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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
24章 北への使者
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想いよ

 変らない朝がやってくる。

 今回はヒッタイトでの滞在を含め、およそ10日をかけて砂漠を越えることになっていた。気温や気候の差を考えて身支度を整えていかなければならない。


「あちらは冷えるというから身体に気を付けて」


 ああ、と答えて準備に忙しなく動いている侍女たちの足音を遠くに聞いていた。準備は滞りなく進んでいるようだ。出発まで、あと数時間となった。


「自分の身は自分で守るくらいはできるわね」


「そんなに非力に見えるのか?」


 冗談気味に言えば、彼女は肩を竦めて小さく笑う。こちらの身支度を手伝ってくれているティティは、これでもかというくらいにそんな問いばかりを繰り返している。それでも表情が一瞬陰りを見せるのみで、声色はいつもの調子で昨夜の不安定さは感じさせない。むしろティティの作業を傍で手伝う侍女の方が、いつもより不安げな顔をしているくらいだ。

 侍女から上着を受け取り、それを彼女が着せてくれる。黒に近いくらいの深い紫が、身体の上を流れた。

 縁は薄い黄色の線で彩られていて、少し派手ではないかと訴えたが、エジプトの使者という大役でそれも大神官なのだからこれくらいが普通なのだと彼女は笑った。

 せっせと身支度を整えてくれている彼女の姿を見ながら、己の決心を伝えようと口を開いた。


「……帰ってきたら、牢に入ろうと思う。今までの罪を最後まで償うために」


 少しの間があってから、「そう」と相手は俺の足元に膝をついたまま頷いた。腰元で上着を紐状の細い帯で止め終えると、こちらを静かに見上げる。


「忘れないで。あなたにはあの子の成長を見届ける義務がある。あなたと私であの子を育てると決めたのだから」


 分かっている、と頷き返す。

 俺があの子を名の無い母親から取り上げた。育てると最初に決めたのは俺だ。せめて、実の母親の話を受け入れられる日が来るまで。そしてその未来が幸せであるものだと確信できるまで、俺たちはあの子の手を離すまい。


「まずはここに帰ってくることだけを考えて。それからのことはその後でもたくさん考えられる」


 支度を終えて、彼女は立ち上がった。名残惜しいと俺の頬に触れる。触れた手には心地良い冷たさがあった。


「帰ってくる、必ず」


 何度繰り返したか分からない言葉を、頬を緩めて告げると、静かに頷いた彼女は頬から襟元に手を下ろし、乱れた所を整えてくれた。


「……シトレを呼んでくるわ」


 彼女が侍女に声を掛け、隣の部屋へと入って行った。

 せっかく眠っているのに起こすのは可哀想な気もするが、自分の気力を保つためにもその子の顔を見たいというのが本音だった。

 部屋の隅の方へ歩み、そこに置いた鞄から拳銃を取り出した。異質の感触を手に感じる。

 万が一に備えてだ。ヒッタイトに反感を覚えている人間がいるのは分かっていることではあるし、その逆もまたしかり。襲撃を受けないとは限らなかった。最も心配なのはそこだと言える。ほとんど素人に近い人間が拳銃を使いこなせるとは到底思えないが、これの発する大きな音は十分に脅しになるはずだ。

 上着を止める紐帯に、机に置いていた護身用の短剣と共にそれを挟み込み、そろそろ時間だろうかと床に伸びた朝陽を眺めていた。

 砂漠を越えヒッタイトへ、そこで王たちと面会、王子を連れエジプトへ。出来ないことは無い。頭に詰め込んだすべてを総動員させるだけなのだ。


 陽射しから反対の方へ視線を移すと、起きてきたシトレがティティに手を引かれてやってきていた。目を擦りながら普段と違う俺の姿をきょとんとして眺め、目の前まで来ると紫の上着を両手で掴み引っ張り始める。ティティが微笑んで屈み込み、そんなシトレを抱き寄せた。抱き寄せられたシトレが嬉しそうに小さく身体を揺らし、甘えようとティティの首元に手を伸ばして縋り、抱き上げて欲しいとせがむ。彼女も微笑み、ぎゅっと強く抱き締めると、「もっと」とその子は笑った。


