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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
24章 北への使者
156/177

変わらないもの

* * * * *


 流れ込んだ涼やかな夜風が背中を撫でる。

 炎の灯りを頼りに書物を読んでいると、背後から幼い声が聞こえてきた。よーき、と俺を呼んでいる。文字から目を上げ振り向けば、数歩先に小さな手をこちらに伸ばす子がいる。手の主が何を強請っているのかと言えば、それは一目瞭然だった。抱き上げて欲しい時、シトレはいつもこの仕草をする。ううん、ううん、とすぐに抱き上げてくれないことに顔を歪ませたシトレは床に両手をついて立ち上がり、俺の方へとあどけない歩行でよちよちとやってきた。足元まで来て、力尽きたと言わんばかりにすてんと座り込む。ついさっきまでけらけらと笑い声をたて、ティティの猫をこれでもかと追い回していたというのに、こちらを見る幼い瞳はとろりとして辛うじて開いているほどでしかない。ここで抱き上げなければ、ころりと転がって行ってしまいそうだった。


「眠くなったのか?」


 抱き上げて思わず笑いながら問うと、シトレは頷いて首に小さく縋ってきた。ねむい、と頬をこちらに付けて答えてくる。頬に柔らかな髪が触れ、少々くすぐったかったが、それが愛おしくもあった。寝る時間だと言えば、いつもより若干早いくらいで別に変ったことではない。

 足元を猫が通り過ぎる。シトレにあれだけ追い回され、下敷きにされていたというのに、相も変わらず長い尻尾を上に掲げ堂々とした風は決して忘れていない。女王様気分の猫が去っていくのを見届けながら、シトレの背を擦りつつ夜風に誘われるように外に面する方へと歩いた。

 1メートルほどの段の下に小さな庭が広がり、白い月光を浴びていた。庭の暗がりから視線を上げて月をぼんやりと見、よいしょと再度抱き直す。


 随分と重くなった。ティティが、長時間シトレを抱いていると腕が痺れるようになったのだと嬉しそうに言っていたのは最近のことだ。

 何となく、この子の将来を想った。この子がこのまま王宮の中で育ったなら、何か王家のいざこざに巻き込まれるのではないか。いくつになったら本当の母のことを話そうか。どんな子に育ち、どんな人生を俺たちがいなくなった後に歩んでいくのか。


 答えが見つかるはずもない未来への疑問をただ並べていると、つかつかと足音がして、険しい表情のティティが帰ってきた。彼女の手を払う仕草で、周りの侍女たちが一礼の後にそそくさと去っていく。俺がシトレを抱いているのを見た彼女の顔からふっと固さが抜けた。


「……寝たのね」


 俺が答える前に、眠りに落ちかけていたシトレは彼女の声に夢見心地の顔をひょこと上げて、ティティを認めると手を伸ばした。当然のようにティティはシトレを俺から受け取ると声を掛け、自分の胸に縋って眠りにつこうとするその子の顔を見守ってから、顰めた顔のまま俺に低い声で告げた。


「ヒッタイトから送られてくる王子が、8つの子供らしいわ」


 何の話であるかは察しがつく。弘子が決断したヒッタイトとの交渉に進展があったのだ。


「8つ?」


 それにしても、送られてくる王子が十もいかない子供だとは。


「ヒッタイトの王子は5人いる。すでに成人しているアルヌワンダ王子、シャリクシュ王子、テリピヌ王子。十代のムルシリ王子。そして一番幼い、今回送られてくる年端も行かないザナンザ王子」


「その末っ子の王子を送ってくるとヒッタイトは言って来たのか」


 彼女は深刻な顔のまま頷いた。陰った表情からは出会った頃の聡明さは一つも欠如していない。


「王妃はその子をファラオにするつもりらしいわ。王子を育てると言い切ったそうよ」


 彼女の持ってくる情報は以前のように最新のものではない。おそらく数日ほど遅れた情報だ。情報が遮断されたからと言って大人しく黙っているような人間であるはずがなく、侍女たちを使っては東の宮殿で起こっている出来事を探らせていた。それでも彼女たちにも無理という言葉は存在し、どうしても持ち込んでくる情報は数日古いものになるのは仕方のないことではあるが。


