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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
26章 時の果て
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民の声

 良樹の死を悼み続けることは、私には許されなかった。ヒッタイト王子の遺体は、ヒッタイト兵が国に連れ帰ったという。数日経った今日、それが事実であることが掴めた。ヒッタイトが国を挙げて挙兵の準備をし始めたというのだ。ヒッタイトが敵に回ったこと、そして何より彼が生前にやり遂げたはずの同盟が呆気も無く崩れ去ったことは明白。

 柱に手を当てて夕暮れに染められた外を眺めながら、唇を噛んだ。燃えるような太陽が真っ赤に空を燃やしている。絶望の淵に追いやられた気分だった。

 夫が死んでしまった。良樹が死んでしまった。王子が死んでしまった。そしてヒッタイトまでが離れ、今この国に戦争が起きようとしている。成そうとすることがすべて憚られている感覚が、全身を取り巻いて逃れられない。

 王子の遺体を目の前に、ヒッタイト王は何を思うだろう。涙ながらに私にどうか我が子を頼むと言ってくれていた王妃は。胸が張り裂けそうだった。これからも元気に育っていくはずだった我が子が遺体となって帰ってくる。それも殺されて。彼らが感じるだろう底のしれない悲しみを思ったら、手紙をくれたヒッタイトの王妃の嗚咽が風に乗って聞こえてくるような気がした。

 信じたのに、騙されたような形で、我が子を殺されたのだ。私を恨んでいるだろう。この国を、怨んでいるだろう。

 そして、アイ。良樹の仇をと、化けの皮を剥いでやろうと思おうとも、西の宮殿の奥に閉じこもったまま出てこない。それどころか数人の証言のみでは、アイが黒幕だという証拠にはならなかった。ラムセスが良樹から聞いたいうナクトミンとホルエムヘブに話を聞こうとしても、二人とも姿を暗ませている。重ねて、ヒッタイト王子たちが奇襲を受けたと知らされた日から、アイは私に謁見をしつこく求めていた。

 王妃である私に自ら西に赴くよう催促をかけてくるのは、どういうことか。自分を王として認めろというつもりだろうが、私にそのつもりは毛頭ない。だが、私の味方はナルメルたちを除けばほぼいないに等しく、民からもアイを王に、という声が上がっているのは知っている。こちらに誠意を示す兵たちの大部分をあの事件で失い、カーメスやラムセスの配下にいた兵たちも事件を機に西側についてしまって、今では数十人を残すのみ。アイ側につく者が多いのは、アイという人間を知らないか、ひどく恐れているかのどちらかだ。ファラオとして君臨していた彼のように、固い信頼によって出来が上がった繋がりでは決してないが、間違いなく風はアイの方に良いように流れていた。

 何より、ヒッタイト王子をわざと呼び寄せて殺させたのは王妃ではないかという噂も出回っているという。現に、宮殿の門はその真意を尋ねたり非難したりする民が後を絶たないとの報告も来ていた。もともとヒッタイト王子を王に据えようとする私を売国奴と呼ぶ声に交じって、その噂が追い打ちをかける。

 王家への信用は、地に落ちたも同然だった。どうにかナルメルたちを通して弁解を行うものの、このヒッタイトがいつ責めてくるか分からぬ緊迫した状況で信じようとする者の方が少ないのが現実。誰もがこれから起こり得る戦いへの恐怖に怯えていた。


「王妃」


 振り向いた先にはナルメルとセテムがいる。二人共疲れ、案じる表情で私を見ている。私も同じような顔をしているのだろうかと思い、少しだけ口端を上げて見せた。


「ごめんなさい、考え事をしていたの」


 負けてはいけない。精一杯私が出来ることを。

 弱気になるな。私たちのしていることは、無駄ではない。


「議会を設けましょう。大臣たちを召集なさい。まだ戦争が始まると決まった訳じゃない」


 茜色に照らされた二人が静かに返事をする。


「ヒッタイトにも書簡を送ります。謝罪を兼ねて話し合ってみます」


 書簡で弁解し、赦しを乞おうとは思っていない。こんなつもりではなかった、私たちがやったのではない、という次元の問題ではないのだから。守り切れなかったエジプト側に非がある。そして何より、エジプトの者が王子たちを襲撃、暗殺したというのも否定できなかった。ただ、この国の意志ではないことが起きたという事情だけは説明しなければならなかった。たとえ、受け取ってもらえなかったのだとしても。


