君の眠る国
エジプトへ帰ることを決めてまず始めにしたことは、叔母たちへの報告だった。
もう少し働いて様子を見てからエジプトに発とうと思ってたものの、報告するなり、新井家は行ってこいと強く背中を押してくれた。
「大丈夫、大丈夫。そういうのは早めの方がいいのよ」
叔母は豪快に笑っている。せっかく与えてくれた仕事をこれから休むこと、色々目をかけてもらって恩返しのできないままエジプトへ帰る決意をしたことなど、ただただ謝罪と感謝を述べると、私の決断に「それで良かったのだ」と寂しそうにしながらも喜んでくれていた。
「いつ帰ってくるの?待って、それ以前に帰ってくる?」
叔母さんは笑みを湛えながら冗談気味に首を傾げて私に尋ねる。それにつられて私の頬も、隣にいた香澄の頬も綻んだ。
「まだ分かりません。でもちゃんと連絡します」
数日かも知れない。数年かも知れない。どれくらいあの国にいることになるかは自分でも分からなかった。そんな私に、叔母は深く頷いた。
「何か、取り戻せるといいわね。大丈夫よ、どうせ私たちだけで何とかなってたんだから、ここのことは気にしないで思う存分行ってきなさい。勿論、いつ帰って来ても大丈夫だからね」
はい、と頷いた自分に、清々しさを感じる。あの国へ帰ると決めただけで、解き放たれた気分がする理由は分からない。
目の前に道が果てしなく続いている。自分の意志でその道を行き、失くしたものを見つけに行きたい。
「本当にありがとうございました」
思い返してみれば、自分で決意したのはここ2年の中で初めてのことだ。私は流されて2年の歳月を過ごして来ていた。自分の意志も持たずに。
それから、他の仕事でその場にいなかった恭介には、初めて自分から食事に誘っていた。もともとしっかりと向かい合って、二人で話し合わなければならないことだったのだから、これで良かったのだと思う。彼はすでに叔母から話を聞いていたようで、日が暮れ始める中、駅から出てきた私を見つけると、浮かない笑顔で手を振ってくれた。
今日は昨日より何度気温が上がって、どれだけ暑かったとか、汗が止まらなかったと他愛のない話をしながら予定だったレストランに入って席につく。話に少し笑い声を織り交ぜながら料理を注文し、それからは互いに黙り込んでしまった。
辺りから食器の音がする。香ばしい匂いが漂い、グラスで乾杯する男女の姿が近くに見える。穏やかで静かな雰囲気の中にいて、何かを話さなければと思うのだが、いつもの柔らかい雰囲気とは違って眉間に皺を寄せながら深く考えている様子の相手に、声をかけることが躊躇われた。
緊張を感じながらも、何のためにこの人を誘ったのかと自分を叱咤する。言い出さねばと、用意された水を一口含んで、深刻な顔をして自分の手元を見ている向かい側の相手に、私は口を開いた。
「恭介さん」
「……今日、」
切り出した私の声を、手元に視線を落としたままの恭介が遮った。
「母さんから電話で聞いたよ」
いつもの柔らかい笑みを消し、真摯な表情で彼は声を低めた。
「何度も考えてみたけれど、やっぱり頷けない。エジプトで記憶を失くすことのほどがあったんだ。行かないに越したことはない」
間があってから、そうね、と私は肩を落とした。母と同じように、彼が私を心配してくれているのが分かる。私の記憶喪失が心因性のものだと診断されていることもあって、エジプトに戻ればまたぶり返す可能性がゼロという訳ではない。ようやくここまで立ち直ったのに、逆に戻ってしまうことも懸念される。彼はそれを案じてくれているのだ。
「何が起こるか分からない。また辛い目にあうかもしれない。そうじゃないか」
「でも、記憶が戻るかもしれないの」
自分の声は芯が通ったようにはっきりとしていた。何の根拠もないが、エジプトに行けば失った記憶が戻る予感がしてならない。
「失くすほどのことがあった記憶だろう。正直に言うと、俺は行かせたくない。行かない方がいい。母さんや香澄が納得しても俺はその選択がいいとは思えないんだ」
一度口を噤むと、彼は意を決して私に言った。
「そんな記憶を思い出す必要なんてない。反対だよ」
向かいに座る人を見て、それは違うのだと私は首を振った。
「エジプトに惹かれている私がいるの。どうしても惹かれて、行けば何かがあると思えてならない……置いて来てしまったものをまた取り戻せるような、希望のようなものを感じて仕方がないの」
