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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
23章 葬儀
152/177

谷の秘密

* * * * *


 埋葬の列は闇夜を掻い潜るようにしてこちらへ近づいてきた。

 沈黙が降りしきる中、地面に足が擦れる音と乾いた馬の蹄は、その不気味なほどの静けさをより深くする。最初、巨大な蛇のように見えたその列は、3つの棺と残った埋葬品を担う運び手、それを守る兵たち、そして後ろに続く神官たちで成り立ち、運び手が全体の五分の三を占めるという、王の行列とはとても思えない短いものだった。

 黒い上着で全身をすっぽり覆った俺とナクトミンは、門の前で列が来るのを馬上で待ち、列を確認すると、ナクトミンが門を開けるよう十人ほどの兵に手で合図した。


「カーメスさん、セテムさん、こんばんは」


 背後で門が開けられる重たい音を受けながら、列の先頭にいる二人の方へ馬を動かし、ナクトミンは会釈する。待っている間は、ほとんどと言っていいほど口を利かなかったせいもあり、何だか久々に聞いた声だった。


「今回は僕が担当します。よろしくお願いします」


 相手方の二人はよろしく、とでも言うように互いに軽く、視線を下げるだけの礼をする。


「こっちは大神官の御方です」


 ナクトミンが俺を示して言うと、先頭にいる二人はじっと俺を見てから大して気にも留めず、ナクトミンに頷き、開き切った門の先へ馬を進めていく。目元しか見えない今は、アイではないということしか判断できないのだろう。アイに大神官の名ばかりを賜った者、という認識しかないのかもしれない。

 ナクトミンと俺は神官らの前に付き、宮殿の門を出た。


 黒い布で覆われた埋葬品の数々が前を行く。そこに共に並ぶ棺らしきものが目に止まった。あの男が入っている棺だ。あれだけ自分が憎んだ男の死体が、沈黙を貫いて眠っている。それを思ったら、虚しくなって仕方がなかった。

 次に不思議に思ったのはそれらを引く運び人で、服装は下半身に腰巻だけ、サンダルも履いておらず、裸足を地面に擦り付けて歩いている。今は何時かと月の位置を確認するために顔を上げる時以外は、不安げな表情を隠すように下を向き、黙々とソリに繋がれた太い紐を肩に掛けて引いていた。神官でも兵でもないのであれば、汗水流して王の遺体を運ぶ彼らは一体何者なのか。服装は平民を思わせるほどに質素で、すでに数年宮殿にいる俺でも分からなかった。


「彼らは奴隷だよ」


 俺の様子に勘付いたのか、耳打ちしてくれたナクトミンの回答を受けて、思わず前を行く彼らをまじまじと眺めた。浅黒い白人やエジプト人と似た風貌の者たちなど、様々な人種がそこにいたが、肌がエジプト人よりも黒い、所謂黒人ネグロイドが大半を占めている。エジプトよりアフリカ南方の民族だろう。


「間者であったり、国の重要機密を盗みに来たり……あとは王族の暗殺を受けて来た奴らだけど、失敗して自分の国に見捨てられた、帰る道のない可哀想な人たちだよ」


 思えば、アフリカ大陸で築かれた高度文明はエジプトのみだと言っても過言ではない。俺自身もエジプトしか知らなかったが、アフリカの南にも決して巨大ではなくとも点々と小国はあったはずだ。高度文明として発達し続けるこの国の機密を欲して狙いに来る輩がいる、という結論には案外簡単に辿りつく。

 もし、自分の国から派遣されたものだと頷けば、必ず大国エジプトから睨まれることになるから、その者らを放った国は「そのような者は知らぬ」と言って見捨ててしまう。

 不安げな顔を覗かせる異国人は、ナクトミンが言う通り憐れな人々なのだろう。


「そういう奴らはもう捕虜になるしかない。帰るところがないし、この国に居れば罪人なんだから。捕虜になり、罪人となり、奴隷となる」


 そもそも、この国で奴隷というのは珍しかった。神殿や像の建築でさえ、働く代わりに食べ物を供給すると言う形で民が行っていて、自分もこの時代に来たばかりの頃はムトと共にそれで稼ぎに出ていたのだ。大量にいる奴隷が作っていたのだろうと勝手に想像していた自分の考えが一瞬にして崩れ去り、民に仕事を与えて生活の循環を綺麗に回す、なんと効率的なやり方だろうと感心したのはよく覚えている。