「それからアイが首謀者という証拠を探させて。ナクトミンとホルエムヘブの行方も。きっと何か手がかりがあるはずよ」


 諦めてはいけない。諦めたらここで終わりだ。草の根を分けてでも証拠を探し出し、アイを失脚させなければ。このままでは、私は、あの男を王とするしかなくなるのだ。




 しかし数日経っても議会が開始されることはなかった。大臣たちが集まらないという報告だったが、ヒッタイトとの国交悪化による動揺で職務におわれているのだろうと、王妃からの命令であるという文句をつけて再度召集した。

 大臣たちが召集されている間、書記官とセテムに挟まれて二通目のヒッタイト王への書簡を綴る。一通目には返事はなかった。とにかく書き続けることだと、二通目に至っている。そんな折、顔を青くしたイパが慌てた様子で持ってきたのは、ヌビアのキルタ王妃からの密書だった。

 今回のヒッタイト王子暗殺の事件は、他国王家に広まる大きなものとなりつつあった。エジプト王妃がヒッタイト王子を騙して呼び出し、殺した。それが大まかな事件の概要とされている。事件のことを聞き、すぐさま真実を乞う手紙を送ってくれたのが、彼の死後も何度か手紙をやり取りしていたあの王妃だった。

 何か良い助言をしてくれるのではないか、この危機に手を差し伸べてくれるのではないか。そういう期待がどうしても拭うことが出来ないまま、私はありのままを記して彼女に書簡を返したのだ。

 イパの青ざめた顔に不安を覚えながら、留め具を外して書簡を開く。

 書簡の初めには、私を気遣う文章が続いており、私の言ったことを信じる、と綴られていた。しかし後半の内容は期待とは反対だった。


『我が夫ヌビア王は、ヒッタイト側につく意志を表明いたしました』


 彼女の夫であるヌビア王は違った。最後に記されている一文がそのことを物語っている。ヌビアも、敵に回った。そういうことだ。

 彼女も王妃。夫である王を支えるための存在であり、意志に背くことはない。彼女は彼女のやるべき役目を果たしたまで。私が同じ立場だったなら間違いなく同じことをした。この知らせをわざわざ送ってくれたことだけにも感謝しなければならない。彼女との手紙のやり取りも、これで最後。

 書簡を握り締めて額につけた。もう、外に味方はない。


「失礼いたします」


 ナルメルが険しい表情で入ってきた。大臣たちの召集が終わったのかと思い、立ち上がる。ここで憂いに浸っている訳にはいかなかった。


「議会を催すことが出来なくなりました」


 ナルメルのへの字に曲がった口元から発せられた報告に、思わず耳を疑った。


「大臣たちは集まらぬと」


「……どういうこと?」


 私の命令に拒むなど、許されないはずだった。今までならば。


「一刻も早くアイを王に据え、戦争の準備をというのが、大臣たちの意志であるそうです。それで事は治まるだろうと。何より、アイがそう申しているためだと申しておりました」


 大臣までがアイを支持しているのか。私にアイを選べと言っているのか。行く先を思い、思考が真っ黒になる。多くの道が目の前で次々と閉ざされていく。

 どうすればいいのだろう。私は。どうすれば。


「一度、部屋にお戻りを。我々だけでこれからのことを考えましょう。それに、かなりお疲れの様子。お休みになられると良い」


 胸を抑えつつ、ナルメルの提案にそうね、と頷いた。まずは落ち着かねば始まらない。取り乱しては何も生まれない。


「カーメスたちを呼び戻す。セテム、お前も手伝え」


 侍女に私を任せると、セテムとナルメルは急ぐようにして部屋を出て行った。


 部屋へ戻るため廊下を歩いていると、いつもと周囲の雰囲気が違うことに気づいた。立ち止まって、来た道を振り返る。私に従う侍女と兵の数人しかいない廊下が見える。風が吹き込み、それに乗って吹き流れてくる違和感がより顕著なものになった。


「何事でしょう」


 私に続いて、侍女たちも異様な空気に後ろを振り返り、眉を顰める。

 歓声だ。タシェリが生まれた時以来ずっと聞いてない、民の声が聞こえている。廊下の先、以前私が彼と共に民に向けて出たあの場所から、鼓膜を打ってくる。


「この騒ぎの理由を知る者はいるか」


 ネチェルの問いに兵や他の侍女たちは知らないと首を振った。


「誰か、様子を見て来なさい」


 何に向けたものかが分からぬ歓声はますます大きくなる。こちらを煽り立てるかのように。

 王も立っていない。王子王女が生まれた訳でもない。それどころかヒッタイトから反感を買って、今にも戦争が起こる直前まで来て何もかもが引きつっている状態だ。なのに、この歓声は何なのか。地面を揺らすほどの、身体が震えるほどの懐かしい響きに、胸を抑える。