「エジプトとヒッタイトが結託するのは互いの国にとってとても良い事よ。問題が出てこようと、それを覆い隠せるほどの利益が得られる。でも我が国の王となるべく人間に幼子を送られて、ヒッタイトに反感を覚えた輩は多いでしょうね。ただでさえ二分に分かれてしまっているのに、これでは……」


 王を失った国は弱い。特に後継ぎのいない国は。

 政から遠く離れている俺たちにでさえ、今の王宮内が大きな勢力に二分していることを感じずにはいられなかった。王妃の『ヒッタイト王家の者を王とする』ことに賛同する者と、古より決められた『王家はエジプトの血のみで作られる』ことを執拗に求める者ら。王家という国の象徴に他国の血が入ることを許せない後者の言い分も分からないでもないが、今と昔ではもう何もかもが違うのだ。いつまでも大昔に決めたことを守り続けている訳にはいかない。時代に取り残されていくだけだ。


「先王が幼少であっても王として認められたのは、唯一の正統な王位継承者だったからよ。それこそ、神々の化身と謳われた古の王家の血族の男児だったから」


 父の死、兄の死が立て続けに起こり、他に継承者がいないという理由で幼いながらに王位に就かねばならなかった少年王の誕生はこれが理由だ。最も相応しい人間がたった一人しかいなかったために、当然だと周囲が頷き、受け入れる。そうして少年王は成長していった。周囲に信頼できる人間を置いて身を固め、自らの意思を持ち、一国を背負う王として。


「でも今回は違う。異国の、我が国の血など一滴も入っていない幼い王子。これが成人していたなら話は変っていたでしょうけれど、このままでは反感が大きくなることは間違いない。これが成功すれば、ヒッタイト王の権威で抑えられる。でももし失敗なんてしたら……」


 どうなるのかしら、と彼女は俺に聞こえるかどうかの声で呟いた。その声は途方にくれた迷子のように弱々しい。


「失敗するようなことが有り得るのか」


 ヒッタイト王という大きな人物が後見として就いてくれたのなら、不安定なこの国を抑えるだけのことは可能だろう。シュッピルリウマはそれだけ一目置かれる、化け物のような人間だ。しかし、それが失敗したなら、とティティは言う。

 いや、そもそもどのように失敗すると言うのか。ヒッタイト王が王子を寄越すと行って来た。それを迎えて王とすれば、万々歳ではないのか。

 俺の疑問を受けて、彼女は悲しげに笑った。


「今回ヒッタイトは使者を要求しているわ。そうなると使者を誰にするかという問題が出てくる。一国に王子を迎えに行くのだから、使者にはある程度高い身分が必要よ。けれど命惜しさに自ら行くと立候補する者はその中にいるとは思えない。ヒッタイトなんて最大の敵国のようなものだから」


 彼女の解説に俺は大きく頷いた。長年敵対してきた帝国。そこに丸腰で赴くとなれば、ライオンだらけの檻の中に放り込まれた獲物同然と言えるだろう。何をされてもおかしく無い。

 ヒッタイトをどれだけ信用するか。どれだけ王家に忠誠があるか。国のため、王家のために命を捧げられるかに関わってくる。


「もし使者が決まらなくて返事が遅れでもしたら、いつこの交渉が白紙に戻るか分からないわ」


 当然だった。せっかく伸ばした手をなかなか取ってもらえなかったら、信頼を無くして手を下ろさざるを得ない。


「今の王家にそこまで命を張ってくれる者がいるかどうかさえ分からない。それだけこの国はもう……」


 言葉を濁し、彼女は悔しげに唇を引き結んだ。

 行くべきだと分かっている者たちでも命は惜しむ気持ちは他と変わらない。家族がいるだろう。王家の他に守るべきものがあるだろう。それでも行って殺されることを想像して怖気づくのなら、弘子たちは無理に強制はしまい。だが、そうなると使者を決めるということがかなり根気の要る選別になる気がしてならなかった。


「ヒッタイトから承諾の手紙が来たのは?」


「2日前よ」


 ティティの情報の遅れは大体それくらいだ。


「返事は、出したのか?」


「返事をしたならそれなりにこの宮殿も騒がしくなるはずだわ。ヒッタイトとの交渉なんて、長年成し遂げられなかった大きなものだから。それが来てないということは返事はまだなのよ」


