呼んだ人
博物館の帰りに母と外食して、帰宅したのは20時を過ぎた頃だった。
お風呂を沸かし、悩ましげな顔で読書をしている母の傍を通り過ぎて自分の部屋へ戻ると、机に置いてあった一冊の本が目に留まる。この前、本屋の世界史のコーナーでどうしても気になって購入したエジプトに関しての解説本だ。それぞれの王朝が時系列順に並び、代表的なファラオとその時代の特徴的な出来事が関連史跡と共に簡単に紹介されている。触れるとすぐ現れる「第18王朝」の章は、自然に開くほどあとがついてしまっていた。この時代の主な王は、「古代エジプトのナポレオン」と称されたトトメス3世、女性としては初めてエジプトに実質的な支配権を確立したハトシェプスト、世界初の一神教とも言われるアテン神信仰を追求したアクエンアテン。
特にアクエンアテンのアマルナ改革が大体的に取り上げられている。都がアマルナとルクソール、メンフィスの間を行き来して二度変わったこと。神をもアメンからアテンに変えたアクエンアテンは異端の王と呼ばれ、国は大きく荒れたこと。新たな美術、新たな政治など輝かしいものがどれだけ並んでいても、紹介されている王たちの中で、端に載せられた黄金のマスクは他の王が霞むくらいの存在感があった。
母の夢で、私が一緒に居た少年王は、年代的にも若くして亡くなったことからしても、一人しか思い浮かばない。第18王朝歴代ファラオ、14人の内の一人。このマスクの持ち主、悲劇の少年王ツタンカーメン。
アクエンアテンの息子で、異端王の子と呼ばれながらも、父の死後に王位に就いた幼いファラオ。私がこの王に関して知っているのは有名すぎる黄金のマスクと、防腐のために塗られた薬品による化学反応で黒ずみ、醜くなったミイラだけだ。見るのも怖くて、エジプトにいた時でさえ一度も見に行ったことがない。保存技術が高くなった現在では、昔とは違ってKV62の中でそのミイラが見られるという。
頭を振って、本を閉じた。エジプトから離れようと決意したのに、どうして未練がましくこんな本を買ってしまったのか。本棚にしまおうとして、一冊の大きめの図鑑が足元に落ちてくる。足の上に落ちなかったことにほっとしつつ、屈み込んで床に開いた図鑑に手を置いた。
本は、小さい頃に夢中になってページをめくっていた『ピラミッド大図鑑』。いくつもあるピラミッドが、ひとつひとつ壮大な写真と共に詳細な説明と考察がなされている、値段もそこそこな父が持つ絶版本のひとつだ。日本に帰って来た頃、捨てられそうになっていたのを、こっそり抜き取って自分の本棚に入れてしまったものでもある。
ページをめくるだけで分かる、進んでいた数学、天文学、医学。法で治められた古代の帝国。豊かな自然。自然を愛し、感謝し、その中に神を見出しながら自然と共に数千年を生きた人々。生き生きとした庶民の落書きや、王族の数千年に渡る長い歴史。黄金に光る太陽、青いナイル、どこまでも続く砂漠に、ナイルの畔に茂るパピルスの深い緑。どこからかともなく涼しさを運ぶ、緩やかな風。
それほど興味もなかったはずのもの一つ一つが、これほど鮮やかに色を孕んで流れ込んでくるのは何故。ナイルの風を浴びたかのように感じるのは、何故。
図鑑を見つめた。
何か。何か、見落としている気がする。
どこかに。歴史を綴るこの黒い文章の中に。
私は何か大切なものを、見落としている気がする。ここにいるべきではないような。
いきなり悲しさが波のように押し寄せ、頭を膝頭につけて膝を抱いて蹲った。何度か呼吸を繰り返し、膝に縋る。
戻らなければと願う、私の本来の生活とは何であるのだろう。仕事にも慣れてきたのだから、もうすぐ結婚も考えて、両親を安心させて。
それが、私の本来の生活。分かっている。そうでなくてはいけない。でもやっぱり何かが違う。このままではいけない気がする。でも、どうすればいいのかが分からない。
──私は、誰。
いつもの疑問が脳裏をよぎった。
私は、何をしているの。
どうしてここにいるの。
どうして焦っているの。
どうして不安なの。
どうしてこんなに辛いの。
涙が出そうになる。私は私が分からない。分からないことが、こんなにも辛い。
