表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
25章 ヒッタイト
160/177

ハットゥシャ

 混沌と闇に沈む視界を巡らしながら、寒さに上着を口元まで引き上げる。予定通り進んできたが、エジプトを抜け、少し北に上っただけで上着が手放せないくらいの寒さが感じられた。

 こんな風に肌を震わせるのはいつ以来だろう。深く着こんで息をつくと、すぐに広がった吐息の湿り気ある温もりはすぐに冷えて消えて行く。

 エジプトを出立してすでに2日。一時的に都としていたメンネフェルを過ぎ、国境付近まで来ていた。最低限の休息しかとらず、残りは可能な限り急いで来た甲斐あり、明日にはヒッタイトに入ることが可能だろう。

 眺める砂漠は、月と星が怖いくらいに明るく、火などがなくても十分に周りが把握できた。自然の灯りがここまで届くのは地平線が見えるほどに遮蔽物が何も無く、空気澄んでいているからだろうか。

 オアシスにいくつかの天幕を張っての宿泊になるのだが、オアシスと砂漠の境目に立つと不思議な感覚があった。いくつも木々が生えていると言うのに、境界を越えれば砂しかない。黒々とした砂の波がずっと続いている。遠くばかりを見ていれば、海の上に一人佇んでいるような感覚だけが残った。

 砂漠は砂の海なのだ。動くことの無い、静止した黒い海。


 すると、その海上を横切っていくいくつかの影を目にした。動かない波を、何の抵抗を受けることもなくこちらに向かっている。目を凝らしてみてようやくその正体を掴んだ。

 数頭の馬。

 緊張が走るものの、どうやらラムセスたちが帰ってきたようだと分かり、肩の力を抜く。

 ラムセスには王妃から命じられたもう一つの任務があり、宿泊の天幕が張り終わる夕暮れからはそれに奔走していた。王を失い、国全体の総括が取りにくくなっているため、ラムセスは数人の兵を連れて近くの集落の様子を見て回っているのだそうだ。

 付き添う兵の中にムトの姿もあり、憧れの隊長の後ろを誇りに満ちた表情でついて行っていた。今日も無事に帰ってきたようだと安心を覚えて無意識に腰に手を当てると、そこに携えていた銃が触れた。帯の間から引き抜き、闇より深い黒を見やる。

 如何なる時も、警戒は解いてはいけない。生きて帰るために。


「護衛も連れないで一人で歩かないでくれるかな」


 声に振り返ると、数人の兵たちを従えたナクトミンがいた。猫目の目尻は垂れ、木々の間から零れる月光に照らされている。


「あくまでヨシキは最高神官っていう尊い身分なんだからね。みんな探してたよ」


 困ったものだと笑いながら、彼は兵たちに下がるよう命じて俺の隣に納まる。彼も口元まで引き上げていた上着を首元にまでおろすと、俺と同じように空を見て砂漠の波を眺め、それから俺の手元に目をやって眉をぴくりと動かした。


「それ……」


 青年は銃を目に止めていた。思えば、数年前にナクトミンやアイの前で威嚇のために撃ち、仰天させたことがある。


「前、僕らの前で使ったよね。それでアイ様に恐れられて狭い部屋に閉じ込められたんだ」


「そんなこともあったな」


 あまり良い思い出ではなくて苦笑で返す。


「何なの?それ」


 問われて、黒い滑らかな硬質さを撫でた。


「武器だ。鉄の礫がこの中に入っていて、人の身体を貫通するほどの力で礫を飛ばす。簡単に言えば用途は剣や弓と同じだな」


「見せて」


 手を伸ばしてくるから気を付けるようにと念を押してから渡してみると、奇妙そうに、それでもなめまわすように異界のものを観察していた。


「どうやって、礫を出す?」


 一発くらいなら、と俺はナクトミンから銃を受け取り、地平線がはっきりと見える砂漠に銃口を向けて、引き金を引いた。途端に、この時代には不似合の爆音が大きく短く鳴り響き、ナクトミンは獣のように大きく反応し僅かに身構える素振りをした。そして音の余韻だけを残し、当たり前のように静寂が戻ってくる。耳に囁くのは風だけだ。あとは砂の匂いと植物の自然の香りが、うっすらとするくらい。突発的な爆音と怖いくらいの静けさに、血相を変えた数人の兵がやって来た。