 ああ、そうだ。

 俺は、この二つの笑顔を見たとき、永遠を垣間見たような気分になるのだ。この笑顔を守るために、俺は行くのだ。


「ヨシキはね、遠い所にお出かけして来るのよ」


「おえかえ?」


 繰り返しているだけで意味は理解していないのだろう。繰り返すもののその子の視線は逸れ、見慣れぬ別のものへ注意が行ってしまう。


「ご無事なお帰りをお待ちしております、って言ってごらんなさい」


 首を傾げて瞬きするその子に、彼女は「まだ無理ね」と眉を下げて笑った。彼女の笑い声に俺もつられるように笑い、小さな身体を抱き上げる。最近は自分の主張が通らないと火がついたように泣いてしまうから困ったものだが、これも成長の証なのだと思えば素直に嬉しさが込み上げた。

 会えない時間が続くことが、ほんのりとした寂しさを生む。

 それでも自分が行くことで、この二人の向かう先が幸せなものになるというのなら、今の脅威から解かれると言うのなら、俺は危険があろうと北へ行くことを厭わない。


「いい子でいるんだぞ」


 王子を連れ、俺は必ずここに帰る。

 そうして新たな王家をこの目にし、アイの失脚を望もう。ヒッタイトが国政に大きく関われば、歪みつつあるこの国は見違えるように変わる。

 その先の未来に望むことはひとつ。シトレの柔らかな髪に頬を寄せて、呟いた。


「お前に、健やかな未来を」









 手を振る彼女とシトレに見送られながら、他の兵に連れられて廊下を歩んでいた。角を曲がるまで何度も振り返っては、その姿を確認しては目に焼き付け、昨夜の約束を胸の内に繰り返して前に向き直る。角を曲がってすぐにラムセスとナクトミンが待っていた。


「やあ」


 ラムセスより一歩前にいるナクトミンは、愛想笑いのようなものを浮かべている。彼らはどちらも自分と同じ旅の支度を身に纏っていた。


「出迎えとはありがたい」


「僕らの今回の仕事は君とヒッタイト王子の護衛だ。さあ、大神官殿をお連れいたしましょうか」


 ナクトミンがこちら側に着くと宣言したのは、俺が東に入って数日経ってからのことだった。当初、ヒッタイトへの同行はカーメスとラムセスが予定されていたが、軍事司令官として兵の中で名を馳せはじめていたナクトミンの方が兵の総括が取れるだろうと言うことで、大臣によりナクトミンがカーメスの代わりに指名され、カーメスとセテムが弘子の護衛として残ることになったのだ。

 これは俺の意見も含まれて決定された人選で、弘子の警護を弱めるのには抵抗があったし、ナクトミンが武人の中でも今まで繰り返し頼りにしてきた存在であったから文句はない。文句を言うどころか安心さえ覚えたくらいだ。


「あの帝国と大王をこの目で見られると思うと、心が躍るね」


 相変わらず飄々とした態度の青年に対し、ラムセスは不穏気な表情を浮かべていた。


「我らが浮かれた気持ちで行く場所ではない」


「ラムセスさんは頭が固いんだよ。いいじゃない、これくらいさ」


 これ以上言葉を交わすのは無駄だと感じたのか、ラムセスは口を噤んだ。二人の仲があまり良くないということは聞いていたからこんなものだろうと納得していたものの、このぎすぎすとした雰囲気はなかなか居た堪れないものがあって苦笑してしまう。

