果て
私は、死んだのだろうか。
そう思って目覚めたら一面白い世界だった。白さの中に黄金の雪が降っている不思議な場所。仰向けに寝転がる私の顔にはらはらと落ちてくる光は、優しい木漏れ日を思わせるものがあった。
死後の世界はこんなにゆったりとしたものなのかと、細く開けた視界に思う。光を浴びながら、上を眺め、何をするわけでもなく何度か瞬きをした。
頭が上手く働かない。思考が、ある点からまったく進もうとしない。唯一考えられたのは、撃たれたはずの肩がひとつも痛まないことから、やはり自分は死んだのかもしれないということだった。
──疲れた。
その一言で思考はぷつりと落ちていく。
──とても、疲れた。
このままこの世界に溶けてしまいたい。
目蓋を閉じかけた時、右側から足音が聞こえた。
サンダルの音。緩やかな、足元を気遣っているような足の運び。近づく正体を知りたい欲求がありながら、私は顔も視線も動かすことが出来なかった。
足音はゆっくりたおやかに近づいてくる。金のサンダルが鳴らす音は、いつも澄み切った鈴の音だ。
それは私のすぐ傍に止まり、やがてこちらを覗き込む影が視界の中に現れた。まわりが明るいために表情は明らかにならず、長い黒髪だけがこちらに垂れる。
──女の人。
「やっと、会えた」
そう言って微笑んだ相手の顔は、私とよく似ていた。違うのは肌の色くらい。儚げである彼女の顔をぼうっと見つめ、それからこの人が何者であるかが、頭の中にすっと流れ込んでくる。
「──アンケセ、ナーメン」
私の声に、彼女は静かに頷いた。彼女からそっと伸ばされた手を、私もためらいなくゆっくりと取って握り、軽く引かれて身体を起こす。これには驚かずにはいられなかった。動くまいと感じていた身体とは思えないほどに軽く、彼女の手が離れても身体を起こしたままでいられた。
痛みどころか感覚もない。実体のないもののようで、このまま空を飛べそうな気さえする。これが幽霊というものかとぼんやりと考えてしまうほどだった。
起き上って初めて自分のいる場所を把握する。砂漠の色が白に限りなく近い黄金になってしまったかのように、どこまでも同じ風景が続いていて果てがない。
それから自分の身体を見下ろした。無傷の肩、腕、そこから続く私の手。そうして、ここに来る前に掴んでいた親友の手が自分の手に繋がっていないことに初めて気づき、メアリーの姿を慌ててその世界の中に探した。
「どうしたの?弘子」
当然のように彼女は私に問いかける。
「メアリー……メアリーが、いないの」
探しても、見渡す限り人物どころか物さえ何もなくて焦燥が募る。傍に膝をついて私を見ていた彼女が、私の肩に手を置いた。
「心配はいらない。あの子は先に行っているだけ」
「先……?」
「呼ぶ人のところへ」
意味を謀りかねて首を傾げる私に、彼女はまた柔らかく笑った。
「少し、歩きましょう」
促された私は立ち上がって歩き始める。
死んだはずの、自分の前に時折陽炎のようにおぼろげに現れていた彼女が、今私の目の前にいて語りかけている。共に同じところを歩いて、言葉を交わしている。
ここはどこで、どうして自分は彼女と対面しているのか。驚くような体験をしているはずなのに、私は妙に冷静で、夢の中にいるようにさえ感じてしまっていた。
そうしてメアリーの行方を考えている内に、メアリーが私の手を離れてどこかへ行ってしまったのは、私は死に、メアリーは生きたからではないかと考え始めた。だから私と同じ場所にメアリーがいない。死んだ人と生きている人は相いれない。死んだはずのアンケセナーメンが私の目の前にいることこそが、その証ではないか。
「アイが、王位に就くわ」
前へ進みながら私と同じ顔の彼女は告げた。
「え……?」
顔は前に向けたまま、私を振り向かない。
「アイは王位継承を示すあなたの指輪を持ち去った。あの男は指輪を盾に、別な女をアンケセナーメンとして仕立てあげて王位を譲られたと言い張るでしょう」
ようやく今まで自分がいたはずの場所と、そこで起こったことが怒涛のごとく押し寄せてきて、咄嗟に自分の左薬指を見た。彼に贈られた、王妃の印章がない。アイに取られたままだった。
「偽物の私を造り上げるということ?他の女の人で?それで自分は王だと言い張るの?」