「こちらの地理も言葉もろくに分からないのに引っ張り出されて、自業自得でここにいるんだろうけど、可哀想だって僕でも思っちゃうな」


 言葉も通じないとなれば、彼らから漂う底の無いような不安も理解できた。敵国の牢に入れられて過ごしていたのに、急に真夜中に引き出され、どこへ行くとも知らされずに黒い荷物を引かされる。ただただ恐怖だろう。

 だが、疑問が残る。最も卑しい身分であるのが奴隷だというのに、何故彼らが王の遺体を運ぶという大役を担っているのか。それを隣で馬を歩かせるナクトミンに尋ねようと思ったが、彼はどこか遠い目で奴隷たちの砂を蹴る足元を見つめながら、腰に携えた剣の柄をいじっていたので、結局疑問は飲み込んだ。深く考え込んでいるようで、声を掛けるのが憚られた。


 視界に入る夜の町は異様に夜に混沌と沈んでいる。太陽下にある町しか見たことがなかった俺にとっては、とても不可思議な、初めて来たような感覚に捕らわれた。ほとんどが寝静まり、土を固めて作られた箱形の家々から漏れる灯りはない。月明かりだけがこの世を照らす唯一の光だった。人の気配さえ感じられなかったため、この町は誰もいないのではないかと思う中で、遠くに犬の鳴き声がした。

 町全体が眠っている──この言葉が表す光景というものを、初めて知った気がした。


 深い眠りについたテーベの都の巨大な門を、身を潜めるようにして出て、西へ西へと進んでいく。都の門を潜り抜け、そうして現れるのが黒々とした砂漠の海だった。

 時間というものが存在しない世界だと思った。布で顔の半分以上を覆っているせいもあるのだろうが、風の音は蓋をしたようにくぐもり、いつものように飛んでいるはずの砂が顔に当たらず、自分たち以外の気配がない。砂漠と夜空の境目が向こうで曖昧に合わさり、星の煌めきの有無で辛うじて境界が確認できる程度だった。それほどに夜の砂漠は何もない。

 感じる風の涼しさに、口元の布をずらして向かい打つ風を大きく吸い込む。物寂しさのある世界だが、嫌いではなかった。

 何も無い世界を見ていたら、自分を取り巻くしがらみが溶けて無くなるような気もしたが、ナクトミンが布をもとに戻せと目で言ったため、仕方なく口元の布を直し、手綱を握り直した。

 僅かに、口に砂の味がした。



 月明かりだけを頼りに方角を確認して、奴隷たちに進めと促しながら夜の砂漠を走り抜ける。砂漠の暗い海を抜けた先に、徐々にその姿を見せたのが、この文明の根本にあるナイルだった。

 目の前の川岸を最後に、向こう側の岸は凝視しても確認できないほどに遠い。ただ、西の方角に黒々とそびえる大きな谷だけが、底知れない巨大な怪物の影のように横たわっていた。

 手に松明を持った兵が四人ほどこちらの列を待ち構えており、姿を確認すると、先頭のカーメスとセテムに頭を下げた。


「馬から降りて」


 ナクトミンに言われた通りにすると、近寄ってきた兵が俺から手綱を受け取り、馬を向こうへと連れて行った。


「ここからは船だから」


 青年の視線の先に船が数隻用意してあり、すでに兵たちが奴隷たちを使って棺や何やらを乗せている。さすがに馬でこのナイルは渡れまいと納得し、自分たちもそれに乗り込んでナイルを渡り始めた。

