母の手紙
『――突然、タワナアンナでもない私などがここに文をしたためることを、どうかお許しください』
丸みを帯びた柔らかな文体の出だしはこうだった。
ふと顔を上げ、遠くにぱたぱたと響く侍女の足音を聞く。集まり始めた大臣たちの動揺が、遠く離れているここにいても十分に伝わってくる気がした。
わずか8歳という幼い王子がエジプトの王となるために、そしてヒッタイトとエジプトの架け橋となるために、この国にやってくる。おそらく議論は狼狽と焦燥で荒れたものになるのだろう。王になるに相応しい年齢の王子は他に4人いたはずだというのに、誰もこんな幼い王子が送られるとは予想もしていなかったのだ。
再度視線を文字に戻し、自分の部屋の机で、正式な格式に則ったヒッタイト王からの文書の後に続く文章を眺めた。
「……ヒンティ」
一文目を読んでから、ヒッタイト王妃の名にそっと指を置く。私の隣に立つナルメルが自らの髭を掴むように手を当て、その名を見る目を細めた。
「ヒンティ殿は確かシュッピルリウマ王の第3王妃で有らせられたかと」
タワナアンナはヒッタイトの女性のうち最も権力を持つ第一王妃の呼称。過去にも王の死後に絶大な権力を握ったという記録もある地位のことだが、この文面から察するに、この筆跡は少なくとも第二、第三王妃のものということになる。王家の者としての権力はそれほどでもないと言えるだろう。そんな彼女が一国の第一王妃である私に向けて、謝罪しながらしたためたのがこの手紙だった。
「我が国へ送られる王子の母君でしょうか」
ザナンザ王子の母からの手紙。そうなのだろうとナルメルに頷いた。
細やかで丁寧な文章は、所々に筆跡を止めたためにできた黒いシミがいくつも見当たり、所々それが水のような何かで滲んでしまっている。自らしたためたのだろうか。
『――私は、我が国ヒッタイトよりエジプトへ向かう使命を帯びたザナンザの母で御座います』
ナルメルの発言を裏付けるかのように、二文目にはそう綴られていた。
『――勝手ながらお手紙を拝見させていただき、あなた様のお国を想う御心に信頼を寄せ、私の祈りを聞き届けていただきたくこのお手紙を差し上げました』
シュッピルリウマ第3王妃、エジプトに一人来ることになった幼いザナンザ王子の母親。本来ならこのような正式な書簡に付けてくるような内容ではないというのに、わざわざ添えられていたのだから余程のことに違いない。もしかすれば、シュッピルリウマ王に内密で添えさせたものである可能性も高い。
胸が締められる感覚を覚えながら、一文字一文字に気を配りながら目を通した。
『――どうか、我が夫の無礼なる判断をお許しください。幼すぎる、エジプト王になるにしては何とも頼りない幼子を送ることに、お怒りになるのは無理ありません。しかし決して、貴国を軽んじての事ではないのです』
そこには、幼い王子を送ることになった経緯とそれに対する謝罪が簡潔にまとめて記してあった。
『――勿論、夫の性格から貴国とあなた様を試すという意味も含まれているでしょう。しかし、私の国は大国と呼ばれながらも未だ国の地盤が固まっていないのも事実です。ザナンザの他のご子息方はそれぞれの使命を王から掲げられている御身であり、今回、年端もいかぬ私の息子を貴国に送らざるを得なくなってしまったのです』
小さな子をどうか頼むという、幼い頃に両親のもとを離れ、遠い異国に行かねばならない我が子のことを必死に書き綴る、母親の姿が切実と脳裏に浮かんでくる文章だった。
『――あの子は何も分かりません。私が教えようにも、言ってもまだ分からないことが多いようで頭を傾げてしまうばかりです。自分が王家であることの恐ろしさをあの子は知りません。大国であればあるほど自分の命が狙われやすいことも、生まれて8年と言う年月を、病を患うことなく健やかに育ってきたことの幸せも……。エジプトへ行かねばならない意味もおそらく分かってはいないでしょう』
この文章に、一番滲みが多かった。読んでいる内に気づく。滲みは、涙なのだと。たった一人で送り出さねばならない我が子を想い、それでも手放すことを決めた王子の母親の。悩み、何度も筆を止め、涙を流しながらこれを書いたのだ。
苦しさが迫って、一度目を閉じた。
たった8歳。生まれ育っていくこと自体が難しいこの時代で、健やかに自分の腕の中で成長し、これからも育っていくはずだった我が子。王家であることを飲み込めないほどに幼い、無垢な子供。そんな幼い子が、政のために母親の愛情から引き離されて私のところへやってくる。国のため。民のため。王家のために。