信じがたい、信じられない気持ちで尋ねると、私の願いとは裏腹に相手はそうだと頷いた。澄ました表情が、どこか遠い場所の話をしているかのようにも見える。
「あの男以上の権力者はもういない。誰か女を連れて来て、それを王妃である、その王妃から指輪を貰い受け王となる使命を受けた、と言えば誰もが真実として認識する。そうせざるを得ない」
「そんな……」
「これが決められた道。変えられない流れだった」
淡々と彼女は私に残酷な話をする。
私にとっては、ついさっきまで身近にあって、自分の命をも左右する問題だった。それが何故今こんなにも遠いものになってしまっているのだろう。
「でもそれじゃ……駄目、駄目だわ……アイが王だなんて、そんな……」
私は立ち止まり、額を抑えてから、来た道を振り返った。帰りたいという強い想いが押し寄せ、どうにか戻ることはできないだろうかと考えを巡らせた。
それでももう誰もいない世界に私だけが戻って何が出来るのかと自問自答を繰り返してしまう。
視線を自分の立つ地に落とした。
アイに見せつけられた、剣の刃にまとわりついた鮮血が脳裏に甦る。
皆、殺されてしまった。誰もいない。守ろうとしたものをほとんど失い、証であった指輪も取られ、王位も不本意にアイに譲ることになり、王妃の座を名も知れない人に奪われたのだ。
結局、私は本当に何も出来なかった。
「もう、戻ることも関わることも出来ない。あなたは役目を終えたのだから」
彼女が私を振り返って告げた。
知っていた気がする。私が古代という時間で生きていたのは、歴史という舞台の一人の登場人物としての役目の間だけなのだと、どこかで気付いていた。
「ただ、希望もある。ラムセスはいつか必ず王になる。あなたたちの意志を継いで。王家の血は絶えても、王家の意思は生きていくのよ」
確実に生きていると言える、ラムセスとイパ。アイのもとで、アイによって治められる国の行く末を彼らは見つめていくのだろうか。
「……私たちは、何だったのかしら」
今までのことを振り返れば、尋ねても仕方のない疑問が口をついて零れた。そんな質問にも、彼女は淡々とした表情を崩さないでいる。
「神は偉大なるもの。見えぬ手で私たちを動かしている。私たちはそれに従うだけ」
私たちを動かしていたものは、私や良樹が戦いを挑み、敵う相手ではなかった。私も良樹も彼も、他の誰もが神の駒であり、歴史は、歴史となるために私たちに時を越えることを許したのだ。どうしてそういう流れになったのか、その理由を知る存在がいるとしたなら、それは神だけしかいない。人間である私たちが知れるところに答えはない。私も、良樹も、メアリーも、駒として自分の意思のもとにあの時代を生き抜き、そして役目を終えた。だから今、ここにいる。
息をついて遠くを見た。どこまで続くか分からない白とも黄金とも取れる世界は、砂時計のようにゆっくり目の前で流れていく。怖さはない。ただただ静かで、緩やかだった。
「これからどこへ行くの?私は、死んだの……?」
問うと、立ち止まった彼女は私を振り返って「それは違う」と首を横に振る。
「あなたは生きている……ほら、」
聞こえるでしょう、と彼女は耳を澄ませる素振りをした。
「あなたを呼ぶ人がいる」
耳に意識を集中させると、私たちが向かっている方向から微かに声が聞こえているのが分かった。誰の声であるか知った時、身体が震えた。
はっと顔を上げて、光の先を見つめる。こんなに胸が熱くなるものなのかとも思った。はっきりと声音を聞き分けられるわけではない。それでも確信できた。
聞こえる、感じる、懐かしい、愛おしい人の声。
彼の声があった時、私は初めて時を越える。一度帰った時と同じように。いるのだろうか。この先に。
遥か遠い時を超えた先で、彼は私を待っていてくれているのだろうか。
約束を果たそうとして。
「あなたは行かなければならない」
この先から聞こえる声は、今にも途切れてしまいそうなほどに細い。何を言っているのかは分からない。声さえはっきり聞こえない。ただ、この先に胸を大きく高鳴らせるほど、私にとって大きな何かがいるのだとそれだけが直感できた。
「あなたの生まれ育った場所がそこにある。あなたのいるべき場所」
どうしようもなく惹かれて、ここを飛び越えて戻って行ってしまいたい思いが溢れながら、私はそれを無理矢理振り切った。肩を落として、首を横に振る。
