交渉の結末
夜が明け切ってすぐ、支度を整えてから王座の広間にアイを呼び出した。
目的の人物が現れたという報告を受け、宰相、側近、侍女たちを連れて広間へ出る。広間は壁に沿うようにして兵たちがずらりと列を成しており、姿を現した私に向かって礼をした。宰相と側近がそれぞれ私の隣につき、私が黄金の装飾が施された王座に腰を下ろす。王座の前には下へ降りる階段が5段ほど連なり、降りた下、広間の中心ともいえる場所にずんぐりとした老人が杖をついて立っていた。ぎょろりとした目は周りの様子を楽しむかのように見回し、私へと落ち着いた。
自分の手を膝の上で握り込む。この男が、すべてを行ったのだと思うと怒りが込み上げて仕方がなかった。呼び出された理由を分かっているはずだろうに、どうして平然と周りを眺めていられるのか。
私の隣に立つ側近や侍女たちの眼差しに冷たいものがあるというのにも関わらず、老人は不快な様子を一切見せないでいる。いくら憎まれた目で周りを囲まれようと、不思議なほどに怯える様子は感じられなかった。
「アイ」
唇を湿らせ、老人の名を呼ぶと、名の主は視線を上げた。
「あなたを問責に掛けます。この場で偽りなく私の問いに答えなさい」
そう告げてから、大きく息を吸いこむ。以前のように言い包められて終わることだけは避けなければならない。立場上、この男に面と向かって物を言えるのは私だけなのだ。
「我が夫が亡くなり、葬儀埋葬を一任した神官がいました。それは知っていますね」
声を出さず、アイは目だけで頷いて見せた。太い指先を小さく動かし、杖の頭の装飾をいじりながら、妙な笑みを湛えている。
「その行方が知れなくなり、あなたが葬儀埋葬を引き継いだようですが、私はそのような報告は受けていない。許してもいない。話さずとも何を言われているか分かるはずです。アイ、どういうつもりです」
アイは口元ににんまりと笑みを浮かべ、視線を上げて私を捉えた。
「どういうことか、と申しますと」
嗄れた声は、十分に身の毛が弥立つほどだった。以前にされてきたことに対する恐れのせいか、今回この男がしたことに対する怒りのせいか、声が震えそうになるのを必死になって堪える。
「あなたが行ったことに関する情報を、命がけで提供してくれた者がいます。とぼけるようなことは許しません。あなたがすべて行ったことは分かっています」
狙われたという証言から、あの青年は厳重に東の宮殿に匿っている。危険を及ばせないために、無駄なことを言うべきではない。
「王墓の位置、壁画の内容、口開きの儀……これらの王家にとって重要な事柄を何故あなたが、王妃である私に相談なく決めているのです。私は、夫が心から信頼を置いていた神官にそれらをすべて任せたはずです。一任していた彼はどこへ行ったのです」
口端は上げたまま、アイは私を見つめている。勿体ぶるように答えようとしない老人に向かい、ナルメルが険しい表情で杖を鋭くついた。
「王妃のお言葉である。答えよ」
「死んだためである」
身じろぎさえしそうな宰相の声に怯むことなく、アイは笑んだ口でそう言ってのけた。
「……死んだ?」
ナルメルが聞き返すと、相手はさも当然であるかのようにゆっくりと頷く。
「王妃がお任せになっていた東の長が亡くなったために、私が代わりに行ったのです」
周りでこれを聞いていた人々は眉をしかめ、顔を見合わせた。
おかしい。あの神官が死んだなど。持病も何もなかった。あれだけ元気に引き受けることを承諾してくれた。
「任された者がいないのなら私が率先して行う他ありますまい。私はお亡くなりになったファラオの祖父に当たり、ご即位当時は後見人で御座いました故」
「そのような話、私は聞いていません。どこで、何のために死んだというのです。答えなさい、神官はどこにいるのです!」
アイは鼻で嗤った。
「……おそらく」
杖を突き直し、目玉の焦点を私に定める。
「そのご言い分だと、あなた様も、私を睨み付けておる者どもも察しはついておるのでしょう。私がその神官を攫わせたのだと」
