兄王子
王子を送り出す宴がその夜に盛大に催され、王子は父である王と母である王妃の間でヒッタイトでの最後の夜を過ごした。エジプトとは異なる酒や食事、踊りや音楽を楽しませてもらい、終了後にラムセス、ナクトミンと共に帰路の確認をし、結局それぞれの部屋に戻ったのは深夜も過ぎた頃だった。明日の出発は余裕を持って昼過ぎにしている。それほど支障はない。
あまり酒を手にした記憶はないが、頭がぼうっと熱っぽさに満ちていて、そのまま寝台に倒れ込んだ。くり抜かれた小窓から入ってくる風の音を遠くに感じ、徐々にはっきりしてくる意識の中でシュッピルリウマとの会話を反芻していた。
うつ伏せから仰向けになって額に手の甲を置き、天井を見上げる。
一先ず、エジプトとヒッタイトの交渉はこれで一段落がついたのだ。見落としたところもない。言われたことはすべてこなした。あとは王子をエジプトへ連れ帰るだけ。弘子との婚儀を見届けるだけだ。
勢いをつけて起き上がり、女官を呼んでパピルスと筆を用意させた。
机に向かい、「ヒッタイトとの交渉は滞りなく進み、予定通りの日程でザナンザ王子をエジプトへ連れて行ける」ことを記した書簡を独特な象形文字で書き連ねていく。王子の状態、特徴、性格。現状で分かる限りのことを事細かく書き記し、王子が到着した後に対処できるように。加えて大王の様子、王妃からの言葉、宴の様子、国の様子などを可能な範囲で綴った。
宛先はエジプト王妃。書き終えてから読み返して確認する。
相手は弘子なのだから日本語で書いても良かったはずだが、悩むことなくこちらの古代文字を選んで書簡を綴った自分が、どれだけこの時代に染まっているのか思い知った気分で笑ってしまった。石を磨り潰し水で溶かした黒いインクも、そのインクが乗りにくいパピルスの凹凸も、木製の筆の書き辛さも、すんなりこなせるようになっている。おそらく粘土板に文字を掘ることも、今の俺ならばさほど苦にならない。
確認を終えた途中経過報告の書簡を呼び出したエジプト兵に手渡し、先にエジプトテーベの王宮に書簡を届けるよう言い付けた。早馬であれば遅くとも2日と半で弘子の手に届くだろう。
すべきことが全て済み、背もたれに寄り掛かって先程と同様に天井を意味もなく仰いだ。
物音ひとつしない静かな空間は、胸の内の声を否応なく大きく響かせ、包む暗闇は頭に浮かぶ映像を鮮明に浮かび上がらせる。
あの幼い王子が脳裏を横切った。ひょっこり浮かべていた好奇心に溢れた輝かしい笑顔。母親である王妃に甘えていたあの姿。宴の席でも母の隣に寄り添って離れることをしなかった、あの子供。席を立ったと言えば、兄のムルシリ王子に連れられて俺やラムセスやナクトミンの近くへ来ただけで、一通り話が済むと引き寄せられるように母親の方へ戻ってしまう。弟にエジプトの者を慣れさせようと誘ったのだろうが、すぐに母の方へ駆けていった弟に、悲しげに笑った王子の顔が少し前のことのように甦った。
ヒッタイト王は、一度手に入れたエジプトの王権を手放すことはしないだろう。王子がヒッタイトに戻ることは、エジプトの王権を、すなわちエジプトを手放すことを意味する。そうなると、王子にとって今日が慣れ親しんだ国での最後の日になる可能性が高い。王となれば戦争や自らの配下を国に残しての遠征以外で、他国に赴くことはほとんどない。百歩譲って、後に国交のことでヒッタイトを訪れるようなことはあるかもしれないが、それは王として一人前になった頃であって、早くても十年以上先のことだ。その滞在も数日間のみ。今と同じように両親や兄弟たちと接することが出来るかは分からない。
あの子は、理解できているのだろうか。エジプトに行けば、この国に二度と今のようにいられなくなることを。母にも父にも、兄にも会えなくなることを。
分かっていないのなら、惨めだ。
息をひとつ外に吐き出してから、傍の机に置いていた首飾りと木製の小さな鳥の人形を何気なしに見やった。首飾りは金が織り交ぜられた赤を主とするもの。派手ではないが、それなりの見栄えと上品さを兼ね備えている。人形は翼を畳んだ小さめのもので、白く塗られ、羽のところに緑の柔らかな曲線が入っていた。ヒッタイトのものをエジプトの家族への土産にと、王が宴の席で俺たちに選ばせてくれたものだ。首飾りはティティに、小さな人形はシトレにと、ありがたく頂戴してきた。
