い日の温かな多くの人の眼差し。もう二度と踏み入れることができない遥か遠い場所で、共に生きた人々。それが流れ込んで来るかのようにはっきり見えては遠くに過ぎて行く。
最後に駆け抜けた風の後に、振り返った淡褐色の瞳の人が、微笑んでいた。身を乗り出し、私に手を差し伸べて。
太陽の光を一身に浴び、国を愛し民を愛し、必死に懸命に生きた、あなた。
愛おしい人。
記憶を隠していた靄が拭われ、その顔が露わになる。胸が打ち震えた。
星の数ほどもある様々な遠い記憶。失ったものだった。すべて。
今流れて消えて行ったのは私の記憶だ。閉ざされていた3300年の記憶だった。
そして今、目の前に儚い微笑がある。
「……あな、た」
ずっと、探していた。
「……あなたなのね」
彼の淡褐色の目がまた大きく揺れて、優しく微笑んだ。そして私の頬を包みながら、深く頷く。
「──弘子」
そう。その声。
遠い、遥か昔のあの時も、その声で呼んだ。
3300年の向こう側、あなたは砂漠の国で私を呼んだのだ。
覚えている。全部、覚えている。
魂の奥に。愛しいあなたを。
たとえ、数千年の時があろうとも。
込み上げる想いに、記憶に、涙と嗚咽が止まらなかった。
──3000年の時を越え、愛しき汝がもとへ今帰らん。
堪り兼ねてその人の胸に額を付けて、私は泣いた。あたたかな手が髪を撫で、背中を包んでくれる。
誰もいない博物館に射す、今にも沈もうとする陽の光が、どこまでも気高く、美しかった。