間章
消毒液を部屋全体に満たしたような独特の匂いに気付いたのはいつのことだったか、あまり覚えていない。
自分の身体に繋がるチューブに、吊るされた点滴の透明な袋、中に詰められた透明な液体。人の影が何人も右往左往していて話し声が耳に鳴る。誰かが近くまで顔を近づけて、自分の名前を呼んだ気もしたが、一瞬開いた視界の白さに何を思うことなく、また瞼が閉じていった。
次に目を開けたのは、同じ白さの中だった。その時最初に思ったことは、自分を覆い尽くす白に吸い込まれそうだということだった。
足も手も、指先どころかすべてが石膏に固められたかのように動かず、感覚が遠い。瞼だけが必要最低限の瞬きをして天井のみを見続ける。
眠い気がしたが、以前目を開いた時ほどではない。見覚えのない機器が自分に取り付けられていて、人の話し声が遠いところからこの白い部屋に響いている。
やがて、ドアの開く音に続き、足音がした。誰かがやってきたのだと分かって、その人があっと小さく声を上げるのを聞いた。こちらに走り寄り、私の顔を確認するように覗き込む。大きく目を見開いて涙に覆われた瞳に私を映し出す。
「……弘子」
ぽつりと声が落ちてきた。
「ああ……!」
お母さん。
呼ぼうとしても声が出なかった。どこか遠いところに身体を置いてきてしまったように、意識が上ってこない。
「あなた!来て!弘子が!」
駆け寄ってくる足音が聞こえて、もうひとつの顔が私を覗き込む。父だった。母は私の額を前髪と一緒に何度も撫でて、良かった、良かった、と泣いて繰り返した。
「……弘子」
目元を赤くした母が顔を上げ、ようやく私の名を呼んだ父の顔が見える。信じられないと言った様子で、青ざめた面持ちで私を見、私の髪を撫でた。
「今までどこに……まさか本当に……」
尋ねようとする父を母の手が止めて、涙を流しながら微笑む母の隣で父も少しだけ表情を緩めた。
懐かしい顔が並んでいる。どうしてこんなにも懐かしさが溢れるのか分からない。目頭が熱くなって、もっとよく見たいと思える二人の顔が余計に滲み始める。
右腕に力を入れて起き上がろうとして、突如走った身体中の痛みに驚いた私はまた同じようにベッドの上に崩れ落ちた。
「弘子!」
慌てて母が私の身体を抑えた。
「何をしてるの、傷口が開いたらどうするの」
もとの位置に身体を戻されながら、身体の重さに目を瞬いた。
左腕が特に痛い。腕というより肩だ。まったく動かないことに戸惑って理由を聞く間もなく、腕から徐々に這い上がってくる痛みに、たちまち顔が歪んだ。
どうしてこんなに痛むのだろう。
「銃で撃たれた傷よ」
母が心配そうな顔で、私の肩を撫でながら言った。
自分の肩に目をやってみると、自分の腕が肩に掛けて包帯に何重にも巻かれて動かないように固定されている。
「銃弾が残ったままで、取り除く手術もしたの。しばらく動いては駄目」
母の言葉に愕然とした。
私は、銃で撃たれたのか。それほどのことをこの身に受けながら、どうしてこういう経緯に至ったのか、思い出そうとしてもまったく頭に甦ってこなかった。
「弘子、お前、どこで何をしていたか覚えてるか?どうして撃たれたのか、どこでどんな……」
どこに。私はどこに。
「もう5年経ってるんだぞ」
父の噛みしめるように発せられた言葉を頭で鸚鵡返しするだけで、私には精一杯だった。
「最初に行方不明になってから数えれば6年だ」
その月日に頭が真っ白になる。覚えているのは、6年前に両親と私で、王家の谷に行ったこと。一度それで帰ってきたことは覚えている。そして、一人でアマルナに行って、メアリーが追いかけて来て。
他に、誰かいたような。
誰か。
そこで、何があったのだろう。
思い出せない。何か大きな。たくさんのものが。
「工藤さん、失礼しますね。気分はどうですか?」
誰だろうかと扉の方を見やると、日本人だと思われる医師と看護師が立っていて、両親が私から離れて、お願いします、と声をかけた。