これでは駄目だと振り切るように図鑑を閉じ、立ち上がって本棚に戻した。目に入らないよう、小さい頃からあったぬいぐるみを置いて背表紙を隠す。ここまでして離れなければと思うのに、本を捨てられない。
ぬいぐるみの隣には、数枚の写真が写真立てに入れられて飾られている。小さい頃の私。メアリーと私。両親と、私。日本の写真、エジプトの写真。私の隣が大きく開いた写真。その写真を手に取って、空白を指の腹で撫でてみる。
「そこには男の子がいたの」
振り返ると本を片手に持った母が開けっ放しだったドアの外に立っていた。
「男の子……?」
聞き返すと、相手は深く頷いた。
「中村のおばさんの子供、弘子より5つ年上の男の子だった。名前は……もうお母さんにも思い出せない」
真っ白な用紙に一点の薄い墨を落としたように、何かが頭の中にぼんやりと現れた。
影だ。一度消えたはずの、影。
「お母さんは、やっぱり……知っていたの?」
母が何かを知っているような気がしてならなかった。その空っぽの部屋の意味も、誰のためでもない風景ばかりのアルバムの理由も、そして私の隣にある空白の真実も。
「その子は、中村のおばさんの一人息子だった。頭が良くて優しい子で、あなたとずっと一緒に育ってきた。なのに、顔も名前も思い出せない。今はうっすら、その存在が浮かんでるだけ」
「私と一緒にいた人?」
母は静かに深く頷いて、部屋に足を踏み入れる。
「……中村のおばさんは子供なんて一人も産んでいないって言うし、あったはずの写真も全部そうなってる。存在が消えてしまった……周りにいないと言われるの。ある時からいないことになってしまった。あの子の全部が、無くなってしまった」
誰も、覚えていない。メアリーも言っていた。私たちの他に誰かいたような気がするのだと。
「前に話した夢に、その男の子もいたのよ。夢の中で死んでしまって、あなたと一緒に戻ることができなかったけれど」
写真も存在も名も何もかもを無くしてしまったその人のことを、母は話していた。写真の空白に視線を落とす。指で撫でても、現れることは無いと分かっていながら、私は繰り返しそこを指で撫で続けていた。
「ねえ、弘子」
母がゆっくりと私の部屋へと入ってくる。
「エジプトに、帰りたい?」
はっと顔を上げると、母の顔がある。
「弘子は、どう思っている?」
優しげな、それでも悲しそうな。
「弘子の正直な気持ちを、お母さんは聞きたい」
見つめられ、私は咄嗟に自分の足元に視線を落とした。
行きたいと、思う自分がいる。まるで故郷のように感じる私が。私の奥底が探している人が、そこにいる気がしてならない──でも。
「……ううん」
写真立ての枠を持つ手に力を込めて、気持ちを断ち切った。私には出来ない。
さりげなしに首を振って写真を棚に戻した。
「私はこのままがいい」
あんなに心配をかけて6年も失踪した場所に行って、母たちを心配させたくないと言う気持ちが急く。私は、本来あるべき場所で、あるべき生活をしなければならない。行方不明だった間、両親をどれだけ心配させたかを思うと、それ以外の答えなどとても言えなかった。
エジプトの話もなるべくしないようにしていた。なるべく心の奥に巣食う悲しさを出さないようにしていた。
「お母さん、」
本棚に身体を向けたまま、母を呼んだ。
「私、恭介さんと結婚前提でお付き合いをしようと思うの」
これでいいのだと自分を抑え込んで、一気に言い切った声は掠れていた。言ってしまったら、どうしていいか分からないほどに声が震えて、呼吸さえ大きく揺れてしまう。
「弘子、あなた……」
母が驚いて私を見開いた目で見つめている。それでいいのかと問い掛けるようで、思わず棚の方へ目を逸らした。
「色々と考えて、決めたの。後でちゃんと話すから……ごめん、先にお風呂入ってくるね」
このままこの話を続けたら、泣き出してしまいそうだった。辛くて堪らない。どうしてこんなにも悲しくなるのか自分にも分からなかった。
「弘子、待って」
傍を通り過ぎようとした私の腕を母が掴んだ。
「あなたに話したいことがあるの」
「え……?」
私の手を両手で優しく包んで母は揺れる瞳で私を見た。
