名
異例の決定を下したその日の夜はどうしても眠れず、ネチェルとメジットに頼み、夜も更け切らない頃から宮殿に設けられた一つの部屋に入り浸っていた。部屋の外に侍女を残し、部屋に並べられたものを扉前の離れた所から眺めている。四角い空間の四隅に設けられた炎が、それらの明暗を深くし影の黒さが増すと、どこか異世界にでもたどり着いたのかと錯覚を覚えさせるほどの近寄りがたい威厳を感じた。
一緒だ。小さい頃にガラスケースの中から見ていたものとまったく同じものが、色を澱ませることなく私の前に列になって並んでいる。眺めているうちに、黄金という色を最初に見つけた人は一体誰なのだろうと、その色を目の前にして考えながら足を踏み出した。
この時代の金色とは、こういうものだ。神の色、王家の色と言われるだけの凛然とした何か、跪かなければならない存在が後ろについているような、ただの『物』という見方を打ち消すものが感じられる。
例えるなら、沈黙を以って生きている。息を潜め、凛然と私たちを上から見下ろしているような。
それ程広いとは言えないこの部屋に所狭しと敷き詰められた箱や像などの埋葬品の数々は、どこかで見覚えのあるものが多く、曖昧な記憶の中のものよりもずっと眩しい。
寝台や王座、狩りに使った椅子や弓矢、剣。甦ってからも使うだろうと用意された杖は、生前使っていたものも含めて130本。獅子狩りに使った黄金のチャリオットには、使い込まれた跡があちらこちらに残っている。身を飾る首飾りや腕輪の装飾品はひとつひとつが大きく、手にとってみると見事な細工がなされているのが見て取れた。金の間に覗くのは鮮やかな赤青緑色。実際に使っていたものと、今回初めて作ったものそれぞれが非の打ちどころない美しさを持ち、スカラベやハヤブサの神々が象られている。私たちの代わりに働いてくれるというシャブティと呼ばれる小さな人形がたくさん。生まれた時にすでに王子だった彼は一人で着替えをしたことさえないから、あの世でも召使は大量にいたほうが良いと、目が回るくらいの量をカネフェルが用意してくれた。退屈しないように彼が愛用していたゲーム板も、肌触りの良い着替えも、大好きだった葡萄酒の樽も、遺体を守る等身大の像も、死後に幸あれと願うもの。その中に私が彼に香油を塗っている姿や、私たちの狩りの様子を描いてくれた職人の心配りには、何度胸が熱くなかったことか。何を狩ってほしいかと彼に聞かれて、空を飛ぶ鳥を座りながら指差したあの時。結局打ち落とせず、悔しがりながら拗ねていた子供のような彼が鮮やかな色を伴い、つい昨日のことのように思い出される。
目についた物ひとつひとつに手を触れて、それに刻まれる文字に目を通した。
『良き神、二国の主、儀式の主、ネブケペルウラー、ラーの如く永遠に命を与えられた者、神の国にて永久に生きよ』
亡くなった人に贈る、この時代の決まり文句。良い言葉だと文字を撫でてから、今度は向かいの台に目を移した。自分が物を台に戻した音が、静かな広めの空間に大きく響き渡っていく。
間に合わないと悟ったものに関しては、彼の父と兄のものだった品で代用していた。父と兄をあれだけ敬愛していた彼のことだから、きっと笑って許してくれる。
そして4人の女神と小さなコブラによって守られている黄金の大きな厨子をしばらく見上げ、それから一番奥にある、マスクまで足を進めた。
ナルメルの指示で作られた3組の棺と石灰岩のカノポスの壺は死の家にもっていかれてしまったため、仮面の周りが広く空き、がらんとした空間が横たわっている。
部屋の最も奥、台に乗せられた遺体に被せる、どんなものより輝きを湛える仮面。3300年後の未来で私が見たものと同じ、作られて間もないあの『黄金のマスク』が、博物館よりも低めの場所、私の背丈と同じくらいの高さにあった。
黄金の肌、綻びを見せない引き結ばれた唇、青が横切るメネス、色とりどりの首飾り、肩から下には死者に向けた言葉が機械で刻んだような文字で彫られていて、黒く丸い瞳は私を超えた一点を見据えている。表面に薄く塗られた銀のせいか、この黄金に関しては他とは比較にならない美しさがある。隔たりが何もないそれの黄金の頬に、そっと手を伸ばした。
ああ、冷たい。
