表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
25章 ヒッタイト
164/177

白い砂漠

 ヒッタイトを出て4日が経ち、その日も天幕の支度が終わるとラムセスは近くの町を尋ねたいと申し出てきた。王子がいる中で人数を削るのは気が引けたが、兵はいつもより少ない数だけ連れて行くことや、それほど時間も掛からないということで、俺たちは彼の申し出を了承した。

 陽があと少しで砂漠の地平線に隠れる頃に、ムトたちを連れたラムセスを見送る。今はヒッタイト兵もついているのだから、短時間であるならば、数人が抜けた程度では心配はないだろう。

 明日にはエジプトに入る。予定より1日遅れてはいるが、遅れる旨もすでにテーベに届けさせているから問題は無い。メンネフェルに一泊した後、テーベに向かう。たったそれだけの距離。何事もなければ簡単に辿り着けるはずだ。


 繋いである馬を見やり、それから背後に小さな王子を見つけた。傍には側近が控えている。


「ヨシキ!」


 駆け寄ってきて、俺の上着を引いてにこにこ笑っている。相手をしろという合図だ。ヒッタイトを離れてから、就寝の時間になるまで、この王子の相手をするのが日課になりつつあった。

 遊ぶと言っても、馬の乗り方を教えたり、母親への手紙を書くのを手伝ったり、エジプトの多くを話して聞かせたりするだけなのだが、この子は想像以上に喜んでくれる。食事も一緒に取り、出発となれば俺の馬に乗りたがり、結局は輿に乗らない。就寝時やナクトミンやラムセスと今後について話し合っている時以外、ほとんど隣にいる気がする。家族から離されたこの子にとって、兄の代わりを求めているのかもしれなかった。


「何を入れているのだ?ごつごつしている」


 俺の右腰付近にある凹凸を見つけた少年は興味津々だった。上着に手を入れ、凹凸の正体を取り出して王子の前に差し出す。


「あの夜の宴の席で、ヒッタイト王より頂いたものに御座います」


 袋から箱を取り出し、開ければ首飾りと鳥の人形が現れる。しげしげとそれを眺めていた子は、今度は丸い目で不思議そうに俺を見つめた。


「お前にも、誰か贈る者がいるのか?」


 誰に。これを。

 少し言葉に悩んでから、これを贈る者たちの顔を思い浮かべて口を開いた。


「妻子がおります」


 口にしてみてから何だか照れくさくなった。初めてだ。こんな風にティティとシトレを呼ぶのは。


「喜んでもらえると良いな」


 そんな俺に、王子は微笑んでくれる。


「はい」


「我がヒッタイトの品だ。これを気に入ってくれたのなら私は嬉しい。ヒッタイトの者として胸が張れる」


 言葉通り、むんと胸を張った王子は、俺が頷くのを見て馬に乗せろといつもと同じようにせがんだ。一人馬に乗せて、傍に立って手綱を握り馬を引き、兵たちに囲まれながらオアシス内を大きく一周する。走りたいとせがむこともあるが、それは危ないからエジプトへ帰ってからだと説得することが多かった。さすがに一人乗せて走らせるのは危ない。

 それでもエジプトに行けば否応なく乗馬は勿論武器の扱いも習うだろう。エジプトの文字、習慣、宗教、ヒッタイト王家とは異なるエジプト王家のしきたり。それらを弘子の傍で、多くの者たちから学んでいく。今のようにけらけら笑っていられなくなるかも知れない。

 エジプトへ着いてからすぐに王子が馴染めるよう、エジプトという国の様子を知り得る限り話して聞かせ、これから想像される王子の苦労のためにも、可能な限り今を楽しんでいてもらいたい気持ちがあった。


「ザナンザ様!」


 オアシスを一周した頃だった。ちょうど通りかかった天幕の方向から呼ぶ声がしたのだ。見れば、ヒッタイトからついてきた侍女が王子に手を振りながら就寝の時間を告げている。


「そろそろお戻りを」


 空に目をやれば、うっすらとあったはずの夕陽の色は一点も見えないほど辺りは夜に包まれていた。


「さあ王子、お時間です。続きはまた明日」


 まだ遊んでいたい、と小言を零しながらも、王子は伸ばされた俺の腕を掴んですんなり馬から降りる。同時にすかさず側近が彼の傍について俺に礼をすると、天幕へと王子を誘導していく。背を押される王子は身をよじって俺に手を振った。


「また明日もよろしく頼むぞ!」


「はい、王子」


 軽く頭を下げて笑みを向ける。


「良い夢を」


 天幕へ向かう王子の背中を、自分と同じように緩やかな眼差しで見つめる者たちがいる。慰めなければならない方の俺たちが、王子の輝かんばかりの元気さに気力を貰っていることは間違いなかった。


 寝所に入ろうとしたところ、ラムセスたちが帰っていないことを兵から知らされ、様子を見るためにオアシスの外側へ兵たちを連れていくと、緑と砂漠の境目に佇む後ろ姿を見つけた。こちらに背中を向けて一人佇む姿は、広い大きな空に立っているようにも思わせる。


「どうした、ナクトミン」


 兵を下がらせ、彼の隣に立つと、相手の無表情とも取れる顔が見えた。


「……空をね、」


 彼が地平線に向けていた目を、次は空に投げて細める。何を見ているのかと、同じ方向を見れば、ばら撒かれた様に散らばる星が幾千と瞬いていた。


「星を見てたんだ」


 彼が、ぽつりと乾いた声を落とした。


「星を?」


「今日はやけに星の位置が悪いなって」


 占星術はよく神官たちによって行われている。

 ヒッタイトや周りの諸国も同じ。星の瞬きやその位置は、この時代において重要な意味を帯びている。天にあるものは、神の意志の現れ――神の御業によるものなのだ。


「そんなに悪いのか?」


 ナクトミンは俺を見ることなく頷く。


「最悪だと思うよ」


 もう一度見返してみても、やはり無駄で何も読み取ることができない。星が多すぎて星座を見つけることも出来ず、良いか悪いかも判断がつかなかった。


「俺にはよく分からないな」


 そもそも昔から占いなどは信じない性質だ。星というのは配置が決まっているし、その動きも科学的なものであるのだから、神の意志と関連付けるのはどうも受け入れがたいところがあった。


「気を付けた方がいいよ、ヨシキ」


 星が分からないという俺にひとつやふたつ嫌味を零しそうなものを、青年は表情を崩さずに俺の横でそう言った。


「いつだって気を付けてる。エジプトに戻っても、気が抜けるかは分からない。王妃の考えを否定して、あの王子を殺めようとする輩が必ずいるだろうから」


 こちらの答えに彼は何も返さず黙り込む。何を考えているのか、相変わらず読み取れない。悲しそうに見えるのは夜の暗がりのせいだろうか。


「それにしてもラムセスが遅いと思わないか?何もないといいんだが」


 さして気にも留めないように、ナクトミンは目を伏せる。


「あの人は大丈夫だよ。僕には劣るけれど、強いから」


「そうか……」


 ラムセスの力はナクトミンの方がよく知っているのだろうし、ナクトミンが大丈夫だというのなら、俺にそれ以上言及する理由はない。


 しばらく黙ってどこまでも続くような錯覚を生む地平線を眺めていた。明日になればエジプトに帰り、ティティとシトレに会えるのだ。


「じゃあ、先に寝所に入る。明日は今日以上に疲れるだろうな」


「僕も少し経ったら戻るよ」


 先に天幕に向けて歩を進めたが、気になって振り返った先にいるナクトミンは何かに緊張を高めるかのように地平線を睨んでいた。





 深夜になってからだった。やけに天幕の外が騒がしい気がして目が覚め、起き上がってみれば、天幕の布に兵たちが手にする火が焦燥を表すように揺らめいている。

 何かあったのだと直感した。戦慄が走り、寝間着を羽織ると同時に、天幕の入口に跪く兵の姿が黒く浮かび上がった。


「夜分失礼いたします!」


「何があった」


 入口に垂れさがる布を避けると、兵の一人が険しい表情で俺を見上げている。彼が手にしている傍の炎が寝起きの視界には眩しかった。


「敵襲らしき影が地平線にとの報告が!」


 兵の方へ踏み出し、外に目をやる。侍女たちが恐怖に顔を引きつらせ、兵たちが慌ただしく動いていた。

 この時間に襲ってくるとなると盗賊か。だが周囲の騒ぎ様からすれば、もっと別な危うさを持ったもののような気もした。

 向こうでナクトミンが指示を送る姿が確認できた。兎にも角にも、ここで狼狽えていても仕方がない。


「ここを離れられる準備を進めるよう伝令を回し、王子の身の安全を確保しろ。可能な限り向かってくる輩の正体を突き止めろ。いいな」


「はっ」


天幕に入り、素早く身支度を整えて上着を着込むと、兵を連れて外に飛び出す。伝令が回り切ったのか、休んでいた馬たちが引き出され、最小限の荷物が備え付けられ始めていた。