「何事です!今の音は!まさか敵襲では」


「心配ない。下がってていいよ」


 目を向けずにナクトミンがそう言うと、彼らは戸惑いを見せながらも再び奥へと戻っていく。二人だけになってもナクトミンはじっと銃を見つめ続け、しばらく経ってからやがて囁くように言った。


「……不思議なものだね。凄いと思う」


 感心しきった声だった。先程俺がしたように、何も掴まぬ指で引き金を引く素振りをしている。そっくりそのまま真似るものだから、本当に見ただけで飲み込むのが早い人間なのだと思った。


「今のは、いくらでも出せるの?」


 弾が入っている部分を開き、その中に入っている銃弾を示して見せた。


「さっきのはこの礫が物凄い速さで放たれた音だ。見れば分かるだろうが礫には限りがある。補充もできないし、これがなくなったらもう使えない。あと6発か」


「礫は何でできている?」


「鉄か、銅だな」


 あまり詳しくないから曖昧に答えたのだが、ナクトミンは瞬く間に驚いたように目を見開いた。銃口を触れ、この中に入って飛んで行ったのがどうも鉄だとは信じがたいようだ。飛んで行った銃弾は夜の闇に消え、音ばかりに意識のすべてが持って行かれて銃口から出た物は見えなかったのかもしれない。


「一流の王宮付職人でも、いや、鉄を編み出したヒッタイトでも、金属をこれほどに小さく綺麗に加工できる技術はないだろうな……鉄にしろ、銅にしろ」


 食い入るように銃を見つめるナクトミンから銃を受け取り、腰元に差しこんだ。


「命のやり取りをするものだ。だから、命の危険を感じた時にしか使わない」


 青年の眼差しはずっと銃の方へと向けられていた。視線はそれを捉えていても、思考は別のものを巡っているようにも見えた。


「ヨシキはさ、」


 顔を上げた彼は、俺を呼んだ。


「未来から来たの?」


 平然と告げられたことに少し驚いて見返したが、勘の良い男だったことを思いだした。


「どうしてそう思う」


 尋ねてみると、彼は俺から目を逸らして遠くに視線を投げる。一呼吸置いから口を開いた。


「……ヨシキは僕らと何かが大きく違う人だって、会った時から感じてはいたんだよ。いつもどこか遠い所にいるよね。ネフェルティティ様たちと一緒に居る時くらいかな、近くに感じるのは」


 身体は砂漠の方に向けながら視線だけをこちらによこす。その瞳は月明かりに照らされて、いつもとは違う色を湛えていた。俺が未来から来た人間だと、前から見当がついていたような面持ちだ。


「まず、初めてヨシキを見た時だ。庶民の身分で王妃に謁見を申し付けるなんて普通じゃない。今なら分かると思うけど、王家というのは最高神官になっても会いたい時に会えるような人たちじゃないんだ」


 苦笑しながら数回頷いた。ナクトミンと初めて出会ったのは王宮のどでかい門の前だった。庶民の身分だった俺は王妃であるという弘子に会いたくて堪らず、会わせてくれと兵たちに願い出ているところに、背後から馬に乗って現れたのが、まだ少年だと思えたこの男だったのだ。今思えば、かなり無茶だった。


「あの時はとんだ気違いもいるもんだって思ったけれど、未来から来て何も知らなかったって思えば辻褄が合うし、今のやつだってそうだ。侍医が頼るほどの医術だってそれに違いない。僕たちには無い物を持ってる。どんなに努力しても手に入れられないものばかり……だから、僕はヨシキを面白いと思った」