恭介は押し黙って私を見つめ返した。
「……いつか、話したでしょう?夢で見た砂漠の国のこと」
以前、繰り返し見た夢の話に、恭介は虚を突かれたようにしながらも、ああ、と頷いてくれた。
「青い、澄み切った空をハヤブサになって飛んで大きな虹を越えると、そこは太陽の国で……言葉にならないほどの感情が溢れて止まらなくて、私は夢で泣いたわ。あの時ほど自分が戻ったと思ったことはなかった……今、その時と同じ感覚がするのよ」
不思議な夢だった。限りなく夢でありながら、限りなく現実にも感じられた。
涼やかな風を受けた。青く澄んだ水を潜り抜け、青と緑に埋もれて寝転がった。茶色の砂が、陽光を浴びて黄金に煌めきながら私の目の前を流れていく。砂漠の国とは思えない豊かさに、温かなたくさんの笑い声に包まれる。涙が止まらず、胸の高鳴りが抑えられなかった。誰かがいた。私に手を差し伸べて、手を振ってくれる多くの人々が。その姿は遠くの靄に包まれてしまって、どれだけ走っても見えることはなかったけれど、目に入る風景から私は夢とは思えないほど確かに感じた。
大きな、大切な存在。忘れてはならない存在だった。
彼らはきっと、失った記憶の中にいる。
「思い出したら辛いこともあるかもしれない。でも、記憶は私自身でもあるんだわ。それを取り戻すことができたなら、私は初めて私に戻れる。私は戻りたい」
強く言い切った後、恭介は長い間黙っていた。そうしている内に注文していた料理が運ばれ、私たちの目の前に綺麗に並べられる。
「……伯母さんも伯父さんも、賛成して?」
「ええ。父も母も、それでいいと言ってくれたわ」
母はせっせとエジプトへ飛び立つ準備をしている最中、父もエジプトのルクソールで待っていると言ってくれている。
私の返答を受けた彼は深く息を吐くと瞼を伏せた。それから瞳を開いてしばらく手元を見つめ、前屈みだった身体を起こして背もたれに寄り掛かる。
「止めても、無駄なんだろうね」
彼は少し項垂れるように、肩を落としながら弱く口元に弧を描いて見せた。
「分かってた」
いつもの柔らかな笑みが相手の顔に浮かんでいて、ほっとする。私は居ずまいを正して彼に告げた。
「よくしてもらったのに、ごめんなさい。でも恭介さんがいて支えてくれたから、私はここまでやってこられた。今の私がある。この恩は、一生忘れません」
心からの想いだった。
「こんな私を好きになってくれて本当にありがとう」
「いや、」
項垂れながらも彼は笑った。
「確かにこうなりたいっていう理想はあったけど、俺は一方的に好きだっただけだし、俺にとって失うものは何もない。ただ、フラれた絶望感は否めないな。どうしても止めたいって気持ちは今もあるんだ」
軽く肩を揺らしてから、背もたれから身体を起こしてテーブルに肘をつける。
「でも、弘子ちゃんは失ったものに立ち向かいに行くんだろう?何があるか分からない。何を思い出すか分からないのに。短期間に、変わったね」
彼が清々しく微笑むものだから、自分の頬も自ずと緩んだ。
「何かあった?」
今の私のひしめく気持ちを、どう言葉で表現したらいいか分からない。あの時、私を呼んだ人がいた。それだけで何も見えてなかった未来が明るく照らされている。私から続く先が、これほどに輝いて伸びている。
「見えなかったものが、見えた気がするの。それを探しに行こうと思う」
逢いに行こう。失ったものたちに。
「幸せそうだね。顔を見てると安心する。随分と凛々しいよ」
「……ありがとう」
「弘子ちゃんは強かったんだ。俺が思っていたよりも」
彼はにっと笑ってみせると、さあ食べようと食事にようやく手を伸ばした。
レストランを出ると、彼は駅まで送ってくれた。
「これからも良い友人でいよう、と言いたいけれど、もし嫌だったらいつでもおいで。その時こそ結婚前提で付き合おう。俺はいつでも準備できてるから」
「その頃には、恭介さん、きっと他のもっと素敵な人とお付き合いしてそうね。私なんて足元に及ばないくらいの」
最後に冗談で「記念に」と言いつつ握手を交わすと、離れる際の彼の手が、とても名残惜しそうだった。私は、この差し伸べられた手を離れて一人でもと来た道を辿ることを決めたのだ。
これでいい。後悔はない。
「反対方向なのに、送ってくれてありがとう」
「いいよ、楽しかったから。落ち着いたら、また食事でも」
「喜んで」
「いや、今度は俺がエジプトに行こうかな」