「大神官殿!」


 俺を呼びとめたのは王子の側近だった。互いに歩み寄り、王子の様子を聞くと、寝起きでまだ事態が把握できてないということだった。


「この騒ぎは何事です」


 顔を蒼白にして、皺が寄った目元は縋るように俺に向けられている。


「詳しいことは分かりません。ただ、王子の御身に危険が及ぶことは十分に考えられます。我々が合図を送るまで、ここに。いつでもここを出発出来るよう、準備を整えてください」


 側近は仕方なしと言う様に頷く。


「ヨシキ!」


 寝間着姿の王子が天幕から顔を出した。


「何なのだ?何が起こっている?」


 側近と目で頷き合い、王子に少しだけ微笑んで見せる。自分の後ろに控えていた3人のうち2人を王子の護衛に付くよう命じ、残りの一人を連れて馬に乗り、敵が見えたと報告を受けた方向へと駆け出した。




 地平線が見える方へ行くと、連れて来た大部分のヒッタイト兵とエジプト兵が一列になって馬上から地平線に睨みを利かせていた。ちょうど就寝前に俺とナクトミンがいた場所だ。ナクトミンの方へ駆け寄ると、軍事司令官の服装の彼もヒッタイト兵隊長と隣り合って迫ってくるものに目を向けている。


「盗賊か」


 互いの馬に挟まれるように降り立ち、ナクトミンに尋ねた。


「分からない」


 報告通り、皆の視線を集める地平線にはぽつりぽつりといくつもの黒い点が浮かんでいる。真夜中だというのに、天がはっきり目にできるのは月の白い光のおかげだろう。新月で光が無かったらきっと気づけなかった。形は見極められないが、あれは馬に跨る人間だ。こちらに向かって駆けてきているのも間違いないようだった。これほど距離があるうちに気づけたのも、周囲に塞ぐものが何もない砂漠が、距離感覚が掴めないほどに延々と広がっているからだ。


「盗賊があんな大所帯を構えて夜に動くとも思えない。こちらに王家の兵がいるのはあちらも分かってるだろうし、王家の兵に勝てるほど自信のある盗賊なんている訳がないよ。弱者を狙うのが奴らのやり方だからね」


 誰であるか分からない。敵の素性が知れない。ヒッタイト兵もエジプト兵もこの事態を分かっているから、ここまで緊張を張り巡らせているのだ。


「なら、あれは何だ」


 彼は唇を結び、俺の質問に答える前に隣の馬に飛び乗る。ヒッタイト兵隊長も続いて馬上に飛んだ。


「どの道、あいつらは敵意をこっちに向けているのは間違いない。僕らは戦うだけだ」


 彼の言う通りだった。あちらが戦闘態勢でいるのだから、こちらも戦う意志を固めなければならない。


「数はこっちの方が圧倒的に多いけれど、あっちにどれほどの力があるか分からない。もしもの場合、ラムセスさんがいない今は一人でも惜しいんだ。……その時はヨシキにも戦ってもらう。その覚悟はあるね?」


 頷いて隣の馬に飛び乗って、手綱を握った。返答に迷いは無かった。ここで神官やら兵やら言っている場合ではないのだ。


「神官殿が戦われるのか?」


 怪訝そうに兵隊長が尋ねてきたが、ナクトミンは「ええ」と簡単に答えた。


「我が国の神官は特別です。僕が教えましたので、足手まといにはならないとお約束できますよ」


 そんなことをよく言っていられる物だと内心呆れてしまう。自分が戦う時になれば、それは俺にとっての初陣であるというのに。

 傍の兵が手渡してくれた矢筒を馬に備え付け、長めの剣の柄に触れて感触を確かめる。

 何が気がかりかと言えば、ラムセスがまだ戻っていないことだ。彼らが向かったのは今敵が来ている方向ではなかったか。




 蹄の音が次第に怖いくらいに近づき、大きくなっていく。目を閉じると、ぴりと空気が肌を掠める気がした。吐きそうなほどの緊張感が最高潮にまで達して、心臓の音が不安になるくらいに増している。


「応戦準備!構え!」


 弓が一斉に構えられる。


「放て!!」


 ナクトミンの一声で、最前の馬から矢が放たれた。黒い点々がそれらを軽々と避け、矢の間を抜けて駆けてくる。彼らに向かって再び矢が雨のように向かうが、それを逃れて向かってくる輩を討つために、ついに馬が走り出した。後ろの者らがそれに続き、最も後方の俺たちが漏れた敵方を討つという戦法となった。

 弓の飛ぶ音が聞こえる。嫌な呻きが耳に届き、倒れる影がいくつも馬の上から消えて行き、ぶつかり合う金属音が夜の世界に響いた。

 向かって行く大勢の兵の後ろで、向かってきた輩の正体を探ろうと目を凝らす。敵襲は黒い衣を頭からすっぽりかぶり、まるで正体を隠すようにしていた。彼らの跨るのは、上等な見事な馬。そして操る武術は並外れていた。


 彼らは盗賊ではない。憶測だったものが、確信に変わる。

 ならばあれは何者だ。

 そして何より信じがたいのは、専門に訓練されてきたはずのエジプト兵やヒッタイト兵たちがまるでそこらの弱々しい木のようになぎ倒されていく光景だった。明らかに数が多いはずのこちらが劣勢に陥っている。

 おかしい。鍛練されてきた王家の兵に勝つ者たちなど、どこにいる。

 誰もが今の事態に驚きと戸惑いを隠すことができないでいた。


「大神官殿、王子の方へ」


 そろそろ俺たちも出なければならなくなった頃、ヒッタイト兵隊長が危機感に迫られた様子で俺に言った。


「ここが持つは分かりかねます。王子の守護に回るヒッタイト兵に王子を連れ、ここを出るようお伝えください」


 俺に行けと命じる相手は自国の剣柄を握り、敵を睨みつけた。


「あなたはどうなさるのか」


 エジプトの使者である俺よりもヒッタイトの者が王子のもとへ行った方がいいはずだ。


「私はヒッタイトの名に懸け、王子のためにここで尽力します」


 死ぬ覚悟か。彼の煮えたぎった光を宿す瞳を見た。

 ついにナクトミンが馬を蹴って走り出す。嫌な音はすぐ近くまで近づいていた。


「王子はあなた様を好いておられる。エジプトで王となった時、王子が誰を頼りにするかと言われたら、私ではなく間違いなくあなたであるはずだ」


「しかし!」


「どうかあの憐れな王子を支えて差し上げて下さい。我々は我々の王子の守護の役目を全うします」


 悩む猶予も断る言葉も、そこでは意味をなさなかった。彼の眼差しは、自然と俺に決意を抱かせる。


「諾」


 そうとだけ答え、俺は控えていた兵と共に後ろへ向き直って走り出した。

 振り返った時、彼はすでに敵の中へ駆け出して砂漠の砂煙に呑まれた後で、ナクトミンの持つ剣が、矢の突き刺さった砂漠の上で大きく銀に煌めいて見えた。



 王子の所へ向かう中、単独で侵入してきたと思われる輩に出くわした。木々の間に影を見つけるなり、後ろにある矢を取り弓にひっかけて標的めがけて弾き飛ばす。俺が放った矢ではなく、隣にいた兵の矢が命中し、その横からまた別の人間が馬に跨って飛び出した。見事なくらいに黒い馬だった。

 反対側にも気配を感じ、背後を兵に任せて、そちらに身体を向けて相手が視界に入った瞬間に弓矢を放つ。掠りもせず矢が過ぎると、相手はそのままこちらに向かって馬を駆りたてる。

 相手は未だに矢尻を俺に向けていた。こんなところで矢を頭にでも食らったら命はないと分かっているのに、俺は馬の腹を蹴って敵に迫った。

 恐れが無かった訳ではない。最早勢いだった。


 やらねば、やられる。


 命中度が低い弓を放り投げ、剣を鞘から引き抜き、弓を放つ直前の相手に振りかざす。他の人間からの返り血と共に戻ってきた剣は、他でもない自分の右腕に繋がっている。視界に地面に向かって落ちる何かが映り、意識をそちらに投げてそれが落馬する人間の顔だと気付いた。紛れもなく自分が与えた人の最期を目の当たりにして、身体の芯が震えた。暗闇の中でこれほどまでにはっきり見えるのかとも思った。

