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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
27章 太陽の国
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忘れられた王

 その日の夜は、父がルクソールに借りている部屋に泊まることになっていた。


「なにこれ!」


 午後7時。家に着くなり、寝る場所もないほど汚い部屋に呆れた母が悲鳴を上げた。

 食器は洗っていないものがシンクに積み重なり、本や資料が床とテーブルを埋め尽くしている。洗濯物もほとんどが散乱状態だ。


「想像してなかった訳じゃないけれど、もう……!」


 母が寝る空間を作るために掃除を始め、父も怒られながら慌てて手伝い始めた。


「私と弘子が来るって分かっていたんだから、掃除くらいはしているものかと思ってたのに。お客様が来た時はどうしてるの」


「やろうやろうと思ってたんだけどなかなか始められなくて……でも来る人はいないから大丈夫だよ」


 そういう問題じゃないのよ、と母がため息交じりに呟くのを耳に、私も掃除を手伝いながら苦笑する。父は研究に没頭すると研究以外のことは何も手に着かなくなるのだ。


「お父さん、これ書斎でしょ?運んじゃっていい?」


 床にまとめられ、すでにバベルの塔のようになっている本を指さして尋ねた。


「そう。入れる場所ないから、書斎の床に置いておいて」


 持っていける冊数だけ持ち上げ、何度か繰り返し書斎へと足を運ぶ。父は掃除が大の苦手で、母がいないとこういうところでだらしがない。それでも久々に聞く母の声に、父はとても嬉しそうだった。

 両親の言い合いに耳を傾けながら、最後の本の束を抱えて部屋から廊下に出、書斎だと言われた部屋に足を踏み入れる。書斎にはいくつもの本棚が並べられ、こちらが埋め尽くされそうなくらいの量の本が私を見下ろしていた。書斎というよりは本置き場、まるで古書店だ。

 ぎっしり詰まった本棚にはもうスペースがなく、父に言われた通り空いているところを見つけてそこに本を下ろすと、その隣の、本棚に入りきらずに床に積み重ねられている本たちが目に入った。床に膝をつき、積み重ねられた本をざっくりと見て、全てエジプト第18王朝のものであることに気付く。

 もともと父がルクソールに職場を移したのも、母の夢の根拠を見つけるため、そして失踪していた頃の私の行方を捜すためだったのだから、18王朝のものがいつでも手に取れる所に置いてあるのは当然のことでもあった。

 第18王朝、それも末期。つまりツタンカーメンとアンケセナーメン、その周囲に生きた人々の時代。それらの本すべての、彼らが記されたページすべてに黄色の付箋が貼られている。1998年刊行の一冊を手にとって、付箋がある項目だけを繋げて読んでいけば、ツタンカーメンの生涯から18王朝の最後、そして19王朝の始まりまでが分かる大まかな流れが出来上がった。




 ――ツタンカーメン


 誕生名はトゥト・アンク・アテン。即位名はネブケペルウラー。

 紀元前1345年頃、エジプト王家の男子として生まれる。

 アクエンアテン(別称イクナートン、アメンホテプ4世)の子、母はキヤ(不詳)、妻は異母姉アンケセナーメン、スメンクカーラーは彼の兄、あるいは叔父とされている。彼は、アクエンアテンとスメンクカーラーが立て続けに他界したために、9歳前後でファラオとして即位した。

 幼いツタンカーメン王がアマルナの北の宮殿で育ったことは確かであるが、彼自身の詳しい経歴および両親についてはまだ推測の域を出ていない。

 さらに即位した当時、この幼王が政治を取り仕切るほどの年齢に達しておらず、高位の文官であり神官も勤めていたアイや軍幹部の者たちの影響下にあったことは想像に難くない。


 治世2年、彼は姉であるアンケセナーメンと婚姻を結ぶと、父親の改革を否定し、旧宗教アメン信仰に戻そうとする動きを見せた。この時、アマルナから現在のメンフィス、そしてルクソールへと都を遷し、自らの名前の末尾を「アテン」から「アメン」へと変えている。この改革の成功は、王と王妃が揃って名を変えたことが何よりの証拠だと言えよう。