「こんにちは、弘子さん」
挨拶に返す声は出なかった。出たとしても、息を吐く音か、自分の声か疑うほどに掠れてしまった声だけで、とてもではないが会話に使えるものではなかった。戸惑う私にその人は大丈夫だと笑って、椅子を引っ張り、柔らかな物腰で腰を下ろした。
「無理しないで、気楽にしてくださって構いません。少しだけ体調を見させてくださいね」
愛想の良い中年の医師は、看護師に手伝ってもらいながら私の状態を確認し、私に少し話しても大丈夫かと尋ねてから自分の自己紹介から始めてくれた。
私の肩の銃弾を抜く手術をしたこと、銃弾が肩の太い動脈を傷つけていたために出血が酷く、一時的ではあったものの危険だったこと、他にもかすり傷が多かったこと、左腕以外を動かすことは問題ないが、動けばしばらく痛みが左肩に響くだろうということ、数日しっかり栄養を取れば元通りに生活できるようになるだろうということ。
まず右腕が動かせるかを先生と一緒に確認した後に、イエスノーで答えられる簡単な質問をしてくれて、私は声掛けに首の動きだけで答えていく。
私のおおまかな状態を把握したらしい医師は、私に休んでいるようにと伝えると母だけを連れて外へ出て行った。
静かになった部屋で、父が椅子に腰を下ろして私を覗き込んだ。
「……無事で良かった」
染み入る言葉に、声に、深く頷いた。目の前にいる父は、記憶よりも痩せて白髪が増えている。
「お父さんは、もう、お前が帰ってこないかと……そしたらお母さんが、……いや、」
独り言とも思える声を一端切り、視線を私から逸らしたまま悩ましげな顔をする。
「これでいい。お前は帰ってきたんだから」
それから思い直したかのように顔を上げると、言葉を選びながらゆっくりと私に語りかけた。
「話せるようになれば、これから沢山のことを沢山の人に聞かれると思う……話せるか?今までのこと、失踪していた時のこと……どこで何をしていたか」
ここにいなかった6年間、どこで何をしていたのか。
昔、私はこの感覚を味わったことがある。思い出そうとする記憶の先は、白い絵の具がべったりとついて、拭えない。今私を覆う病室の天井のようだ。
怖さがある。何も分からないことに、愕然とする。その奥に大事な何かを閉じ込められてしまった感覚。
扉が開いて母が帰ってきて父の隣に立ち、私を心配そうな眼差しで見つめた。
「やっぱり、思い出せないか?」
視線を二人から白い天井に映した。
全部。悲しいほどに真っ白だ。
失ってはいけないものを、手放してしまった気がしてならない。泣き出したくなって、右腕を目頭の方へ動かした。
「いいのよ」
それ以上考えることを止めたのが母の手だった。私の額を撫でて、私の手を握る。
「思い出さなくていいの。大丈夫。もういいのよ。終わったの」
私の涙を拭い、そっと抱き締めてくれる。懐かしい、小さな頃大好きだった母の匂いに包まれたまま、訳が分からないくらいに涙が溢れて止まらなくなった。
「何も言わなくていい。大丈夫よ……お母さんは、全部分かっているから」
2016年。それが私のいる年だった。記憶に残っている西暦は一番新しくて2012年。
2011年に一度行方不明になっているのだから、父が言った通り、私は6年の年月を失踪していたことになる。
私が王家の谷で見つかったことは、口がきけるようになった翌日にようやく聞かされた。夜更けに母が父を連れて、王家の谷へ車で向かい、朝陽が出てきた頃に私を見つけたのだと言う。
母がどうしてそんな深夜にカイロから離れた王家の谷などに行こうと思ったのか、どうして私がそこにいたのか、どんな状態でそこにいたのか、気になるところはいくつもあったし、話している間の母が何かを必死に話すまいとしているのが分かったが、私はただ頷いて聞くことだけしかできなかった。