 吐き気のするほど嫌な興奮と悍ましさが取り巻いている。呼吸が荒く、馬鹿みたいに鼓動が跳ね上がり、汗が噴き出した。

 そうしている間にも別の気配がこちらに一気に迫る。息を吐き、吸い、自分を落ち着けて、気を取り直して再び目を剥いた。


 1人、2人、3人。

 4人。5人。


 吹き上げる匂いと肉を切り裂く感触に憎悪を覚えながらも雑念を振り払う。まるで自分のものではないように身体が動いた。

 ナクトミンの教えが上手かったのか、自分に天性の何かがあったのかは分からない。初めてだというのに、俺の身体は心とは正反対に軽い。意に反して動くようでもあった。身体がすべてを知っているような気さえした。


 相手の攻撃をかわし、相手の隙を見逃さず剣先を相手の身体に突く。刺した直後に何かに当たり、それが肋骨だと思った瞬間に相手はたちまち落馬する。

 手綱を勢いよく引いて方向を変えると、刀身を引き抜き、抜きざまに振りかざされた相手の腕を払った。怖いほどの赤が散って、生暖かい飛沫が顔にかかった。向かってくる切っ先に繋がる相手の腕を反射的に切り落とし、片腕から噴出した血を目にする。

 しぶいた鮮血が、衣服を汚す。手の甲にかかった粘り気のある液体が、風に晒され渇く。

 その感覚から噴き出す恐怖と血の匂いにぐっと目を閉じ、唇を噛みしめ、充満する鉄の匂いの中に神経を張り巡らし、気配を感じた瞬間に反射的な行動に出る。

 あっという間に、血だらけになった。自分を鏡に映さずとも分かる。この上着は血で染まり、自分は今とても想像もできない恐ろしい顔をしていることだろう。

 しかし、戦わなければ。この時代において、俺が生まれた現代で説かれる人の殺生に対する概念は、綺麗ごとでしかない。


 生きるために。帰るために。守るために。

 そして、自分がこの手で殺めた人間の顔を、人数を、俺は決して忘れてはならないのだ。


 自分に向けられる殺気がついになくなり、少し離れた所に、馬上で息を切らしている兵に駆け寄った。


「無事か……!」


 彼は俺を視界に入れると弱々しく笑って見せ、深く、一度だけ頷いた。


「驚きました……お強かったのですね」


「……まあ」


 互いに肩で息をしながら、血だらけの相手を眺めて苦笑した。苦笑したと言っても、顔の筋肉が強張って思ったように動いてない気がしてならなかった。


「囲まれたと知った時、もう駄目だと思いました……あなた様が半分を受け持ってくれていなかったならば、私もあなた様も命を落としていたことでしょう」


 生きた。生き残った。事実に溢れた大きな安堵が、色んな感情を飲み込んでしまう。

 自分の鼓動が聞こえた。生きているという感覚が、震えるくらいに嬉しかった。

 自分の無事を噛みしめた次に浮かぶのはエジプトで自分を待っていてくれる人々の顔で、思わず上着を探り、ヒッタイトから持ってきた物の感触を確かめた。

 落としていない。大丈夫だ。帰って必ずこれを渡すのだ。


「……ここにまでいたということは、王子のところにもすでに到達してる輩がいるかもしれない」


 オアシスの中心に、王子たちはいる。王子たちも襲われている可能性が高い。


「急ぎましょう」


 二人で再び馬を走らせた。

 王子を囲む集団が見えたのはどれくらい経ってからか。月が頂点より少しずれたところからこちらを見下ろしている。

 数少ないヒッタイト兵とエジプト兵で作られる、小さな、今にも壊されてしまいそうな円が見えた。味方数人がすでに向かってくる敵2人の足下に倒れている。その中に侍女たちと側近、そして王子がいるはずだ。

 先程までの興奮とも言える勢いで、敵兵二人を薙ぎ倒し、敵がいなくなったのを確認してから剣を納め、震えて青ざめている王子の方へ走った。


「王子!」


 ぎょっとした兵たちは俺を見るなり、度肝を抜かれたような顔をして、俺が誰であるかを認識すると、円への道を開いた。


「王子!」


「ヨシキだ!ヨシキ!」


 侍女たちに守られるように囲まれていた、今にも泣き出しそうな顔で王子は俺の方へ駆けより、上着に縋り付いた。


「ご無事で何よりです」


 ついに泣い出す王子の背と頭を撫で、それから周囲を見回し把握する。思った通り、側近と侍女たちがいた。


「側近殿もお怪我はありませんね」


「神官であるあなたが、戦うのか」


 唖然としている側近に「まあ」と笑って見せる。


「戦える神官だということにしておいてください」


 神官が血に濡れるなど、儀式以外ではあり得ない。それ以外で血を浴びるということは穢れを意味する。


「それはそうと、これはどうなっているのです。あの輩は一体何者なのです」


「あれはエジプト兵なのですか」


 側近と侍女がほとんど続け様に尋ねてくる。


「詳しいことは分かりかねます。ただ、あれはエジプト人でしょう。もしかすれば王家の意に反する者らの謀反かもしれません」


 ヒッタイトの女たちが小さな悲鳴を上げた。そんな彼女らを一瞥し、側近が再び口を開いた。


「我がヒッタイト兵が押されている……あれほどの強さならばそこらの者たちではあるまい。あの者たちは一体何者なのか。王家の者では?」


 その通りだ。あれほどの強さを持つ軍隊は、エジプト王家傘下の兵でなければあり得ない。見る限り、あの剣術も弓術も、すべて俺がナクトミンから習ったものに似ていた。エジプトで専門的な訓練を積んだ者たちであるに違いない。では、あれは――。

 浮かび上がる可能性の真相を、確かめなければならない。


「一先ず、あなた方はここから離れてください。ヒッタイト兵隊長からの御伝言です。私も彼に賛同します」


 そう言うと、側近たちは表情を引き締めた。事態をすべて把握しきったのだと感じた。ここで固まって守ることはもう不可能だ。こちらの体制が崩され始めている。


「エジプト兵を御伴させます」


 ずっと自分について来てくれていた兵を王子につかせ、今まで王子の守護の役目についていた生き残りの兵たち数人にも視線で合図する。彼らは視線で答えを返してくれた。


「大勢でいると逆に危険だ。侍女の皆は木陰で身を潜めていると良い。女を襲うことはしないだろうから」


 侍女たちが不安げな表情のまま、こくりと頷いた。それを見届け、今度は小さくなっている王子に目を向けた。


「……さあ王子」


 背中に手をやり、そっと声を掛ける。


「そのように私にくっ付いていると服が汚れてしまいますよ。今の私は血で汚れております」


 今の今までずっと強く縋って泣き喚いていた少年を自分の身から引き剥がし、屈んで彼の低い視線に合わせる。なのに、すぐに王子はさっきと同じ体勢に戻ってしまった。


「王子、せっかくの服が」


「そのようなこと気にはせぬ。血だらけでも構わぬ。ヨシキは私を守れ、傍にいろ」


 わっと泣いて、俺に回す腕の力を強くした。

 その子の腕が、身体が震えている。恐怖を露わにした幼い子供の顔が可哀想でならなかった。


「大丈夫です、王子。我がエジプト兵を御伴させます。私より断然強い者たちです。彼らをお頼りください」


 王子に上着をしっかり羽織らせ、顔が見えないよう頭に深く被せると、そのまま抱き上げて近くの馬に乗せた。駄々捏ねて逃げ出す前に、側近が王子を抑えるようにして後ろに乗り込む。ここで一番強いのは自分についてきてくれたあの兵だ。ある程度強い敵が来ても打ち払えるはずだ。


「南へお向かい下さい。いいですか、エジプトへ向かうのです」


「嫌だ、ヨシキはどうするのだ」


 馬上から王子に言われて、こちらに向かってくるだろう、まだ見えぬ影を木々の間の闇に睨んだ。


「追手を討ちます」


 食糧を馬の横に付けさせ、数人のヒッタイト兵たちと側近に王子を守り逃げ切れと諭す。


「駄目だ、ヨシキも来い。敵はあんなに強い、やられてしまう。ヨシキに死んでほしくない」


 側近の腕に囲まれた子は必死に反対の意を唱えていた。側近が言うのも聞かず、一緒に行こう、と手を伸ばしてくる。伸ばされた小さな手に、俺は首を横に振った。


「後から必ず追い付きます。心配は無用です」


 駄目だ、とその子は繰り返し叫ぶ。


「命令だ、ヨシキ、私と共に来い」


 縋る子供の表情。俺はこれを守ると誓ったのだ。


「王子は、それほど私に力がないとお思いですか?」


 落ち着き払った声で、諭すように告げた。


「私が簡単にやられるとでも?」


 ややあって、相手は口をへの字に曲げて黙って俺を見、俯いて「そういうわけではない」と小さく零した。王子から差し出された小さな手を静かに取って、握り返す。小さな温もりが、どうしようもなく愛おしかった。