 しかし、これもツタンカーメン王自身が自ら地名や他の多くの決定に関与したとは到底考えられない。おそらく、アイを始めとする彼の顧問たちが手綱を握り、幼王を人形のように操ったのだろう。

 また、テーベへの帰還とアメン神の復活を除くと、ツタンカーメン時代の事績の記録はほとんどないに等しいが、最近の研究でヌビア、パレスチナ、シリアへの軍事遠征があったことが明らかになった。


 その中で、彼は二十歳前後で突如死を遂げる。王のミイラや王墓から死因が分かるような具体的な証拠は出ていない。かつて言われていた肺疾患による死亡ではないのは確かだが、1968年のX線撮影で、上部頭蓋窩に何らかの衝撃の結果と思える小さな縦の亀裂も発見されている。だがそれが、殺人を意味する意図的な一撃によるものか、戦車からの転落といった事故によるものか、あるいは発見時に誰かがつけてしまった傷かは不明のままだ。ただ、王墓玄室に描かれていたアイの肖像が、何かを暗示しているようでならない。


 彼の王墓は、王家の谷にてイギリス人考古学者ハワード・カーター、イギリス貴族ジョージ・カーナヴォン卿によって、1922年11月4日に発見された。

 KV62と名付けられたこの墓は、王墓としては極めて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど未盗掘であった。一度封印を壊された形跡があり、前室、付属室の二部屋が大きく荒らされていたものの、墓のあり方はほぼ数千年前のまま残っており、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクを始めとする数々の副葬品がほぼ完全な形でこの王墓から出土している。この封印を壊したのは墓泥棒と考えられており、のちに改めて封印が成された跡があった。

 王墓に残されていた埋葬品からツタンカーメンは病弱で足が悪く、杖を突いて歩いていたと推測されている。さらに彼には、流産もしくは生まれて間もなく死亡した二人の娘がいたと考えられ、どちらもミイラとなり、KV62の宝物室に小さな棺に入れられ父親と共に埋葬されていた。母親は未だ発見されていない正妃アンケセナーメンであるとされ、この子供らのどちらかが生存していれば、母の地位をしかるべく引き継いで「偉大な女性王位継承者」となり、正統な王家の血筋を伝えたはずである。そして、後年のエジプト第19王朝が織りなす歴史は大きく違ったものになっていたことだろう。


 早世したツタンカーメン王は、若い未亡人アンケセナーメンを非常に難しい立場に置くことになった。しかし、彼女は王位への野心に燃える男たちに取り囲まれながら、思いがけない行動を取り、周囲を驚かせる。ヒッタイト王国シュッピルリウマ1世に手紙を送り、ヒッタイト王子の一人を自分の夫として送ってくれるのならば、その王子にエジプトの王位を与えることを申し出たのだ。この王妃の切実な申し入れは受け入れられ、ヒッタイトはザナンザ王子をエジプトへ送り出すが、その王子もエジプト国境付近で何者かに殺害されてしまう。

 行き場を失ったアンケセナーメンを、結局はアイが妻とし、アイがツタンカーメンの後継となり王位を継いだ。以降、アンケセナーメンの消息は不明、彼女がアイや他の者によって暗殺されたとも、病死したとも言われている。

 彼女の死により約1500年間続いてきたエジプト王家の血は絶えたとされ、これより先には王家の血を継がない神官、将軍により王位継承がなされていった。

 しかしアンケセナーメンの名が彫られた指輪は、1996年に日本の考古学調査隊によって、ツタンカーメンの側近イパイの墓から発見されている。


 アイがファラオとなったものの、彼の在位はたった数年であった。彼は死期を悟ると、自分の息子であり、当時宰相も勤めていた王子ナクトミンに王位を譲るとしたが、軍事司令官ホルエムへブがナクトミンを暗殺し、王位を強奪。ホルエムヘブはアイの娘でネフェルティティの妹であるムトノメジットを妻に迎え、王家との血縁を確保したことにより王位継承を獲得、ホルエムヘブが第18王朝最後のファラオとなった。彼は、アクエンアテン、スメンクカーラー、ツタンカーメン、アイの4人の名を削り取り、彼らの功績を自分の名で書き換えている。特にツタンカーメンの優れた業績である「アメン復古」、アメン神殿の再開および修復の記録、ルクソール神殿やカルナック神殿の大規模な建設工事などの記録を、己の業績として塗り替えてしまった。

