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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
3章 王家の姫君
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ナイルへ沈め

 ぼんやりと放心したまま歩いていた。

 前を行く棺を無気力に眺め、足を機械的に動かし、ぱたりぱたりと響く自分の足音が、辺りの静けさをより引き立たせるのを感じていた。


「……驚いた」


 神殿を出て、ナイルに開ける場所に向かいながら、彼は私に呟いた。


「本当に驚いたぞ。驚きで怒りなど吹っ飛んだ」


 結局私が儀式を中断させ、あんな発言をしたために、罪人の男の人が生贄として殺されることはなく、代わりに食べ物やお酒、動物が納められることになった。


「……私だって、びっくりよ」


 6人の神官たちに運ばれる、目の前の棺をうつろに眺めながら言い返す。

 たゆたうその光景が何故か切ない。ナイルに沈められると思うと、今にも泣き出してしまいそうだ。


「自分のことだろう」


 呆れたように私を横目で見てくる。


「今の私は自分のことさえ、分からないのよ」


 歩きながら俯いて、スカートを掴む。掴んで、自分の存在を感じる。

 最近の私は本当に変だ。おかしい。

 タイムスリップや、文化が全く違う生活を送ってきて、二重人格のようなものになってしまったのかも知れない。ううん、二重人格の方がまだましだろう。私の中に浮かんだある一つの可能性と比べれば、ずっといい。


 それに、私があの時発した言葉。確かに私の声だったけれど、何かが違った。あんな言葉を私が言えるはずないのに、自然と口から声が出てきて、思っていた言葉を装飾していった。


 私が、私ではなくなっている。徐々に何かが私に乗り移っているように、乗っ取っていくように。さっきの出来事でそれを感じた。


「……私は、誰」


 彼は何も答えず、小さく唸って黙り込む。

 白く伸びる廊下を、奥に見える夕陽が赤く照らし出す。

 何度見ても飽きない、エジプトの夕暮れに浮かぶ太陽。進めば進むほど、周りの白がその色に染められていく。


 この王宮はナイルに沿って立てられていて、一部は川の上に飛び出している。外からならば、ナイルに浮かぶ魔法のような宮殿に見えるだろう。今回はそこからアンケセナーメンの棺を流すことになっていた。


 廊下を出たと同時に、目の前に太陽神が大きく、一点の陰りなく現れた。燃えるような神々しい茜が、私の瞳を焼く。

 アンケセナーメンを演じると約束したあの時と同じ夕陽のはずなのに、今私の目に映るそれはどうしてか物悲しい。偉大さの中に寂しさを見た気がした。何か大切なものを失ったかのようにぽっかりと開く胸の穴に、茜色が降り注ぐ。


 太陽の下には、茜が混じる青いナイルが広がっていた。ハスがいくつも流れて水面を飾っている。王家の花らしく、健気に、したたかに。それでも優雅に。

 横に長く伸びたその場所に、神官や女官たちがずらりと並んだ。私たちはその中央に、棺の前に立つ。


 アンケセナーメンが眠るその棺は、白い麻の布でぐるりと覆われ、ロープで重石と共に巻かれていた。


 おそらく、もう二度と浮かんでこないようにするため。

 エジプトの命とも言えるこの川の底に、永遠に沈めんとするためなのだ。


 その青さを覗いたら、吸い込まれそうなほどの黒が奥に蠢いているのが見えた。

 光の無い、色を失ったこの底に、王家の姫君、あなたは眠る。


「……あれで誰もがお前をアンケセナーメンだと確信したのは確かだ。今まで疑っていた者も含めてな」


 夕焼けに染まる、彼の横顔を見やった。彼はこちらを見ようとはせず、夕暮れの陽射しにその目を細めている。


「さっきのお前は、紛れもないアンケセナーメンだった」


 私にしか聞こえない、小さな声で彼は言った。静かで囁くようでありながら、確信めいた声だった。


「私はあの時のお前に、棺に眠るはずのアンケセナーメンを見た。おそらく、あの場にいる誰もがそう思っただろう」


 右手に持つ、権威の証である長く黒い棒を握り直し、その淡褐色を私に向ける。

 彼は、何か大きな決断を下したような、強い意志を持った表情をしていた。


「お前は、彼女だった」


「違う…!!」


 頭を振って叫んだ。叫ぶと言っても、掠れてしまって周りには響かず、風に乗って消されてしまう。


 手が震えた。思っていたことを言葉にされてしまうと、現実味を帯びて襲ってくる。


「お願い……やめて」


 彼が言わんとしていることは分かっている。嫌でも伝わってくる。

 今回や今までのことを考えて、私が彼女、アンケセナーメンなのではないか、そう言っている。

 生まれ変わりだか、それとも本当に魂が宿っているのか。そんなこと分からないけれど、考えたくもないけれど、私自身も僅かながらに感じ始めている。他の誰かが私の中にいるのだと。