遠出をするならば帰りを待っている者らに土産などを考えるのが普通なのに、言われて初めてその存在を思い出した自分には呆れてしまった。王族との謁見に気づかないほど緊張していたのだ。
隣に並んでいる小箱と革の袋は持ち帰るためにと女官が用意してくれたものだ。寝台から起き上がって掌に納まるほどの小箱にそれらを詰め込み、しっかりと蓋を閉めて自分の上着の中にしまい込んだ。
肌身離さず持って帰ろう。せっかくヒッタイトまで来たのだから、これくらいの土産は持って帰ってやらなければ。あれだけ心配かけながら送り出してもらったのだから。
視線を上げた時、背後から再び風を感じた。
何か、雑音を混ぜたような──。
「邪魔するぞ」
ぎょっとして背後を振り返ると、数メートル離れた所にぼんやりと影が浮かんでいる。反射的に寝台から立ち上がって身構えた。
「誰だ」
「それほど恐れなくとも良いではないか」
心外だと言いながら笑う声には聞き覚えがあった。目を凝らして現れる、明るい髪色、目を引く一つに結った緩やかな長い癖毛、欧米人に近いにこやかな笑顔。今日迎えてくれたあの愛想の良い少年がぼんやりとした黒い影に重なった。隅に燃える炎がようやく俺に影の正体を教えてくれる。
「……ムルシリ、王子?」
「覚えていてくれたのか。あれだけ王子がいるから覚えてもらえてないものかと」
上品に首を傾げ、こちらに歩み寄る彼に、俺は慌てて跪いた。
「失礼いたしました」
「畏まらなくて良い。話がしたくて押しかけたのはこちらなのだ」
年齢はナクトミンよりも若く、少年の面影をこれでもかと残したままだ。人懐っこい微笑が余計にそう思わせるのかもしれない。
「どうして……一体どこから」
扉前には兵と女官がいるし、王子が来たなら彼らが知らせてくるはずだ。驚く俺に、相手は遠くのくり抜かれた小窓を指差した。
「側近が命じたせいで、俺の宮殿がネズミ一匹通さぬほどにとにかく警備が固くてな。故に最も警備の薄い窓から壁をよじ登ってやってきた」
邪魔にならぬように結った服の裾を解きながら答える。
「悪く思うな。苦労したのだ」
ほつれて視界を遮っていた一房の髪を後ろに流し、飄々とした顔を俺に向けた。それぞれに皆が己の宮殿を持っているというのだから凄いものだ。いや、そもそもエジプト王家も王と王妃には宮殿がそれぞれに与えられている。王子や王女が生まれれば宮殿が増える。弘子は自分の夫と同室で過ごしていたし、あまり聞いたことはなかったが、確かに王妃の宮殿は別に存在していたのだから裕福な国の王家とはこういうものなのだろう。
それにしてもあの小窓からやってきたとは、と妙に感心しながら畏まっていると、軽く笑んでいた少年の目はすっと真面目なものに変貌した。
「私の話を聞く時間はあるか?大部分は愚痴なのだが。聞き手が欲しいのだ」
持つ静かな響きは、ザナンザ王子の母王妃のものに似ている。
「私でよろしければ喜んでお相手仕ります」
王子は腕を組むと、一歩前に進み出て声を低めた。
「ここでの俺との会話は、帰国後もその胸の内に秘めることを約定せよ」
「承知」
「ならば座れ。楽にすると良い」
王子は寝台に胡坐をかいて座り、俺は示された椅子に腰を下ろした。
ヒッタイトの王子と対等な位置に座るのは何ともおこがましい気持ちになるのだが、そのまま王子から言葉が発せられるのを待った。他の兄弟たちやシュッピルリウマにほんのりと似た顔立ちは、どこか影を帯びている。決して今が夜だからという単純な理由だけではないようにも感じた。
「……母は、本当はザナンザをエジプトになどにやりたくないのだ」
長い間相手は悩むように目を伏せていたが、ついに薄く目を開けてそう言った。
「エジプトは我が国の敵、そうやって俺たちは生まれた頃より育てられてきた。民も同じ。エジプトは宿敵だと頭に植え付けられている。切っても切れない因縁だな。エジプトにとってもヒッタイトはそうだろう」
ええ、と俺は頷いて返す。エジプトにもヒッタイトに反感を持つ者は上層部の大臣を含め、宮殿内にさえいるのは紛れもない事実だ。
「陛下の前で申し上げた通り、残念ながらエジプトでもヒッタイトへの反感が決してないわけではありませぬ。貴国の後ろ盾を約束していただけなければ、どうなっていたことか」