「……駄目よ。私には出来ない」
彼女は驚きもせず、静かに私をその瞳に映している。
「……戻ったら私は、すべての記憶をきっと失くしてしまう」
セテムたちの顔を思い出し、胸を押さえて瞼を閉じた。私が過ごした過去の記憶は、現代に生きるならばあるはずのないものだ。だから私が一度帰った時、私は記憶をほとんどすべて失っていた。
今帰ってもそれは変わらない。それどころかあの時より大事な記憶が、今の私には溢れている。
「私のために命を投げ打ってくれた人がいる。私は彼らのことを決して忘れてはいけない。だから、記憶を失うのなら私は戻れない。記憶を失くしてしまったら、彼らは本当に死んでしまうのよ」
彼女は共感するかのように黙って頷いた。
「私は、この年月で培ってきた記憶が何よりも大切なの。その中に生きている、大事な人々がいるこの記憶が、今の私のすべてなんだわ」
ここで培われてきた掛け替えのない大切な、大切な記憶。あの向こうに両親がいるのは分かっている。だが、一度捨てた場所にどうして易々と戻れることが出来るのか。
私は、古代で生きると決めた。古代で彼と共に生きるのだと。そこで死ぬつもりだった。
愚かだと分かっていながらもどうしても捨てきれない、どうにもならない想いがあって、何かが歪むと、何かを犠牲にするのだと分かっていながら、私はそちらを選んだ。
今も、その決断を悔いてはいない。間違いがなかったとは決して言えなくとも、あの時の私の、私にとっての、最良の決断だった。
人生というものはきっと、そういうもの。これが私の歩んできた生だと、今ならば胸を張れる。
古代の黄金にも見える広大な砂の大地、命を運ぶナイル、生命に溢れたパピルスの緑、何よりも輝く偉大な太陽、青に包まれたヤグルマの花。それらに包まれていた彼と過ごした愛しい日々。産むことができなかったあの子のこと。救えなかったタシェリのこと。
敵国同然のヒッタイトに赴き命を落とした良樹の想いも、王家のために命を懸けてくれた彼らの名も、彼らの決意も。
守ると決めたもの。残し続けると、伝え受け継ぐと決めたもの。
これらすべてが私の命を支えていた。命、そのものだったのだ。
この先に彼がいたとしても、王位さえ守れず、多くの人を死なせてしまった私に、彼に合わせる顔などどこにあるだろう。約束を果たす権利など、どこにあるのか。
「……私は、この先に行くことはできないのよ」
俯いて目を伏せた。
「弘子」
アンケセナーメンは私に向き直り、一歩前に歩み寄る。
「あなたは、勘違いをしている」
顔を上げて相手を見ると、真剣な面持ちの彼女が私を見つめていた。
「記憶は消えるものではない」
さあ、と彼女は私に前に進むよう促した。
「強く願えば、必ずまた甦る。あなたが私であった頃の記憶を、自分の中から引き出したように」
確かに、私は何かの拍子にアンケセナーメンの記憶を引き起こしたことがある。現代に生まれた私には決してないものを、私はこの目にした機会が少なからずあったのだ。
「今まであったことは、あるべきこと。あなたがどう動こうと同じ結果にしかならなかった……大丈夫、覚えている人がいる限り、必ずあなたは記憶を取り戻す。そういう星回りになっているのだから」
彼女の様子はそれ以上私が尋ねることを許さなかった。私に柔らかく笑み、それから先を見つめる。
「あなたは……?」
自分と同じ顔でありながら淡く光る彼女の横顔に問う。
「私があちらへ行くとしたら、あなたはこれからどこへ行くの?」
娘たちやセテムたち、そして良樹がいる世界へ、行くのかしら。死んでないと言われた私は、一緒には行けないのかしら。
「あなたが行くところへ、私を連れて行ってはくれないの?」
彼女は静かな眼差しを私に注ぎ、私に告げる。
「ひたすら重なりゆく時の中、私もあなたもただ一度の存在。死んだら、僅かな足跡を歴史という流れに残し、ここを流れて、先へ行く。留まるところはどこにもない」
伝えられていく過去に生きた人々の足跡。それを集めたものが未来を生きる者達にとっての歴史になっていく。歴史は、人の、過去から繋がれた記憶なのだ。
「人の魂は、悠久なるもの」
絶え間なく流れ続ける時の中を、昔の記憶と共に流れていく、悠久の存在。