「ならば信じてください。また必ず会いましょう。すぐにあなたを追い掛けます。約束です」


 帰るべき場所が俺にはある。

 生きて。生きて、必ず。ティティとシトレのもとへ。


「……約定せよ。また私の傍に戻り、私に沢山のことを教えてくれると」


 涙声で幼子は王子らしい口調で言い放つ。


「御意」


 一度強く握ってから離し、一瞬宙に見えた小さな手のひらに自分の手についていた血がついてしまったのを見た。人を殺した手でよく子供に触れたものだと苦笑しながら、馬から離れる。シトレを、もうこの手で抱いてあげられないかもしれない。人の命を直に奪ったこの手では。

 昔の自分が、どんどんなくなっていくのを感じていた。



 空を仰いで、息を吸い込む。血の匂いがあたりに充満している。

 古代の世界なんて、こういうものなのかもしれない。弘子がこんな思いをしなくて良かった。エジプトに俺たちがいる間にひとつの戦争もなかったのは、それほどに平和だったからだ。


 鬼気を孕んだ気配が近づいている。あちらの防衛が破られて、敵がこちらに向かっているのだ。


「何をしてる!走れ!行け!」


 名残惜しそうにいつまでもこちらを見ている側近たちに強い口調で命じながら、俺も馬に飛び乗った。


「早く!!行けっ!!!」


 南を指さし、繰り返し叫ぶ。

 エジプトへ。弘子のもとへ。エジプトを救うために。


「必ずや会いましょうぞ!」


 側近が俺と同じ大きさの声で返答すると、手綱を引き、馬を走らせた。




 彼らが木々の間に消えて行ったのを確認し、それから敵の迫ってくる方へエジプト兵と横に並んで向き直る。俺を混ぜて5人。何とかなるだろうと思いながら、興奮したままの馬の首を撫でて宥めると、いななきが小さくなった。


「よろしかったのですか」


 兵の一人が、眉を下げて俺に尋ねてきた。彼の表情はまるで死を覚悟していた。


「勘違いするな。俺は死ぬつもりはない。王子にはまた必ずお会いする。お前たちも生き残るつもりでいろ」


 答えて手綱を握り返し、敵が方向を見据える。


「しかし、神官殿であろうあなたが、あそこまでの武術の使い手だとは思いませんでした。見くびっておりました。我々も顔負けです」


 別の兵が緊張を解くように笑った。


「実は、俺も驚いてるんだ」


 血に濡れていた柄を上着で拭い、再びその感触を確かめる。切っ先を振って血を払った。


「どうしたらそのように短期間で、実践も積まずに強くなれるのですか」


 また別の兵が苦笑しながら尋ねてくる。


「ナクトミンに罵られ続けることだろうな」


 冗談に皆が笑った。

 たった少しでも、肩の力を抜ける時間があって良かった。この一瞬一瞬が、大事なのだ。


「――さあ、来るぞ」


 応、と4つの返答が返ってきた。

 ここに残った最大の理由は、彼らが何者であるか見極めるためだ。エジプトのどこの誰であるか。正体が分かれば、あちらの目的も芋づる式に分かるはずだ。


 音が近づく。

 砂漠とオアシスの境目でも聞いた、気分が悪くなるほどの緊張を生む気配。周囲の人間の顔が、さっきの緩やかな笑みの面影もなく張り詰める。馬の上で腰を屈め、自分の武器を握り締めて、神経を張り巡らす。


「来る……!!」


 4人のうちの誰かが叫んだ瞬間、闇から矢が飛んできた。味方の二人が視界の端で矢に貫かれ落馬したと同時に、3人の黒い馬が木々の影から勢いよく飛び出した。飛び込んで来た速さのまま、剣が振り上げられる。剣を握る右腕が反射的に前に出て、向かってくる銀を食い止めた。柄から伝わる振動に骨が震える。鳴り響く金属音に、受け損ねた誰かの鈍い音と呻きを聞いた。


 応戦している間に違和感があった。

 腕が、痛んでいる。

 理由は明白だった。俺は、技量があっても持久力が足りないのだ。剣を持つ腕が自分のものではないくらいに重く、上げるのも辛くなっていた。

 普段使わない筋肉を嫌でも駆使したからだろう。剣を受けるたびに筋肉が痙攣するのを感じた。

 自分の疲労に加えて気づいたのは、彼らの剣術が、俺がナクトミンに習ったものとほぼ同じということだ。むしろ、それをより磨いて彼らは自分のものにしている。

 ただでさえ技が似ていて次の攻撃を読まれやすいこの状況で、腕にぶら下がった疲労は致命的だった。


 駄目だ、と歯を食い縛った。

 これでは、負ける。


 悟った時、左手が自分の腰元に動き、無意識に掴んだものがあった。押し合っていた相手を突き離し、左手のまま手にした銃を相手に向けて、迷う間もなく俺は引き金を引いていた。敵に命中することはなかったが、この時代に不釣り合いな爆音がして、相手が飛び上るほどに身じろぎ、俺から離れた。

 時間が止まったかのように、周りで戦う者たちの動きも止まり、こちらに視線を注いでいる。

 自ら手にしたものを見つめ、ああ、と息を吐いた。

 黒い。とても黒いものだ。

 この世界にはないもの。


 案外冷静な気持ちで、剣を左に、拳銃を右に持ち替える。拳銃を強く握り、人差し指を引き金に掛けた。

 今度は距離を置いた敵に向けた。撃て、と自分に言い聞かせた時、言いようもない抵抗が指先から伝わって今までなかった震えが手を侵した。

 人差し指が、引けない。

 相手も同じ武器を持ち、同じように自分に向けているならば、正々堂々という文句で対等に戦えただろうに、相手が離れて何も出来ない状態で撃つとなると、それは俺に酷く躊躇わせた。

 互いに同等の武器で応戦するならば、戦って勝てばよい。今まで向かってくるものを迷う暇なく薙ぎ払えたのは、自分を守るためだった。自分を守るために戦い向かい、互いに持て得る力を出し合って、自分の力が勝った故に殺したという結果になったのだ。

 しかし今はどうか。

 今こうして銃を向けているのは、そしてこれを発射しようとしているのは、殺すためではないか。銃を向けた相手に飛び道具はない。この距離では相手は無力と言っていい。ただ殺すという行為だけが残る。それではただの人殺しだ。


 でも。だが。しかし。


 引き金を引こうとするたびに、引いて当たれば相手は必ず死ぬのだと思うたびに、魂が抜けるような嫌な感覚が自分を襲うのだ。何もしない俺に、身構えていた相手はじりじりと近づいてくる。

 撃たなければ。

 違う。ここに生きる者ならば、俺は剣を持って向かうべきだ。

 銃口を空に向けて放った。相手が怯んだのを見、俺は素早く剣を利き手に持ち直し、すぐさま馬を蹴って向かう。

 その瞬間だった。

 何かが横から飛び出して、振り上げられた銀が勢いよく下に落とされ、ついさっきまでいた相手が大きく揺れて落馬した。

 瞬く間だった。束の間だった。血の匂いが増していく。


「……何してるの」


 俺は、こちらを守るように現れた馬上の人物を茫然と眺めている。振り返った顔は、親しみさえ感じる人物のものだった。


「ヨシキ」


 ナクトミンだった。さすがと言うべきか、彼の身体には傷一つない。血に濡れた剣以外は、戦う前とほぼ同じ姿で俺の前にいた。彼を目にした途端一気に力が抜けて、周りに自分たち以外の気配がないことを知ると俺は馬から滑るように降りた。見回した周囲は死体ばかりになっている。


「お前が……全部やったのか」


 呆然としたまま尋ねた。


「僕は強いから」


 汗ひとつかいていない彼は、涼やかな声で答えた。

 笑い合ったエジプト兵は皆絶命している。5人いた中で自分だけが生き残ったのだと知った。

 悲しさや哀れみよりも先に安堵が出た。こういう状況で生き残ったのだという安堵。この感情が戦場では普通なのかもしれない。

 仲間の目を閉じさせて回って、自分も乱れた息を整える。頭を振って雑念を振り払い、正体を突き止めなければと、ナクトミンがたった今倒した敵の遺体に近寄った。屈み込もうと膝を曲げかけ、倒れた人間の手首に巻き付く見覚えのある金を目にして、思わず動きを止めた。


 これは。

 金の腕輪であることに、全身に鳥肌が立った。


 自分の目を疑いながら他に倒れている遺体の腕も確認すると、見覚えのある金が敵側全員に巻き付いている。

 俺は、これを知っている。見たことがある。そして目の前に倒れている敵は、屈強な身体のエジプト人。俺たちに似た形の剣術でありながら、真似できないほどの強い戦闘力を持つ。黒い上着をめくって隠れていたのは、エジプト兵の正装だった。

 この金の腕輪は、この姿は、エジプト王家傘下の最強の兵たちの集まりの証ではなかったか。エジプト王家のために忠誠を誓う者たちの。


 こいつらは弘子の命令で動いていたのか?

