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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
26章 時の果て
165/177

還った絆

* * * * *


 朝議中に届いた手紙と花束を胸に抱いて、その足でナルメルとセテムを連れて神殿へ向かう。

 良樹からの手紙だった。予定より到着が1日遅れると言う簡単もので、それは象形文字で綴られていた。

 この手紙の他にも二つ、前に届いている。他の二つにはザナンザ王子の様子や、ヒッタイトの様子、ヒッタイト王家のことなどが事細かに、分かりやすく記されていた。

 無事に交渉も済んだと言う。ヒッタイト王がエジプトに力添えしてくれると言う。この決定に、どれだけ胸を撫で下ろしたか分からない。

 交渉成立が記された書簡ごと、ネチェルたちに摘んできてもらった青い花束をぐっと胸に寄せる。心地良い花の香りが鼻孔を掠めていく。

 王子が来てからどのように対処していくか、ヒッタイトの王子がエジプトの王になるということで起こり得る問題に関して話し合って、最近はなかなか神殿へ足を運ぶことができていなかったが、ようやく時間が取れた。


「ずっと来てなかったから、怒ってるかもしれないわ」


 そうですね、とセテムは苦笑して一歩後ろを歩む。同じように苦笑するナルメルと顔を見合わせてから、兵たちの間を通り、神殿へ繋がる階段を昇った。

 葬儀が終わって半年が経った今も変らない神殿。そろそろ今年のナイルの氾濫がやってくるのではと時間神官の間で審議が行われていて、こちらに気づいた神官がよそよそしく頭を下げて去って行っていった。

 顔を顰め、気に入らぬと苛立ちを見せたセテムを止め、彼らの背中を3人で見送る。居た堪れない視線を感じても、当然のことだと受け流せた。

 今は、ヒッタイト王子をエジプトの頂点に置こうとしている私を、冷たい目で見る人々が多い。陰で売国奴と呼ばれていることも知っている。

 けれど、きっと変わる。変っていくはずだ。

 ヒッタイトの王子が先王の意思を継ぎ、エジプトの王として君臨し、よい国づくりをその手で行っていく。冷たい視線が温かな視線へと変化する瞬間が必ずやってくる。

 息を大きく吸い込んで、歩き出す。大きなアメンの像の前に立ち、花とヒッタイト交渉成功の旨を記した書簡を手向けた。


――あなた。


 アメン神像の前で彼に呼びかける。

 あと少しでヒッタイトから幼い王子が王となるためにやって来る。私は、我が子のようにその子を立派な王に育ててみせよう。ヒッタイトとエジプトが手を取り合う。どれだけあなたが望んで来たことか。そしてあなたの意志を、その子に。

 私が伝えることが出来たなら、彼の名は彼の意志と共に、私が相見えることのない人々の中に宿ってその先へと繋がるはず。

 私が死んだ後も、他の人々の中に生き続け、消えることは無い。そうやって今と未来を繋いでいくのが、私の役目だ。

 残された者たちの最大の使命は、志半ばで死んでいった者たちの想いを継いで生きることなのだから。


 これからの成功を祈り、アメン神像を振り仰いだ。未来への不安と期待が入り混じっている中で、期待の方が溢れんばかりに大きい。

 エジプトとヒッタイト。長年敵対し、互いに血を流し合ってきたこの二つの国が手を取り合って行くことが出来れば、どれだけ国は安泰するだろう。脅威がなくなるだろう。

 彼が願っていたことが現実になるという希望が、どうしようもなく膨れ上がっていた。


「そろそろメンネフェルに着いたころでしょうか」


「カーメスが王子たちをお出迎えしていることだろう」


 帰ろうと振り返ると、後ろでナルメルとセテムが会話をしている。彼らの表情から、二人共私と同じように期待に胸を膨らませているということがありありと伝わってきて思わず笑みが漏れる。


「8歳の王子……家族と引き離されてどれだけ寂しい思いをなさっているか」


 良樹から知らされた王子の好むものは一通り用意させている。だが、まだ母親に甘えていてもおかしくない時期だというのに家族から引き離された子の気持ちが、好きなものばかりに囲まれる程度ですぐに晴れるとは思っていない。