 出発前に、ヒッタイトに向かい王子を連れ帰ってくるという旨を王妃に宣言する務めがあり、そのために広間に向かうのかと思いきや、通されたのは付近の小さな部屋だった。

 二人が付き添ってくるのは扉の前まで、あまり広いとは言えない空間で一人待っていると、向かいの別の扉から足音が聞こえて誰かが入ってきた。

 現れた姿に息を呑む。宰相を連れた弘子だった。

 彼女の表情に倒れた時の弱々しさは最早無い。王家独特の黄金を絡めた衣装をなびかせて、サンダルの音がすぐ前にぴたりと止まる。


「──発つ前に、もう一度二人で話をしたかった」


 弘子本人の姿を見るのは、寝所で再会した以来だ。大神官という身分でさえ、彼女に会うのは難しいことだった。


「広間に入って皆に囲まれれば、私たちは王妃と大神官の間柄になってしまう。自由なことは何も言えなってしまうから」


 俺を前に立ち、小さく笑うと、彼女の口元はすぐに引き締める。

 雰囲気が変わった。王妃の顔だ。俺の知らない、彼女の面持ち。


「今回の決断、ヒッタイトと我が国の架け橋になってくれること、この国の王妃としてお礼を言わなければならない……心から感謝しています。ありがとう」


 有り難き御言葉、と微かに答える。こんな彼女を目の前に、どういう態度を取ったらいいか躊躇われた。

 間があって、彼女は何かを察しているかのように俺を見つめ、それから口を開く。


「……良樹が今回決意したのは、私のためだけじゃないのよね?」


 柔らかな声だった。俺の抱くものをすべて察しているかのような、穏やかな目がそこにある。

 王妃の影を潜め、そう尋ねた弘子は、俺の知るその人だった。


「俺には大切な人たちがいる。弘子も含め、その未来が幸福であれと思うからだ」


 それならいいのだと、彼女は目を伏せた。

 もしかすれば、俺が知らない弘子を見ているように、弘子も自分が知らない俺をその眼に見ているのかもしれない。俺たちは、互いに想像つかないほどにそれぞれの時間を過ごしすぎた。


「本来ならば、私が行くべきなのだけれど、王のいない国を空けることは出来ない」


「いいんだ。弘子はここに胸を張っていろ。俺は必ずここにヒッタイト王子を連れて帰ってみせる」


 少しでも力になれるのなら。

 力になることで、救えるものがあるのなら。


「弘子」


 間もなく、俺は再び彼女の名を呼んだ。相手はゆっくりと見返し、言葉を待っている。


「俺たちは歴史に捕らわれている」


 相手は唇を引き結ぶ。一瞬緊張の色さえ走ったように見えた。


「多分、これも全部歴史なんだ。俺たちはいいように動かされて、俺たちの持つ記憶もいいように、都合の言いように消されてる」


 失われた記憶。これがあったならと思わなかった日はない。


「俺は現代で弘子を探していた時、ツタンカーメンのことだけでなくアンケセナーメンのことも調べていた。どうして悲劇になるのかも、現代で考察されていることもすべて。なのに思い出そうとした時、必要とした時に何一つ覚えていない……今もそうだ。知っていたはずのことが無かったことのように消されてる」


 悔しささえ感じて拳を握りしめた。


「そして弘子が一度現代に戻った時、古代での記憶が消えていた。多分、それも同じなんだ。知るべきである事実もあれば、知らないままであるべき事実もある。例えば、現代では決して分かるはずのない歴史の断片……現代にあるはずのない歴史の因子。神は……いや、俺たちが神と呼んでいる存在は、それを知って俺たちの記憶を奪い、作っている」


 弘子は、瞬きの少ない瞳で俺を捉え続けていた。


「もし俺たちが帰ることができたのなら、ここにいた記憶は必ず抹消されるだろう。現代に生きる人間にはあるべきものではないからだ。時を越えたという記憶があるから人は時を越えたと言うことが出来る。その事実が残る。記憶が無ければ事実は消される。つまり事実は記憶だ。記憶にないものは、嘘にならざるを得ない……すべては、記憶があるからこそ成り立つことなんだ」