 随分前から察していたのだろうか。察していて、ようやくここで結論付けたような言い方だった。


「どれくらい先の未来から来た?」


 何とも言えぬ眼で問うてくる。悲しそうでもあり、微笑んでいるようでもある。


「……3300年。遠いだろ」


「遠いなあ」


 背伸びをして、独り言のように相手は言う。


「そんな先まで未来があるなんて考えたこともなかった。王妃も、そうだね?」


「ああ。弘子も同じだ」


 未来から来ていなかったのなら俺も同じように思っていたに違いない。自分が生きている時代の、幾千年先に同じような人間が暮らしているのだと想像するのはなかなか難しい。

 生活も変わっている。思想も生き方も。服装も、文字も、何もかも。何よりも、この時代のエジプトにおいて絶対的存在を持つ王家がまず失われているのだ。


「未来は、どんなところ?」


「ミイラにされて甦れば見られるかもしれないな。その時まで楽しみにしてるといい」


 そもそもこれがエジプト人の死生観のはずだ。聞かれて答えることも出来るが、俺にとってあの時代は随分遠いものになってしまって、しっかりと答えられる自信がなくて誤魔化してしまった。


「僕が甦られるほど良い行いを積み重ねてきた人間に見える?」


 冗談のように言うから笑って受け流したが、ナクトミンは至って真面目な表情だった。


「それにさ、甦って今の記憶がちゃんと残ってるかなんて分からない。長い間ずっと眠り続けて、魂は別のところで楽しく過ごしてるんだから、甦った頃には昔のことなんてすっかり忘れてるんじゃないかなって思う。顔だって、違っているかもしれない。そうなったらもう別人だ。僕じゃない」


 確かに、と黙って頷いて返した。

 実際に弘子は、自分がアンケセナーメンの魂を持った生まれ変わりだと確信したが、アンケセナーメンとして生きていた頃の記憶はほとんどない。

 持っている僅かな記憶は、この時代に来て、無理に引き出されたものだと言えるだろう。生まれ変わってきた人間は、おそらく生まれ変わる前の人間とはまた違う人間なのだ。言葉に表現できない奥底にあるものが、同じであるだけで。だから、どこか深い所で同じ人を感じる。


「ヨシキがいた世界を知りたい気持ちが全くないわけではないけれど、僕が行くところではないから、これ以上聞かない方がいいんだろうね。そんな気がする。ヨシキを見ていれば分かるよ。もう次元が違う。怖いくらいに違う。考えも、道具も、何もかも。だから聞いてもきっと分からないだろうし、理解もできない。夢心地にしか感じられない。夢心地なんて、今の僕にはいらない。現実だけで十分だ」


 黙り込んでから、彼は俺を横目で見た。


「そこには戻るつもりはないんだね」


「戻れない、っていうのが正しいんだろうな。多分、俺はここで一生を終える」


 何度か考えたことがあるが、この結論に達した。


「ここに来て5年になろうとしてる。俺はもうここの色に染まり過ぎたし、戻る場所はテーベの王宮だけだ……あの時代に戻れる手段が見つかったとしても戻らない」


 親に合わせる顔はない。残念な気持ちが全くないと言えばそれは嘘になるが、戻れないのならそれでいい。ここですべてを全うして果てよう。


「そう」


 会話が切れて、途端に砂漠の風が香った。砂が流れてきたのを感じ、二人して鼻の高さまで上着を引き上げる。鼻と口をそのまま野晒しにすると、砂が入り込み、大変なことになるのだ。咽るし、酷ければ砂が気管に詰まって呼吸困難になるから、砂ごときと軽視すると痛い目に合う。


「ナクトミン、」


 布を引き上げてしばらく目を閉ざしていた彼は、呼ばれて再び目を開けた。


「お前はどうして、こちらについた?」


 以前、実父であるアイへの復讐を仄めかしていたが、それはどうなったのだろうか。こちらに付くことで復讐を完成させようとしているのか、彼の考えは未だに読めないでいる。

 質問を受けたナクトミンは軽く笑った。冗談はやめろ、と言う明るい笑みだ。


「僕の勝手だよ。前々から言ってるけどね、直感がこっちだって言う方にしか動かない。僕が付く理由は後にも先にもそれだけだ」


 これ以上尋ねても、いつも通り何も答えてはくれないだろう。ナクトミンはそういう奴だと、長い付き合いの内に知った彼に関する唯一のことだ。


「僕は僕だけのために生きてるんだ」


 自分に言い聞かせるように彼は言い、俺もそうか、と答えるだけをして、再び砂漠の海を見やった。


「……これから良い方へ行くといいな」


 ナクトミンは答えなかったが、月を見上げる青年の横顔はどこか悲しげだった。







 翌日の昼すぎに目の前に現れたヒッタイトの首都ハットゥシャは、エジプトとは違う壮大さを抱えていた。

 ナイルほどまでは行かなくとも、それなりに大きな赤い河クズルルマク川が傍を流れる、この時代の多くの国の脅威となった大帝国の首都。大きく囲まれた城壁を目にした途端、緊張やら興奮やらに似たものが腹の底から湧き上がり、手綱を握る手に力が入った。