 誰も口を利かない夜の母なる大河の横行は、気を抜けばその中に引き込まれそうなほどの得体の知れない生き物のような恐ろしさを秘めている。いつかこの平らな黒い水平を崩し、こちらに襲いかかってくるのではないかと。落ちたら二度とここへ戻ることのできない場所であるかの如く、途方もなく暗く、現実から引き離された、静かな世界だった。

 やがて反対側の岸が見えて来て、死の領域と揶揄される岸辺に辿り着くと、人が待っており、別の馬が向こうの岸で手放した同じ数だけ用意されていた。西にいるのは兵ではなく神官で、墓の守り人をしている者たちだと言う。

 荷物を船から下ろし、最初の時と同様の列を作り、俺たちも用意されていた新しい馬に跨った。進み出した馬に揺られながら、ぼんやり眺めていた馬の背に気づく。先程乗っていた馬よりも、闇で塗ったように毛並が黒いのだ。


 目的の谷が大きく自分たちの前に立ち塞がるように現れた時、ああ、と自ずと声が漏れた。目を上げ、人々もそれを仰いでいる。奴隷も兵たちも、神官たちも。この場所に、いよいよ足を踏み入れたのだとでも言うように。

 俺たちを抱くように黒々と闇に沈む王家の谷。ここを取り囲むものは、今まで感じてきた空気とは全く違った。どのように違うかと問われれば上手く言えないが、冷たさと静けさ、そしてすべてが死に絶えてしまったというような、空っぽという名の不安が蠢いている。現代で弘子を探すために何度も踏み入れた場所であるからこそ、よく覚えている地形だが、細かい所を除けばほぼ変わっていない。だが、賑やかな観光客も、排気ガスを吐き散らす観光用のトラックも、呼び込む人々もいないこの無の空間は、遠くに感じていた死を身近に連想させた。

 ここが如何なる場所が知らない奴隷でさえ、この雰囲気に怯えた顔を浮かべ、驚いて見開いた目には漠然とした恐怖が隠せないでいる。

 止めていた足を、先頭にいる人々の声で動かし始めた。


 谷を割るように入っていき、案外すぐに俺の記憶にもある若き少年王の墓──KV62が見えてくる。

 ラムセス6世の職人小屋の下から発見されたという、あまりに小さすぎる王墓。見えてきたその場所は、周りに王墓が無い分、記憶よりもさらに殺風景だった。


 問題が起きたのはその時だった。先頭からどういうことだと憤怒の声が聞こえてきたのだ。


「何を言うのか!!ここではない!」


 先頭を行っていたセテムという王の側近のものだ。何事かと、馬上の身体を伸ばすと、この谷を司る神官二人と対立していた。


「ファラオがお決めになられていたのは、ここを下った先の場所であるはずだ!」


「我々はここであると仰せつかっております」


 ナクトミンと共に列から抜けて前の方へ進めると、言い争いの内容が掴めた。

 どうやら、墓の場所が違うらしい。セテムとカーメスは、ツタンカーメンの王墓は谷のもっと奥まった場所にあると言っているが、神官たちはこの場所だと言って引かないのだ。神官たちが示す墓は、急逝したアンケセナーメンのために作ったもので中は狭く、御世辞にも上下エジプトを治めた王の墓とは到底言えないと言う。

 確かにこの墓は呆気ないほどに狭いが、KV62として発見される王墓はここで間違いない。現代でカーターによって発見されたのは紛れもなくこの場所だ。


「誰より仰せつかっているというのか」


 気を荒げてセテムは問うと、神官は澄まし顔を上げる。


「アイ殿より」


 その名を聞いたセテムたちの表情はみるみる内に歪み、俺自身もはっと息を呑んだ。

 現代で、王の墓とは思えない広さ故に墓が移動されたのではないか、という説が少ないながらも挙げられていたことを思い出した。もともと自分のために作っていた墓を、ツタンカーメンは死んでから誰かに横取りされたのだと。あまりに若すぎた死であったために。