瞼を開けて、今まで読んできた部分を読み返した。二度目、三度目と、最初読んだ頃よりもこの手紙を書いた主の心情が痛いほどに伝わってくる。そして、自分たちがしようとしている事の重大さを、今改めて本当の意味で飲み込んだ気がした。
8歳の子とその母にとって、エジプト王やら、王権やらそんなものは関係無い。取引に出されるのは、まだ母親を必要とする幼子で、私たちの得る利の代わりにザナンザという子供が犠牲になるのだ。
そうだと分かっていても、これをしない訳にはいかない。エジプトとヒッタイトの同盟は、何千、何万といる民の暮らしに繋がっていく。
王家は民のためにある。そんな王家から引き剥がすことのできないこの了解があるからこそ、ヒンティという名の相見えたことの無いヒッタイト王妃は、自分よりも愛おしい我が子を手放すことを決めた。ただただよろしく頼みますと繰り返すこの手紙は、我が子を迎える私への、せめてもの願い。本心であれば、王妃としての立場を無視してしまえば、手放したくないはずだ。我が子がどれだけ愛おしいか、私にだって分かる。我が子を敵国とも取れる国に一人送り出すということが、母にとってどれだけ辛いものか。どれほど身を裂かれる思いか。だというのに、ひとつの文句も不満もなく書き綴られた手紙が私のもとに送られてきた。
この手紙の主は、立派な一国の王妃なのだ。母であっても、国と民を忘れない王家の人なのだ。
『――あの子が幸せに暮らせるのなら、私がそれ以上に望むものは何もありません』
最後の方に記されたこの文章に、鳩尾あたりから熱いものが込み上げて目頭が熱くなった。親が子に望むことは、どの時代もどの国でも何も変らない。我が子の健やかな未来。そして幸福な未来だ。自分の娘たちが生きていたならこれ以上の願いはなかった。幸せに。健やかに。たったそれだけ。それでも大きな、何よりも大切な願い。
家族から離され、母親の愛情から引き出されてしまう、異国に赴く何も分からない幼い王子。私を信じて自分の子を私に託してくださったのならば、私はそれに精一杯に答えなければならない。
「……育てなければ」
すべてを読み終えた時、自ずと呟いていた。周りに聞こえたかどうかというくらい、小さな声だった。それでもナルメルは聞こえたようで、姿勢を正して返事をしてくれた。
私が、育てなければ。母親の代わりになって。
「ナルメル」
書簡から顔を上げ、宙を見つめた。
「この王子を我が王家に受け入れましょう」
宰相は少し微笑んで深く頷いた。王子が幼いからと言って、一人の母親の、涙を飲んだ決意を無下にはしない。
「ヒッタイト王妃に返事を書きます」
後ろに控えていたセテムが用紙と筆を用意する。この手紙をくださった、まだ見ぬ、そしてこれからも会うことはない、ヒッタイトの王妃へ。我が子のように、育てましょうと。あなた様が教えるはずだったものを、伝えるはずだったものを私が教え、一人前の、ヒッタイトとエジプトの両方の心を持つ、国と国の架け橋になる立派な青年に育てましょうと。
腹を痛めて産んだ母親の代わりになれるとは思わない。それでも、失った自分の娘たちに注ぐはずだった愛情を、これから来る子に捧げよう。私の娘が生きることができなかったこの時代に、8歳まで育つことが出来た子を、慈しみ、育てて──。
エジプト王家は彼の死で完全に絶えてしまっている。これからやってくる少年と上辺だけの婚姻を結び、その子が年頃になったら、年の近い女の子を娶らせよう。それが新たなエジプト王家の誕生となる。
それまで、これからの未来を繋ぐ新たな王を、この国の民が受け入れてくれるよう国の状態を整え、新たな王に死んだ彼の意志を継がせることが、私の役目。
次へ、次の世代へ、ひたすらに時間は進んでいく。残され、未来を歩む者たちは、死んでいった人々の思いを指標としてその先を目指していく。彼が、父や兄の意志を密かに継いで生きたように。これを終え、真の王として立つ日が来たら、私は次の世代にすべてを託して身を引こう。新たな王家を見守りながら、彼の後を追える日を静かに待ち続けよう。
「王妃、大臣たちが集まりました」
知らせが来て、次に視線を上げた時、とても清々しい、まっすぐな気分だった。空を貫くような、すらりと力強く立った何かが私の中にあった。
風の香りがした。蒼空に真っ直ぐ駆け上がるような清々しさだ。
「行きましょう」
私の進むべき道は決まったのだ。
大臣が全員集まり、私がその場へ赴いたのは、すでに空が暮れ始める頃だった。