彼は軽く笑う。
「そう偽り無く真っ直ぐ言ってのけるエジプトが、父は好きなのだろうな。嘘は嫌いな方ゆえ。普通、そんな反感を持たれているところに反感の火種になるようなものを寄越せと言うか?正直者なのだな、エジプトは」
覗いた笑みはすぐに姿を潜め、彼は考え込むように黙り込んだ。
「……兄たちも俺も、父も母も、幼い弟のことはこの上なく可愛く思っている」
「はい」
「出来ることなら、行かせなくない」
悔しげに引き結ばれた相手の口元を見やる。凄まじい緊張が走るあの謁見の場にいようとも、自分の気持ちを優先してしまう程にあの子は誰の目から見ても幼かった。
「だが国を思えばそのような気持ちだけで弟を止めることなど出来ぬ。我らは王家だ。幼いとは言え、ザナンザも紛れもない王家の者だ。故に拒むことは許されぬ。王家は国のためにあるからだ」
王家は国と共にある。富める時も滅びる時も行く先は国と共にする。いつかナクトミンに同じことを言われたのを思い出した。
「我らは普通の家族であってはならない。民と同じような普通の母子、父子、兄弟であってはならない。王家は国と同じ意味を持つために、兵たちは血を流してでも我らを守ってくれるのだ。彼らの犠牲の上に王家はある。我らは我らのために血を流す者たちに報いなければならない。国の安寧を求めなければならない。家族としての絆を捨ててでも」
王家は血の上に成り立つものだ。自分たちの下で流れている血を、王家は忘れてはならない。それに報いなければならない。まだ少年の彼でさえこれほどに考えているのだから、重い責任を背負って生きていくとはどれほどのことだろうか。
「エジプトが我が国と親しいものとなれば、それはたいそう良いことなのだというのは、未熟な俺でも分かる。ヒッタイトが他国に抜きんでて長けるのは鉄の製造だけ。飢饉に見舞われないかを毎年不安の内に年を越し、飢饉が起こりそうだとなれば気が気ではなくなる……」
国土の9割を砂漠で覆われながらも豊かであり続けるエジプトは、奇跡のような恵みに包まれた国だと言う。その顕著な例があの青いナイルだ。
「こちらに赤い河があろうとも、豊かな土を運ぶエジプトのナイルの恵みと比べれば雲泥の差がある。砂漠という地に住んでいながらもあれだけの豊かさと優れた技術を有し、それにも増して強大で安定している……だから父はエジプトを欲しているのだ。民のために。国のために」
氾濫期になり、黒く色を変えたナイルの水。水が押し寄せて土を運び、太陽が国を黄金に照らし出す。それらを船の上から眺め、また氾濫を起こしてくれた神に感謝の歌を捧げる。自分の中にその光景が本当にあるかのように甦った。
空にかざされる沢山の人々の手。水がそこらで跳ね、水の中では魚が陽光に反射してナイフのように煌めく。再び現れた神の恵みを歓喜する人々の歌が耳の内に幻のように流れていく。エジプトで黒を生命の色と呼ぶ意味が氾濫が始まって黒色と化す国を目にすると、それがよく分かる。あれほど美しく生命に満ちた黒を、俺は初めてこの時代のエジプトで目の当たりにしたのだ。
「弟を憐れむならお前が行けと思うだろうが、俺たちは父から言い渡された使命をそれぞれに背負っている。この国の基盤をより強固なものにするためのものだ。その役目からは決して逃げられない。逃れることは許されない。父は自分の子らを心から愛しているが、その代わり王族としてあるまじき不祥事は決して許さない。首をもはねるだろうな」
驚いて目を瞬かせると、そういう人なのだと彼は小さく肩を揺らした。一代でここまで上り詰めたヒッタイトをより安定させるために、王は自分の子供たちを使っている。成長が急速であればあるほど、一度崩れれば落ちて行くのも早い。崩れる前に、自分が死ぬ前に、王子たちでより屈強な基盤を作ろうとしているのだ。その基盤にエジプトとの交渉はもってこいだったに違いない。
「故に、最も後継ぎから遠く、将来性がまだはっきり見えていなかったザナンザが選ばれた」
自分の膝辺りに視線を落としている相手に、俺は再度頷いた。
「決まった夜に母は泣いていた。母が父にどうか行かせないで欲しいと泣きながら訴えていたのも聞いた。あの母が、だ。父の言うことならば、どんな命令でも黙って聞いていたあの大人しい母が、父に行かせてくれるなと泣いて懇願したのだ。せめてあと2年待って欲しいと」