 これが失敗したら、弘子はアイの妃に下るしか道は無くなる。そして俺たちも、一生ここから解放されることはなくなってしまう。


「ああ、駄目ね。寝かせてこないと」


 気が付けば、さっきまできゅっとティティにしがみついていたシトレの手が力なく乗っているだけになり、今にも滑り落ちそうだ。俺たちが話しているうちに、シトレは深い眠りについたらしい。

 ティティはその子を抱き直すと、何か思い詰めるような表情を一瞬だけ垣間見せた。振り切るかのように胸にシトレを強く抱き締め、こちらに目を向けずに寝かせてくると言って逃れるように奥の扉の向こうへと入って行く。彼女の様子に何か違和感がしたが、声をかける前に扉は閉まった。



 自分以外に誰もいなくなった部屋から、夜に覆われた外を眺めていた。目は夜を見ていても、頭は全く別のものが巡っている。

 これから、どうなるのか。そればかりだ。


「こんばんは」


 突然闇夜の中から聞こえた声があった。目を凝らすと、闇に俺よりいくらか小さい影が浮かび上がる。

 やあ、と猫のものに似た目元は笑い、俺の方へと口に弧を描いたまま歩んで、段下の数メートル先で足を止めた。


「見つかったら大問題だぞ」


 前王妃の部屋の庭に侵入したナクトミンを咎めるが、けろりとした顔で彼は俺を見上げる顔を崩さない。思えばこうしてこの男と会うのは王家の谷での出来事以来だ。あの時の記憶を思い返すと、吐き気に似た何かが腹の底あたりから込み上げてくるのを感じた。


「前ならともかく、今はそうでもないよ。実権はネフェルティティ様より僕の方が上だからね。そもそも誰が今の僕を咎められる?」


 軍事司令官となったナクトミンの身分は、東の宮殿ではともかく、西の宮殿では大きな存在となっていた。ナクトミンの「行け」一言で、エジプトの大軍は動き出す。何よりアイの命令に従い、屈強な軍隊を着々と作り上げているのがこの飄々とした青年なのだ。罰せるとなれば、アイくらいのものだ。


「ヨシキに教えてあげなくちゃいけないなと思ったことが起きたから、忙しい中わざわざ来てあげたんだよ?感謝してほしいくらいだ」


 青年は胸を張り、目を細める。


「ヒッタイトのことなら、もう知ってる」


 言い返しても、彼はそんなものは当然だと言いたげな面持ちを向けたままだ。どうやら持ってきた話はそれとは別物らしい。月光に照らされているせいもあるのだろうが、相手の顔が青白く見えた。


「次のエジプト王がヒッタイトの8つの子供だってことと、王妃がそれを了承したことだね。ネフェルティティ様から聞いた?侍女たちに嗅ぎ回らせているみたいだったから」


 情報網で言えば、もうナクトミンには叶わない。その薄い笑みの裏に、出回ってない情報がどれだけ隠されているのだろう。


「……なら、」


 相手の口が開くのを見ながら、話を聞いて自分に何が出来るのかと呆然と考えた。こんなところにいる自分が、あちらで必死に生きている弘子の何になれるのか。


「王妃が倒れたことは知ってる?」


 急に意識が引き戻され、息を呑んで、青年を見返した。自分の目が思いきり大きく開かれるのが嫌でも分かる。


「弘子……王妃が、倒れたのか」


 聞き違いでなければ、そう言っていた。ぞろりと何かが首筋を擦って落ちて行く。


「やっぱり聞いてなかったか」


 彼は腕を組み、にっと口を歪ませる。


「ネフェルティティ様もお人が悪い。ご存知のくせにこれだけヨシキに言わなかったんだなあ」


 ティティに感じた違和感はこれだったのだと悟った。もともと隠し事ができるような性格ではない彼女が、俺に隠し事があったから、だから、そこに釈然としない何かが会話の後に残った。

寝かせてくると言った後の、ティティの顔を思い出す。何か悩ましげな。どうしようかと戸惑っているような。

 彼女がこの情報を俺に言わなかった理由は聞くまでもない。

 揺らぐのを無理に抑え、青年を見直した。


「どうして倒れた?」


「随分ご無理をなさっていたようだし、僕としては疲労のような気がするな。まあ、目が回るくらいの政務を続けて、その合間に別の話し合いをして、寝る間も惜しんで未だにファラオの墓の場所をどうにか戻せないかと死の家に話を持ち掛けていたみたいだし、加えて今回のヒッタイトの件だもんね。そりゃ、倒れるか」