忍び寄る夜の暗さに比例するように、身体には少し重たい感覚がある。送られてくる王子が、わずか8歳の少年であることを知った大臣たちは、集まった部屋で大きく議論を交わしていた。現れた私を見るなり、話し声は徐々に小さくなり、静粛にと唱えたナルメルの一声でその場は粛然とした。私は、数段高いところに設けられた王座の前に立ち、集まった大臣たちを見据えた。
「ヒッタイト王から、王子を一人こちらにお送りくださるという正式な書簡を頂きました」
固唾を飲み込んで情報を待つ、大臣たちの表情は固い。すでに幼い王子が送られてくるというのは知っている上で、こちらの正式な情報を待っていると言った様子だった。
「こちらに来て下さるのは、ヒッタイト第5王子、御年8歳におなりになるザナンザ王子です」
反射的な速さで、なんと、と数人が叫んだ。彼らは真っ赤な顔をして、首を横に振り、発言するために一歩私の方へと踏み出した。
「ヒッタイト王にはすでに成人しておられる王子もいらっしゃるはず!これはいかなることか!」
「エジプト王に幼子を据えろと申すのですか!?ヒッタイト王は我が国を侮っているのでは!?」
ヒッタイト王は何を考えているのか。我らを見くびっているのか。
そんな叫びが続いて飛び交い始める。深く考えあぐねている者もいれば、馬鹿にされたと怒りを露わにする者も、これからのことに途方に暮れる者もいた。
「私たちは試されているのでしょう」
私の発言に、全員の目が注がれた。
「幼い王子でも良いかと、それでもヒッタイトと組む意志があるかということを、ヒッタイト王は問うているのだと思われます」
王妃が書簡で寄越してきたとおり、試されているのだと思う。予期していなかったことではない。これでこそ、一代にしてヒッタイト帝国を築いた人と言えるだろう。
「王妃は、それをお受けになるのですか」
「受けます」
もともと受けない以外に、私たちに手は無い。
「ヒッタイトが我らを嘲っているとしていてもですか」
「兄を殺め、王位を略奪したのが現ヒッタイト王で御座いますぞ。何をするかわかりませぬ。そのように簡単に信じて宜しいのですか」
「その王が、自らの子息を私に預けると申し出てくださっているのです」
叫び抗う人を、私は遮った。
「私たちを試そうとしていようが、ヒッタイト王が大事な我が子を我が国へ送ることに同意してくださったことに変わりません。そのこと自体が大きなことであることを、私たちは忘れてはならない。このまま変更なく、決定通りに進めます」
渋い顔が揃った。唸る声は聞こえても頷く人はいない。目を瞑り、じっと考えているようだった。何が不満かと言えば、おそらく小さな王子が王になるということだろう。王は権威の象徴、国の力の象徴だ。幼い王ほど心許ないものはない。
「幼い王の擁立は、今に始まったことではありません。例えば、私の夫もそうでした」
父親と兄が死に、幼いながらも王位に就かざるを得なかった彼。それでも命尽きるまで自分の使命を全うした。これから来るザナンザ王子も、王家の使命を背負った子。立派な両親を持つ子であるならば、多少の違いはあろうとも、彼に通ずるものを持っているだろう。
「亡き夫は、幼いながらもエジプト王として君臨しました。それでも立派な王となり、国を治めたことはあなた方もご存じのはず。これは、王が幼いからと言って国が成り立たない訳はないことの大きな証明。何故これが可能だったかと言えば、あなた方という周りの支えがあったからと言えるでしょう」
ナルメルがいる。セテムが、カーメスがいる。カネフェルもラムセスもいる。彼を支え続けた人々は私の周りに十分なほど揃っていた。
教えていこう。私たちの手で。
「心許ないというのなら、私たちが王子を支えれば良いのです。私は鼻からそのつもりです。後見人として、必ずや亡き夫の意志を継ぐ、立派なエジプト王に育てましょう」
しんと静まり返った。数人が頭を下げ始めると、釣られたように他も頭を下げた。下がる頭の間に、未だに訝しげな顔が浮かんでいる。反論はあるが、他に策を切らしたような、酷く遣る瀬無い表情だった。
彼らの目を見つめ、私は呟いた。
「ここで信じなければ、すべてが終わってしまう。相手を、自分を信じることから道は開ける――まずは相手を信じましょう」
分かり合うために、相手と自分を繋いでいくために大切なのは、相手の意を汲む努力をし、こうだと決めつけずに相手を知り、認め、受け入れること。彼が、私に言い聞かせてくれたことを頭の中で反芻させた。
王妃があれだけの手紙を私に送ってくれた。悩んで苦しんで、それでも私を強く信用してくれてのものだろう。その手を取らずしてどうしようというのか。