 ――あの人が、戻ってきたのだろうか。


 この歓声は王がその身だけに浴びるべきものだ。他に浴びる者などいない。ならば、ならば、あの向こうに。王であった私の夫が、あの向こうに。太陽の黄金を浴びて、大きな背中を向けて、民に手を振っているのだろうか。胸が大きく鼓動する。苦しくなる。懐かしいほどの大きな歓声にそう思わずにはいられなかった。この先に夫がいるのではないかと、馬鹿馬鹿しい考えが止まらなくなる。

 冷静に考える前に、私は廊下を走り出した。彼が死ぬ前に皆に囲まれながら歩いた、その廊下の道を行く。ネチェルたちの呼ぶ声が聞こえ、後ろから彼女たちの気配が追ってくる。

 ここはシェリをこの腕に抱いて歩いた道だ。隣には彼がいて、胸には娘がいた。幸せだった。本当に、あの頃の私は幸せの中にいた。

 廊下が大きく開けて、夕暮れの空色に包まれた広い光景が私の前に現れる。兵がずらりと並び、神官たちも一糸乱れず並んでいる。大事に胸にしまってきた記憶を思い返しながら走って目に映ったそれらは、想像を絶したものだった。

 夕陽に満ちている。珍しくない茜色だ。だが、兵も神官も、皆西の者だ。多くの兵に囲まれながら民の声を浴びているのは、彼よりも背の低い、怨んでも恨み切れないあの男。あれは。


「――アイ殿」


 私に追いついたネチェルが呟いた。信じられないと目を疑い、首を振る。私たちは唖然として、かつてそこに立っていた彼の姿と少しも違わない服装に身を包み、民に手を振る男を凝視した。

 何故、民があの男を称賛している。何故、兵が守っている。何故、あの男が、私の夫の服を着ている。何故。


「何をしているの!!!」


 憎悪と共に、やり場のない何かが急き上がってくる。


「やめなさい!やめさせなさい!」


 叫んだと同時に、アイの後ろに控えていた神官の列が一斉に私を振り返った。一糸乱れない首の動きと感情の読み取れないいくつもの眼差しに、ぎょっとする。何だろう、この異様な目は。死人のような目。死人のものよりも酷く虚ろかもしれない。


「……誰の指示でこんなことをしているの!答えなさい!」


 私の声が、その向こうのアイに届いたかどうか。届く前に歓声で私の声はかき消される。それよりも、何の話し合いも無しに私一人でアイに立ち向かっていいのかと恐怖が巣食い始める。想像しているよりもずっと、恐ろしい男だ。良樹を殺した、ヒッタイト王子を殺したとする私の仇。


「お迎えに上がろうと思っておりました」


 ずらりと並ぶ神官の内、中心の3人が私の方に歩み出る。アイへの道を開けて、手でそちらを指し示した。


「どうぞ、アイ様のもとへ」


「嫌よ」


「アイ様を王とすると民の前でご宣言を」


「馬鹿げてる」


 言い捨てると彼らは白い目で私を見た。


「アイ様はずっとお呼びになられていた。何故従わないのです」


「私は王妃です。一介の人間に命令されて動くような存在ではない」


 私が威圧的に言っても、相手は怯まない。


「ご自分の立場を分かっておいでか。あなたにどのような道が残っているというのです。大部分の民がアイ様を支持している。この割れんばかりの歓声が聞こえませぬか。王の即位を喜ぶ声にて」