 王墓の位置が違うことに対して、弘子はまだ抗っているのだ。すでに終わったことを、諦めもせずに。それだけ大切な相手だったということなのだ。


「王妃の状態を、お前はどこまで知っている」


 自分の腕を、指の跡が付くほどに掴んでいた。気づきながらもその力を緩めることが出来ないでいる。


「熱を出してまだ目を覚ましていないっていう話だけ。高熱みたいだし、前王の件もあって何かの病に侵されてるんじゃないかって悪い噂が侍女たちの間で回ってる。侍医たちが慌てふためいて部屋を出たり入ったりしてたなあ」


 俺が隠せない動揺を示したのを見て、青年は満足気な深い笑みを浮かべた。こちらの感情が揺らいだのを目の当たりにして、心底楽しんでいるような表情だ。


「それだけだよ。ネフェルティティ様は知らせてないだろうなあって思って教えに来ただけなんだ。あの王妃はヨシキにとって放っておけない存在のようだからさ」


 こちらが答える前に、ナクトミンはじゃあねと仮面のような笑みを残して姿を闇に消した。



 マラリアでは──?

 最初に浮かんだのがこれだった。

 その場に立ちつくし、額を抑えて、まさかと首を振る。だが、マラリアはマラリアの原虫をつけた蚊に刺されて感染するものだ。それに刺されておそらくツタンカーメンはマラリアを発症して死んだ。普通の蚊がマラリアに感染したあの男の血を吸っていたなら、その蚊もマラリア原虫を持つ蚊となる。もし、その原虫を持った新たな蚊に、夫につきっきりだった弘子が刺されていたら。弘子が気づかないうちにマラリアに感染し、それが潜伏を経て今回発症したというのなら、時間的にもそれほど不思議ではないのではないか。

 話の通り政務やら何やらに追われて疲労を蓄積させていたのなら、免疫力はもちろん酷く低下している。マラリア患者の周りに、同じマラリア感染者が出るなんてことは、決しておかしなことではない。

 汗が背中を伝って行った。

 倒れたと言う。発熱があると言う。まだ、目覚めていないと言う。何かの病ではないかと侍女たちは噂し、エジプトで最高峰の医術を持つ侍医たちが弘子の状態に慌てていると言う──。

 視線をどこに向けたら分からなくなるほどに、冷静になれなかった。顔面を片手で覆い、髪を掻き上げる。居ても立ってもいられない衝動が足の裏から突き上げ、焦りのような何かが汗腺から汗を噴き出させた。


 ──弘子。


 夫も子供も失いながら、一人で王妃として立ち続けている彼女。一人になったのは、俺のしたことのせいでもあるのだ。たとえそれが歴史で起こるべくして起こったことであっても。

 ぐっと目を閉じる。思い出す。最後に会った時の、俺に向けた憎しみに浸り切った表情。幼い日の弘子。俺を頼りにして、向けてくれていた柔らかいまでの笑顔。そうして自分のこの手でしてきたこと。ぐるぐると目まぐるしいほどだった。


 今まで。

 自分の生き方で、自分を生きてきた。

 取り返しのつかない、多くの間違いを繰り返しながら。


 何故、ここに来て、ここまで来たのか。

 消えると感じた弘子の身体を抱き締めて、俺はこの時代に落ちたのだ。


 時間を越えたのだ。弘子を、また失うまいと。行かせまいと。

 俺の始まりはそこだった。


 弘子たちを探すため、懸命に生きようと古代に馴染んだあの頃。会いたくて無謀に宮殿に入ろうとしたあの瞬間。ティティに、アイに取り入り、宮殿に居場所を作ったあの記憶。弘子のためだと理由を付けて人一人を殺めた、あの時。