「エジプトの御方よ、我がヒッタイトへよくいらっしゃいました」


 入口門まで来ると、大臣のような人物が20人ほどのヒッタイト兵を連れて門から出て来て俺たちを迎え入れた。


「あなた様がエジプトの最高神官で有らせられると。まことによくいらっしゃいました」


「お出迎え、心より感謝致します」


 形式的な挨拶と周囲の者たちの紹介を一通り簡単に終え、人懐っこい笑みで相手は門の先を示した。


「早速、王宮へ向かいましょう。我らの王が今か今かとお待ちです。行く間に我が国をご案内致しましょうぞ」


 首都に踏み入れると、その国の有り様が生き生きと感じられた。エジプトほどに主張を激しくしない太陽。凹凸の激しい地形。緑はあるが、豊かというほどではない。ハットゥシャの大城塞にぐるりと囲まれ、北東の高台には大きな神殿がそびえており、その傍に王宮と思えるものがこちらを悠々と見下ろす山のように悠然と佇んでいる。獅子像が門の前にあったことからエジプトと同様獅子は強者の証であるという認識があるようだ。

 優れた製鉄技術を持ち、古代オリエントの中で初めて鉄製の武器を発明して、軍馬に引かせる軽戦車を生み出した騎馬民族ヒッタイト。王国の全盛期には古代エジプトとバビロニアと共に古代オリエント三大強国と呼ばれていたのも決して大げさな表現ではない。

 門の先には関所が構えてあり、他の旅人から用件を尋ねる役人が群がっており、それを越えると大きな市場が広がっていた。

 人が溢れかえっている。買い物する人々や、道具で遊び、駆けまわる子供たち。牛で荷物を引く活気立つ商人たち。テーベの町で、ムトたちと過ごしたエジプトの情景が場所を変えて舞い戻って来たかのようだ。

 人々は俺たちが現れたのに気付くと、はっとして動きだし、あっという間に王宮へ続く道を開けてこちらを見つめていた。興味津々な視線で前へ出ようとするヒッタイト人たちを、その国の兵たちが抑えている。


「さあ、参りましょう」


 異様な空気の中を歩き出した。多くの視線に晒されながら進んでいくのだが、まるで自分たちが見世物のような気がして仕方がない。頭は下げるが、そこまで深くはない。どちらかと言うとエジプト人を目にしたくてしょうがないと言った様子で、子供などはぴょんぴょんと飛び跳ねて躍起になり、家にいた人々も道を作る群衆に走り込んで俺たちを見物する。

 敬意を示すわけでなく、追い返すわけでもなく、観察するように視線を躍らせている。


「お許しくだされ。民はエジプトの御方に慣れてはおらぬのです」


 眉を下げて前を行く人は振り返りつつ言った。


「敵国と教えられていただけに、あまり良い顔はしておりませぬが、初めてエジプトの御方を目にする者も多いもので、このようなお出迎えになってしまいまして……それに今回は我が国の王子がそちらの王になるということもあり、関心がより一層高まっているのです」


「受け入れて頂けるだけ、我らは幸福であると思わなければ」


 逆の立場であったのなら間違いなくヒッタイト側も同じ視線を受けただろう。こちらを怪訝な目で見つめ、それから頭を下げるヒッタイトの民を見て、それを実感した。


 首都の中心へと向かっていく途中、徐々にヒッタイト人たちの特徴を大まかに捉えられるようになっていた。何より目を引くのは、ヒッタイトの人々の長く伸ばした髪だ。女より男の方が髪が長い。多くは後ろで一つに束ね、背中に垂らすというまとめ方をしている。