 民の声を武器にするつもりか。


「しかし残念ながらアイ様は、あなた様がいらっしゃらないとファラオにはご即位になれませぬ。あなた様のその指輪が無い限り」


「私にアイを王にする意志はない!」


 言い切った私に、彼らは大げさにため息を吐いた。


「応じなければ、罪人としてお呼び立てもする所存。その御名を罪人の名に汚すおつもりですか」


 罪人という聞きなれない呼び名に眉を顰めた。


「罪人?何故、私が罪人などと」


 自然と語尾が弱くなる。


「ヒッタイトに我が国を売ろうとした、売国の罪にて」


「違う!」


 売国ではない。対等な交渉だった。平和への一歩だった。


「アイがそう企んだことでしょう!!良樹を殺して!ヒッタイト王子を殺して!卑怯者!」


 荒げた呼吸で吐き捨てる。今までにあの男がしてきたことを並べると、反吐がでる思いだった。


「ならばそれを証明してみるがよい、王妃よ」


 第三者の声にはっとして、神官のその先に視線を投げた。先程まで民に向けられていたアイの目が、今度は私に向いていた。男は私を鼻で嗤う。


「民の意は私にある。王のない国に立ち、王妃が起こしたヒッタイトとの戦いで勝利に導く新たな王として」


 私に向き直り、杖の頭に両手を置いて、諭すような静かな口調で言葉を並べた。


「王妃、あなたに何が出来るというのか。最早何の手もないのであろう」


 何もない。ヒッタイトともヌビアとも切れた。何より民の意がアイに向いている。


「大人しく私の妻となり、王位を譲ってさえいれば良かったのだ。さすればヒッタイト王子も命を落とすことはなかった」


「黙りなさい!」


 声が擦れる。悔しかった。恨めしかった。何故こんなにも私には力がない。


「王妃、あなたに残された道はただ一つ。我が手を取ることだ」


 アイは私に人差し指を立てて示す。


「我が妃となれば、宮殿の奥深くに永遠と続く安寧な暮らしをお約束しよう。民や兵の内に回る悪しき売国奴の噂も、ヒッタイト王子殺しの噂も揉み消して差し上げよう。それくらいなど私には容易なことだ」


 アイを睨みつけた。柔らかい言葉を羅列させてはいても、結局は閉じ込めるということだ。期待をみなぎらせる民の声を背に、私に妻になれというのか。その隣に立ち、王位を譲れと。

 民はそれで納得するかもしれない。だがそれはこの男のことを知らないからだ。しかし真実を今ここで言っても、信用が落ちている私の言葉では誰も信じてはくれない。


「私の夫は先王ただ一人です。あなたには屈しない。あなたは王ではない!!」


 拳を握りしめながら放った私の言葉が聞こえていないかのような表情で、アイはそうだ、と口を開いた。


「私は正統な王家の血を引いた子が欲しい」


 身の毛が弥立つというのはこういうことなのだと思った。王位譲渡と妃になることの他に、子供も身籠れというのか。


「王妃として王の子を身籠ることは大事な務め。王妃には我が子を産んでいただきたい。今度は身体の強い、病などで死なぬ我が血を引く王子を」


「ふざけたことを!!!」


 私が声を上げる前にネチェルが吐き捨てた。わなわなと身体を震わせ、彼女は私の前に出た。


「そのようなこと、よくもまあぬけぬけとその口から!」


「たかが一介の女官長が大層な口を利けたものよのう」


「あなたがファラオになると?馬鹿馬鹿しい。先王の足元にも及ばぬというのに。民の心を惑わし、偽の手段で力尽くで勝ち取った王など、偽の王でしかない!」


「ネチェル!」


 彼女の肩を咄嗟に掴んで引いた。女官長という身分でしかない彼女がそれ以上罵声を並べれば、アイ側の兵が黙っていない。はたと我に返り口を噤んだ彼女と私の間にメジットが素早く入り込み、声を潜めて言った。


「一端下がりましょう。ここにいてはなりませぬ。あの者の思う壺です。お部屋へ」


 冷静にならなければ。ナルメルたちがいない状況で怒りに任せてアイと同じ土俵に立つなど、自ら負けにいくようなものだ。


「戻ります。これ以上ここにいる必要はありません」


 私に従う兵たちも頷いた。アイを睨みつけてから、ネチェルの腕を引いて背を向ける。来た道を歩き出すと、アイに従う兵たちが行く道を塞いだ。こちらの兵が彼らを迎え撃つように身構え、対立する。


「そこを退きなさい」


 彼らは私の命令に聞く耳を持たなかった。私に冷ややかな目を向け、売国奴が、と口元が動いたのを見て、血が出るのではないかと思うほどに唇を噛んだ。味方の兵を手で下がらせ、前に歩み出る。


「私を誰であると知っての言動です」


 胸を張り立ち憚ると、手で前を横に切った。


「命令です、下がりなさい。下がりなさい!」


 一瞬怯んだが、兵は持ち直して私に相対する。行かせないつもりか。


「良い。行かせて差し上げよ」


 突然アイが命じて兵たちが渋々身を引き、私たちはアイを一瞥し、民の声が響き渡るその場から去った。そうする他なかった。


「最早逃げ場など無いのだ」


 アイのほくそ笑む声が、歓声と共に背中を追いかけてくる気がした。



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