「あなたが見つかった日のことよ」
「その話はもうたくさん聞いて……」
「話してないことがまだあるの」
私が見つかった、あの日のこと。まだ、私の知らないこと。
「聞いて」
私の部屋に二人で向かい合って座った。こんな風に面と向かって話し合うのは、夢の話をされた時以来だ。
「弘子が見つかった日、お母さんはあなたの夢を見ていた」
母は、ゆっくりと柔らかな声で話し始めた。
「弘子が古代で王家の谷に向かっていると分かって、居ても立ってもいられなくなって、寝ているお父さんを起こして王家の谷に向かったの。夜で、柵も閉まって谷の中に入れない状態で……そこで、倒れている弘子を見つけたと言ったけれど、実は違う。そこには一人だけいた」
初耳だった。母は私を感じて王家の谷へ行ったところ、私が肩から血を流して倒れていたと言ったのだ。倒れている私以外に誰もいなかったと。警察にもそう説明していた。
「王家の谷の方を向いて、一人立って、弘子の名前を静かに呼ぶ男の人……遠くから見ていただけだけれど、声は風に乗ってきたかのようにはっきりと聞こえた。決して叫んでいるわけではないのよ」
思わず息を呑んで話に聞き入る。胸が早鐘を打ち始め、握り締める膝の上の手に自然と力が籠った。
「その時、自分の娘と、今起きていることと何か関係がある人なのだと直感したわ」
相槌も忘れてしまうほどに、何かが自分の中を駆け巡って行った気がした。
「その人の方へ行こうとした時、あなたが現れた……正確には、弘子が消えた時と同じように眩しいくらいに辺りが光って、思わず目を瞑ったの」
私が初めて消えた時、王家の谷、KV62と呼ばれる王墓の中で、眩しいくらいの光に包まれて私は両親の前から姿を消している。その時と同じことが、今度はそこで起こっていたことになる。
「次に目を開いたら、あなたがいた。その人の腕の中に、弘子がいたの。ずっと探していた娘だと分かった時、涙が出るほどに嬉しくて名前を呼んで走った。でも、弘子は肩から大量の血を流して、意識も無かった」
そこからあの病室に繋がっていくのだ。出血が多すぎて、一時的に危険になったというあの状態に。
胸奥で逸るこの気持ちが何であるか判断できないまま、母を見つめ続けた。母の目元は、涙で潤んでいる。私が戻ってきたときのことを思い返すと、未だに涙が出て来てしまうと言って、1年前も目尻を拭いながら話してくれたのだ。
「血を流して気も失っていた弘子を見て、気が動転していたお母さんたちの前で、その人は適切な処置をして出血を抑えてくれたの。あの人がいなかったら、弘子は出血多量で死んでいたかも知れない」
母は目元を拭った手を膝に戻し、話を続けた。
「あなたを助けてくれたのはその人なのよ。その方が弘子の命の恩人なの」
私の。
「その人は、今エジプトにいる」
息が止まるような心地がする。
「あの時…弘子がカイロの病院で目を覚まして数日経って日本に帰ると決まった頃、その方が来て、弘子との面会と申し込まれたの。とても聡い顔をした人だった。弘子の今までのことの何かしらに関係していることにも気づいてた……でも、お母さんはそれを拒否した」
エジプトの病院にいた時、一度だけ私の知らない来客が来た。母も父も名前を教えてくれなかった、私に会わなくていいと言った人が一人だけ。
「その人のこと、どうして……」
言葉がつかえた。私を呼んで、私を呼び戻してくれた人が、私に会いたいと言って来てくれていた。
私を。私の名を、呼んで。
溢れてくるものを感じて、思わず胸を抑えた。はっきりしない影が白い靄のなかにぼんやりと現れる。
私に手を差し伸べたのは。私が、探しているのは――。
「あなたは何も覚えていなかった。精神的にも身体的にも衰弱していたし、とてもじゃないけれど、お母さんはあなたの苦しんでいるところはもう見たくなかった。見ていた夢が、もし本当に現実に起きていたことなら、弘子が失った記憶は幸せなものばかりではない。辛いことの方が多いのよ。思い出したら、弘子はきっと苦しむ。思い出してほしくなかった。記憶から引き離すのが一番だと思った」
そうだったのかと、告げられる事実に目頭が熱くなった。胸元の手を強く握り締める。