急に、まだ8つの子供を敵国にたった一人で行かせることになったのだ。親の元で甘えていても良い年。敵国と言われていた国に我が子を送らねばならなくなった母親の気持ちを思うと遣る瀬無くなる。
「母は、三番目であろうとれっきとした王妃だ。一人の母である前にヒッタイト王シュッピルリウマの妃だ。たとえ自分の息子が哀れだからと言って、私情に溺れてそのようなことは言ってはいけなかった」
膝の上に置いた自分の手が目に映った。この手は、あの母子を引き離す手だ。
「……話が逸れた。このままでは本当に愚痴だけになってしまう」
苦笑して、彼はようやく顔を上げて俺の目を見た。
「ダハムンズは良いお方か?」
最初の調子を取り戻して、彼は問う。ダハムンズは、タワナアンナに匹敵するヒッタイトでのエジプト王正妃の称号──弘子のことだ。
「ダハムンズの夫となった弟はエジプトで幸福になれると断言できるか」
俺を尋ねてきた本当の理由はこれなのだろう。これが彼の話したかった本題なのだ。
「何の知識もない。政など何もできない。ただヒッタイト王家として育てられたせいで気が強いだけ。それにも増して生意気だ」
そして悲しそうな顔で笑う。
「何も出来ないくせに何でも出来ると勘違いしている。それでいたって生まれて8年しか生きていない小さな子供だ。王妃と結婚したとして、異国の王族の中で一人でやっていけるかどうか」
「……王子」
家族を失う彼の心境を思い、子供を手放すことを拒んだ母親の気持ちを思い、遣り切れなくなるものの、そうではいけないと立ち込めた感情を払拭する。
彼の言い分は分かった。俺は使者であり、同情に呑まれてばかりではいけない。使者としての役目を果たす。ただそれだけのためにここにいる。ここまで来た。
自分の向かいに座る少年を見つめた。
「……ザナンザ王子と同じ年頃でご即位になられたのが、我が国の先王でした」
幼い子供が王となる──その言葉に、一人だけが俺の意識の前に浮かび上がっていた。
「父と兄に先立たれ、政も分からぬ齢でありながらのご即位だったと聞き及んでおります。その方は幼い頃はともかく、成長につれて周りの者たちに支えられながら一国の王に相応しい人間へとご成長致しました。未だ多くの者に死を悼まれるほどに。おそらくあのままご存命であったならば、名君になられていたでしょう」
ツタンカーメンの即位は、ヒッタイトからやってくることを除けばザナンザ王子の即位とほとんど同じ意味を持つ。いや、ツタンカーメンは異端の王の息子というレッテルを貼られながら即位したのだから、ザナンザ王子よりも過酷な状況での即位だったのかもしれない。幼い身に受けた責任は想像を絶するものだったはずだ。
「トゥト・アンク・アメン」
ムルシリ王子が、得意気に口端を上げてその名を口にした。
「王の名を、ご存知ですか」
少し驚いて聞き返すと、彼は更に破顔する。
「当然だ。父が良く話していたからな。私と似ている男なのだと」
「似ている?」
「なんでも、私の持っている何かが、その方の持つ何かによく似ているのだとか。よく分からぬがな。会わないままその王は死んでしまった」
彼は腑に落ちていないようだったが、俺は確かに、と息を呑んだ。初対面だったのに初めて会った気がしない違和感を持っていたのだが、これが理由だったのだと確信した。確信が重い石になって、頭に突き当たった気分だった。
似ているのだ。死んだあの男に。弘子の夫に。高らかに笑う声も、人を見る眼差しも。彼の持つ人間性が。人を見る目に差別が無い、自信に満ちたあの顔だ。
初めて対面した折、弘子に会わせろと敵意を向けていた俺を、涼しい目で受け入れようとしていたあの男の表情を彷彿させた。
「最初会った頃は年端もいかぬ少年だったが、数年後には父にたてつくくらいの勢いのいい男に育っていたと。それが死んだと聞いて、父は心底信じられぬと言っていた」
シュッピルリウマはこの四男に王器を見出しているのだと、自分のどこかが確信した。謁見の場で一度姿を目にしただけで、言葉も交わしていないからはっきりとは言えないが、それでも上の3人の王子には他である俺たちを受け入れるということに対して鈍い印象があった。頂点に立つ者として、現状を守る能力、それ相応の広い視野と知識と、自分とは違う他のものを受け入れようとする視点が重要になる。上の王子たちにとって、それがないのは大きな欠点だ。