 アイが王妃たちに無断で王の墓になるはずだったものを別の墓にすり替え、内密に壁画などの内装工事を行わせていたのだとしたら、それは十分にあり得ることだ。


「我々は生前ファラオがお決めになられた場所に埋葬させていただく!」


 奴隷たちにこちらに来いと、本来の墓の場所に進み出そうとするが、神官は首を横に振った。


「できるはずがない」


 セテムとカーメスが怒りの形相で振り返るが、それを受ける神官の面持ちはあくまで冷静で淡々としていた。


「あちらは何もかもが整っておりませぬ。壁画も埋葬品さえも無い。何の準備も終えられていないあの場所は御世辞にも墓とは呼べぬ。そのような場所にあなた方は王の遺体を安置すると言うのですか」


 ぐっと唇を噛んだセテムが身体を向けると、もう一人の神官が前に出る。


「先にここに運ばれてきた埋葬品はすべてこちらにある。ここに埋葬せざるを得ないと言えましょう」


 一言も言葉を交わさない睨み合いが続いた。どちらも頑なに譲らず、一ミリも動かずに瞬きの無い視線を相手に向けていた。


「……あなた方はいつの間に、アイ殿に屈したのか」


 ひとしきり沈黙が降り立った後、口火を切ったのはカーメスだった。表情は冷静でありながらも、悔しげに潜む声は隠せていない。

 一つ息を吐いた神官が前に塞がる二人を真っ直ぐと見た。


「我ら神官一同は王妃のご決断に納得できない者共で御座います。ヒッタイトという卑しい王族の王子を娶るなど、長い年月、偉大なる王たちが継いできた誇り高き王家の血を、王妃は何だとお思いか」


「立場を弁えよ。王妃は我が国のことを第一に考え、苦しみながらご決断なさったのだ。我が国にとって最善の策であると大臣たちも納得している」


 怒りと反発がそれぞれの表情に浮かび上がる。


「それでも神に仕える我らはあの決定に頷くことは出来ませぬ。今回はアイ殿を支持させていただく」


「ヒッタイトと手を結ぶことが、これから後の国の安寧に大きく掛かっているとしてもか」


「我らは神々に仕える身、神官たちの意志は変わりませぬ」


 神官たちは他国王家を王として迎える王妃に反感を覚えているのだと知った。

 エジプトの神官たちが仕えるのはエジプトの神々、そしてその生き姿とされるエジプト王家だけだ。全く別の宗教観念を持つヒッタイトの王子が、その王家に加わるということを、彼らが受け入れられないのは当然と言えば当然だった。

 この言い合いで仲裁すべきなのが大神官の役目なのだろうが、俺が役立たずだと知っている神官たちは決してこちらに何かを求めてくることは無い。俺は数歩離れたところで傍観者になる他なかった。


「……一先ず今は、ここに埋葬するのが良いのではないでしょうか」


 黙って話を聞いていたナクトミンが前へ出た。両者の目が一斉に彼に集まる。


「こんなところで言い争っても仕方がないというものです。アイ殿が勝手にこちらを王の墓とされてしまったことに気づかず、準備を完成させ、王の遺体をここに持ってきてしまった以上、ここに埋葬せざるを得ない。そうではありませんか?」


 そもそも王の棺をここに持ってきてしまった時点で、もう引き返すことはできなかった。墓が変更されているという事態に気づくことのできなかった側の問題なのだ。


「王のご遺体をもう一度王宮に戻すというのはこの棺を見られる危険もありますし、もう夜明けまでの時間が無いのを考えると、この谷が王族の墓地であると知られることもあり得ましょう。僕としてはあまりお勧めできません」


 黙り込んで曇らせた顔で何か考えを巡らせてから、やがてセテムは馬に飛び乗った。手綱を握る手元は怒りに震えている。


「カーメス、我々は早急に戻らねばならぬ」


 王権が揺らいでいるのだと、誰もが感じていた。


「アイ殿は、我々の目の届かぬところで手を伸ばしているのだ……おそらく、他にも」


 側近が言うように、他にもあるだろう。王妃の周囲が気づかないところでアイは着々と王権を蝕み、その手を弘子に近づけているのだ。死んだあの男に、弘子を託されたのだろうか、弘子の危険を察した二人は俺と同様に顔色を変え、埋葬に関してはそれ以上言及しなかった。