 おそらく、それなりの時間が必要になってくる。


「王子への教育は、王子がエジプトに慣れて頂いてからにしましょう」


 ゆっくり。それでも確実に、進めて行こう。

 私の言葉にセテムとナルメルが揃って深く頷いた。

 これからやることはまだまだ沢山残っている。


 出口に向かって歩き出すと、こちらに向かってくる人に気づいて足を止めた。


「カーメス?」


 顔を蒼白にして駆けてくるのは、メンネフェルに王子の出迎えに向かわせたはずの将軍だった。背後を一人の兵が追っている。


「王妃!」


 私を見つけるなり、叫ぶようにして私を呼ぶカーメスの様子は随分妙だ。


「早かったな。王子たちがいらしたのか?」


 息を整えながら、カーメスはセテムの問いに首を横に振る。カーメスの表情は起きていることの深刻さを物語っていて、ナルメルもセテムも意味を謀りかねてその人を見つめた。ただ事ではないと、誰もが感じ取っていた。


「……ラムセスの部下より、知らせが参りました」


 息を切らしてカーメスは告げた。


「知らせを受けて一大事と判断し、独断でメンネフェルから戻りましたこと、どうかお許しください」


「何があった」


 ナルメルが前に出て問うと、カーメスに促されて十代ほどの少年が私たちの前に現れた。大きな傷を作り、まだ手当をしていない状態で、床に膝をつき頭を深々と下げる。


「昨夜何者かに奇襲を受け、ラムセス率いる部隊を除く、ヒッタイト王子、大神官殿、エジプト兵及びヒッタイト兵が壊滅されました!!」


 枯れた大声で言い切ると少年は床に額を付けて泣き喚いた。声が、神殿の空間に響き渡る。


「申し訳ありませんでした…!!!」


 少年の手にある袋の、黒ずんだ血の色が、何よりも鮮明に視界に残った。






 ――エジプトとヒッタイトの国境付近のオアシスで、何者かに夜襲を受けた。


 ヒッタイト王子と大神官が刺されて死亡。

 生き残ったのは、そこを離れていたラムセスの小隊と数人のヒッタイト兵のみで、知らせにきてくれた少年兵以外は皆そこでの処理に追われているという。

 ラムセスの小隊も襲われ、これがどうやら計画的だったということは分かっているものの、夜襲をしかけた者に関してなど未だに詳しく分かっていないことの方が多いとの報告だった。


 待ち望んでいた人々が襲われ殺されたという事実を飲み込み切れない内に、寝る間もなく現場への増援を命じ、状況把握のために急遽開かれた議会に参加し、いつの間にか朝になっていた。


 とても静かな、何も無い朝。

 くり抜かれた窓から白い光を浴びて、一昨日送られてきた良樹からの書簡を読み直している。

 無事の帰還は達成されるだろうと綴られた、簡単な短いもの。ぼうっとした状態で、何度も読み返している。受けた知らせの何もかもが受け入れられなかった。信じられなかった。


 皆が言う大神官は、良樹のことだ。行かせてほしいと、自ら名乗り出てくれたあの人。役に立ちたいと。立たせてほしいのだと。

 ヒッタイト王子というのは、私がヒッタイトの王妃から預かることになっていた幼い子のこと。まだ8歳で、これから私が母親代わりになり、エジプトとヒッタイトの両方の心を持つ王に育てるつもりだった子。その子の到着を今か今かと私たちは待ち望んでいた。


 良樹が、その王子が、死んだと言うのか。殺されたと言うのか。


 話だけでは現実を飲み込むことが出来ず、殺された大神官というのは、別の人間なのではないかと考えが逃げていく。

 もちろん、何が起こるか分からないヒッタイトへの訪問だった。だからこそ、強者を揃えた。襲ってくる者たちを薙ぎ払えるような力を持った、皆選ばれた者たちだった。それに加えてヒッタイト兵もいた。