「これから、私どもはどうすればよろしいのでしょうか」
頭を垂らし、賛同の意を示した一人がおずおずと私に尋ねてきた。
「書簡には、あちらへ出向き、用意されたヒッタイト兵と侍女たちを連れ、王子を我が国へ送り届ける役目をヒッタイト王は要求しています」
おそらくヒッタイト王は、息子を預ける国の者が見たいのだ。この使者が、これからのエジプトとヒッタイトの国交において、とても大きなきかっけとなる。
「ヒッタイトへ、王子をお迎えに行くための使者となってくれる者はいますか」
びくりと目を見開き、俯くようにして黙り込む者が多かった。戦地に丸腰で赴くような王子の迎えに、すぐに了承する者などいるとは最初から思ってはいなかったが、ここからがまた大変なのだと心の中に重く伸し掛かってきた。隣のナルメルも眉を顰め、考え込むように髭を撫でている。
大臣にも階級がある。同意してくれたのはそれほどの階級ではなく、ヒッタイト王の前に送れるほどの者ではない。それだけの身分を持つ者は、皆怯えた表情をしていた。無理に指名してもいいのだろうが、嫌々頷くようではこの大役を務められるはずがない。そして一国の王の前、もしくは王族に謁見するのだから、ある程度の身分が必要だった。
宰相が最適ではあっても、ナルメルは高齢すぎた。年齢的には七十代、この国の平均的な寿命はかなり越えてしまっているに加え、アケトアテンからテーベへの移動も無理が無いよう、彼がナルメルの身体をひどく労わっていたのは良く覚えている。砂漠から砂漠の旅ならまだしも、砂漠を越え、海をも超える長旅で、エジプトよりも気候や降水量の差が激しいヒッタイトまでの長距離を老体が耐えうるか。
ナルメルにもしものことが起こると思うとそれは避けたかった。とは言っても、セテムやラムセスたちはあくまで側近と軍事を携わる者たちで、使者になり得るほどの身分ではなかった。
ならば、誰を行かせればよいものか。
「使者の決定は後日に致しましょう」
ナルメルが私に小声で進言した。
「お顔色もあまりよろしくない。急がれては判断を誤るだけですぞ」
そうね、と頷くと、ナルメルは私より前に出て大きな声で人々に告げた。
「使者に関しては後日、改めて話し合うこととする」
私を通すために扉が開けられ、来る時より重くなった足を引きずってその場を立ち退く。一度戻って話し合わなければならなかった。
夜も寝ずに小さな部屋でナルメルやカネフェルたちと話し合いを続けた。睡眠の時間が惜しかった。ヒッタイト王に信用を得られるような人物、そしてこちらからも信用が持てる人物である必要がある。あとは、両親のもとから離れる年端もいかない少年への配慮ができた方がいい。
ナルメルたちとの話し合いで、5人の大臣の名を列挙しながらも、私たちは未だ踏ん切りがつかずにいた。
「王妃、このような老体で申し上げるのは出過ぎたことと存じますが、私めをヒッタイトへ遣わしてくださりませぬか」
頭を抱えて悩む私に、ナルメルが声を掛けてくれたが、申し出に首を振った。
「それは出来ないわ。あなたはこれからも王家に必要な人よ、無理はさせられない」
ナルメルの知識と、配慮、何より王家への忠誠には疑うものが無い。エジプトの昔と今を知り、先の王たちを見てきたこの宰相は、やってくる王子や、私にとって、この上はない存在だった。失う訳にはいかない。ナルメルも自分の存在を分かってのことだろう、それ以上何も言わずに目を伏せた。
こうして頭を捻っている間にも、他の政務の話題が絶えず湧いて来るかのように持ち込まれた。それらに受け答えし、私でなくても良いものに関してはセテムたちが処理してくれているから、その合間に使者の件を考える。
列挙された大臣たちの名前を眺めながら額を抑えた。頭痛がした。ずん、ずん、と来る鈍い痛みがうるさくて自ずと眉間に皺が寄る。悩みに押し潰されるかのように、呼吸もいくらか苦しい気がした。
今回の交渉は、何としてでも成功させたい。死んでいった彼のために。国の民のために。彼もこうやって悩んだのだろうか。どうしても成し遂げたいことがあっても、遂げるためには次から次へと問題が降ってくる。
あなたは、どうしていた?こんな時、あなたは。
「この候補5人を呼び出して、彼らの言い分を聞き、選ばれるのもよろしいかと」
顔を覆った時、カーメスがそっと助言してくれた。大臣たちの人柄を完璧に知っているわけではない。話してみて、その中から選ぶのがいいのかもしれない。
でも、それで決まらなかったら――?