 あの時、弘子は自分が古代にいたという記憶自体を忘れていたから、俺たちは弘子の身に起きたことが分からないまま別の原因に繋げていたのだ。現代にあり得る可能性に弘子の失踪を繋げ、彼女も自分の記憶がなかったからそうなのだろうと頷く他なかった。何も無ければ、弘子は何の記憶も思いださなかっただろうし、失踪の一件はそれで終息していたのだろう。


「記憶を奪い去る神は、俺たちが時を越えることなんて最初から赦しちゃいない」


 これが俺の導き出した結論だった。

 事実というのは、記憶の連なり。歴史というのも、人々が歩んできた彼らの記憶。記憶と記憶とが繋がり、一本の道になり、それが書物にされ、口伝されて連なった。遠くに生きた人々の記憶と、その先の未来を生きた俺の記憶が繋がる一本の線。

 俺たちはこの時代にいるという事実を己の記憶で繋いでいくことを許されなかった。


「ここでの存在が消えれば、未来でも消える。俺たちが生まれた時代は、今という時間の遥か彼方の延長線上の先にあるんだ。ここで変わればあちらも変わる。けれどそれはパラドックスではなく、それもまた歴史のうちなんだ」


 今を生きているということは、過去と今と未来を繋ぐこと。俺たちはそのほんの一部でしかない。歴史が歴史であるために、ここに呼ばれたにすぎないのだ。


「俺たちが生まれたのも、すべてこのためなんだ。どちらに向かおうと、何をしようと俺たちは必然的にここに来ていた。お前はあの男に会ってここにこうして生きるために、俺はお前に会い、そしてこうして行くために」


 そうだと悟った今、生まれた持った定めを疎むこともある。疎みながらも、仕方のない事だとどこかで受け入れている自分がいるのも確かだった。


 自分を、自分で生きてきた。誰かに指図された覚えも無ければ、操られていたという感覚もない。紛れもなく、自らの手で選び抜き、歩いてきた道が俺の後ろに伸びている。いくつもの決意と決断によって作られてきた、己自身の道だ。


「歴史は歴史のまま、進んでいく……彼を失った時、それを嫌というくらいに思い知ったわ」


 しばらくの間があってから、弘子は悲しげに頷いた。


「今も時々考えるの。私たちはどうして時を越えたのだろうと」


 宰相はそんな王妃の言葉を黙って聞いている。


「彼を失うため?子供たちの死を見届けるため?いくら考えてみても分からない。私が来なければ彼は生きていたのではないかと思うこともある。けれど、それがあっても、私はここに居たのだろうと妙な確信があるの」


 一時表情を陰らせた彼女は、ゆっくりと視線を上げて俺を捉える。


「良樹の言う通りだと思う。私は、アンケセナーメンの魂を持ってあの時代に生まれ落ちた。そして自分の中の彼女に導かれて、彼女の魂の声を聞いて弘子としてここにきた。彼の声に応えた。私たちの想像の絶する何かに決められた一つの道を、歩き切るために。あなたもメアリーも、みんなそうだった……きっとこれからも歩き続けるの。この命が尽きるまで」


 それを決めたのが時であり、神なのだろう。

 時はそのまま流れようとしている。弘子は現代の書物にあるアンケセナーメンその人になり、俺もメアリーもそれぞれに、この時代で歴史を繋いだ名の残らぬ人間となった。

 動き始めたこの歯車を、俺たちの手で止めることは出来ない。


「私たちに出来るのは、その決められた道の中で、どれくらい誇り高くいることができるかなんじゃないかしら。ここに生まれ落ちて、ここに生きる者として、自分という存在に誇りを持って歩んでいく」