 そこまでして俺は何をしたかったのかと言えば、それは──。


 守りたかったのだ。

 あの笑顔を。弘子のことを。


 俺があの頃抱いていたものは、幼かったあの頃と同じ。

 何一つ、変わっていない。決して変わることはなかった。

 ただ、歪みに歪んであらぬ方向へ進んでしまっただけで。



 身体の中を突風が吹き渡ったような気がした。その風が澱んだ迷いを拭っていき、ただ一人だけを頭に思い浮かばせた。


 ──今だ。


 何かに弾かれたように、顔を上げる。


「行かなければ」


 今行かなくていつ行くというのだ。ここまで何もせずに来たのは、この時のためではなかったか。

 マラリアだったとして、できることは限られてくる。それでも行かなくてはという気持ちが逸って仕方が無かった。


「……どこに行くの?」


 戻ってきた彼女が、俺の数歩後ろに立っていた。

 弘子のことを教えてくれなかった彼女には、何の責めも感じない。俺をずっと傍から見てきた彼女は、弘子のことを話したら、俺がここを離れると直感したのだ。

 ティティがこの生活を続けていきたいと何より渇望しているのはよく知っているつもりだった。俺とティティとシトレの三人で静かに穏やかに暮らしていたこの1年半以上の月日。愛おしく思い、ずっと続けばよいと感じていたあの日々。それでも、俺は行かなければならなかった。彼女もこの気持ちを誰よりもよく分かってくれているはずだった。


「ナクトミンに、弘子のことを聞いた」


 静かに言うと、覚ったように彼女の表情から血の気が引く。俺に縋るような瞳を向け、弱く首を横に振った。


「弘子のもとへ行こうと思う」


 相手の目が大きく見開く。


「行かなくちゃいけない。あの時のことも、面と向かって謝って来なくちゃならない……今なんだ。今しかない」


「……待って」


 言いながら、ティティは止めることを躊躇っているようだった。俺に腕を回して泣きついて抑えることもできそうなものを、彼女はしなかった。


「帰ってくる」


 もっと必死に止められてしまう前に、と思った。彼女の姿に自分の心を重ねてここで足を止めてしまえば、俺はこの唯一とも思える機会を逃すだろう。行かないでと制止しようとした彼女の横を、俺は走るようにして通り過ぎた。咄嗟に上がった彼女の指が腕に少し掠ったが、腕はするりと抜けた。


「ヨシキ!」


 背中に、彼女が張り詰めた中で出したような小さな声を聞いた。

 行かないで、と。






 我武者羅に夜の宮殿内を走っていた。月明かりがぼうっと柱の影を床に浮き立たせ、それを踏みつけるようにして駆ける。いつの前に暗がりにこんなに目が慣れていたのだろうかと思うほど、俺の足は確実に向かうべき方向へ繋がる床を踏みしめ、蹴り上げた。

 兵がこちらを見たが、俺の顔を認識している西の兵はすぐに身体の位置を戻し、静寂を被る。いつも見張りの神官がついていたのだが、真夜中に飛び出すこと自体がなかったためか、俺の後ろは誰も追っていない。あの男共のことだ、数分もすれば部屋から出たのを知ってハイエナのようにやってくるだろう。それまでには東の宮殿に入らなければならかった。

 汗を散らしながらしきりに思い浮かぶのは、振り切ってしまったティティの腕。そして眠っているだろうシトレのことだった。

 彼女は躊躇いながら俺を止めた。行って欲しくないと首を振ったのだ。それでも必死になってでも止めようとしなかったのは、俺を行かせてくれたのは、俺の気持ちを覚ってのことなのだろう。

 彼女は聡い人だから。優しい人だから。申し訳なさが止めどなく溢れて、苦しかった。

 そして弘子のこと。何もない、知識しかない自分に、弘子が助けられるかは分からなかった。もしマラリアだったなら、俺は弘子が最期を迎える前に贖罪しなければならない。

 違う。

 マラリアでなくとも俺は弘子に会いたかった。話したかった。力に成りたいと心の底から思っている。自分への憎しみを濃いままに抱いているだろう弘子を見つめ、自身を見つめ、すべてを話す。弘子と向かい合わないまま、言葉も交わさずに終えるのはまっぴら御免だ。このままでいるのは、あまりに悔しい。

 だが、話して、彼女はどんな色の瞳に俺を映すのか。その恐怖が未だに胸に燻っている。

 意識してそこからは考えないようにした。恐ろしかろうと、俺は弘子の感情を一身に受けるのだ。それだけの覚悟は当の昔に出来ている。


 自分がどれくらいの速さで走っていたのかはあまり意識していなかったが、思ったより早く東と西を繋ぐ場所までやってきた。止められる前にと思い、守る兵の間を勢いつけて「王妃に御用」と叫び、滑るように通り抜けると、呆気にとられた兵たちが後から追ってくる。