 同時に、国政が悪化していたエジプトは多くの敵国を抱え、特に王子ザナンザが殺されたヒッタイトとの抗争が激しさを増していた。まず、ザナンザの兄、ヒッタイト王子アルヌワンダ2世の指揮の下に、ヒッタイト軍がエジプト領シリアに侵攻。エジプト軍は初戦で敗れたが、幸いにもヒッタイトで発生した疫病のために大きな損害を出すことなく戦いは一時終了している。

 これ以後、ホルエムヘブは自ら軍を率い、彼の即位後に軍事司令官となったラムセスと共にヒッタイトを含む諸外国の勢力を制圧。ホルエムヘブは国の混乱を克服し、約30年間エジプト王として君臨するが、後継ぎが生まれないまま晩年を迎え、アイの血縁にあった王妃ムトノメジットも先に他界していたために、宰相であったラムセスを後継者として指名した。

 ラムセスはサトラー(別名シトレ)という名の娘を正妃とし、ラムセス1世としてファラオの名を継承し、新王国の繁栄はなおも継承されていった。これが所謂第19王朝、エジプト文明が世界に名を轟かせたとされる別名ラムセス王朝の始まりである。


 補足をすると、ラムセス1世とサトラー王妃の間に生まれた子がセティ1世であり、これは大王ラムセス2世の父である。

 これ以降ラムセスという名の王たちがエジプトをより巨大国家として成長させていった――



 淡々と綴られた文章。その最後の付箋部分に、二枚の紙が折りたたまれて挿んである。開いてみるとどちらも父宛に送られたメールの文面のようで、短い英文が印刷されていた。

 差出人に記されたアルファベットで並ぶ名前は考古学研究チームの一員で、主に科学調査に携わっている父の古い友人のもの。何度か父から聞いたことがある名前だった。


『コンピューター断層撮影装置の調査とDNA検査から、大腿に大きな骨折があったこと、そしてツタンカーメンのミイラからマラリア蚊の遺伝子が発見されたという新たな事実が判明しました。マラリアは、19世紀くらいまでヨーロッパでもメジャーな死因だったそうです。ツタンカーメンは大腿骨を縦に割る大怪我をした後、身体に潜伏していたマラリア菌に侵され、死亡したという病死説が有力となりました。まだこれが死因だとはっきりと断定はできませんが、これらの新たな事実を工藤さんに真っ先にお伝えしたいと思い、このメールを送ります』


 このメールはエジプトから。


『研究機関iGENEAより工藤さんに至急お知らせします。ツタンカーメンの属するY染色体ハプログループが判明しました。R1b1a2という現在の西ヨーロッパの住民に見られる父系血統、現代のエジプト人でこのハプロタイプに分類される人の割合は1%未満だそうです。ツタンカーメンがエジプトではなく、現在の欧州の遺伝子グループに属していることが分かりました。実に興味深い結果です』


 このメールはスイスからだ。どちらの文面も結果が分かってその場ですぐに送られたもののようで、急いで書かれたのがよく分かる。


 何度か文章を読み直し、それから深く息をついて、膝の上に紙を持つ手を下ろした。とても長い物語を読んだ気分だった。けれど決してこれは物語ではなく、少なくともここに名前が残る人々が生きて、死んでいった証がこの文章でもあるのだろう。ここに綴られる名前を見ると切なさが溢れて、黄ばんだ用紙上の黒い文字を撫で、視線を宙にやって考える。

 あれほど騒がれたツタンカーメン王の死因はマラリア。彼の死により辛い立場に置かれた王妃、その後継として立ち続けたファラオたち。ここに名前が載らない多くの人々。

 数千年が経ったこの時代で、古代に起こった事実がどれであるのか、私たちに確かめる術はない。それでも、発見されてから殺人説が有力視されていた中で、世紀の大発見とまで謳われた少年王は、結局マラリアという伝染病を患って死んでいったという事実が、今のところ科学で解き明かされた正しい歴史とされている。