 何が出来るだろうか。決められているだろう道の途中で。

 その道の先に続く未来に、俺は何を残すことが出来るだろう。

 消えてしまうこの時代の人々の決意や想いを、遠い時間の果ての誰かが捉えて感じてくれることはあるのだろうか。


「辛い日々があっても、幸せな時もあった。それで良かったのだと、あとはひたすら流れの先に向かって行くしかない」


 一度目を閉じ、息を吸い、唇を引き締めて、俺は弘子に向き直って彼女を見つめた。


「お前が悲劇の道を行くと言うのなら、俺は止めない。この手でどこまで出来るか分からないが、それでもこの身一つで何か成せると言うのなら全身全霊をかけて力になろう」


 彼女は儚く笑んで、掠れ気味の声で「ありがとう」と言った。その儚さは、夕暮れの茜色を思わせるものがある。


「俺は俺の導き出した道を行く。お前も自分の行くと決めた道を、迷わずに進め。絶対に振り返るな」


 彼女は微笑んだ口元のまま、静かな目で頷いた。

 二人の間に流れる空気を噛みしめた。



 ああ。俺は。

 この心地良さだけで、良かったのだ。


 彼女が笑み、自分も笑み、空にも突き抜けるほどの清々しさが取り巻いている。ほんのりと感じる、温かみのある繋がりさえあれば、俺は良かったのだ。他には何も、いりはしなかった。

 ようやく失っていたものを、全部取り戻した気がした。この胸の中に。


 目頭の熱を堪えながら、俺は弘子に向かい直った。


「忘れるな」


 これから、アンケセナーメンとして悲劇を歩むと言い切った彼女を呼んだ。


「楽しくても辛くとも。幸せでも悲しくとも。生きることに価値があろうとなかろうと、今日が始まる。これが、生きているということなんだ」


 死にたいと思う時があっても。すべてが暗闇に投げ込まれたと感じた、絶望の中にいたとしても。俺たちは生きている。何かを常に失いながら。

 この時代を越えるという現象がなかったなら、失うものもなかったのかと考える。

 いや、失っていただろう。

 生きるとは、生きていくとは、きっとそういうことだ。


「何があっても、生きることを絶対に諦めるな」


 弘子は少しだけ目を見開いて瞳を揺らしたが、やがて「ええ」と強く頷いた。

 頷いて笑んだ彼女の瞳は、精気に満ちていた。


 今回のことが成功すれば、必ず弘子は自分の役目を全うする。ここで生きて、ここで死んで、一国の王妃としてここに眠る。俺は、その彼女の願いを全うさせてやりたいのだ。


「広間へ行こう。出発の刻限だ」




 俺たちはそれぞれに宮殿の中心の広間に出て、弘子は側近たちを連れ玉座に座り、俺はナクトミンたちを従えて玉座と向かい合った。

 エジプト王妃に相応しい美しい装飾を身に着けた彼女は、あの男から受け継いだ凛々しさと威厳をそこに湛えている。こういう時でさえ、俺はあの男の残像を目にするのだ。

 王座に繋がる階段の下に進み出、ナクトミン、ラムセスと共に跪き、ヒッタイトへの出発の旨、そして必ず帰る、という形式的な言葉を連ね、再び深い礼をして立ち上がった。

 一瞬、弘子と眼差しが合う。相手をじっと見つめた。その顔を忘れるまいと、自分の網膜に焼き付けてしまおうと、彼女を見つめた。


 ──どうか無事で。


 彼女の眼差しが言う。


 ──必ず、また。


 声も交わさず、俺も視線のみで答える。


 ──また、会おう。



 彼女の目が頷いたのを見て、上着を翻し、背を向けて外へと歩き出した。王妃である弘子の見送りはここまでだ。

 背中に弘子の視線を感じながら、外へと向かう道に向かう中で、彼女のこれからの幸せを祈った。悲劇の人生を、胸を張って歩むのだと言い切った彼女の未来を、どうにかこの手で少しでも幸せに染めてやりたかった。



 外は、光で満ちていた。溢れんばかりの白さに一瞬視界が奪われたが、徐々に細やかなものが五感を通して胸に伝わってくる。

 土の匂い。水の香り。吹き流れる風の調べは、遠くで聞いた母の子守唄に似ていた。睫毛、指先までがそれを感じて、僅かに震えた。

 出た先の階段の下に、馬と荷物が所せましと並び、集められた兵士たちが一糸乱れず整列して跪いている。襲われやすい大勢での移動は控えるために兵たちの人数も制限したはずなのだが、荷物と馬を並べると、圧巻するものがあった。