 違う。こいつらが王妃である弘子に反旗を翻したのだ。


 弘子を王家とみなさず、別の者を主と見なし、その意志の下で今回の暴動を働いた。ならば、誰を王家と見なして動いていたのか――。


 はっとした。

 エジプト王に今最も近いエジプト人、ヒッタイト王子がいなくなることを心から望んでいるのは一人しかいない。

 あの男だ。西にいる、前最高神官、アイ。


「ナクトミン!」


 頭が訳が分からないほどに回転した。

 あの男がずっと大人しくしているのはおかしいとは思っていた。何か動きがあるのではと警戒はしていた。だがまさか、こんな大きなものだとは。


「あれはアイの手先か!あいつらはアイに賛同したということか!!」


 彼は静かに馬上から俺を見ている。無表情に近い顔だった。血の気が無いようにも見える。


「弘子の味方はもう……!」


 ――宮殿内にどこにもいない。


 すべてが、兵たちでさえが、弘子の意志から離れようとしている。そこまで、ヒッタイト王子を王にすることに抵抗を覚えていたということか。ヒッタイトへの恨みはそこまで根深いのか。


 至った思考の結末に舌打ちをして馬に飛び乗った。

 弘子に知らさなければならない。王宮のほとんどが敵なのだと。すべてはアイの方に味方しているのだと。宰相や側近たち、将軍らしか彼女を守れる者はいない。


「ナクトミン!来い!」


 焦燥に促されるまま力任せに手綱を引いて走り出した。最初に浴びた血が固まり始め、嫌な感触が手を覆っている。


「王子を追いかける!」


 ナクトミンは無言のまま俺の後を駆けた。

 ナクトミンと共に王子を守った方が効率がいい。何としてでも、俺たちはエジプトへ連れて行かねばならないのだ。夜の砂漠を走り切り、一分一秒でも早くエジプトへ帰らなければ。



 砂漠に出ると、俺たちと同じように王子の行方を追う輩を見つけ、空中に銃を発砲してこちらに注意をひきつけて、向かってくる者たちをナクトミンと連携して仕留めた。

 そうしている内に敵がこんなにこちらに流れていたことに思い知らされた。おそらくこれはすべて計画的に行われていたものだ。

 ラムセスがまだ帰って来ていないのも、同じような足止めを食らったからに違いない。ラムセスたちが無事であることを祈った。彼らを失えば、弘子を支える者がますます減ってしまう。

 勿論襲撃があるかもしれないとは予測してはいた。してはいたが、これほどまでの強敵が来るとは誰も予想していなかったのだ。

 くそ、と悪態つきながら、走っている前に南に駆ける輩が視界に入った。

 王子を追いかける敵だ。その先に見覚えのある者たちの後ろ姿がある。


「ナクトミン!見えた!あれだ!王子だ!」


 駆ける奴らに銃口を向けた。異常な音に反射的に追手たちが振り向き、俺たちの姿を認めるとそのうちの二人が一目散に駆けてくる。

 全員の抹殺を命じられているのだろうか。誰に関しても容赦がない。殺す気で向かってきているのは、刃を交えてはっきりしている。

 同様に仕留めて、ナクトミンと並ぶようにして王子へと馬を早めると、また敵が一人こちらに走ってくる。あの男を討てば王子に追いつける。

 実際に俺たちが近くにいると知った王子たちは足を止め、追手たちに応戦していた。二人ほどであれば、今いる兵たちだけで討てると判断したのだろう。

 俺は向ってくる相手を打ち払おうと剣を握り締めた。

 しかし横からナクトミンが俺の前に飛び出し、華麗とも言える身のこなしで横から切りかかる。


「ナクトミン……!」


 目の前にいる彼を呼んだ時、彼のとても静かで悲しげな目が真っ直ぐ俺を映した。その背後で敵が落馬するのが見えた。彼が握っていた長い剣を下に捨て、腰元から短剣を引き抜き、その銀をこちらに向けて光らせた。

 そして、自分の腹に衝撃が走った。


 一瞬、火だと思った。突然腹部が発火したのだと。

 自分の身に何が起こったのか把握する前に、身体を強く殴打され、俺の視界はぐるりと回って肩に重い衝撃が走った。口が砂に入って、自分が倒れたのは砂漠の上だと悟る。


 落ちた。落馬した。

 腹部の鋭い痛みに息が止まり、思わず痛みにやった手を見ると、自分の指が真っ赤に染まっていた。月の光に照らされた鮮やかな真紅。


 血だ。

 この血は、なんだ。


「――だから言ったじゃないか。今日は星の位置がすごく悪いって」


 上から声がして視線を投げる。徐々に鮮明になっていく視界に、月を背中に背負った影が俺を見下ろしていた。月があまりに白く、影の濃さをより深くする。周りの砂漠も白く見えた。

 それより、腹が。あばらの右下が、燃えるように痛み、呻くどころか声が出なかった。身体に起きた衝撃に呼吸が止まる。


「ヨシキは面白い人だったよ。ヨシキのこと、僕は好きだし、ずっと見ていたいとも思った。僕や母を捨てたアイなんかより、ずっと、何百倍も魅力的だった。他人事じゃない気がしてた」


 顔が近づき、ようやく暗い中でその顔が明らかになる。自分の唇が、「ナクトミン」と音の無い声で呟いた。動揺も何もない静かな瞳で俺を見下ろしていたのは、さっきまで己の背を任せ戦っていた青年だった。


「……どう、…て」


 自分の目を疑いながら発した声は、本人に届いたか定かではなかった。発声の仕方を忘れてしまったかのように、声が思うように出ない。


「仲良くやっていけたらとも思ってた。こうなることは、どうしても避けたいと思うこともあった」


 嘘だろう、と頭で何度も唱え繰り返しても、よく知る顔はこちらを見下ろしている。ゆっくりと屈み込み、悲しそうな目に俺を映し出した。


「でもね、僕には野望ってものがある」


 身体が動かなかった。足掻くように息をするのに精一杯で、それも一定の呼吸ができない。


「そのためだけに、ここまで来た。憎い父親とも呼べない父親に取り入って生きてきた。でもヨシキはそれを阻もうとする。ヒッタイト王子なんかを連れていったら、僕の復讐は絶たれるんだよ。ヨシキは僕の敵になったんだ。だから、ごめんね。僕は僕の野望を叶えるために、君を殺める決意をした」


 確かに前に言っていた。復讐をするのだと。


「僕の考えを言ったって、ヨシキは王妃についただろう?そんなことは分かってるから言わなかった。それだけだ」


 自分と母親を捨てた、実の父を、この青年は恨んでいたのだ。ずっと深く。

 だが、彼がしようとしている復讐とはどんなものなのか、分からなかった。

 ヒッタイト王子がいなくなったとしても、アイが王になるだけだ。それのどこが復讐なのか。アイの望みを叶えるだけではないか。

 俺の疑問を感じ取ったように、彼は再び口を開いた。


「あの王妃をアイの妻とし、アイが長年渇望したその王位を、昔自分が寝取って苦しめた女の息子が取り上げた時、あいつは絶望を知る」


 弘子を。アイの妻にすると言うのか。


「ヨシキは知っていた?アイに支持を向けていながら、僕を支持している人間が西の宮殿の大部分が占めてるってこと。僕が一言、アイに対して謀反を唱えれば、多くがアイを捨てて僕に付く。僕を王とするよ」


 いつだったか、自分がアイの息子だと言っていた時、自分の出生は最後の切り札と言っていた。

 アイの息子がナクトミンだ。血の繋がりは十分王位継承するに値する。もともとナクトミンはアイを王にするつもりでいたのだ。


「……アイは僕に王位から蹴落とされて初めて、自分がしてきたことに果ての無い後悔を思い知るだろうさ。これが僕の復讐だ」


 ああ、それが。

 それが、この青年の胸の内に秘められ続けてきた復讐。


 自分が以前それに似た感情を持っていたからだろうか、それだけのために今までを生きてきたと言う彼が哀れだった。


「復讐だなんて、馬鹿だと思うだろう?母親だってもうとっくの昔に死んでるのに、何を今更って。僕だって馬鹿だと思う」


 今にも泣きそうに彼は笑った。


「でも、どうにもならないんだ。この想いを守るために、これだけを支えに生きてきた自分が自分であるために、他人に愚かだと思われることをも僕はやるんだ」


 どうにもならない思い。

 弘子の決意を、彼女の最初の妊娠を知った時、それとほとんど同じ感情が俺を支配していた。

 誰にもある感情だ。弘子があの男のもとにいることを望んだ感情。メアリーが弘子をどうにかして傷つけようとした感情。そのどうしようもない想いが、ナクトミンにとって、その復讐だったというだけのことだ。