 なのに、壊滅というのは、一体どういうことなのだろう。


 何があったのだろう。


「王妃、」


 ナルメルが部屋に入ってきていた。


「ラムセスたちが帰国致しました」


 遺体を乗せた馬車がテーベの都に入ってきたと知らせを受けたのだと言う。書簡から顔を上げると、宰相は悲しげな顔で私に礼をした。


「大神官殿のご遺体の方へ、ご案内致します」


 頭が真っ白だった。





 小さな部屋の中心。そこに大きな台があって、四隅に燭台が並び、四つの火が部屋を照らしている。

 台の上に、横たわっていた。火でできた黒い影が、その人の白すぎる顔の上を泳いでいる。


「……良、樹」


 声が出たかは分からない。腹部の前で組んだ手をぐっと握り締めた。覚束ない足どりで寝台に歩む。


「……よ、……よし……」


 別人ではなかった。紛れもないその人だった。

 見紛うはずもない。

 柔らかく閉ざされているように見える瞼は、想像以上に固く閉ざされ、二度と開かれることはないのだと知っている。僅かに開いた口元も、血の気がなく、どこまでも白い頬も。

 この顔色を見るのはもう何度目か。安らかな柔らかい表情で、血色を感じられない顔で、自分の知る人が横たわるこの光景を目にするのは。


 あばらの右下に生々しい刺し傷があった。

 血が流れた跡で、衣服が黒く汚れたまま。


 書簡が届いたばかりだった。良樹の字だった。

 王子を連れて予定通り帰還できると、何の問題もないように書かれていた。

 なのに、それを書いた本人が目の前でこうしているのは、どうしてだろう。


「……よし、き」


 呼んだ瞬間、足から力が抜けてそれ以上進めなくなった。


 飲み込めない。

 目の前で起きている、良樹の状態が。

 何が起きたと言うのだろう。

 前と同じ笑顔で帰ってきて、また向き合えることを当然と思っていた私が、間違っていたのか。


「ザナンザ王子の御遺体は生き残っていたヒッタイト兵数人が、ヒッタイトへ連れて戻られたと報告を受けております」


 何が。


「よし、き…」


 何が。


 帰ってくると言ったのだ。

 私に。必ず帰ってくると、この人は。


 確かに帰って来てくれた。でも違う。私が望んでいたのは。

 私が望んでいたのは、この人のこんな姿ではなかったはずだ。


 こんな。


 襲ってくる現実に、水中にいるかのように呼吸が苦しくなる。

 ふいに掴んだその人の手は、怖いくらいに冷たく固い。

 彼の手と同じだと思った。死んだ彼の手と。


 放っておかれた陶器のようだ。


「誰が…」


 腸が煮えたぎる想いがした。


「誰が殺したの…!!!」


 悔しさやら悲しさやらが押し寄せて、声になって飛び出した。


「こんな…こんな…っ!!」


 叫ぶと同時に視界に映る良樹が歪む。


「詳しいことは今調べさせておりますが、盗賊ではないかという報告が入っております」


 答えたのはナルメルだった。


 盗賊。砂漠の盗賊が、手練れの集まる王家の集団を襲うだろうか。王家に仕える兵たちより強い盗賊などいるはずがない。それなりの技量を持ち合わせた、エジプト兵とヒッタイト兵たちがいたのだから。かなりの手練れでなければ、あの集団は破られないはずだ。