 だけど、私は──。


 その時、アイが私たちの前に出てきて深々と頭を下げた。開きかけた口を噤んで俯いた。アイにこの顔を見られてはいけないと思った。


「アンケセナーメン様が生前宿っていらした御身体を、母なるナイルに還したいと存じます」


 分かったと彼が頷くと、数人の神官が目の前にあるその布に覆われた棺を厳かに持ち上げた。その様子は重さを感じさせない。


 私の目の高さまで浮いて、静かに川の方へと進む。やがて、誰もが黙するしじまの中、アンケセナーメンは静かにナイルの水の中に放たれた。

 遺体の入った棺は、青と茜とハスの白が混じる色の中に沈んでいく。棺を包む黄色がかった白が、ナイルに霞む。

 ゆっくり。ゆっくり。それ自体が、時間の流れを遅めているかのように。


 周りに立つ女官たちが、弔うためのハスの花をナイルの水面に落としていた。

 ハスの白さが茜を舞い、青いナイルに落ちていくその光景は、涙が出てしまうほど美しく、幻想的だった。



 おぼろに眺めている中で、私の何かが泣いているのに気づいた。私の呼吸の音に消されてしまうほどの、啜り泣く声。

 私ではない誰かの、声。

 胸が苦しくなって、唇を噛みしめてそのまま俯く。



 ──違う。


 私は、私。

 それは確かなことなのに、何かがあるたびに分からなくなって、迷ってしまう。

 なんて、私という人間は弱いのだろう。自分を自分で認めてあげないでどうするの。自分を認めてあげることが、どれだけ大切か知っているはずなのに。


 胸で啜る泣き声を払って、口を開く。噛み締めていた唇がひりひりと痛んだ。


「私は……弘子」


 掠れた弱々しい、芯の無い声だと思った。儀式の時とは比べ物にならないほど、説得力がない。でもこれが私の声で、この声で発した名前が私の存在そのもの。

 落した声に、彼がこちらに顔を向けるのを感じた。


「……私は弘子よ」


 沈黙の果て、少し時間を置いて彼はそうだなと静かに頷いた。その目は夕陽に浮かぶナイルに注がれている。


「弘子でしか、ないの」


 再び顔をあげた時、気づけば私の頬に涙が伝っていた。涙の意味なんて、もう分からない。アンケセナーメンのミイラが流されるからなのか、それとも自分と言うものが分からなくなったからなのか。考えても分からないことは、重々承知している。

 弘子なのだから、赤の他人の死なんて泣かなくてもいいはずなのに、それを分かっているはずなのに、心が泣いて、私に涙を流させる。

 溢れては落ちて。溢れては落ちて。切なさを胸に残し、雫はぼろぼろと乾いた足元に落ちていく。


「分かった」


 彼が私の肩を抱き寄せて、あやすように肩を叩いた。彼の独特な香油の匂いがふわりと漂い、私を包む。


「お前はヒロコだ。変なことを言った、すまぬ」


 流れる言葉が、揺らいでいた真実を繋ぎとめる。


 私は私だと。私は弘子でしかないのだと。

 自分で何度も繰り返して唱えていたけれど、他人に言われてやっと確かなものになる。

 自分を自分で認めてあげることも大切で、他人に認めてもらうこともまた、どれだけ大切な意味を成すか分かった気がした。


「分かったから泣くな。泣かれるのは嫌いだと言っただろう」


 でも、涙は止まらない。止まってくれない。


「本当によく泣く。やはりお前はアンケセナーメンではない」


 私の顔を覗いて、彼は小さく笑った。

 ふと彼を見て、その人の目が潤んでいるのに気付く。淡褐色が夕陽に照らされ、光が零れそうなほどに揺れていた。

 それは、大切な人との別れを惜しむ涙なのだろう。私に魂が宿ったと思っている他の人たちにとっては、絶対に流すことのない涙。


「……失う時がいつか来ることは知っていた」


 私にしか聞こえないよう、小さく呟く。


「ミイラを残したとしても、魂が戻るのは甦るのは私が死んだ数百…いや、数千年後だと言われている。だから、彼女が死んだ時点でもう会うことはないと、失えば終わりだと知っていた」


 彼は分かっていたのだ。悲しいほどに。

 彼女のミイラを流さず埋葬したとしても、甦るその時代にもう自分はいないだろうということを。

 死んでしまえば、もう二度と逢いまみえることはないことを。


「だが、それがこれほどまでに辛いとは思ってもみなかった」


 掠れた、一言一言を噛みしめるような声で彼は言った。

 きっと、今日こんなに悲しんでいるのは、真実を知っている私たちだけなのだろう。


「お前を彼女だと思ったのも、姉、母、妻という存在を担った彼女を失うのが、怖かったから…お前が彼女であってほしいという私の願いからだったのかもしれぬ。故に気にするな」


 そっと私の髪を撫でながら、静かに囁いた。

 随分、無理矢理な言い訳ね。あなたは慰めるのが下手だわ。


 下手な慰めに答えて笑ってあげたいけれど、零れる涙が邪魔をして、小さく頷くことしか出来なかった。



 ああ、沈む。

 青から黒の世界に、沈んでいく。謎を秘めた、王家の姫君の眠る棺が。


 棺の姿がナイルの下に消えたのを見たら、どうしようもなく涙が溢れた。


 辛い。悲しい。さようなら。

 知らず知らずの内に心に溢れるのは、そんな感情ばかり。


 赤の他人である私が思うはずの無いものばかり。


 彼は息をついてから、私を抱き寄せたまま一歩前へ出た。握っていた長い棒を天高く振り上げ、茜に浮かぶ青い、母なるナイルに向かって口を開く。


「誇り高き、王家の姫君よ!!」


 決して悲しみを漂わせることはない。

 芯のある威厳を持ったエジプトのファラオの声だけが、まっすぐ青いナイルを、赤い天を貫く。


「母なるナイルに沈みて、我がエジプトの栄華を見届けよ!!永遠なれ!!」


 その隣で、意味も分からず私は涙を流す。

 王家の姫君への彼の願いが、青と茜の世界に響き渡るのを聞きながら。


 ただ、静かに。



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