「是非。とても素敵な国なのよ」
私が改札を過ぎる前、連絡だけはして欲しいと言って彼は手を振ってくれた。
出発の日の起床は、いつもより数時間早かった。
夏の暑さがようやく引き始める時間に母と一緒に家を出て、スーツケースを引きずりながら近くの駅から出ている成田直通のバスに乗り込み、19時半に成田空港に到着した。
出発は21時20分。成田空港の第2ターミナルを歩き、出発時刻に変更がないかを電子掲示板で確認する。ラウンジで時間になるまでくつろぎ、買わなくて大丈夫だと言いながら結局母が買ってしまったエジプト観光のパンフレットを見ては、またここに行きたいだの、この料理が食べたいだの、思った以上に会話が盛り上がった。私が小さい頃、この遺跡で転んだのだとか、これを食べたいと言って利かなかっただとか、そんな思い出話ばかり。そうしている内に搭乗の時間が迫り、そろそろ搭乗口へ行かなければと、ラウンジを出て指定されている場所へと向かった。曲がりくねった通路を過ぎ、こっちでいいのかと確認しながら進むけれど、毎回のことながら搭乗口までの距離は長い。
無事、予定の飛行機に乗り込み、窓側の席にもたれながら外を覗くと、滑走路が見えた。
日本を離れ、エジプトへ。何度も飛行機に乗る経験があったはずなのに、こんなにも興奮に満ちたことは無い。アナウンスの後、まるでジェットコースターに乗ったかような振動の後、私を乗せた飛行機は空を飛んだ。
機体には各座席にモニタがあり、コントローラを外すとゲームや座席間で会話ができる機能がある。そこから流れる映像や文字はほとんどがアラビア語で、懐かしさが込み上げた。
2年間、まともにアラビア語を喋っていない。ちゃんと現地に到着してから話せるかしらと今更ながらに心配になりながらも、興奮がその心配を覆い隠していた。現在飛んでいる場所や速度、現地時間、あと何時間で到着予定などの情報がモニタに表示されていて、映画を見ている最中にも画面を切り替えてあとどれくらいでエジプトなのかを引っ切り無しに確認してしまう私を、母は子供のようだとからかった。
日本からエジプトまで14時間29分。周りが寝静まり始めても、私は眠ることが出来なかった。締められた窓を少しだけ開けてみると、太陽が見えた。さっきまであれほどに暗かったのに、その明るさは網膜を焼いて私の胸を震わせる。
もうすぐ。もうすぐよ。
あと少しで、あなたの眠る国。
そこでふと我に返って今自分の内に語った言葉を繰り返した。
あなたって、誰のことかしら。
私が知らないはずのものが、私の奥深くにあって、それが溢れて漏れ出したような感覚だった。分かるだろうか。この意味も。この掌で微かに光る少しの予感を胸に、雲を飛び越え、あの太陽の国へこの足を踏み入れたなら。
到着時刻は現地時間の4時40分、カイロは早朝を迎えている。実際は偏西風の向かい風の影響もさほどなく、30分ほど早くカイロに着くことができた。
眠気が今になって襲って来て、ぼんやりとした意識のまま空港を出たせいで本当にここがエジプトなのかと疑うほどだったけれど、外に出て、朝陽を見、そして吹いてきた風と共に微睡んでいたものがすべて吹き流され、ああ、と思わず声が漏れた。
エジプトの風だ。恋焦がれるほどに望んだ風。胸がどうしようもなく高鳴り、群青の空を白い朝陽が分け入っていく光景に目頭が熱くなった。
戻ってきた。この国に。
目を潤ませる私の肩を、母はいやねと言って撫でてくれた。
「こんなところで泣かないの。ほら、行かなくちゃ」
一緒に涙ぐんでいるお母さんに抱き締められるように両肩を撫でられながら促され、父の職場に向かうため、バスに乗り込み、ルクソールへ出発した。
父の邪魔をしないよう、仕事が終わるころまで観光することになり、母と町並みを歩き、食べたかったものを食べ、ルクソール神殿とカルナック神殿を経て、時間が夕暮れ近くになってから、お父さんがいるルクソール博物館に寄り、最後は外の夕焼けに燃えるナイルを臨める場所に佇んでいた。ナイルからの涼しい風が、私の髪を弱くなびかせ、涼やかな空気で埃っぽさを取り除いてくれる。
ルクソール。古代名、テーベ。
古代エジプトの王都はメンフィスに置かれることが多かったのに対し、中王国の第11王朝から新王国の第18王朝までここがエジプトの都だった。その後、第19王朝でデルタに遷都されながらも、アメン信仰の総本山であるカルナック神殿を中心として、重要な宗教都市としての地位を保ち続けた場所。ツタンカーメンとアンケセナーメンが生前過ごした都だ。