 己を奮い立たせ、足を踏み出した。


 行こう、未来のために。

 ティティが、シトレが、弘子が、この国の人々が心から笑える未来のために。


 時を越えて。そして時の果てへ。



 兵たちの間をナクトミンたちと進み、用意された馬に跨った。傍に控えていた女官たちが最後の身支度を整えるために立ち上がった。


「ヨシキ」


 ぼんやりと他の兵たちが自分の馬に乗り込む光景を眺めていたのだが、声に引き寄せられて馬の下にいる女官を見た。自分を担当してくれている女官の顔を目にし、誰であるかを一瞬にして認識して、驚きが隠せない衝動が走る。


「メアリー」


 彼女だった。あんな別れ方をして、それ以来行方が知れなかったメアリー。しっと、口元に手を当てて、彼女は弘子と同じような顔をして俺に微笑み、顔をこちらに寄せる。他の女官たちはラムセスとナクトミンの支度にとりかかっていた。


「弘子が、こうしてくれたのよ。ヨシキがヒッタイトに行くのを知って私が頼んだの」


 囁いた彼女の姿は、どこか弘子に似ているものがある。互いに見つめ合った、ほんの短い間に、今までのことがどっと自分の中に流れ込み、驚いた衝動を瞬時に鎮めていった。


「女官たちが噂してるわ。私たちはとんでもないことをしてるんじゃないかって。それでも行くのね?」


 迷いはない、と頷く。


「ヒッタイト王は王子を渡して俺たちを帰してくれる。心配することはない」


 これだけの存在感を持つ大王。多くの者を従えているはずだ。多くの者が敬意をしめすほどの、誉れ高い人物であることは容易に想像がつく。何より、ツタンカーメンのもとで目を磨いた弘子が信頼を置いている。彼女の確信を疑う気は微塵もなかった。


「この空の下に、エジプト救う王子を連れて帰ろう」


 空を見上げると、メアリーもつられるようにして蒼穹を仰ぐ。心が洗われるような、澄み切った青さが果てなく続いていた。

 美しい空だ。生まれてくる音を全部吸い込んでその蒼を作っているのではとさえ感じてしまう。

 あの時もこうして二人で空を見上げることがあったのなら、何かが変わっていたのだろうか。


「私たちは……きっともう、二度とあの時代には戻れない」


 メアリーがぽつりと零した。表情に悲しさはなく、懐かしむに近いものがある。

 同じことを考える。何も知らぬまま未来から落ちて来たが、この時代で俺たちはどれほどの存在であるのだろうと時間というものを考えていくうちに、ただ確信めいて感じていることは、もとの時代に帰ることはないかもしれないということだった。


「俺たちは、精一杯に今を生きていくだけでいい。俺たちがいるのは、今だけだなんだから」


 今だ。

 今を、生きる。

 人を想い、自分のできることを全うする。自分の信じる道を突き進む。それだけだ。

 そうね、と小さく笑う彼女は、最後の支度を終え、俺に告げた。


「私ね、色々と嘘をついちゃった。あなたと西にいた時に。ヨシキに縋りつきたかったの」


 昔によく見た、彼女の笑窪が頬に浮かび上がる。


「許してくれる?結構嘘だらけよ?」


「なら良かったよ。メアリーの話すことは何もかも悲惨すぎたからな」


 二人で微笑んだ。なんと気持ちの良い時間だろうと感じずにはいられなかった。


「私、ヨシキが好き。弘子を探していた頃から好きだったんだから」


 太陽と砂漠の国の風が、砂を運んで流れていく。上着で口元を覆い、手綱を握った。


「メアリーには酷いことをしたと後悔してる」


「ううん、あの時は私も悪かった。あなたと同じなの。弘子も、私も、ヨシキも、みんな何も知らなかった。みんな自分が自分でいっぱいだった。何かにしがみつきたくて仕方が無かった」