いつだったか、彼は私を悠久なる君と呼んだ。時を越えてやってきたからだと。
「生きとし生ける者は死後、姿を変えて時の向こうに流れ着く……すべては悠久であるために」
死ねば、人はまた甦る。私だけではない。生まれ死んでいくもの、すべてのものたちに悠久はあるのだ。皆が、悠久なる人々。
「あなたを呼ぶ人がいる。あなたを探している。行かなければ」
指差す方を眺め、その黄金の流れに目を細める。そこから上を眺め、悲しいほどに綺麗な流れを視線で追った。
私たちを包む黄金の川。これは無限に広がる大宇宙と、果てしない時の流れ。そこに煌めく一瞬の奇跡。それが私たち。私たちはそこで生まれ、一瞬という煌めきの中で生きている。
彼がそうだった。良樹も皆も。皆が皆、自分を生きて、生を全うした。あまりに儚い、それでも眩しいほどにそれらひとつひとつが尊く、美しかった。この流れと同じように。
「なら、あなたはどこへ帰るの」
死後に留まる場所がないというのなら、私を導こうとするこの人はどこへ行くのか。
尋ねかけると、彼女は微笑んだ。今までで一番柔らかで温かな笑顔だった。
「私は、あなただから」
軽く私の手に触れた彼女の手は暖かい。そのまま私の手を取り、彼女は笑った。初めて人間味のある表情になり、いつか夢で見た彼女と重なった。
「私はあなた──あなたになる前の遠い記憶。3300年の時を越えた記憶でしかない」
聞かずとも分かっていた。
あなたは私なのだ。ずっと私の中にいて、私を見ていた私になる前の私だ。
「今はもう、あなたの中に還るだけ──」
差し出された手に、自ずと手が上がり、それに合わせた。私に吸い込まれるように彼女の手先から徐々に私の中へ消えて行く。温かい風に全身を飲み込まれたかのような感覚に包まれ、そして私はひとつになった。
自分の胸に、鼓動を聞いた。咄嗟に胸を押さえて、自分の命が続いている証を噛みしめる。
私は、まだ、生きている。すべてを失ってしまっても、まだ。
その時、行くべきと示された先から、呼び声がした。声がしたというよりかは、呼ばれているような気がしてならない。私のどこかが呼ぶ方へ向かえと言って仕方がない。
そこへ向かうべきか悩み、どうするべきだろうかと不意に右足を動かすと、風が吹くように流れが速くなった。
身に着けていた上着がわっと翻り、髪を上になびかせる。耐えきれなくなって左足を浮かせると間もなく、私の身体は浮き上がっていて、気づいた時には最初の頃のように上も下もなくなって、悲鳴を上げる前に黄金に流された。自分で流れに逆らうことはできず、息をするのも苦しくなり、麻痺していた痛みが徐々に全身を蝕み始める。その金の粒が私の手から零れて行って、流れに姿を消していく。
頭が割れてしまうほどの頭痛に襲われ、あまりの痛みにもう自分がどこをどう流れ、どこへ向かっているのかさえ分からなくなる。
呼び声が、その先にいる気配だけがどんどん強いものに変化していった。誰が呼ぶのかと瞼を開き、突如白い光が視界に満ちた。
その白い光の先に、私という人間にとっての時の果てがあるのだと思った。
流されている。行こうとしている。光の中へ。
この時の果てへ。
『──弘子』
初めて、ぼんやりしていた声がはっきりと私の名を呼んだ。
下に落ち流れていく私に両手を伸ばす人影が遠くに現れる。
『──来い、弘子』
淡褐色が私に向かって光る。なんて綺麗な色だろう。
美しい、金が散る色だ。
呼び返す力もないままに、私は自分の身体が光の中から離れていくのを感じた。
急に重力というものが圧し掛かり、どこへでも飛んで行けそうだと思えていた身体は白と金の世界から暗い世界へと飛び出して、落下する。
落ちていく私を、両手を広げていた誰かがその腕に抱きとめた。
抱き締めて、強く抱き締めて、私の名を呼ぶ。
心地良い汗の匂いと、腕の強い力。髪にかかる熱い呼吸。
それでも私の身体はぴくりとも動いてくれないままだ。
腕が上がらない。痛い。動かない。全身が鉛のように固く、重たかった。
「──弘子」
遠い場所、ずっと遠い昔に聞いたような。
朦朧とする中で響いたのは、泣きたいほどに懐かしい声。
意識がどんどん沈んで、僅かに開いていた視界も閉ざされる。
空では、暗い夜空を温かな色が裂いている。
天と地を分ける一本の線上に白い光が現れた。
朝陽だった。