自分が最初の失踪を含め6年間、両親がこんなにやつれるほどに心配をかけていたのだと思うと、母が話したくないことを無理に聞き出す気には到底なれなかった。
夜は一人で天井を眺めているだけで泣きたくるほどの気持ちに襲われる。眠っている時にうなされて目を覚ますこともある。
それを知った母は、精神的なものなのでいつか落ち着くからと私に言い聞かせて、日中はほとんどの時間を私に寄り添って過ごしてくれた。
それから一週間が過ぎ、母に付き添われたまま簡単に受けた検査では、肩に撃たれた銃弾以上の怪我は見つからず、自分の覚えている限りのことを話していくことで、アマルナに行った以降の記憶がまったく思い出されないことが分かった。
医師はそれを精神的なものによる記憶喪失であり、失われた記憶が戻るかは分からないとも診断した。
「日本に帰国することをお勧めします。日本ではここより最先端の医療が受けられますし、精神的な疲労もここを離れることで回復するのも早いでしょう。日本での病院を紹介させていただきます。診療情報は引き継いでおきましょう」
両親も日本に帰るつもりでいたのは言われずとも分かっていたし、私もそれに反対する気持ちはなかった。
そんな時、メアリーが私の病室にやってきた。小さな傷だけで行方不明から帰還した彼女は早めの退院で、ようやく私との面会が許されたのだと言う。精神的に衰弱していたこともあって、私たちは面会を最小限にされていたことを初めて知った。
髪も長くなって、垢抜けた表情のメアリーは、私が覚えているその子よりずっと大人びて見える。実際、私も覚えている頃よりも髪が長くなっていた。肩にもつかない長さだったはずの髪が胸元まである。
「私ったら、庭の木の下に倒れてたんだって」
寝台に座る私の傍に椅子を置いてそこに座るメアリーは笑いごとのように話し出した。
「お母さんが何かに気付いて外へ出たら、庭に私がいたの。弘子が見つかった日と同じ夜に。不思議な話じゃない?」
私も同じように王家の谷に捨てられていたのかもしれない。それにしてもメアリーは家だったのに、どうして私は家からずっと離れた王家の谷だったのだろう。
「犯人か誰かが私をご丁寧に家に捨てて行ってくれたのかしらね。もしそうだとしたら親切なんだか酷いんだか分からないわ」
けらけらと彼女は明るく笑う。
その点は警察も頭を悩ませているようだった。メアリーの家は普通よりも大きく、家の入り口には立派な門がある。気付かれずにその門を開けて、木のある庭の奥までメアリーを連れて寝かせておくなど、家族以外の人にできるはずもなかったからだ。
「弘子も王家の谷じゃなくて、家に届けてもらえたらよかったのに。何で私と弘子とでは場所が違ったのかな」
「さあ……ルクソールに行きたい気分だった?」
「いやよ、夜のルクソールだなんて。ライトアップを見に来る観光客しかいないのに」
「ライトアップを見たかったのかもしれないじゃない?」
「まさか!そんなロマンチストな誘拐犯がいる!?」
二人で互いに笑いながらいろんなことを話し合っている内に、メアリーもまた今回の失踪で何も覚えていないことを知った。同じようにアマルナからの記憶が無くなっているのだ。
「私も、何も覚えてないのよ。何も覚えてないことが怖い。でも私、とても……」
一端口を閉ざすと、メアリーは視線を静かに泳がせてから、何かを懐かしむような目をして続けた。
「私ね、お母さんたちにはとても言えないけれど、すごく、どこかを旅してきた気分なの。なんていうのかな、表現しづらいんだけど、長い長い旅を終えてようやく帰ってきたって感じ。達成感……じゃないけれど、凄く長い長編小説を全巻読み終えた気分なの。変な例えだけどね」
長い旅を終えて戻ってきたと言うメアリーと感覚が、私にもある。6年間にそう感じさせる何かがあったのは、きっと本当のこと。思い出せないだけで。