 他人のことを考える余裕がなかった。目まぐるしかった。辛かった。孤独が怖かった。自分が哀れでならなかった。

 俺はあの男とこの時代を選んだ弘子が許せなかったし、弘子を取り戻せるのなら何をしても構わないと思い込んだ。弘子に縋り付きたかった。反対にメアリーは未来を捨てた弘子が許せず、弘子に復讐することを目的に生きていた。

 俺たちは、なんて貧しい感情しか持てなかったのだろう。視点を変えれば、いくらでも解決の糸口は見つかっただろうに。


「これからも悔いていきましょう。忘れないで、悔いを背負っていきましょう。今はどうしても弘子が忙しくて無理だけど、ヨシキが帰ってきてこの国が安定したら、また3人で会いましょう、絶対に」


 馬の手綱を握り直し、首を縦に振った。


「こんな俺を好きになってくれてありがとう」


 俺が言うべきだった言葉だ。どんな想いを持っていたとしても、彼女は俺の傍にいようとしてくれていたのだ。


「無事に帰れるよう、祈ってくれたら嬉しい」


 涙ぐんだ彼女は笑窪を深めた。


 すべての兵たちが馬に乗り終えた。出陣するかのような熱気を孕む興奮が背中を打ってくる。出発の時が音を立ててこちらに駆けてきていた。


「俺がいない間、弘子を頼む」


「任せて」


 手を差し出せば、彼女も俺の手を掴んで、強く答えた。


「生きて、会いましょう」


「必ず」


 ぎゅっと握り返してくれた後、彼女は名残惜しげに俺から手を離して一度強く頷くと、走って女官の列に加わった。すでに他の女官たちは並び終えて一糸乱れず綺麗な列を成し、見送りの体勢を作り出す。


「ヨシキ、何こんな時に女官に色目使ってるの」


 馬に跨ったナクトミンが馬を寄せてからかってくる。


「そんなんじゃない。冗談はよせ」


「どうだか。……さあ、準備は完璧だ。合図はいつでも」


 時は、今。


「行こう」


 その時、こちらを見下ろす階段の上に、弘子がいることに気付いた。宰相と側近たちを控えて、俺にまっすぐ目を向けている。弘子からずっと離れた先に、シトレを連れたティティが隠れるようにしてこちらを見ていた。見送りに来てくれたのだ。


 帰る場所。ここが、俺の戻る場所だ。

 戻りたい場所があれば、戦える。


 胸がこれでもかと熱くなり、声を上げる代わりに腕を高々と蒼穹に掲げた。

 

もう一度太陽の国の空を仰ぎ見た。東で黄金に煌めき、手を差し伸べるかのように日差しを大地に注ぐ太陽が網膜に映し出される。



 弘子。

 一瞬でいい。お前を真っ直ぐ愛したい。


 あの男がお前の太陽だと言うのなら、俺は偽の太陽で構わない。一寸の光でも、与えられる存在になりたい。この身体が尽きたとしても必ず走り通そう。


「故郷を同じくする誇り高き者たちよ!」


 ラムセスが片腕をナクトミンの傍らで掲げ、叫んだ。


「国を守らんとするため、ヒッタイトへ向かう!!」


 応、と声が上がり、馬の蹄が地面を踏み鳴らし始める。



 ティティ、シトレ。すべてを捧げたとしても守りたい愛しい笑顔がある。

 たとえ朝陽が昇らぬ日が来ても、あの笑顔を忘れることはないだろう。


 馬が走り出す。地面をける蹄の音がいくつにも響き渡る。一瞬にして砂が舞い上がって、視界を曇らせた。


 必ず。必ず。必ず。

 皆に言い続けた言葉を己の内に繰り返す。

 胸を焼くような強い想いが、俺にはある。その想いが俺を強くする。すべてを抱いて北へ行こう。


 門に向かって、あらゆるものが音と砂煙を立てて進み出した。



 



 ──想いよ、力になれ。






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