「見るといい。これがその始まりだ」


 彼が視線を向こうに投げた。

 砂漠に寝転んだ状態で視線を追い掛けると、小さな子が泣き声を上げて、二頭の馬から逃げている。「助けて」という声に、あの子だと気付いた。


「……王子」


 顔から血の気が引いていく。

 側近はどうした。兵たちはどうした。何故一人で逃げている。

 答えはすぐに出た。――逃げ切れなかった、他は全員殺された。


 今、王子は一人か。守る者がいないのか。そこまで弱くなかったはずだ。なのにどうして。



「王子……!ザナンザ王子……!」


 必死に呼んだ。王子を追いかける馬は明らかに敵だ。


「ヨシキ!ヨシキっ!」


 倒れている俺を見つけて、泣いているザナンザ王子はこちらに必死に、転びそうになりながら駆けてくる。追いかける馬はその様子を嘲っているように見えた。


「駄目だ!来るな!」


 声が届き切ったかは分からなかったが、王子はこちらにいるナクトミンと俺の怪我に気づき、足を止めた。幼い顔に恐怖がべったりと張り付いていた。

 こちらに来ればきっとナクトミンがあの子に刃を向ける。だが、そこで立ち止まることはもっとあってはならなかった。すぐに方向を変えて逃げるべきだった。


「立ち止まるな!逃げろ!王子!」


 王子が背後に迫るものに気づいた時には遅すぎた。

 黒い衣を羽織った男の手が、馬上から伸び、王子の長い髪を引っ掴んだのだ。子供の甲高い悲鳴がした。


「……可哀想だ。ヒッタイト王の子供じゃなければ、こんなことにはならなかったのに。なんの罪もないんだから」


「ナクトミン!」


 隣で王子を哀れむ彼に懇願した。


「あの子を救ってくれ!あの子を!頼む!」


 憐れと思うなら助けてほしい。しかし、ナクトミンは動かなかった。仕方のないことだと言う顔をして、王子と追手の動向を見守っているだけだった。

 馬に引きずられて砂漠に身体を打ち付けて転んだ王子の傍に、馬に乗っていた男が砂の上に降りた。深くかぶっていたフード部分を取り、その顔を明らかにする。おそらく王子を守っていた者たちすべてを殺めた者の正体――。


「あれは……」


 ホルエムヘブだった。いくら周りが暗いからと言って、数年共に同じ宮殿に出入りし、顔を合わせていたのだ、見違えるはずは無かった。弘子に狼藉を働いたために牢に入っていたはずではないのか。


「アイが、王子を仕留めるならば出してやるって言ったんだ」


 ナクトミンがそう付け足す。

 ホルエムヘブは強い。誰よりも。下手をすればナクトミンにも勝る。王子の守護が全員殺されるのは、当たり前と言っても過言ではなかった。


「ヨシキだって分かってるはずだ、アイという人間は自分の願望のためならば手段を選ばない人だって。何十年もファラオの地位だけを目指してきた人なんだから、ヒッタイトの化け物が立ち憚ったからって諦めるはずがなかったんだ。王妃もヨシキも、その認識が甘かった」


 考えてみればそうだったのかもしれない。

 俺は、アイという人間が最後の最後まで掴めなかった。


「王子がこうしてやってくるのを見越して、アイはホルエムヘブを解き放った。ホルエムヘブはヒッタイトをこの上なく憎んでいるからね……彼が王妃を襲ってまで王になろうとした本当の理由は、ヒッタイトを滅ぼしたかったからだ」


 ホルエムヘブにも、彼なりの思想があった。目的があった。俺はそれを知らなかった。


「アイはヒッタイトをも敵に回して王座に付く。あいつが僕に軍隊の強化を命じたのだってそれを見越してのことだ」


 ホルエムヘブが剣を握り直している。彼の足に身体を踏まれ、その下でもがいているのは、幼い少年。ザナンザ王子。

 逃げようともがいて、恐怖から来る声を引きつらせている。姿さえ見えない側近の名を呼び、侍女の名を呼び、助けてと叫んでいた。


「王子…!!!」


 子供の呼び声は、あまりに乱れて言葉に成り切れていなかった。


「やめろ!!!子供を殺すな!!」


 無我夢中で叫んだ。あの子に剣を振り上げられるような理由などどこにある。母のもとに帰りたいと、それでも王子として、エジプトに行くことを受け入れた、まだ幼い健気な子供だ。何の罪がある。


「ホルエムヘブ!!駄目だ!やめろ!」


 今すぐに立ち上がり、王子を救いたいのに、身体が立ち上がることを拒否していた。発声の度に、内臓が千切れるような痛みが身体を貫く。

 居ても立ってもいられず、力を振り絞って腹に突き刺さる短剣を引き抜いた。血が噴き出して、聞いたこともない悲鳴が自分の口から漏れた。痛みに目をぐっと閉じてから、腹這いになって王子の方へ腕を動かす。


「誰が…ヒッタイトと…」


「ホルエムヘブ!!」


 俺の声が聞こえていない。届いていない。見たことのないくらい、ホルエムヘブの顔が怒りに満ちていることを知った。


「俺の親父とお袋は!!お前のヒッタイトに殺された!!!小僧!お前の国だ!」


 彼もまた、復讐を望む人間だったのだ。


「王子を殺して何になる!やめろ!やめてくれ!」


 すると、ホルエムヘブの目が狙いを定め、細まった。振り上げられた銀は眩しく、眩しさが子供の悲鳴以外の音をかき消す。子供の母を呼ぶ声が鼓膜を揺るがす。


「やめろ…」


 駄目だ、届かない。


「やめろ――っ!!!」


 叫びは、悲鳴に変わった。同時に飛び出した甲高い子供の乱れた声が鼓膜を貫いた。







 糸の切れた人形のように地面に伏した小さな身体があった。


 「……誰が」


 ホルエムヘブは肩で息をしながら剣の切っ先を引き抜いて呟いた。


「誰が、ヒッタイトと……」


 自分の足元にいる人間をしばらく見てから、彼は空に視線を移した。


「ヒッタイトと誰が手なんか結ぶか!!あの王妃は売国奴だ!頭が腐ってやがる!」


 愕然と、俺はその声を聞いている。砂漠に響く音は虚しかった。


「ヒッタイトは敵だ!俺たちの敵だ!倒す相手だ!それでしかない!!」


 砂に抑えられる自分の傷が痛んで、腕の力が自然と抜け落ち、俺の身体は再び地面に伏した。



 報いだ。これは、俺への報いなのだ。

 そう悟った。

 ナクトミンには報いを与えようなどとは一切感じていないのだろうが、俺にとってはそうとしか感じられなかった。

 弘子の子供を殺した。殺して、ここまでのうのうと生きて、幸せを望んだ俺への。どこか納得するものが心の全般を占め、変に心を冷静にさせた。

 気づけば、冷酷なまでの静けさにいるナクトミンが、傍まで来ていた。


「……ナクトミン」


 遠くにホルエムヘブのヒッタイトへの罵声が聞こえている。ようやく声を発した俺に、ナクトミンは視線を戻した。聞き取ろうとするように、彼は屈み、顔を俺の方へ近づける。


「……罪は必ず自分に返ってくる。神は決して、許さない」


 ムトの言う通り、神はすべてを見ていたのだ。どれだけ心を入れ替えようが、許されない。

 俺はそれだけのことをした。

 分かっている。分かっていた。分かっていたのだ。

 俺の言葉を聞いたナクトミンは、静かに目を伏せてから、俺を見つめた。


「……だから、僕にも返ってくるって?」


 俺がそうであるように。俺が弘子の子供を殺したことに対する罰を今こうやって受けているように。


「分かってるよ」


 彼は力を抜いた肩で息を吐き、悲しそうに笑んだ。自嘲じみた笑みだった。


「己の罪の行く末は己だ。この魂の果てが穏やかなものだとは最初から思っていない。僕はそれだけのことをこの手でしてきてる。けれど、これからもそれを止めるつもりは無い。アイを奈落の底に突き落とすまでは、決して」


 語尾に近づくにつれて、彼の声色は再び精気を取り戻し、強いものになっていた。

 俺は知っている、この男が持つ感情を。分かっていながら止められないのだ。この男は、俺よりもっと深いところにそれを持っている。そしてそれを続けていく。どれだけ虚しいかを悲しいほどに知りながら。