「……王妃を守らねば」


 頷いたカーメスも馬に乗り、二人はナクトミンに何かを伝えて張り詰めた面持ちで、砂漠を駆け出した。




「さっさと終わらせて。時間が無い」


 二人が見えなくなり、名残の砂煙が消えると、ナクトミンが神官たちを急かした。氷のように固まったまま動かないでいる奴隷たちを指図して、地面にぽっかり開いた墓への入口から棺やその他諸々の埋葬品を運び込み始める。その様子は黄金が黒い地面に吸い込まれていくようだった。俺はそれをナクトミンの隣からただじっと見据えている。

 数時間の後に作業はあっさりと終わりを迎え、墓の入口は神官たちによって固く封じられる。見守っているだけで良いというお偉い身分の大神官である俺は、神官たちから唱えられる封印の呪文を、離れて聞いていた。

 欠けた月が真上から少しずれる頃、あとは帰るだけかと思っていた矢先に、兵たちが仕事を終えた奴隷たちをある一点に集め始めた。奴隷たちも怯え、固まった表情で周りの動きからこれから起こることを懸命に模索しているようだった。何事かと見守っていると、神官たちはそこから離れて突然謳い出した。これは俺でも分かる、弔いの歌だった。

 王墓に向けてのものではないことは、この異様な雰囲気から俺のどこかが察した。

 何か、あの奴隷たちに向けられているような。嫌な汗が背筋を舐めた。


 事態が飲み込めず、説明を求めて隣のナクトミンを見やると、彼は奴隷たちの方を見据えていた。奴隷を囲む兵たちも何か合図を待つように、彼に視線を集めている。


「始めて」


 このナクトミンの一言が、引き金だった。奴隷たちを囲んでいた兵たちはずんずんと奴隷たちを追いつめ、腰に射していた鉄の剣を鞘から抜き去り、振り上げたのだ。


「何を……」


 咄嗟に声が出たのと同時に、それをかき消すかのような悲鳴が上がった。

 一瞬、闇に紛れて何が起きたか分からなかった。恐怖の表情を見せていた奴隷が、兵の剣先を受け、鼓膜を引き裂かれんばかりの悲鳴を上げて倒れていく。兵の一人が奴隷から引き上げた銀の刃が月光にかざし、そこにべっとりと塗られた毒々しい赤色をこちらに見せつけ、また別の方向に振り下ろす。続け様に倒れていく奴隷たちの姿に、事態を悟った。


「おい、やめろ」


 殺しているのだ。奴隷を。


「やめろ!やめさせろ!!」


 顔色も変えずに傍観しているナクトミンの腕を掴んだ。身体が揺れても、彼は目を離さない。


「これが決まりなんだ。やめさせるなんて出来ない」


「決まりだと!?人を殺めるのが決まりだってのか!」


 強く引っ張り、ようやくその曇った目が俺を映した。


「この谷は限られた人だけが知っている王家の墓地なんだ。漏れる訳にはいかない。だから関わった者は全員いなくなっても良い人間、すべてが終わった後は殺め、場所の漏洩を防ぐのが決まりだ」


 どうして王の遺体を運ぶ列があれだけ短い列で、奴隷を用いているのか、ようやく分かった。人々に王の墓の位置を気づかれないようにするため、そして奴隷という人間がいなくなっても構わない存在であったからなのだ。神官たちの弔い歌は、死にゆく奴隷たちに向けられた、せめてもの罪滅ぼしといったところか。


「兵は列を守る役目もあるけれど、これが僕たちの本当の意味での仕事なんだ。言ったでしょ、大事な役目があるって」


 ナクトミンの声は今までに聞いたことの無いくらいに冷淡だった。人が惨殺される光景さえ、じっと見据え続けている。仕事として請け負っているこの男が、この地獄絵図のような状態を止めることはない。