絶句した。
「私が攫い、私がその者は死んだ、と申し上げているのです。どういうことか、その先も察して頂きたいものですな」
ネチェルが悲鳴に似た声を上げ、逃げるように後ろに数歩下がった。周囲はぎょっとして、中心に立つ老人を化け物をみるかのような目で見つめる。
「……殺したの」
ぽつりと振った私の言葉に、アイは何も言わず私に目を向けている。
この男は、邪魔な神官を殺したのだ。殺した、のではなく、多分人に手を汚させて殺めた。私と別れた後の神官を攫い、殺してしまったのだ。人殺しの事実くらい察しがつくだろう、と相手は世間話をするかのように軽く言って笑っている。殺人をしてのらりくらりとしているなど、常人の反応ではない。一体何人殺めてきたのだろうか、この男は。そう考えてしまったら口が動かなくなった。
「あなた様が嘆かれ続けていたのが悪いのですよ」
昔話でもするかのような口調で、老人は静かに語り出す。それでも目だけは鋭く、恐ろしかった。
「そうお怒りになるのであれば、神官の身を案じるのならば、最初から他人などに任せず、ご自分でおやりになればよろしかったのです。葬儀にて中心となった神官はいかにもこの私だ。その場にいながら私に気付かぬあなたもあなたではないか。私は己の立場が蔑にされているが故に、それを訂正しようとしているだけなのだ。何がおかしいことがあろうか」
化け物を目の前にしている気分になった。
「黙られよ!」
怖気づく私の隣で、セテムが前に踏み出し、怒りの形相で上からアイを見下ろしている。
「死に関することまで王家が携われぬことも、王妃が衰弱されていらっしゃったこともあなたは十分にご存知のはずだ!あなたが無断で己の権力を乱用しただけの話ではないか!神官を殺めたというのなら、あなたは最早王家でも神官でもない、ただの罪人だ!」
「黙るのはお前であろう!お前ごとき下賤な者に口を利かれる覚えはない!」
セテムを睨み付けると、アイは歩を進め、階段の真下にまでやってきた。
「王宮内にて、あなた方のお味方がどれほどいらっしゃるか王妃はご存知か?私を王にと支持するものが大半を占めているここで、私を罪人とすることはかなり難しいことのように思うが。逆に私を敵視するそちらが罪人となることもあり得るのでは?実際にこの広間を囲む兵士の何人が動くか、やってみればよろしい」
そうなのかもしれない。これほどまでに情報がやってこなかったのは、大勢によってそれが徹底されていたからだ。大勢がアイ側についていると言っても過言ではない。現に兵たちは青ざめ、狼狽えていた。味方と言えばヒッタイトとの交渉に頷いてくれた大臣たちだが、今彼らはいない。
「乱心したか」
蔑んだように告げたのは私の隣にいるナルメルだった。宰相らしからぬ声に、皆が驚いて視線を投げる。
「我らは王家をお守りするがためにあるのだぞ」
「ナルメル、アメンホテプ3世殿下より共に王家のために仕えし者よ」
アイは両手を広げ、友に話しかけるかのような表情を浮かべた。
「お前はすでに気付いているのではないか。最早王妃は王位継承権を持つ一人の娘でしかありえぬ。あの若僧が死に、古来より受け継がれてきた王家の血筋はほぼ絶えた。これからはエジプトを故郷とする者たちの中から新たな王家を確立する時代が来たのだ。今最大の権力を誇るのは誰だ?次期王になるべきなのは誰だ?私の逆らう位置にお前は立っているのか」
アイの言っていることは、ある意味的を射ている。私がこうして皆を従えているのは王位継承権を持つからであり、王家直系の男子がいなくなった時点で続いてきた王家は絶えたも同然で、新たな王家を確立する必要がある。その新たな王家として、私はヒッタイト王家の王子を挙げ、対してアイはエジプト人で確立すべきだと言っているのだ。言葉を変えてしまえば、自分こそが王位にあるべきであると、そう言っている。
「私はあなたの王家を蔑む意に賛同しかねる」
ナルメルは再度杖を鳴らした。