メアリーのように満ち足りた気持ちの代わりに、私は忘れてしまったことの切なさが拭えないでいる。どうしたらいいか分からないほどに。忘れてはいけないものだった気がしてならない。
自分の膝元を覆う白さに、私の頭は満たされてしまっている。
「お母さんに、エジプトを離れるって言われてるの」
メアリーの言葉に自分の膝元からはっと顔を上げた。
「離れるの?エジプトを?」
「そう。ずっと慣れ親しんできた母国とさようならだって」
エジプトで生まれ育ってきた彼女も、エジプトを離れるとは思ってもいなかった。確かに、5年間も娘が失踪していたのだ、両親がそういう考えになるのも当然かもしれない。
「エジプトを出てどこへ?」
「イギリスの方に。お父さんの知り合いがそっちにいて、お母さんがそうするべきだって聞いてくれない。私が大変な目にあったこの国からは出たいって。まあ、大学ももう戻れない状態だし、別の国に住んで新しい人生歩み始めるのもいいかなって気持ちもある。何よりお母さんを安心させたい気持ちの方が大きくて、うんって言っちゃった」
その気持ちはよく分かる。私も同じような成り行きで医師と両親からの提案に頷いたのだから。
「おばさんに聞いたよ。弘子も日本に帰るんでしょう?」
うん、と頷いて返して膝に置いた手の甲に視線を落とした。
「腕の怪我も、もう一度日本の病院で見てもらおうってことになって。エジプトではこれ以上の細かい検査は出来ないし、日本に帰って療養の方が気持ちの面でも良いだろうからって。また検査をして、精神科にもかかってきっと忙しくなるわ」
「私と同じこと言われてる」
ころころと彼女は笑う。
「離れても連絡しようね」
「もちろん」
話しながらふと窓の外を見た。窓を透けた陽の光が足元に落ちて、床を照らしている。
私は6年の間、変らずこの国の陽を身体いっぱいに浴びていたような気がして仕方がない。その眩しさに目を細めながら、メアリーは独り言のように呟いた。
「……私たちはどこにいたのかしらね」
分からない。私たちは何も思い出せない。
「本当に、どこに……」
私の中にも、メアリーの中にも、これまでの記憶は何もない。不思議なほどに何もないのだ。長編小説のような、長い冒険譚のような、そんな気分にさせてくれる記憶はどこにも。
「あと、弘子に会ったら聞こうと思ってたんだけど」
メアリーが思い出したように顔を上げた。床の陽射しから視線を上げて、真剣な彼女を見つめた。
「私たちと一緒に、もう一人、誰かいなかった?」
戸惑いながら、それでも聞きたくて曖昧のまま口にしたような声だった。
「誰か……?」
私とメアリーの他に。
「そう。記憶が途絶えているあの日、私たち、3人でアマルナにいた気がするの。私、誰かと一緒に弘子のことを追いかけた気がする」
言われてみれば、アマルナにいたのは私たち2人ではなく、私を追いかけてきてくれたのもメアリーだけではなかったようにも思う。
確か、誰かが。
私の手を掴んで。それで──。
あの茜色に染まったアマルナの地を思い返し、メアリーの隣にぼんやりと何かが浮かんでくる。しかしそれは淡くて脆くて、もっとはっきり見たいと願うほどに姿を失ってしまうのだ。
「誰……」
「ううん、弘子、違うの。やっぱり何でもない。やめましょ」
私が答える前に、メアリーは苦笑して首を横に振った。
「誰も知らないって言うし、多分いなかったんだと思う。私の気のせいね。あの場所には私と弘子だけだった。きっと、そうなの」
メアリーは自分の気のせいだと言って、それ以上この話をしようとしなかった。
両親に聞いてみても、行方不明になっていたのは2人だけ、戻ってきたのも2人だと言われ、話を聞きにきた警察にも聞いてみたが答えは同じで、他に確かめる術を見いだせず、影さえ見えなくなりつつある3人目は、私の中から徐々に泡のように消えて行った。
身体が何とか動くようになり、歩いても傷が肩に響かなくなったのはそれから2週間後のことだった。