ぬくもりを期待したのが間違いなのだが、少し肩を落とした。
「……あなた」
呼びかけても、もちろんのこと笑みどころか返事すらない。未来で有名になるこのマスクを、3300年の間被り続ける。それだけ被っていれば魂がこびり付いて残ってしまうかもしれない。だからあの時、カイロ博物館でガラスケースの中で私を呼び、先に死んだことに「すまぬ」と謝った。あそこで一瞬だけ見たあなたは、きっとすべてを終えた後のあなただった。私と会って、別れて、長い月日をずっと眠りについていた、その後の。今ではこんな非現実的なことを真実だとすんなり受け入れるようになった。
「タシェリたちも一緒に入れるから、面倒を見てあげて」
そう言って見た仮面の後ろ側に置かれた小さな台には、二つの小さな棺が眠る。いつ死ぬかわからない私と一緒に置いておくのは可哀想だからと、ヒッタイトの件の話がついた後に決めた。
「別の人の妻になるけれど、どうか許してね」
ヒッタイトから王子を迎え入れ、新しい夫とするのが残された王妃である私の役目だとは嫌なほど分かっている。でもこうして、ふと王妃の名を捨ててしまったらと考えた時、あなたが亡くなってそれほど時間が経ってないのに、他人の妻になることをどうにか避けられないかと考える自分に気づいてしまう。
本当は、3人で過ごした日々に想いを馳せ、思い出に籠り、誰とも婚姻を結ばずに余生を過ごして一人死んでいきたい。彼との日々を、あの子たちとの短すぎた日々を思うと、どうしたって涙が溢れる。自分の頬に熱いものが流れていくのを感じて、やっぱり自分は誰よりもこの人を愛していることや想いを止められないことを思い知ってしまう。
でも、それではいけない。私は残されたエジプト国の王妃だ。この国を放っておいて私情に流されていてはいけない。
仮面の額に自分の頬を寄せ、声のない声で、見ていてと呟く。
守りたいものを私は見つけた。それだけを見つめて、震える命をぎゅっと抱き締め、しっかり生きていこう。
大きく息を吸い込んだ時、向こうの扉が開く気配がした。
「ここにいらっしゃいましたか」
仮面から頬を離し、指で涙を払って視線を上げる。
「ナルメル」
ナルメルとセテムが離れた扉の傍にいた。杖を突きながらこちらへ進むナルメルの背後を、セテムが音無く追う。
「ご寝室にいらっしゃらなかったので、侍女たちに尋ねればここにいらっしゃると」
「眠くなくて……それに一度、彼の埋葬品をちゃんと見ておきたかったから」
そもそも、今こうしている時間は、一睡もしていない私のことを考えて睡眠のためにとナルメルがくれた時間だった。
「ごめんなさい、起きた時に伝えに行かせれば良かった」
寝ないのなら、事を進めなければならない。時間が惜しい。ヒッタイトへ送る書状を書く時は刻一刻と迫っていた。
「悩まれておいでか?」
すぐ前まで来たナルメルとセテムは、泣いていたと分かる私の顔を見て眉根を下げている。違うのだと、弱く笑んで首を振った。
「これからのことにけじめをつけようと思って。引き返せない道だから。駄目ね、あの人のことを思い出すと、やっぱり悲しくて泣いてしまう」
もう一度、仮面を振り返る。
「本当なら彼の遺体に向かって報告したいのだけれど、今は無いから、せめて彼の顔を象ったこの仮面に」
彼の顔を写し取ったという仮面。すごく似ているという訳ではないけれど、上を見据えた高貴な雰囲気は、王家として生きた彼にこの上なく重なるものがある。
「あの御方は、あなた様の中にいらっしゃいます。それをお忘れになりまするな」
慈愛を込めた表情の宰相に笑みを返す。
──彼は、私の中に。
胸の中に呟いた。
ナルメルとセテムと共にある程度の広さを持った部屋に入り、進められるまま椅子に腰を下ろした。あまり来たことのない宮殿の外れにある、書記官のための部屋で、ここにある本は他国のことであったり、しきたりについてであったり、図書館の次に多くの本を抱えていた。机と椅子が一組、燭台があり、パピルスが積まれた本棚は部屋の壁という壁を覆い尽くし、くりぬかれたようにしてある四面の壁のうち一面は外に広々と開いている。高めの場所に作られているここからはまだ暗い空の様子しか見えない。そこから細く流れてくる風は私の思考を覚ます。