「あなたの言う通り、王家の血はほぼ絶えた。しかし王妃を蔑にするような真似をしながら、その意に反し諸々の罪を犯す理由にはならぬ。我らの存在する理由を忘れたか。ここにこのような老体まで生き長らえ、この身に受けた王家からの恩恵の数々を忘れたか。王家があってこその我らの生、我らは王家を支えるためにあるのだ。意に反してまですることなどどこにある」
アイは広げた両手をおろし、杖の頭に重ねて置くと、しばらくして深い溜息を静まり返った広間に落とした。
「昔からそうであったが、お前とは死ぬまで分かり合えそうにないのう……若き頃より宮殿にて同じ目標を掲げ、互いに優れた才を持っていながら、手を取り合い共に歩んだ覚えがない。残念でならぬぞ、ナルメル」
「若かりし頃から、私はあなたと気が合うことはないと分かっていた。根本が違うのやもしれぬ。亡き王に代わり、王が遺された王妃をお守りすることこそが我が使命ぞ」
宰相を睨み付け、そのままアイは私を見た。
「王妃に問おう」
ナルメルがこちらを振り返るのを視界の端に、アイは一歩前に踏み出した。
宰相の言葉が素直に嬉しかった。臆されてはならない。
「あなたはまこと、あのヒッタイトの化け物が、我が国に己の息子を送ってくるとお思いか」
「シュッピルリウマ王は信頼するに値する偉大なる王です。必ずやこちらの申し出を受けてくれるでしょう」
強気でいかなければならなかった。根もない確信であったとしても、アイに隙を与えてはならない。
「神官たちも私を王にと押しておる。それでも王妃は私を夫とし、王とすることはせぬと申しますか。その印章を私に譲り、夫とすると述べればよいだけですぞ。そうなれば、あなたは再び楽な奥にいる身に戻れるというのに」
「王の妃という立場を自ら選んだ私を蔑むか」
老人を見下ろし、低めた声で告げる。
「私は亡き夫の意思に従い、そのために生きている。お前を夫にする気など毛頭ない」
アイが何かを言わんと口を開きかけた時だった。扉が勢いよく開かれ、兵を従えたイパが慌てた様子で広間に入ってきたのだ。
「王妃様!」
私を呼んだ少年の顔は紅潮し、手に持った薄い黄色のパピルスを差し出しながら段上の私に向かって駆けてくる。取り込んでいる最中に、空気を壊して書簡の到着を知らせてくることなど、今までにもなかった。
「イパ!何をしている、控えよ!」
注意した兄を押し切り、私の前に素早く躍り出たイパは跪いた。
「ヒッタイトから宰相殿が使者として参りました!ヒッタイト王からの書簡に御座います!」
その言葉に意味するところにはっとした。隣のセテムもナルメルも同じだった。
今までヒッタイトの遣いとして宰相のような国の重役が書簡の送付についてきたことはない。加えて差し出された書簡には、ヒッタイト王家を表す紋章が添えられていた。となれば、これらは書簡に記された内容が、これまでのものとは比較にならないほど重要なもの──ヒッタイト王家の意思だということを示している。
イパはすべてを察して、私の所へ持ってきたのだ。
「どうぞ」
震える手で取り、留め具をほどき、中に記された文字に目を通した。心臓がはち切れそうなほどに鳴っている。
内容を把握し、繰り返し読み返して確認してから、足を踏みしめ、天井を仰いで何かが溢れそうな胸を抑え込む。息を吐いて前に向き直ると、アイが訝しげな顔を私に向けていた。周囲の人々が私の言葉を待っている様子が、取り囲む空気の重みから分かる。王妃らしく澄ました顔を作り、私は届いたばかりのヒッタイトからの書簡をアイの方に掲げて見せつけた。
「ヒッタイト王が私に味方してくださると、申し出てくださいました」
私の声にアイの目が大きく見開かれ、一瞬怯む。
「私の後ろには、己が化け物と呼んだヒッタイトの大王が控えていると考えなさい」
アイは何も言わなかった。釘を喉にでも刺されたように表情を恐怖に強ばらせている。眉根がぴくりと動いて、それ以上は固まり、動かない。
「これ以降、私の意に反することをしようものなら、二度と許しません。それを肝に免じなさい」