彼らの過ごした宮殿は残っていないが、彼らはここで何を感じたのだろう。数千年後に生きる私に、彼らの思いをどれだけ受け取ることができるだろう。
行方不明から帰って来て、伸びた髪の他に感じた変化というのが、歴史に対する自分の持つ価値観だった。前ならば少しも思わなかったことを、遺跡を目の前にして考えることがある。
これを作った人がいた。ここで物思いにふけった人がいた。泣いた人がいたかもしれない。数千年前の時代に生きた彼らの息吹を、少しでも感じ取ろうとする私がいるのだ。
夕陽が私を照らし出す。建物すべてを茜色に燃やして、何もかもを儚く見せるその光景に、心が震えて仕方がない。
ああ、やっぱり。私はこの夕陽を、誰かと一緒に見ていた気がする。
忘れてはいけない、何かがここにある。ここに溢れている。
目を閉じて耳を澄ませると、何かが私を呼んでいる気がした。たおやかな風に乗って、遠い場所から乗ってきた呼び声のような。
遥か遠い場所で。誰かが、私を──。
「弘子!」
聞き覚えのある声に振り向くと、父が母と一緒に並んで博物館から出てこちらに向かって来ていた。
「お父さん!」
手を振って、久々の再会を喜び合う。
「よく来たな。どうだ、調子は」
「とてもいいのよ。興奮して飛行機であまり眠れなかったけれど、今は目が冴えてしょうがないの」
私の言いようにそれはいいと父が肩を揺らしていると、後ろから誰かが駆けてくるのが見えた。
「クドー!」
顔立ちが欧米の、中年男性が何やら白いA4の紙を手に父を呼んでいる。
「……おお、これはまた可愛らしいお嬢さんが二人も。どなたかな?」
近くに来るなり、私と母を見てお世辞を言ったものだから、母と額を突き合わせて笑ってしまった。
「妻と娘だよ。用事があって今日こっちに来たんだ」
「綺麗な奥さんとお嬢さんだ。今度一緒にお茶でもいかがかな」
はじめまして、と互いに冗談まじりの挨拶を交わすと、相手は興奮気味に父の方に向き直った。こうして父と話すのだから、考古学調査団の人なのだろう。英語を聞くのも随分久しぶりだ。
「宮殿跡の土の結果が出たぞ」
「どうだった」
父は鼻息を荒くして身構える。
「お前の言う通りヤグルマギクの花粉だったよ」
ヤグルマギク。私の好きな青い花だ。
それが分かった途端、あるはずのない青さが視界に波のように広がった。
私を呑み込むほどの、美しい青。
「実に興味深いなあ」
男性は割れた顎を擦りながら、興奮気味な表情のまま首を傾げている。
「あそこは一面花畑だったのかもしれないぞ。もっと広範囲の土を調査に回してみたい。ヤグルマギクが王家の花だったハスに並んだのかな。でも、エジプトは花を愛した国でもあるからなあ……」
ハスは王家が出来て以来の、エジプト王家と国の象徴的な花だ。それにヤグルマギクが並ぶなんてことは今までに無かっただろう。王家のハスにヤグルマギクが並んだということは、その時代に何か政治的なものが大きく変わった可能性が出てくる。
「炭素年代測定に出して、どの王朝かが分ればまた面白い発見になりそうだ」
その人の提案に父も何度か繰り返し大きく頷いた。
「そうしよう。花畑がどれくらいの広さだったのか、土の採取に関しても面積を広げてみた方がいいかもしれない」
「よしきた、土を徹底的に集める計画を立てて、大幅な土採取を実行しよう。でも何でお前はヤグルマギクって分かったんだ?」
聞かれて父ははぐらかすかのような含み笑いをして小首を傾げる。
「あとの作業は明日にしよう。今日はもう暗くなるよ」
「おお、そうだな。もう帰る時間だ。息子が俺を待っている!」
じゃあな、と威勢の良い挨拶をして、その人は来た時と同様、大股且つ速足でその場を去って行った。
「ヤグルマギク?」
気になって尋ねると、父が頷いた。
「宮殿跡の一番奥の外れの空間に、ヤグルマギクの花粉が大量に見つかったんだ。今、その広さと年代を調べてて、後から埋め立てたんじゃないかって話になってるんだよ」
母は悲しげな表情をして、ナイルの方に視線をやった。
風が吹く。夕暮れのナイルから吹き渡る風は、少し寂しさを含んでいる。
「そうなの……」
一瞬、視界に広がった青い花の空間は、夕暮れの茜を残して跡形もなく消え去っていた。