「だから、弘子が会いたいと言わない限り、会わせるつもりはないとその人に言ったの。お礼だけ渡して、お母さんはその人を残して病室に戻った……弘子に話さないでいたのもそう。思い出させたくなかった。その人に会えば、弘子は記憶を取り戻す気がしてならなかった」
そこまで言って、母は悲しげに目を伏せた。
「でもあの時の判断は、間違っていたのかも知れない……」
掠れてしまいそうなくらいの小さい声は、母のものとは思えないほどに弱々しい。
「記憶を取り戻すこと、引き離すこと……どちらが正しいのか、お母さんは今でも分からない。思い出してほしいのか、忘れたままでいて欲しいのか、自分の気持ちでさえ、いくら考えても答えはでない」
今日博物館に私を誘ったのは、思い出して欲しいという気持ちから。
今まで話してこなかったのは、忘れたままでいて欲しいという気持ちから。
母は私のためにずっと悩んでくれていた。
「お母さん」
堪り兼ねて呼ぶと、母は肩を落として、息をついて弱く微笑んだ。
「……でも、このどちらかを選ぶのは、お母さんじゃない。弘子なのよね。それを忘れていた」
そこまで言うと、母はゆっくりと背筋を伸ばして赤らんだ目元で私に向かい合った。
「弘子、あなたがもし、今までのことを思いだしたいと言うのなら、この人に会いたいと言うのなら、お母さんはあなたをエジプトに連れて行く」
大きく胸が震えた。また、エジプトへ。
「弘子、あなたが行きたいというのなら」
「わ、私……、私は……」
私は、普通の生活を生きなければならない。だが、本当の気持ちはどうだろう。私は、何を願っているのだろう。私が生きなければと思い描く普通の生活の先に、何があるというのだろう。
覚束ない声を並べる私に、母がさっきまで読んでいた本を膝の上に置いて開いた。本だと思っていたものは手帳で、そこから名刺を取り出して私に差し出した。
「この方よ」
震える手に取って、白い小さな紙に綴られた黒い字を見つめた。英語で書かれた、感染症を主に研究する職業に就いている人のようだ。欧米人の名の間に、イスラム教のミドルが入っていることが、とても印象的だった。
この人が、私を呼んだ人。
「思い出すことは、苦しみかもしれない。けれど、思い出さない方がもっと苦しいのかもしれない。あなたを見ていてそう思えてくる。もしお母さんやお父さんのことを気遣って言わないようにしているのなら、それは大きな間違いよ」
母の瞳が大きく私を映し出す。
「あなたが帰って来てくれた時、もうエジプトにはいない方がいいのだと思って有無を言わせずここに連れ帰って来た。でも、あなたはいつも辛そうな顔をする」
ごめんね、と母が私の髪を撫でて囁いた。小さい頃から大好きだった母の優しい手が、髪から私の頬に流れる。涙で相手の顔が滲むのを感じながら、私は首を横に振るので精一杯だった。
謝らねばならないのは私の方だ。どれだけ母たちを心配させてきたか。そしてそれは今でも変わっていない。
「弘子の人生は、弘子のものだもの。私たちは、それを助けていくだけ。間違った方へ行かないように支えていくだけ。親って大きいようでそれしかできないものなのよね」
私は、どうしたいのか。
私は。この人に。私を呼んだ人に──でも。
「このままじゃ、あなたの時間は止まったままになってしまう気がしてならない」
顔を上げて母を見つめる。
言ってもいいのだろうか。こんな我儘を、言ってもいいのだろうか。
6年間も心配させた。父は白髪が多くなって、母は痩せていた。それなのに、私の我儘を聞いてくれるのか。
「今の自分の正直な気持ちを大事になさい」
大粒の涙が止めどなく零れた。
私の気持ち。正直な、気持ちは。
「お母さん」
靄としてあったものが拭い去られ、自分の本当の望みというのもがようやく姿を現す。正直な自分の気持ちが分かった途端に耐えきれなくなり、顔を手で覆った。掌に涙が落ちて行くのを感じながら、身体が自然と前に屈む。
「帰りたい……」
母が私の身体を包むように抱き締めた。
「私……帰りたい」
エジプトへ。夕陽が煌めく、砂漠に覆われたあの国へ。
あの、美しい太陽の国へ。