 だというのに、破られた。壊滅させられた。

 一体、どこの誰に。


「しかし、エジプト兵だったと言う者もおります。事実、ラムセスたちを奇襲した者らはエジプト人だったと」


 ナルメルの深刻そうに低められた声に、はっとした。

 あの軍に勝てる小隊がひとつだけある。

 格段に力の違う、部隊。その可能性が自分の中に現れた時、まさかと、信じられない思いに呆然とした。



「ヨシキ…!」


 私の他に、良樹の名を呼んで部屋に飛び込んで来た人がいた。私とナルメルを通り過ぎ、遺体を目の前にした後ろ姿が、息の乱れで大きく揺れている。


 ネフェルティティ。ずっと身を潜めていた、かつての王妃がそこにいた。

 決して表立たず、王家の成り行きを見守っていた美しすぎるその人は、見開いた目で台の上に横たわる遺体を見つめ、状況を認めるなり、首を横に振りながら遺体に歩み寄る。

 よろよろと遺体の傍に近づくと、膝をついて良樹の顔を覗き込んだ。


「……ヨシキ…ヨシ……」


 安定しない震えた声で、繰り返し呼びかける。


「……あなた……どうして」


 胸元を掴み、弱く揺り動かした。それでも動かない。

 良樹は、もう動かない。


「どうして、死んでるの…!!」


 彼女が持っていた何かを床に投げた。床をすべり、私の足元で止まったそれは、金が織り交ぜられた赤い首飾りだった。


「こんなものいらなかった…!!私が、私が望んだのは……私は、私はただ…!……ただ…」


 良樹の胸元の衣服をぐしゃぐしゃに両手で掴んで揺らす。叫んでいた声は徐々に小さくなり、揺らす力も弱くなって彼女の腕は力がなくなったように動かなくなった。


「ああ……あぁ…」


 死んだ良樹の手と、生きている彼女の手の色の差があまりに悲しい。


「あああああああーっ!!!」


 悲痛な悲鳴を上げて、彼女は良樹に泣きついた。動かない身体を両腕で抱き寄せて、頭を胸に掻き抱いて、自分の頬に擦り付けて泣いた。

 悲しい声が何重にも響き渡り、空気を振動させる。私の身体に伝わって、現実を突き付けてその色を刻み込む。

 私は元に落ちた首飾りを拾い上げ、言葉にならない声を上げ続ける彼女の背中を見ていた。

 ナルメルが外に出ていき、私もその場に座り込んだ。立っていられるほどの力がなかった。彼女のすすり泣く声を聞き、良樹の真っ白な顔を見、昨日まで描いていた将来が一切崩れ去ったのだと思い知る。




「……こうなることは、分かっていたのかもしれないわ」


 泣き止んでしばらく続いた沈黙の後に、彼女が呟いた。


「殺したのは、私の父よ」


 彼女が良樹の胸から顔を上げる。


「え…?」


 小さく聞き返すと、彼女は泣き腫らした目を私に向けた。いつか見た通りの凛々しい、鋭い彼女の目だ。


「アイよ。この人を殺したのは、ヒッタイト王子を刺殺させたのは、あの男。私には分かる」


 息を呑む。


「エジプトとヒッタイト兵を壊滅させられるくらいの兵が、この国にいるでしょう?そしてラムセスがいない合間を狙って襲わせた……こんなことが出来るのは、私の父だけだわ」


 許さない、と彼女は微かな声で口にしてから、良樹に向き直り、しばらく彼の頬を撫でていた。


「……笑ってることだけが、救いね」


 良樹の口元は、柔らかく笑みを湛えているようにも見える。安らかな眠り、という言葉が何よりも似合う表情だった。


「ティティ」


 すると、幼い子供の声に重なって、背後に人の気配がした。振り返ると見覚えのない侍女が立っており、その腕には小さな女の子が抱きかかえられている。


「シトレ、来たの?」


 少し驚いたように彼女は呼びかけた。


「申し訳ありませぬ、姫君がどうしても行きたいと…」


 侍女はすぐに退散しようと向きを変えたが、小さな子は嫌だと聞かなかった。幼い両手に鳥の人形を抱きながら、身体を揺すって必死に抵抗している。


「あっ、よーき!」


 良樹を見つけるなり、女の子がわっと喜ぶ声を上げて、侍女に下ろしてもらうと、転びそうな足取りで彼女と良樹のもとへ走った。


「よーき!」


 私の目の前を過ぎたのは、まだ二つになるかならないかくらいの女の子だった。

 ネフェルティティの傍まで来ると、人形を下に落としてはしゃぐように良樹の手を掴んだ。掴んで、ぶんぶんと振っている。全身で飛び跳ねる姿は、この場に似合わないほどに生き生きとして暖かい。