この少年は、王になるのかもしれない。俺たちを出迎えた大臣がこの少年の身を酷く案じたのにも、これで合点がいく。二人といない、王になるべき人材であるとあの大臣は悟っているから。
次期王はこの少年なのだと今誰かに言われても、さして驚かないほど彼には素質があるように思われた。
これが事実ならば、彼の即位はとてつもなく険しい道のりになることが予想される。本来長男から順に王位継承が成される。しかし、シュッピルリウマがこの少年を王にと考えているのなら、3人の兄たちを越えて追い抜いて行かなければならない。長男次男のプライドの高さは並外れたものがあるように見て取れた。疎まれ、憎まれ、それでも王として立つとなると彼のこれからの困難は相当なものになるだろうと正面の整った顔立ちを眺めた。
「……その幼い王を支えた妃が、ザナンザ王子を待っておられます」
無言になった俺に彼が怪訝な顔を向けているのに気づき、話を続けた。
「我が国の王妃です」
「母に手紙を直々に書いてくださったと言う……母はそれに大層救われたそうだ」
彼の言葉に相槌を打つ。
「支えられるはずです。我が身に変えてでもお守りするはずです。我が身に変えてでも。私はそう確信しています。必ずや立派な王子に。ヒッタイトとエジプトの両方の御心を持つ王になられるよう」
椅子から立ち上がり、床に跪いた。遠くに風の音がする。自分の衣が床に擦れる音が鼓膜を揺らす。
「信頼できる者たちを揃えております。王妃は母親代わりになりましょう。反感があろうとも、必ずや我らが王子の御身を守り抜き、立派な王にお育てしてみせます。それだけの自信が我が国には御座います」
王子を見つめてから床に額を向けた。
「我らに信頼を。王子」
あの子の存在は、最早エジプトに欠かせない。
「どうか」
「……父が決めてしまったのだから、俺が何を言っても仕方なかったのだがな」
けろりと変わった雰囲気で彼は小さく笑って言った。
「頭を上げよ。今の俺にそんなへつらっても何も出ぬぞ。それに話を聞いてもらって礼を言うべきなのはこちらだ」
頭を上げて視界に納まった彼は、胡坐を解いて足を床に下ろす。
「お前に全部吐き出して気が楽になった。びっくりするくらい清々しいぞ。このような話は側近にも母にもできぬから」
決まり悪そうな顔で言うと彼は立ち上がり、促されて俺も立ち上がった。相手は、年が倍近く離れている俺と向かい合っても決して怯むことは無い。いつだって堂々とした誇りに満ちている。
「弟を頼む。俺が言えるのは最初からこれしかなかったのだ」
笑んで頷き、相手は腕を組んだ。
「エジプトとヒッタイトの関係が良いものとなるよう、俺も望んでいる。傾きつつあるとは言えエジプトは強い国だ。あまり戦いたい国ではない」
「エジプトでも同じ心です」
こちらの返答に満足したのか、彼は再び服の裾を捲り上げて腰付近に縛り始めた。長い髪もうっとうしそうに再び後ろに送り、よし、と自分の恰好を見渡して確認している。
「帰る。いないことに気づかれるとそれこそ厄介だ」
愚痴を零し、俺の肩を数回軽く叩きながら彼は窓の方へと歩き出した。
「お帰りでしたら、誰かをお呼びした方がよろしいのでは。この暗闇を降りるとなると危険です」
「いや、来た道を戻るだけだ。心配はいらぬ」
提案を断り、彼は窓の前まで来るとその縁に足を掛けた。少し高めに位置する窓からの景色を細めた目で眺め、それから彼は背後の俺を振り向く。
「ここで話した内容は王子にあるまじきものだ。他言無用だぞ。約束だからな」
父にばれたら大変だと言わんばかりに、少年らしい険しい顔で念を押してきた。
「承知しております。ご安心なされませ」
必死な様子に苦笑してしまった俺に彼はひとつ頷き、明日会おうとだけ告げて颯爽と窓を飛び降りた。咄嗟に窓の外を見下ろしたが、たった今まで目の前にいた彼の姿は暗闇に呑まれてまったく見えなくなっていた。外にいる兵の一人が、物音に振り向いたがすぐに前を向き直る。
俺はゆっくりと視線を空に移し、数千と輝く星に息を吐き出した。