 王家の血筋を失っても、栄華を極め続けた文明。少年王の短い生涯とその周りで生き、王家の血が絶えても尚、エジプトの繁栄をそのまま支え、継承し続けた古代人たちの生き様を思い描きながら、もとのページに文面を挿めて本を閉じた。

 本の表紙を撫で、目線を上げると、部屋の隅に置かれているものが目に入る。書斎の大きめの机の奥、カーテンに隠すように置いてある、茶色の紙袋。

 目にした途端、持っていた本を傍に置いて、引き寄せられるかのように傍まで歩み寄り、膝をついて紙袋を手に取った。紙袋の中は白と黒。奥に金がある。恐る恐る手を入れて白いものを引き出してみると、顔を出したのは服のようなものだった。触り心地から、麻の生地だと分かる。

 一端全部を取り出してみて、これが私の発見された時に身に着けていた衣服であることに気付いた。太い肩紐があり、身に付ければ踝までの長さがある白いワンピース。ワンピースとは言っても、細身のドレスのような。灯りに照らされた生地は、息を呑むほどしなやかに波打って光っている。

 捨てられずここに残っていて、今また私の目の前にあること、そして何より私がこれを身に着けていたことを思うと、漠然と不思議な気持ちになった。

 紙袋からすべて取り出すと、麻の衣服の他に、それを胸下で留めるものであろう、刺繍が成された細い帯と金の細い腕輪、黒い衣の上着が続いて出てきた。ひとつひとつを広げて電気に照らし、黒い衣の肩に当たる部分が白く電気の光を通しており、そこに小さめの穴が開いるのを見つけた。

 これが、話に聞いていた銃弾の傷だろうか。まだ肩に薄い傷痕を残す、銃弾の。洗われて、汚れも、べったりとついていただろう私の血も、もうない。

 この服を着て、怪我を負って、私はここへ戻ってきた。王家の谷に。男の人に呼ばれ、受け止められて。

 茫然として自分の膝の上に流れる生地に触れていると、黒い衣の裏に、白い柔らかな布がしばりつけられてあった。引き寄せられるようにそれを上着から解き、綺麗に広げると、それは赤ちゃんのために作られたような、小さな、とても小さな衣だった。何故こんなものがと、それに触れる自分の手が震えていた。撫でて、生地の感触を指の腹に感じる。

 何故だろう。これほどに泣きたくなるのは。

 込み上げるものがあって、思わずその衣に頬を寄せ、顔を埋めた。ゆっくりと頬を包んでくれる麻独特の柔らかさがあまりに愛おしい。この愛おしさがどこから湧くものなのか分からない。そうしていながら、私は昔もこうしていた気がしてならない。何かを思い出したいと願うのに、やはり悲しさが押し寄せるばかりで、記憶と呼べるものは切ないほどに何も甦って来てくれない。

 記憶は戻るのか。この国へ来れば自分が戻ってくると信じてここまで来たものの、本当にそれが実現するのかと考えた時に、突如不安に襲われる。


『──王妃』


 ふと、今まで音にもなり切れてなかった声が、近くで鳴った。それも今までにないくらいに、はっきりと。


『──このようなところで何をしていらっしゃるのです』


 はっとして衣から顔を上げると、電気の白い光の中に淡く浮かぶ二人の人影を見た。驚いて目を見開き、視界に映る光景に声を失った。


『──我々との約束を、お忘れですか』


 幻影や夢の中のようで、瞬きをしてしまえば消えてしまいそうな彼らは、私の前でゆらりと揺れながらも優しい眼差しをこちらに向けている。


「約束……?」


 どうにか発した声に、彼らは微笑んだ。


『──あの方が待っていらっしゃいますよ』


 姿も朧でよく分からない。光の中であまりに淡く、白く消えていきそうだ。それでも優しく笑んでいることだけは分かる。ようやく会えたと思う、泣きたいほどのこの気持ちは何なのだろう。


「誰……」


 私はこの人たちを知っている気がする。

 しかし彼らは答えず、私から東の方角へ視線をやって眩しげに目を細めた。


『──お早く』


 次に瞬きをしたら、白い影は跡形もなく姿を消していた。しばらく唖然と彼らがいたところを見つめ、自ずと手の中の衣を抱き締める。

 今のは、何だったのか。幽霊だと言えば、そうなのかもしれない。しかし、決して恐ろしいものではなかった。まるで私を導こうとしているような。すんなりと受け入れられる、私の奥底にあるものを呼び出そうとするかのような、遠い声。