「ナクトミン!帰るぞ!ラムセスが来る!!あいつは戻ってくる!」


「ええ……帰りましょう、エジプトへ」


 ホルエムヘブの声に、ナクトミンが落ち着いた声で応じた。

 この男が、自分と俺は似ていると言った意味がようやく分かった。やっていることや、自分が陥った場所が同じだったのだ。

 彼も、俺と同じように感情に動いている。

 皆、何かを持って指標を作り、戦うようにして生きている。


 ゆっくりと立ち上がるナクトミンを見ていた。そうして知る。

 俺は、俺を見ているのだ。

 この男は、俺だ。


「……じゃあね、ヨシキ」


 傍に落ちていた俺の銃を手に取ると、消え入る声でそう言った。彼の手に握られた銃があまりにも黒く、目に映った。


「恋しい人を想うだけの時間を、君にあげる。……ヨシキを殺すのは僕だけだと思っていたけれど、やっぱり殺すのは辛いから」


 男の目は心なしか悲しげで、月影の中で涙の膜を張っている。


「僕からの最初で最後の、餞別だ」


 さよならと声が小さく届いて、男の姿は視界から消えた。

 砂漠を蹴散らす足音が遠ざかる。馬のいななきが遠くになり、最後には風の音だけになった。






 取り乱したように響く鼓動が、すべての音を遮断している。動くのが辛くて、しばらく白い砂漠を見ていた。腹這いの姿から仰向けになり、自分の腹の怪我を、ここでようやく把握する。

 これほどの深さと位置ならば、大動脈は損傷していない。これが、ナクトミンの情けだったのかは、もう分からない。

 問題は出血だ。剣を抜いてしまったせいで、身体下の砂がみるみる血の赤に染まっていく。大動脈損傷時より意識消失まで時間があるとは言え、血を止めなければ同じ末路を辿る。このまま止血しなければ死ぬ。

 大きく息を吐いた。

 それでもまだ、俺は生きている。


 動かないと思っていた王子の方を見やると、その子の腕が僅かに動いた気がした。再び腹這いになって、腕だけを動かしながら前進する。歩けたなら時間なんて気にする必要がないくらいの距離に苦労した。何度呻いて、身体を丸めて砂漠に倒れ込んだか分からない。

 冷や汗が噴き出す中で、ようやくたどり着いた王子は、うっすらと目を開けて、その明るい瞳に夜空を映していた。


「……王子」


 上から覆うように、その子を顔を覗いた。頬を撫でると、その口が僅かに動いた。


「……母さ、ま」


 その子の目には涙があった。

 溜まって、目尻を流れて砂漠の砂を濡らす。確認した王子の傷は深く、大動脈まで達している。道具がないここでは救える可能性は絶望的だった。道具あったとしても、もう間に合わない。


「…さま……母さ……」


 子供は、母を呼んで泣いていた。

 目頭が熱くなり、どうしようもなくなって、申し訳なさが溢れて、その子を抱き締めた。


「……大丈夫です…俺が一緒にいます……王子」


 今にも消え入りそうな小さな呼吸を耳元に聞いた。


「王子……」


 やがて、呼吸が聞こえなくなった。

 王子は目を閉じていた。呼んでも、あの輝かしい笑顔は、瞳は、現れなかった。


 死んだ。

 唯一の希望が、死んだ。


 涙が溢れて止まらなかった。子供一人さえ、俺は守れなかったのだ。


 王子の横に仰向けになって、空を見て目を閉じた。王子と同じように目尻に涙が伝って落ちて行くのを感じていた。



「――ヨシキ!!」


 声が。

 声が、宙を駆けた。


 この時初めて、自分の名が詩的だと言われる意味が何となく分かった気がした。命を懸け渡す、樹の名前。母が好きだった俺の名前。


 目を開けて呼び声の正体を見た。


「これはどういうことだ!!ヒッタイト王子!!」


 ラムセスだった。右頬に大きな傷をつくり、左腕からも血を流している。

 やはり、襲われていたのか。よく生きていたと思う。さすがはナクトミンに並ぶエジプト王家の武人だ。


「王子は……お亡くなりになられた」


 はっと息を呑んで俺の腕から死んだ少年の身体を抱き上げる。鼓動が止まっていることを知った彼は、怒りに顔を歪めて叫んだ。


「誰がこんなことを!!!あれはエジプト兵か!?エジプト兵が謀反を!?あり得ない!」


 ムトは無事だっただろうか。結婚を控えているあの少年は。


「……アイ」


 ラムセスについていったはずの友人を思いながら、今回の黒幕をラムセスに告げた。


「ナクトミンとホルエムヘブ……あの二人が、アイに命じられて、やった」


 彼の目が大きく揺れた。間違いなく動揺している。


「……行け!!」


 ラムセスの衣服を掴んで叫んだ。叫びはどうしても掠れてしまっていた。


「行ってくれ!今、血まみれのホルエムヘブを捕まえれば、あいつを失脚させられる!」


 叫んだと同時に、自分の中に濁流のような光の束が流れ込んできたのを感じた。記憶だと、失っていた記憶だと、直感する。


「アイを捕まえられる!弘子を、守れる……!!」


 弘子を、救えるはずだ。

 これからの歴史、連なるファラオの名の中に、ホルエムヘブがある。

 そいつが。ヒッタイトへの復讐に燃えるあの男が第18王朝、最後のファラオ。

 そしてKV57の主。


 その過程までは詳しく知らなくとも、弘子がそれに利用されるのは間違いない。

 何故、今まで忘れていたのかと悔しさに苛まれた。どうして、今頃思い出されるのか。知っていたなら、こうなる前にどうにかしていたものを。


「だが」


「頼む!!変えてくれ!!歴史を、変えてくれ!!」


 変えられるとは思ってもいないのに、これほどまでに望む。

 弘子をどこまで不幸にするつもりだ。


「行け!ラムセス!行ってくれ!!!」


 渾身の思いで叫んだ。圧倒された様に目を見開いた青年は俺に強く頷き、待っていろと言い残して馬に跨り、迷いを薙ぎ払って俺が示した方へと一目散に駆け出した。


「行け……っ!」





 ラムセスが去ったのを見届け、苦しさに耐えかねて再び砂の上に身を任せた。

 出血が酷いせいか、もう意識が遠のき始めている。何かに集中しないとどこか遠くに意識が持って行かれそうだった。


――死ぬのか。俺は。


 星の瞬きを目にしながら思う。

 一人の命を殺したのだ。だから俺はこうやって、惨めに死んでいく。

 それほどのことをした。受けるべくして受けた。生きようとする意志がどこか遠くなり、仕方がないと力が抜けた。同時に当然の結末だったという安堵もじわりと血のように広がる。

 一人の命を私情のために奪った俺は、この形で報いを受けたのだ。自分の指の間から止まる素振りもなく流れていく血を見て、痛みに呻く。

 抑えれば、指の間から血が噴き上がる。狂おしいほどに痛みが全身を駆け抜け、呻いた。砂漠へと流れていく血の色に、恐怖がこれでもかと膨れ上がる。


――死ぬ。ここで。


 これほどの恐怖を目の前にしてでは、覚悟など口先でしかない。痛みに目を固く閉じた時、俺の手を取ったティティの姿が瞼の裏に浮かんだ。


『帰って来て』


 声だ。

 彼女の。


 朦朧としつつあった意識が、雲が引いて夜空が現れるように冴えていく。


『帰って来て』


 開いた視界には満天の星空が俺を覗き込んでいる。彼女の願いとも取れるこの言葉に、俺は何と答えた。必ず帰ると、約束しなかったか。


――死ねない。


 痛みに耐えて腕を動かした。少し動けば、何千本の太い針で刺されるような痛みが襲ってくる。全身が丸ごと心臓になったかのように脈打っていた。

 汗が流れ込んでくる視界に白い砂漠の地平線を睨みつける。

 ヒッタイトとエジプトの国境。馬も何もないこの砂漠を這って行けば、辿りつけるだろうか。ティティのもとへ。君のもとへ。


――帰りたい。


 約束したのだ。

 帰ると。必ず帰って、シトレの成長を共に見届けると。

 弘子にも、王子を必ず連れてくると、約束したのではなかったか。


――帰るんだ。這ってでも。


 王子の遺体の下に腕を入れ進もうとしたが、刺すような痛みが底から突き上げて来て全く進まない。

 身体が崩れて、砂の上に倒れ込み、腕さえ身体を支えきれずに崩れ、地面に頬を打ち付けた反動で、口に砂が入った。力がどこからも湧かず、倒れたままの体勢で乱れた呼吸を繰り返す。銀の月明かりに照らされた砂漠を、次第に流れ出る血が染め上げた。