 俺がこの手でやめさせなければと足を動かした時、追い詰められ、顔に恐怖という恐怖を塗りたくった一人の男が、兵たちの輪から一心不乱に抜け出し、こちらに走ってきた。俺に向かって、聞き取れぬ言葉を叫んでいる。助けてくれと言っているのだと直感すると、ナクトミンから身を守るように俺の影に入り込み、頭を抱えて蹲った。その黒い肩には、先ほど殺されただろう他人の血糊がべっとりとついている。


「ヨシキ、退いて」


 反射的に奴隷から前へ目を上げると、すでに剣を鞘から抜いたナクトミンがいた。俺は背後の奴隷を庇おうと両手を広げ、前の青年をねめつける。


「こいつも殺すのか!?これからまた牢に入れられるだろう!牢に入れられればここへ来て墓を掘り起こすことも出来ない!言葉だって分かってないんだ、誰にも言えやしないだろう!」


「絶対無いって言えるの?」


 淡々とした声は逆に恐ろしさを増す。


「過去に王墓を墓泥棒に売ったのは誰だと思う?欲にやられた王家に仕える者たちだ。奴隷は言葉は分からなくとも、一度通った道は忘れないくらい賢い。そして王墓を知りたい奴らが殺すぞと脅したりすれば、命を守るために簡単に道を教えるくらい薄情なんだ。そんな奴らを生かしたままでは、王墓を守れない。不安要素はことごとく排除しなくちゃいけない。この谷や王墓は、そうやって昔から守られてきたんだ」


 言い澱んだのが隙だった。ナクトミンが俺の方へ軽く一歩踏み出した時、銀が大きく視界の脇を走ったのだ。すぐ背後で金切り声を聞いた。傍で起きたことだというのに、何があってそうなったのか分からないまま振り返った頃には、四つん這いになった奴隷が、もう一太刀を受け、血飛沫を拭き上げて息絶える瞬間だった。

 初めて、人が殺されるところを見た。返り血が頬、肩、手へと飛び、腐った鉄で周りを埋め尽くしたように、血の匂いがあたりに充満する。そしてたった今まで生きていた、恐怖に迫られ、目を剥きだして死んだ顔が横たわり、俺を見ていた。

 鼻を覆いたくなる血の匂いに後ずさる。向こうでも、丸腰の言葉の通じない奴隷が無残に殺されていき、暗い茶色に黒ずんだ赤色が流れ込んで入り混じっている。

 鼓膜を揺るがすほどの悲鳴があちらこちらで鳴り響き、方向感覚を狂わせた。咳き込むくらいの死臭で鼻が曲がりそうだった。

 決して慣れていない血みどろの光景に、急に眩暈が襲い、視界がぐらぐらと揺れ始め、腹の底や喉奥から吐き気がこみあげ、耐え切れなくなってその場に膝をついて吐いた。



 奴隷が全員死んだ世界は、止まったように動かなかった。いつの間にか神官たちの歌は終わって消えている。血で身体を塗った兵たちは無表情のまま棒のように立ち竦み、ナクトミンもまた空を仰いで、目を細めている。ここにいる兵たちも、皆密命を受けるような、口の堅い、選ばれた者たちなのだ。