 やがて、動かない良樹を不思議に思ったのか、良樹の手を離してネフェルティティを振り返った。


「よーき、ねんね?ねんねしてるの?」


 舌が回り切れていない、あどけない口調だった。首を可愛らしく傾げて、ネフェルティティから手を伸ばされてその胸に抱きつく。


「そうよ、眠ってしまった。もうずっと起きないの」


 言いながら彼女は、女の子が落とした人形を拾って、その子に手渡す。


「おきないの?」


「起きないわ。もう二度と」


 何事もなかったかのような顔をして、その子は両手に人形を抱くと、ネフェルティティの腕の中から良樹を見つめた。起きるのを待つように、じっと瞳に良樹を映している。


「ずっと、待っていたのにね……」


 女の子を抱き締めて、彼女は声をくぐもらせた。




 しばらくして、彼女は意を決したように腕に女の子を抱いたまま私に向き直った。縋る小さな子を、私に見せるように抱いている。

 女の子は、手も足もすぐに隠れてしまうほどに小さい。上の娘が無事に生まれていたら、この子くらいだった。いや、もう少し大きかったかもしれない。私の娘たちの、ちょうど間に入るくらいの歳の子だ。

 そう思えたら、目の前のあどけなさが眩しいほどに微笑ましくて、自然と頬が緩み、そんな私を見ている小さな子も応じるように柔らかく笑った。

 子供特有の笑顔が、ひどく泣きたいほどに愛おしい。


「その子は?」


 尋ねると、彼女は真っ直ぐ私を見た。


「ヨシキが救った子よ」


「え…?」


「周りが忌み嫌う中で病人に頼まれて、出産を手伝って、自分の手で取り上げた子」


 彼女の手が繊細な髪を撫でる。


「私の血も、ヨシキの血も継がない子。でも私たちの子供」


 愛おしそうに、彼女はその子の髪を梳いた。


「実の母親が亡くなって、ヨシキが我が子として育てるのだと言って手元に置こうとして譲らなかった。だから私が養子にしたの」


 良樹が。この子を、病に侵された女性から。

 私の知らない時を過ごしていた良樹の姿を、垣間見た気がした。


「この人は、何度も何度も後悔していたわ……あなたの子を殺めたことを」


 良樹は私の子を殺した。この恨む気持ちは消えない。

 良樹があの薬を持ち出しさえしなければ、あの子は私の隣で、彼女の腕に抱かれる女の子のように笑っていたと考えると、やはり許すことが出来ない──でも。


「この人のことだもの、自分が刺された瞬間、その報いだって思って受け入れたんでしょうね。この顔を見れば分かるわ。いつだって、報いは受けなければって言っていたから」


 涙が溢れそうになる。それを必死に耐えて、小さな子を眺めていた。


「必ず帰ってくると言ったのに。帰って来て私とシトレを育てると約束したのに……死んでしまった」


 死んでほしくなかった。生きて、帰ってきてほしかった。

 良樹が生きて帰ってくれていたなら、もっと分かり合えていただろうに。互いに守るものを持って、同じ方向に歩めていただろうに。


「あなたが羨ましい」


 彼女が良樹の手を握りながら私に告げた。


「この人は最後にあなたを選んで北へ行ったの。私はこのままがいいと言ったのに、聞いてはくれなかった」


「それは違うわ」


 出発前の良樹の様子が甦り、咄嗟に彼女の言葉を切った。


「ヒッタイトへ向かう前、良樹は自分の守りたい人たちの未来のために行くのだと私に言った」


 彼女ははっとして顔を上げて私を見る。赤らんだ目元が再び潤みを帯び始める。膝の上に座る小さな子を抱き締めて、彼女は目を伏せた。


「良樹を救ってくれたのは……あなただったのね。良樹が守りたかったのはあなたたちだったのね」


 良樹の言っていたのは、この二人だったのだ。私が突き放した良樹を支えてくれていたのも、この二人。良樹が危険を冒してでも守りたかった存在。

 彼女は泣きながら、ほんの少しだけ嬉しそうに笑った。


 しばらく私たちは互いに見つめ合って、それから良樹を眺め、小さな子があげる言葉に耳を傾けていた。


「……良樹の埋葬は、あなたにお願いします」


 彼女に頭を下げて頼んだ。


「良樹を、どうかよろしくお願いします」


 そうするのが一番だろう。私のこれからを考えるならば。