 長髪の者たちが大半を占める光景は、ヒッタイト人が髪を長く伸ばすのは戦場で首を狙われにくくするためだという、カネフェルからの教えを反復させた。

 特にエジプトとの戦闘状態が続いたころからは、民からも徴兵を行っていたというのだから、男が兵役を覚悟して髪を長くするのは当然のことのようだ。女に至っては洒落て綺麗な髪飾りで結ったりしているものの、男はただ無雑作にまとめているだけだ。

 気温が高いエジプトで、特に庶民となると、暑いと言う理由で丸刈りにすることも珍しくは無かったが、丸刈りがここに居たらかなり目立つ。肌の露出が多いエジプトとは違い、身に纏う衣も長い丈を持っており、それでほとんど全身を包んでいる。どちらかというと、ローマ人の衣服をもっと着重ねていると言った感じだった。

 人種としては白人なのだろうが、土地柄の紫外線の強い陽光のせいで、浅黒さがある白人だった。明るい茶髪、金に近い赤毛の者もいる。この地方に住んでいる民族ということを踏まえれば、弘子の父親の口からも何度か出ていたコーカサイドの祖先アーリア人と関わりがあるに違いない。

 長いと思われた王宮への道のりも、こうしている内にあっという間に終わりを迎えようとしており、目の前は城壁と同じくらいの壁と門が経ち憚っていた。


「開門!!」


 ヒッタイト兵の一人の合図で大きな音を立てて王宮へ続く門が開き出す。


「参りましょう」


「待たれよ!」


 どでかい王宮の門が開き切った時、横から突然馬が割り込み、驚いたエジプト兵とヒッタイト兵が一斉に身構えた。荒々しい馬裁きに、たちまち視界は立ち昇った砂に覆われる。


「間に合った」


 砂煙の向こうから放たれた声の主。

 前に現れて列の進行を妨げたのは、凛とした様子の若い少年だった。

 馬は美しい茶色の毛並で、少年の衣服は気品に満ち、所々に金が飾られている。何より少し癖のある明るい栗色の髪が目を引いた。勿論、髪は黄金の髪留めで後ろに結われ、肩を過ぎて下に垂らされてはいるけれども。


「ムルシリ王子!」


 大臣の言葉にエジプト兵がどよめき、まじまじと彼を見つめてからはっとしてヒッタイト兵と同様、跪いた。その名を聞いて目の前の少年が誰であるかを知る。

 シュッピルリウマ王の第四男、ムルシリ。エジプトへ送られるザナンザの兄。この少年が。


「まさか、またお一人で外へお出になられたのか」


 咎める大臣の言い分に、少年はむんと胸を張って不満を跳ね返す。躍り出た彼の目はこれでもかと言うくらいに輝いていた。


「またとは何だ。王子たる者、民を己の目で見ずに何とする。勉学だけでは学べぬことが山ほど転がっていると言うのに」


「お忘れになってはなりませぬぞ。あなた様は大王の御子。お命などいくらあっても足りないくらいなのです。もう少し気を付けて頂かなければ」


「お前の言い分は聞き飽きている。その言葉を兄上どもにそっくりそのまま言ってやれ。何故俺だけに言うのだ。……それよりも」


 年にして15ほどの少年は、文句を言い足りていない様子の渋顔な大臣を押しのけ、俺たちの前へ馬を動かした。


「エジプトの方々よ、あなた方の到着を今か今かと待ち侘びていた。使者から到着の由を受け、馬をすっ飛ばして参ったのだ」


 自慢げに明るい茶髪を揺らすものだから、思わず笑み、俺も敬意を示した。


「王子直々のお出迎え、大変畏れ多きことに御座います」


「王子と言っても俺は4番目だからな。それほど畏まることはない」


 馬の向きをくるりと門の入口の方へ向けると、王子らしく畏まり、手でその先を示した。


「さあ、ここからはヒッタイトの王子である私が案内致す。エジプトの話をお聞かせ願いたい。興味があるのだ。私も我が国のことをお話ししよう。交換条件と行こうではないか」