正直、それほど信頼のおける人物がいるわけではなかった。私の味方は、この王宮の中でとても少ないのだ。
これでは駄目だ。弱気になってはいけないと首を振って、セテムに頷いた。
「そうしましょう……知らせを出してちょうだい」
時は明け方に差し掛かっていた。
床に部屋の隅で燃える炎の他に、柔らかな白さが落ち始めている。一刻も早く、ヒッタイト王へ、使者の旨を添えて返事を書かねばならない。それなのに一日経って未だに決まっていないことに焦りがじわじわと迫ってくる。交渉が最後までうまくいくかどうかは返事の早さも関わってくる。焦りが逆に思考を鈍らせ、不安を募らせた。
その時、新たな知らせを持ってきたイパが入ってきた。
「下エジプトより使者が参りまして御座います。王妃様にお目通りを願いたいと」
こんな朝早くに、下エジプトから。王を失っての情勢を知らせるものだろう。もしかすれば何かあったのかもしれない。断ることはできない。
「謁見の場を設けなさい。すぐに向かいます」
立ち上がろうとした私に、それはいけないとナルメルが手で制した。案じる目が私の前に現れる。
「王妃、あなたはしばらくお休みを取っていらっしゃらない。先程よりご気分も優れぬ様子。ご無理をなさいますな。異国からの使者ではないのです。少し待たせても問題はありません」
宰相に言われて、思わず苦笑し、頭痛のする頭に手を添えて椅子に座り直した。髪が前に垂れて視界に黒い線を作る。
「そうね、少し休むわ……」
ナルメルとセテムが侍女を呼び、私を休ませるように命じた。すぐさまネチェルとメジットが私の傍へやってきて、労わるように寄り添ってくる。
「セテム、先に話を聞いておいて。きっと急用だと思う……そして後から私に内容を知らせて。出来る限り処置をとっておいてほしいの。その権限は与えます」
「御意」
これだけ早朝にやってきたのに、話を聞いてもらえないでは、情報を持ってきた身としては不安で仕方がないだろう。去っていく男性陣の背を見届けてから、息をついた。
頭痛がやはり酷かった。眠れば、治まるだろうかとぼんやりと考える。そんな私を覗き込んだネチェルが、まあ、と痛ましい感嘆を上げた。
「お顔色がこのように……さ、お部屋に戻って、御身体をお安め下さい」
見た目ほどではないのよ、と笑ったけれど、彼女たちは表情の険しさを緩めなかった。
「無理を申し上げてでもお安みいただくべきでした。参りましょう。これではなりません」
促され、椅子から立ち上がった時。ふっと重い息苦しさを覚え、身を強張らせた。
「王妃様?」
立ちくらみだと思って机に手を置いて立ち止まる。黙って目を瞬かせたが、変だった。目が眩む。不思議そうに私を見るネチェルとメジットが見えた。二人が白黒になってちかちかと光り始め、周りの音が遠のいて、蓋をしてしまったかのように聞こえなくなる。
口を開き、何かを言っているのに見えないガラスで遮られたかのように曇ってしか聞こえない。瞬く間にそれは吐き気と共に酷くなった。
ふらふらと左右の足の力の入りが交互になる。おかしいと声を上げようとした時にはすでに遅かった。声が出ない。突然の状態に当惑している間に、膝ががくりと折れ曲がり、力が入らなくなった自分のものではないような身体はそのまま崩れた。
白黒に点滅していた視界が、一瞬して真っ暗になった。