 何かひとつ動かすだけで全身から汗が噴き出す。


――死ねない。死にたくない。


 まだ。まだ。


 我武者羅に呼吸をして、俺は地面に這い蹲った。


 ティティ。シトレ。二人の笑顔を思い出した。これほどに、想ったことはない。

 会いたかった。心の底から。

 待っている、と泣きそうな笑みを湛えて送り出してくれた彼女の顔を思い出した途端に顔が歪んだ。それでも、身体がもう、動かない。


「ヨシキ!!」


 また、誰かに呼ばれるとは思わなかった。絶望しかけた俺を呼んだのは、さっきまで心配でたまらなかったムトだった。


「探したんだ!生きていてよかった!」


 蒼白の顔をした友人は、あまり傷を負ってないように見えて、安心した。心の底から嬉しかった。


「ヨシキ!しっかりしろ!」


 ああ、声が、もう。

 声を発すことで痛みがくるためか、身体自体が発声を拒んでいた。ムトは俺の傷を見て、自分の上着を引きちぎり、止血しようと試みている。

 無理だ。血の量を見て分かる。ちゃんとした治療を行わない限り、自分は助かるまい。そんな治療を出来る施設がこの命が持つ範囲にあるとは到底思えなかった。


 何か、伝言を。

 ここで伝えなければ、もう後がない。


「……ムト、」


 上着の内側に入れていた包を掴むと、手からそれは零れ落ちた。制御の聞かなくなりつつある自分の手で取り、二つをムトに差し出す。それを見たムトが目を見張った。


「ティティと、……し、とれに」


 せめて、これだけでも。


「ティティ?シトレ?」


 息を呑んで、ムトは目を見開く。


「……すまない、と……ありがとう、……生き、ろ、と」


 言えない。もっと言いたいことがあるはずなのに。言葉が続かない。声が出ない。

 俺が言いたいのはこんな短い言葉ではなかった。もっと、もっと、伝えたいことが山ほど溢れてくる。なのに、それを発することをこの身体が拒んでしまっている。


「分かった、分かったから!もうしゃべるな!!」


 分かっていないように見えるムトの顔に思わず笑みが零れた。しっかりと物を受け取ってくれたことに、安堵して力が抜ける。

 聡い彼女なら、ちゃんと分かってくれる。傷口に触れた手で掴んだせいで、せっかくの土産が血まみれになってしまったのが悔やまれるけれども。これだけ血に汚れてしまっていたら、彼女は笑ってくれない気がする。喜ぶ顔が、見たかったというのに。


「生きて帰れ!生きて!!」


 出来るものならそうしたい。

 出来るならば。


「誰か!誰かいないのか!!!怪我人がいる!生きてる!助けてくれ!誰か!!」


 砂漠がムトの声を反響もさせず虚しく消していくだけで、望む返事はどこからも聞こえない。

 随分離れたところまで来てしまっていたのだから、人がいないのだ。あちらの方が死人が多いだろう。ムトやラムセスがこちらに来てくれたことだけでも俺は運が良かった方なのだ。


「ヨシキ!待ってろ!今誰か連れてくるから!道具持ってくるから!!俺が戻ってくるまで絶対に死ぬな!!」


 助けを求めに、ムトは走って行った。

 目にするのは最後だろうと、俺は懐かしい背中が夜に消えるまで見つめていた。





 妬けるような痛みを覚えながら、空を眺める。空を仰いで浴びた月光の銀が眩しかった。噴き出した汗が、目に沁みる。

 地面に寝転がって見る夜の砂漠は月光の色に染まり白かった。白い山がいくつもできて、俺の身体から流れる鮮やかな赤がそれを染め上げる。


――俺は、ここで死ぬ。


 ティティたちに残せるものができたせいだろうか、不思議と怖くなくなった。

 どういう場面かにもよるだろうが、死ぬか死なないかという瀬戸際では恐れていても、死ぬと分かった時点で、人は死を恐れなくなるのだ。もしかすれば、考える気力がなくなるからかもしれない。

 自分の周りにあるものがすべて美しく、尊いものに感じられた。過ぎる一瞬一瞬が掛け替えのないものに思われた。


 苦しいが、穏やかだ。

 鼓動がうるさいが、心が静かだ。


 シトレの幸せをただひたすらに祈って死んでいった彼女も、こんな気持ちだったのだろうか。娘を自分の腕に抱くことなく息絶えた、名無き人も。我が子の元気な泣き声を聞きながら静かに息を止めた彼女も。

 心がこれほどまでに静かだったことが、今まで生きてきた中であっただろうか。


 弘子。すまなかった。

 結局、あれだけお前を守りたいと思いながら、俺は何もしてやることができなかった。許してほしい。

 ここで、俺は己の罪の報いを受けよう。

 これから悲劇を歩むと言ったお前は、どこへ行くのか。どこへ向かおうとするのか。

 アンケセナーメンの最期は、現代でも分かっていない。救えなかった悔しさに歯を食い縛ると、遠い昔に聞いた声が頭の中に響いた。


『――愛しているからこそ』


 誰の、言葉だったか。


 ああ、そうだ。あの男だ。

 弘子を手放したくない理由として俺に言ったのだ。魂は神に許され、呼ばれてこの時代へ弘子は来たのだと。

 俺の脳裏を揺るがした、今でも解せない言葉だと思うのに、何故かその記憶の声はひどく暖かく聞こえた。人に降り注ぐ、温かな太陽のようだ。

 視界が月光に白くぼやけて、堪らず目を閉じた時、ふと、現代のルクソールで見た、寂しい茶色の砂漠に浮かんでいたあの青年の姿が甦ってきた。

 忘れていた記憶がふつふつと湧き上がる。

 砂漠に佇んだ、黄金が似合う独特の瞳を持つ男。茶色の中に佇む一人の人影。瞬きもせずこちらを見つめる淡褐色。追いかけようとして砂漠の中に消えたあの姿。

 凛とした姿で、風が吹き抜ける中に立ち、言い表すことの出来ない静かな眼差しで俺を見据えていたあの人物――。


 瞬く間に頭の中に塞がれていた壁が突風に吹き飛ばされるかのように無くなり、今までのすべてが繋がり始めた。


 分かった。

 分かったぞ。すべて。


 あの男の正体も。あの男があの目で俺を見ていた理由も。すべて。

 いつだって弘子を救うのは、あの男なのだ。


 その愛が死んでも続くと言うのならば。死んでも尚、果てしのない時を越えても尚、お前が愛していると言うのなら。

 彼女を、救え。

 その悲運な人生から、残酷な歴史から。

 彼女を愛した男ならば。




 弘子が浮かんだ。ティティが浮かんだ。シトレが浮かんだ。

 メアリーが、ムトが、浮かんでは消えて行った。


 涙に像が滲む。これほどに会いたいと願ったことはない。これほどに、彼らの未来に幸あれと思い遣ったことは無い。

 楽しかった。幸せだった。

 もっと、してやりたいことがあった。伝えたいこともあった。

 辛いことばかりだと思えた今までの中でも、そこにはいくつもの輝きがあったのだ。もっと早く気づくことが出来ていたら、俺の抱く後悔は薄まっていただろうか。

 それでも、俺は俺だった。自分を自分で生きてきた。それ以上のことは無い。


 後悔を重ねても、この命がそれを出来るほどに長らえることは無いと分かっていた。痛みの感覚が消え、さっきまで起きていたはずの痙攣が止んでいる。

 身体の限界が近い。視界さえ、朦朧として今にも消え去ろうとしていた。


 生きてほしい。

 強く、生きてほしい。


 この先を生きていくだろう、愛おしい者たちの未来に幸せがあってほしい。


 そしてもし、この魂が赦されるのならば。

 またもう一度、愛する者たちの傍に生まれ変わりたい。


 遥かな時を越え、再び新たな命を持って復活を遂げる――そんな死生観を持つこの文明がこの上なく愛おしかった。


 何よりの、願いだ。死にゆく者たちにとっての。


 人はまた、生まれ変わるのだと。

 生まれ変わって、再び出会えるのだと。


 弘子が、あの男がそうであるように、時を越えて、ティティ、お前のもとへ俺は帰ろう。

 遠い時代の果てで、必ずと伝えた約束を、再び果たしに行くために。

 新たな命を得た時、俺はいつかお前を探し出せる。不思議なことにそれだけの自信がどこからともなく湧いてくるのだ。



 風が優しい。砂の香りが心地良い。

 すべてが儚く美しく、細やかに感じた。


 祈り、願い、砂漠の大地で、重みを増すこの瞼を閉じるのだ。


 太陽の満ちる、この時代の名の無い白い砂として。

 白い砂漠の砂として、銀色の優しさに俺は眠る。


 願わくは、俺も、遥かなる時を旅する、悠久なる人に――。


 愛おしい者たちと別の時の中で巡り逢えるよう。また、共に皆で笑い合えるよう。

 ひたすらに、願いながら。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