 門へ進み出したころに王子の側近と思われる男が慌てて馬で駆けてくるのが遠くに見えた。それに気づいた大臣が、小さくため息を零した。


 王宮に入ると、馬が連れて行かれ、数人の兵だけを連れて王子の案内を筆頭に王宮内を歩き始めた。待ち構えていたのだろう、凄まじい数のヒッタイト兵と女官の列が俺たちの行く道の両側を埋め尽くし、綺麗に頭を垂れている。

 圧倒されるものがあったが、同じ大帝国であるエジプトの使者として胸を張ることは俺も、ナクトミンもラムセスも他の兵たちも忘れなかった。

 王子と話をする間に過ぎゆく宮殿内の様子は、絶え間なく情報を入れてくれる。


 まず宮殿の造りからしてエジプトとは違うのだ。

 天井はずっと高く、壁画に描かれているのは幾何学模様が大部分を占めている。それはミノアのものを思わせるが、ミノアやエジプトほど多彩ではない。古代において色、特に青色を作り出すのは非常に困難だったと言う話が聞いたことがあるが、青色がないことからも、その事実が顕著に頭の中に浮かびあがった。色彩豊かなミノアでさえ、色はエジプトから伝えられたものだと言うのだから、エジプトほど色に豊かな美術を持った国は無いと言える。

 構造としては見慣れていた外側を並ぶ柱が存在せず、厚い壁に一面が覆われていてテーベの宮殿よりは通気性が悪いだろうが、寒さのあるこの地方の特性を思えば、温度の低下を防ぐためにはこれが一番なのだろう。

 土地柄によって生み出された独自の文化と、彼らの感性が伝わる独自の美術だ。女官たちの服を見ても、裾が長い方が身分が上なのだろうと察することができる。隣を行く王子も、邪魔くさいのか、しばってまとめてはいるが、足元に流れる衣服にはそれなりの長さがあるのが見て取れた。

 その王子はどうしているかと言えば、これでもかと俺に質問を重ね続けていた。しかしどれも適切なものばかりで、こちらの話を真摯に聞いてくれる姿は、彼がとても賢明であることを知らしめる。

 また、時折思いだしたようにこちらにしてくれるヒッタイトにおける解説も素晴らしいほどに的を射ており、ヒッタイトに対する関心が強まるばかりだった。


「なるほど、エジプトは暑い故通気性が良く作られ、柱が多いと。エジプトの建築はそれはそれは美しいのだと言う。色も多彩で、何に代えても美術が群を抜いている。是非この目で見てみたいものだな。文献だけでは足りぬ」


 俺の話を聞き、唸りながら答える少年は、少し乱雑になる言葉づかいさえ改めれば、繊細な横顔のためかどこか美しい白人女性を思わせる。このような息子が5人もいるとなれば、シュッピルリウマはなんて子供に恵まれた王なのだろうか。将来安定は確実のような気がした。

 奥まで来ると、前を歩いていた王子がくるりと向きを変えて俺たちと向かい合った。


「父との謁見はもう少し先になるはずだ。会う前に着替える必要があろう。この部屋で着替えを済ませて少し休まれると良い。謁見の準備が整い次第、また迎えを寄越そう」


 そう告げた王子は、また話を聞かせてほしいと俺に続けて側近と共にずんずんと宮殿の先へと進んでいった。

 与えられた部屋は、3つの広々とした部屋。俺とナクトミン、ラムセスに個室が与えられたことになる。付き添いの兵士たちは部屋をお守りすると意気揚揚でそれぞれの扉の入口についた。自分の部屋に入るとエジプトから連れて来た少人数の侍女たちに手伝われながら外出用の服装から、持参したエジプトの正装へと着替えていく。

 一緒に運んできたヒッタイトへの贈り物に関してはすでにエジプトとヒッタイトの者たちによって、王族と謁見する広間へ運ばれていた。それを背後に、俺はシュッピルリウマに対面するのだ。

 時は夕暮れ時となり、謁見の時間が近づくのを肌でぴりぴりと感じた。

 ここですべてが決まるのだろう。


「失礼いたします」


 迎えに来たのは、最初俺たちを出迎えたあの大臣だった。


「謁見の準備が整いました。どうぞこちらへ」


 いよいよだ。拳に力を入れて、立ち上がった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