 良樹を葬ってくれるのに、彼女ほどに相応しい人はいない。

 驚く彼女に首飾りを手渡し、私は立ち上がった。


「あなたはこれからどうするの」


 首飾りを受け取り、そのまま私の手を取った。

 答えられなかった。悲劇を歩んでいこうと心に決めながら、自分がどうなるのか何も分からない。


「生きて」


 はっきりと告げる彼女の瞳は強かった。


「あなたは沢山の人の想いを、決意を抱いて生きていかなければならない。死んではいけない」


 死んでしまった彼の想い。良樹の決意。口内に堪った唾を飲み込で、弱く笑みを返した。私の背に伸し掛かったものは何倍にも膨れ上がって、今にも爆発しようとしている。けれど私を取り巻く現状は、彼の名を守るために生きていこうと決意したあの頃とは、もう違う。


「私は、最期まで王妃であり続けるだけよ」


 彼女の手をそっと解いて、その先に横たわる良樹の顔に視線を送った。静かな、眠っているような顔だと思う。今にも起きて、私に冗談を言ってきそうな表情だと思う。

 込み上げるものがある。それを振り切って、彼女と女の子を見た。


「あなたも生きて。その子と一緒に。良樹のために」


 彼女は大きな潤んだ瞳でじっと私を映し、それから強く頷くと、もう一度良樹の方に向き直った。女の子が立ち上がり、再び良樹の手を握ると、「起きて」と揺すり始める。そんな三人の光景に背を向けて、私は扉を開いて廊下に出た。






 扉の外にはナルメルとラムセスが私を待っていた。右頬に大きな傷を作ったラムセスの俯いた表情は、陰っていながらその深い後悔が滲みでている。綺麗なはずの赤毛は無残に乱れたままで、衣服も所々破れ、汚れた状態だった。


「ラムセス」


 王妃、と呼び返して私を見つめるラムセスは、ゆっくりと膝を折って跪いた。


「……俺がついていながら、申し訳ありませんでした」


 ラムセスは肩を震わせて額を床につけた。


「申し訳ありませんでした」


「あなたの責任では無いわ」


 きっと、これも全部決まっていたことなのだ。

 屈み込んで彼の肩に触れて擦る。


「顔を上げて。決してあなたのせいではない。あなたは悪くない。あなたは頑張ってくれた」


 悪いのはあの男。

 恨みがましいのは、あの男。


「酷い傷だわ。治さないとね」


 ラムセスは目を伏せて唇を噛み締めたまま顔を上げ、私が「行きましょう」と言うと素直に立ち上がった。

 ラムセスとナルメルについてもらいながら部屋へ向かう途中で、思い浮かぶのは昔の記憶ばかりだった。



――良樹。



 考えて行かなければ。望みが絶たれたこれからの王家のことを。国のことを。

 王妃として考えるべきことで頭を埋めなければと唱えても、遺体となって帰ってきた良樹の顔が頭から離れない。唇を噛みしめて、前を見据えて平然を繕おうとしても、それでも目から涙は落ちて行く。悔しさにどうしていいか分からない。

 行かせなければ良かった。あそこで私が首を横に振っていたなら。

 後悔を並べながら、良樹の顔が何度も何度も浮かんでは消えて行った。

 ようやく、私たちは分かり合えたのだと、それぞれに道を見出し、同じ理想に向かって歩き出すことが出来たのだと、希望を持つことができた直後だった。


 あの良樹の大らかに笑った顔。幼い頃に繋いだ手のぬくもり。何を最後に想って死んでいったのだろう。あれだけ大切に思う人々を残して逝くだろうことを悟って。


 大切な絆だった。過ごした時間があり、共に語り合った時間があった。切っても切れないものが、私たちの間に確かに存在していた。幼い頃から紡いできていた、変りゆく中で変らないものが私たちの中に。

 どんな間柄になろうと、掛け替えのない人だった。

 私はまた、それを失った。

 ずっと、守ろうとしてくれた人。想っていてくれいた大事な人。

 私の――。



「王妃、」


 部屋の扉の前まで来たところで、こらえきれなくなった。足が崩れたかと思ったら、抑え切れなくなった涙が嗚咽と一緒に溢れ出た。


「……良樹」


 扉に両腕を突き、額をつけるようにして、声を押し殺して泣いた。

 涙が、止まらなかった。



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