 黒い上着から肌蹴た全員の右の手首に、いつも見る兵たちにはない勲章のような金の腕輪がはめられていた。それが証なのだと思った。こういう仕事を請け負う者たちの。

 彼らは自らが殺めた、血の上に伏した人々に視線を送っている。その姿は今殺した人々を憐れんでいるようにも、弔っているようにも見えた。

 静かすぎる空気を断ち切ったのは、ナクトミンが剣の血糊を払った音だった。


「後の処理は頼んだよ。それから血は砂で払って消して。僕らと神官は先に帰ってるから」


 兵たちが黙って面を伏せるのを見届けてから、地面に屈みこんでいる俺を大丈夫かと起こし、馬に乗るよう促して自分も馬に跨った。そうして静かに谷の砂漠を蹄が進んでいく。


「これが僕らの仕事なんだ。知らなかった?」


 しばらくして彼は呟くように言った。

 これが兵役たちの大事な役目。王墓の秘密を守るために、ここまで連れてきた奴隷を殺すことが。


「神官であるなら、こういうのに慣れなくちゃいけないよ。王墓の位置がどこかに漏れること、それは王家の権威にも関わってくる。神の化身であった御方の墓が名の知れない輩に荒らされた、なんて冗談でもあっちゃいけない。だから僕たちがいるんだ」


 黙って、馬に揺られながら囁かれるように紡がれる話を聞いていた。


「エジプトはそうない豊かな大帝国さ。これほどの国は今どこを探してもないよ。でもここまで来ることが出来たのは、ナイルがあるからだけじゃない。僕たちのような血に濡れる存在が建国当初からいてこそなんだ」


 月明かりが青白くナクトミンの目元を照らした。


「血みどろになって、自分たちと何分変わらない人間を何人も手にかける……こういう仕事をする僕たちがいなくなったら、国は国になる前に襲われて終わりだよ。自分の名の下に、下の者たちに手を汚させて国を守る。王家を守る。それ無しで作られた王座なんてものはあり得ない。王家はそれを知らないでいてはいけない」


 彼の言う通りだ。

 王には従える人々がいる。そして王は国を守るために命令を下し、他人に血を流させる役目でもある。その責任と一国という重さを一人で負っているからこそ、裕福な暮らしが許されているのだ。決して、のうのうと暮らしていていいような身分ではない。

 俺が目にしたのは、国を守るために血に濡れる役目の者たちだった。


「僕らは数えられないくらいの人を殺めてきた。でも、その時に目を逸らしちゃいけないし、その記憶を決して忘れちゃいけない。それを以って国を守り、僕たちは生きていくんだ」


 そんなことを静かな調子で言うナクトミンの真剣な横顔を見た。彼もこちらを見て、影の中で異様な光を持つその眼と克ち合う。


「ヨシキの故国では、人の殺生を目にすることはない?」


 故国を、生まれた時代の世界を思い出す。無いと言い切れないが、これほど身近に感じることは無かった。返事をしないでいると、彼は東の地平線に視線を移す。


「こんな思いをすることのない国に生まれたのなら……随分おめでたい国だね」


 蹄の音を聞きながら、東が淡く白さを帯び始めているのを見た。


「後悔はないのか」


 ようやく口から声が出た。弘子の胎児を殺したという一つの経験だけでもこれほどに苦しいのに、数知れず殺し続ける青年はどうなのだろう。

 夜空を見上げながら目を細めた、薄く苦が滲むナクトミンの表情が脳裏に甦ってくる。


「後悔はする。でも、人は今しか作れない。悔いは抱いていくしかないんだ」


 彼は小さく笑った。声は、いつになく強い信念の籠ったものだった。


「こういうことが続く人生であっても、僕にはやりたいことがある。だからやっていられるんだよ。それだけのために僕は生きてる」


 他の兵たちもきっとそうなのだ。何か守りたいものがあり、成し遂げたいことがあり、こういう仕事を冷然と熟していく。

 進んでいく砂ばかりの大地を見ていた。俺に助けを求めながら殺された、名も知れない奴隷の男。瞼を開けても閉じても、その顔がちかちかと浮かんで離れない。殺されると悟り、それに震えあがった肩、見開かれた瞳、「助けてくれ」と言っているだろう伝わらない異国語の叫び。震えた口元、四つん這いになって逃げ、誰かを呼ぶように金切り声で何かを叫んでいたその背中。そうして殺されたあの奴隷たちも、これを抱えてまでやりたいものがあるというナクトミンも兵たちも。


 何のための生だろうか。そう思わずにはいられなかった。


 涙が視界に滲む。

 どこまでも、寂しい茶色を濡らす血の匂いが風に乗って追ってくる気がした。



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