まだ体調が完全に戻っていないことと、色んな面で不安定なこともあって、どうしてもベッドで横になっている時間の方が長くなってしまうのは否めない。日本への帰国の準備を私の体調に合わせて進めているのだと、様子を見に来てくれた母が知らせてくれた。
他の面会は両親を通されて行われるのが決まりで、母はメアリーとその家族、それから事情を聴きに来た警察にしか面会を許さなかった。
気持ちもどうにか持ち直し始めて、夜にうなされることも、突然泣き出すこともなくなっている。毎日病室に来てくれて日本に帰ったら何をしようか、と母は楽しげに私と父に話し、私には入院中に退屈しのぎに読める本を何冊か持ってきてくれた。渡された本はほとんどがファンタジーで、一冊くらい入っていてもよさそうなエジプトに関する本はない。理由は聞かずとも分かっていたから、言及することなく母の話に頷きながら、手に取った一冊のぺらぺらとめくり、その触り慣れない気もする紙を撫でていた。
「クドーさん、失礼しますね」
看護師が入って来て、お母さんを見た。
「お嬢様にお会いしたいと仰る方がいらっしゃってますが」
はっとしたように両親が顔を見合わせると、母が父に行ってくると告げて、部屋を出て会いに行った。
急に引き締まった母の顔にどうしたのだろうかと心配になって父を見た。
「誰が来たの?」
この時間に私を尋ねてくれる人は誰も思いつかない。それに、二人のあの妙な反応は何だったのだろう。
「弘子は、いいんだ。もう寝るといいよ」
父は少し眉を顰めてから念を押すように、気にしなくていい、と続けて私を制した。あまりに意味深な顔をして俯いてしまった父を見て、もうこれ以上聞くべきではないものなのだと寝台に身を任せた。
母は20分ほどで部屋に帰ってきた。悩ましげな顔を一瞬だけ垣間見せ、それでも笑みを作って私の傍に座る。誰だったのかも聞けず、何があったのかも聞けず、ただ母が何か言葉を発するのを待った。
「……弘子は、何も覚えていないのだものね」
母は悲しそうに笑った。悲しそうだけど安堵している、そんな表情。細い指が伸びて来て、私の額に触れる。もう寝なさいと仕草だけで言っているようでもあった。
「それでいいの。帰ってきたのだから、これからがあるから、過去はもういいのよ」
自分自身に言い聞かせているようにも感じるお母さんの言葉は、意味が完全に理解できてなくとも、私にこれでいいのだと思わせた。
母が、これでいいと言う。ならば、それで良いのかもしれない。
自分のことが分からず、何が良くて悪いのか分からなくなっているというのも本当のところだが、両親のすることに身を任せるほか、私には道がなかった。
外へ出ても大丈夫だと診断され次第、何もかもを振り切るようにして日本への帰国が正式に決まった。目を覚ましてから1ヶ月ほど経ってからだった。
警察は何度か私やメアリーに話を聞きに来たが、結局何も分からず終いだったようで、両親はこれ以上の捜査は不要と伝えたようだった。
そして今日がエジプトにいる最後の日になる。先にイギリスへと旅立ったメアリーとも別れ、しみじみとした寂しさが自分の中に沁みついているのを感じながら、腕を首からつり下げた状態で病室の窓からエジプトの夕陽を眺めている。眩しい茜に目を細めるものの、これより美しいものを見た気がするのはどうしてだろう。私は、どこで、それを見たのだろう。
「弘子」
母が背後で私を呼んだ。
「明日は忙しいんだから、もう休みなさい」
そう言って、母はベッドを軽く数回叩く。そうだね、と頷いて大人しくベッドに入った。帰国の準備を終えて病院に来てくれた母の優しげな微笑を見て、それから天井に視線を移し、目を閉じる。
すべては、もう思い出せない記憶の彼方。もうどこに、何が消えてしまったのか、分からなかった。
私は2016年の7月、ナイルが満ちるその月に、カイロ国際空港から日本へと発った。