かつては小国であったヒッタイトをエジプトに並ぶ巨大国家にしたヒッタイトの現国王の威光を知らぬものはいない。どんな国にも敵に回したくないと言わしめる王が、敵対する相手の後ろについたのだから当然でもあった。
「戻ります。アイに見張りをつけなさい」
そうラムセスに命じてから、脚を叱咤し、そのまま私は駆けるようにして自分の部屋へと向かった。内容を詳しく聞きたがっているセテムもナルメルも私の後ろについて、動き出す。
二人に何か言わなければと思った。それでも、何も言えなかった。言うことができなかった。ここで言い出したら、部屋に戻る前に泣き崩れてしまいそうだった。
戻るなり、脚が崩れて部屋の床に座り込み、胸に抱きこんでいた書簡を、再度広げて読み直す。書簡事態は4枚に渡っており、二枚目に差し掛かると、把握した内容に間違いないと確信した。途端に込み上げてくるものを実感し、縋るように書簡の文面に額をつけ、緊張で止まってしまっていた息を大きく胸に吸い込んだ。
まだまだ掛かるものと思っていた。次の返事でも断られるものだと。頭の中に繰り返す内に、視界が見えなくなるくらいにぼやけていく。
彼が伸ばしていた手を、私の力で、ようやくヒッタイト王に掴んでもらえたのだ。亡くなった彼の念願だった、エジプトとヒッタイトの完全なる同盟。大国同士が手を取り合うことで国々の豊かさは過去にないくらいに増していくだろう。これを知らせれば、王家への支持を高めることもできる。アイとの形勢も逆転が可能だ。
もう会えない彼の笑顔を思い返して、何度も何度もヒッタイト王の筆跡に目を通す。通している視線の先に彼を見た気がして、胸が震え、そのまま書簡を胸に抱きしめた。頬に流れていく暖かいものを感じた。嬉しかった。こんな自分にも成し遂げられたのだと。彼の念願を叶える繋ぎ役になれたのだと。
「王妃」
案ずる声が聞こえて、書簡から顔を上げた先にナルメルが屈んで私を覗き込んでいた。
「ヒッタイト王は、何と申してきているのです」
視界にぼやけた輪郭を持った宰相の顔が映り、伝えなければと口を開きかけ、書簡に連ねられた文章に視線を落とした。
「……お送りくださるそうです」
口にしたら、書簡を持つ手が余計震え出す。相手が聞き取れたかと思えるほどに声は掠れていた。
「王子を、お送り下さります」
絞り出すような私の答えに、ナルメルも息を飲んで、私の手元を見た。そこには、『エジプト王妃に信頼を置き、我が息子の一人をお送りする』と交渉成立を意味する文章が角ばった文字で並んでいる。粘り強く続けていたヒッタイトとの交渉が、ようやく実を結び始めたという何よりの証だった。
「やった!」
叫んだのはイパだった。ラムセスにもセテムにもカーメスにも、ついてきたイパの目にも喜色が滲んでいる。顔を今までなく紅潮させ、互いに顔を見合わせ頷き合い、互いの肩を掴んで揺らした。侍女も胸の前に手を合わせ歓喜の声を上げた。
「何人目の王子であらせられますか。何人目の王子が我が国へ……」
セテムの声が縋るように上から降ってきた。5人いる中の何人目であるかで、その年齢や熟してきた業績などが大体分かる。噂にも聞く、私より年上の長男か、それとも亡くなった彼と年が近い次男か。王の後継を考えれば三男であるかもしれない。再び沈黙があたりを包み、唾を飲み込む音が近くから聞こえた。次の王となる人物を気にするのは言うまでもない。逸る気持ちを抑えながら自分を落ち着かせ、震える手元を感じながら3枚目の文章一つ一つを読み解いていく。
「──ザナンザ」
これが、エジプトにやってくる王子の名。
「ヒッタイト帝国第5王子……御年8つにおなりです」
第5王子ということはヒッタイト王子の中の末子。ヒッタイト王から私のもとへ送られるのは、わずか8歳という幼すぎる王子だった。
誰もが幼い王子の年齢に唖然とする中、私は書簡の3枚目から筆跡が変わっていることに気付いた。角ばった字体から、細やかで丸みを帯びたものへと変化している。
『――王妃ヒンティより』
3枚目の冒頭に小さく書き添えられていた。