 私を導く、遥か遠くの、呼び声。


「ここにいたのか」


 我に返って書斎の扉の方を振り返ると、腕に本を抱えた父がいた。私が最後だと思って運んだ他にまだあったようだ。


「なかなか戻ってこないからどうしたのかと思った」


 本を空いている床に置きながら父は私を不思議そうに見つめた。


「どうした?ぼうっとして」


「ううん……何でもない」


 すると、私の手にしているものを見て、父が懐かしむように目を細めた。私の傍まで来ると、やはり私が見つかった時に身に着けていたものだ、と教えてくれた。


「洗って、元通りにしておいたんだ」


 話を聞けば、目も向けられないほどに血と砂で汚れていたそうだ。


「この小さい服は?」


 乳児の産着のような衣を父に示した。他のものはともかく、私が着ていたとは到底思えない。


「お父さんにはよく分からないが、お母さんに聞けば分かるかもしれないね。夢を見ていた人だから……いや、もう覚えていないか」


 母が見ていた夢の記憶は、もうほとんど薄れているのだと母自身も言っていた。たとえ、母が覚えていて、私がその話を聞いたとしても、私はおそらく全部何かの物語にしか捉えられないのだろう。


「でも、この衣を見つけた時、お母さんはひどく泣いていたよ」


 言葉を胸に繰り返し、私は慈しむように小さな衣を撫で続けていた。

 父はそんな私の傍に腰を下ろすと、しばらくの沈黙をおいてから静かに口を開いた。


「ツタンカーメンが悲劇と呼ばれる一番の理由を、弘子は何だと思う?」


 突然尋ねられて虚を突かれながらも、さっきの文面などを踏まえて、そうね、と考えを巡らせる。


「早くに……死んでしまったから?」


 私の返答を受けて、父は深く頷いた。


「そうだね、それもある。彼は死ぬには若すぎた。だけどお父さんは本当の理由は別だと思ってる」


 何だろうと、息をひそめて答えを待つ。


「名前を忘れられてしまったことだ」


 名前を。


「セティ1世が作った最初で最後の王名表、その中に彼の名は無い」


 セティ1世といえば、第19王朝2代目のファラオ、ラムセス2世の父親だ。ラムセス1世とサトラー王妃の息子。

 父は傍に積み上げられた本の中から一冊を探し出すと、アドビスのセティ1世葬祭殿にあるという、歴代ファラオの名が綴られたレリーフの写真を開いて見せてくれた。写真の隣にはレリーフを分かりやすくまとめた図が乗っていて、どの王の名がどこにあるかすぐに見て取れる。


「このアメンホテプ3世とホルエムヘブの間に、ツタンカーメンの名はあるべきなんだ。でも見ての通りないだろう?まるでエジプト史に彼らが存在していなかったようになってる」


「ええ……ツタンカーメンの他の王もいないわ」


 そこにはアマルナ時代に活躍したアクエンアテン、スメンクカーラー、ツタンカーメン、アイが入るはずだ。


「この王名表は、祖先を崇拝する意味で作られたものだから、神を変えてエジプトを混乱の渦に陥れたアマルナの王たちや、先祖たちが守ってきた慣例と常識を破って女王として君臨したハトシェプストの名前は受け入れがたいものだったのかもしれないね」


 アメンからアテンに変え、都まで変えてしまった異端の王。異端王の息子たち。そして千年以上続いた血が途絶え、初めて王家の血筋以外でファラオとなった大神官。


「……それでも、消えたうちのアクエンアテン、スメンクカーラー、アイは他の場所に名前が残っていたからまだいい。ハトシェプストなんてあんな立派な葬祭殿も残っているから、ここに名前がなくともさして問題は無い。けれど、ツタンカーメンは王名表を含め、どこを探してもその名がなかった」