 お待ちを、と声が掛かる。

 神官の服装をしているのだから見逃してくれてもよいものだが、東西の勢力が相反している今、西から来たということ自体が問題なのだろう。神官と認めているのは、呼び声が丁寧であることから察しがついた。それでも説明している時間も惜しい。説明できるほど自分が冷静になれるとも思えない。少年時代に習い事で鍛えられた運動神経の良さが随分と役に立っている気分がした。走り、飛び越え、自分は何かの獣になったのではないかと思うくらいだった。


 東に入ってからの問題は、王妃の部屋はどこか、ということだった。王がいた部屋というのだから、東にとって最も重要な意味を持つ場所になる。西と東の宮殿はそれぞれ対称に作られていることを考えれば、王妃の部屋として思いつくのはただ一つ。西で言う、アイのいる場所。宮殿の最も奥にある大きな部屋しかない。アイの部屋に連れて行かれたのと反対に行けばいい。

 奥の、奥。何としてでも奥へ。

 走りに走り、ついにその奥へ辿り着いた。

 最後は一本道で、暗がりに潜むようにしてある威圧的な扉がうっすらと見えた。扉の前には灯りが燃えており、それが兵の影を黒々と染めている。そこに向かって、最後に駆けた。

 息を切らして、肩を上下させ、扉を睨むようにして仁王立ちする俺を、扉を守る4人の兵は奇妙な生き物を見るような目で見つめ、槍を構え出す。


「我は最高神官である!王妃御身の祈祷のため、参上した!」


 最高神官の名に、兵たちは槍を降ろしながらも戸惑いを見せたが、それぞれに顔を見合わせ、言葉なしに何かを確認し合い、再び俺を見る。


「誰であろうとここを通してはならぬと仰せつかっております」


「頼む!通してくれ!」


「神官殿と言えどなりませぬ」


 背後から足音と共に気配がした。

 5人の兵が俺に追いついたのだと知り、振り返った時にはこちらに腕が伸びていて、逃れるには遅すぎた。瞬く間に腕が捉えられ、耳元で荒さが目立つ呼吸と共に声が鳴る。


「西へ、お戻りを!」


 せっかくここまで来たのだ、帰るわけにはいかなかった。大きく抗うと、残りの兵たちまでが俺に飛び掛かってくる。もみくちゃになる勢いであっても、どれだけ十人近い男に一人で暴れようが超人的力が無ければ勝ち目はない。俺は兵によって、がしりと押さえつけられてしまった。このまま西に放り込まれるのかと歯を食い縛った時、突然、奥に潜む開きそうもなかったあの扉が、音を立てて開いたのだ。開いた先から二人が出て来て、何事かとこちらに顔を向ける。どちらもそれなりの老人で、侍女を二人ほど引き連れていた。


「侍医殿!」


 二人の内、一人に見覚えがあり、その役職の名を叫んだ。呼ばれた侍医がこちらの顔を初めて認識したらしく、はっと弾かれたような顔をした。


「あなたは!」


「そなた……」


 老人二人の声が重なった。俺の視線が侍医から長身の、侍医の前を歩く長い白髭を持つ男に向かう。何か言わんとした長身の老人を見、すぐに兵が身を乗り出した。


「西よりの神官殿に御座います。申し訳ありませぬ、すぐに戻っていただきますので」


 侍医の前を行く長身の老人を、いつか見たことがある――宰相だ。

 宰相ナルメル。今、弘子の最も近くに侍る人間。宰相は俺を認めると、誰だか分かったかのように、眉を顰め、険しい表情を作った。奥に潜む扉を守るように立ち憚り、鋭い眼光を湛えている。杖を握り、俺を見据える瞳は尊厳高く、恐ろしささえ込み上げた。

 でもそれは、自分の罪深さにあるのだということも分かっていた。


「宰相殿!侍医殿!」


 両腕を掴む兵の束縛を振りほどき、俺は床に膝をついた。


「王妃にお目通りを!」


 膝を折り、床に手をつく。


「王妃の診察を、私めに!」


 吼えるように懇願した。


「私は医師に御座います!」




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