「名前を削り取られたり、書き換えられたりしたから?」


 そうだ、と頷く父はまた別の本を取り出し、ホルエムヘブによって書き換えられたとされるツタンカーメン像のカルトゥーシュの写真を見せてくれた。


「その当時の王が故意にやらせたか、それとも何か他にやらざるを得ない訳があったのか、これだという理由は分からない。統治が短かったせいもあって名を彫られた箇所が少なかったのも理由だろうし、異端王の息子という生まれから、恨みを買ったのかもしれない」


 若くして死んだのだから、残された名前も他の王と比べて実に少なかったに違いない。哀れみを感じて、私は瞼を伏せた。


「他の石像や神殿からも彼の名前は削り取られ、書き換えられてしまったせいでツタンカーメンの名は後世から一切消えるんだ。特に、後の王ホルエムヘブに書き換えられていることが多いね。今、どこにツタンカーメンの名前が彫られていたか調べることも行われているんだよ」


 アイとホルエムヘブ。ツタンカーメンの後に王位に就き、第18王朝に幕を下ろした人たちだ。


「名を忘れられるのは、存在を失うことに等しい。王にとってこれほどの屈辱はないはずだ」


 王は存在があってこそだ。エジプトにこれほど偉大な遺跡が残っているのは、王たちが後世にも自分たちの名前を響かせたかったからだろう。それなのに、王であったのにも関わらず名前を忘れられてしまった少年王がいた。

 ただ一人。地中に埋もれ、人々の記憶から忘れ去られた。


「けれどね、その忘れられた一つの名を、脇目も振らず11年間探し続けた人がいた」


 今度は本棚の高い位置にあった本を一冊取り出し、私に手渡した。本の題名は、『The Discovery of the Tomb of Tutankhamen』。かの有名な『ツタンカーメン発掘記』だった。


「……ハワード・カーター」


 著者名を、ゆっくりと読み上げる。父が渡してくれた本の著者は、ツタンカーメンを発見したその人の名だ。


「彼だけは発見されたひとつの指輪から、抹消された王の名の存在を信じ続けた。どれだけ馬鹿にされようと蔑まれようと、ただひたすらにね」


 カーターは、考古学を独学で学んだために、他の学者から馬鹿にされ続けていたと言う。現在は見直されているものの、KV62の発見後もその扱いはあまり変わらなかった。それでもその環境の中で11年間という歳月をかけて謎の王を探し続けた彼の情熱は、どれほどのものだったのだろう。何を以って、いないとされた王の存在を信じることができたのだろう。


「ツタンカーメンについて知りたいのなら、まずはこれを読みなさい。もう100年近く前になるから、研究に関する展開も説も古いが、カーターが注ぎこんだツタンカーメンに関することすべてがここに記されてる」


 そこまで言うと、父は笑った。


「彼は誰よりも先に、ツタンカーメンという名を見つけ出そうとした人だよ」


 すると、母の声がリビングの方から聞こえ、父が我に返って立ち上がる。また話し込んでしまったと苦笑して首のうしろをかいた。


「お父さん、」


 部屋を出ようとしていた父を慌てて呼び止めた。


「明日、カイロ博物館に行くんでしょう?……ついて行ってもいい?」


 最もツタンカーメンの遺物が集められたあの博物館へ、また足を踏み入れたくなった。発掘記を手にしたまま尋ねた私に、父は優しく微笑んで頷いてくれる。


「分かった。お母さんに言っておこう」


 父が去って行ったあとの部屋で一人、ツタンカーメン発掘記を膝に、私が身に着けていたという衣を手に、しばらく色んなことを考えた。

 明日の内にカイロの家に戻り、一日休んでからその翌日に私を呼んだという人と面会する予定になっている。それまで少しでもけじめをつけよう。出来る限り自分であの時の自分を探して。出来る限り、あの頃の自分の足跡を辿って。


 立ち上がり、部屋の閉じ切られていた窓を開いた。風が吹き流れ、私の髪を攫う。こうして窓や扉を開くたび、空を仰ぎ、風を感じるたび、私は無意識に探している気がする。とても大事な何かを。存在を。


 目を閉じると、声が聞こえる。先程の幻影と同じ、微かな、遠い声が。


 私を導く、遠い遠い呼び声よ。風に乗って、どこへ行くの。

 この茶色の広大な砂漠の、この太陽の煌めきに満ちる国の、ナイルが流れる青さの、どこへ。



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