「休まずに、本当によろしいのですか」
「これは一刻を争うものだもの。アイが黙っているとも思えないし、新しく動き始める前に現状をどうにかしないと」
結局睡眠をほとんど取ることなく、私から進んで書状を書いてしまいたいと申し出た。
ヒッタイトの大王、シュッピルリウマ王に今回の旨を記した書簡を送らなければならない。セテムがいつもの涼しい顔で、長い書簡用のパピルスを私の目の前に広げて用意した。
「これから、難が絶えないかもしれませぬな」
その黄色がかった色を目に移しながら、上から降った宰相の言葉に唾を飲み込む。
「多分、苦難ばかりだと思うわ」
長い時間、エジプトとヒッタイトは争い合ってきたのだから難しいことは当たり前。けれど、彼は生前、懸命に少しずつヒッタイトに歩み寄っていてくれた。ある程度まで国の信用を持たせてくれていた。ヒッタイトもある程度こちらに信用をおいてくれているはずだから、あとは私の力にかかっている。
「ヒッタイト王にこちらの誠意を見せましょう。5人の王子のうち、我がエジプトに誰か一人をくださるように」
「それが成功したとしても反発は生まれましょう。先日の議会のように売国奴と呼ばれ、お命を狙う輩も現れるかもしれませぬ」
「それも承知の上よ。一番良い道はこれしかない。もしこの婚姻でエジプトの将来が平和になったのならそれでいいの。それに強い将軍と隊長がついてくれているから、私なら大丈夫。ついでに、頑固な頼りになる側近も」
パピルスと筆を用意していたセテムが勿論だと言いたげに口元に微かな弧を描いた。
いくら婿入りだとは言っても、エジプトの王位をヒッタイト王子に渡そうとしているのだから、反発が生まれるのは当然。けれど、ヒッタイトがついてくれれば、アイの政治介入をほぼ不可能という状態に陥れることができる。アイの政治や、アイとラムセスの間での派閥争いになって、この国が手の付けられない状態に追いつめられることだけは避けられる。それだけエジプトとヒッタイトは強大な大国だ。ヒッタイトとの貿易、国交、そして何より大王という後ろ盾を得ることによって近隣諸国が、王を失ったことで弱体化したエジプトを突然侵略することがなくなるのなら、多少の危険があろうがこの手を取らない手はない。
用意された上質のパピルスに身体を向け、右手に木製のペンを取る。その先を見つめた。
「王族が第一に考えることは、民が飢えないようにすること、国を外敵から守ること、それだけを必死に考えることだって彼がよく言っていたの。土地を広げることとか、戦うことじゃないって」
机に広げたパピルスに黒いインクで何かを書きこむ、懐かしい彼の背中が思い出される。
「それしかないんだから、曲がらない意志さえあれば大丈夫、王というものは案外簡単なんだって」
「なんとも、あの御方らしい」
懐かしむ暖かい口調でナルメルは自らの髭を撫でた。
「曲がらない意思っていうものが一番難しいのだと思うのだけれど、彼はそういうことをけろっと簡単に言ってやってのけてしまうのよね。本当に、大きな人だった」
深く宰相は頷いた。
これから書こうとしているこの書簡で、二つの大国が動く。数えきれない民を道連れにして。
ペンを持つ腕が普段に比べて少しばかり重いように感じた。
「お待たせいたしました」
それからすぐに書簡のしきたりを知り尽くした書記官が一礼してやってきて、書簡の下書きを私に示してくれる。私はこれに合わせて自らの字で書く必要があった。
「始めは時候の挨拶からで御座います」
一度、婚儀の際に面識のあるシュッピルリウマ王。
私に向けてくれた父のような表情を思い出し、書記官と宰相と話し合いの末、筆を握り直す。形式的な事項の挨拶から、突然書簡を送ることに対する詫び、そして本題へ。
『私の夫、トゥト・アンク・アメンは亡くなりました』
古代エジプトの神聖文字。最初はひとつも読めなかった、絵のような文字。これも彼が教えてくれたものだった。思えば今の私には、彼が教えてくれたものがそこかしこに眠っている。今の私は、彼が与えてくれたもので溢れている。私の中にあなたはいるのだろうか。
『息子はおろか子供は一人もおりません。ですが、あなた様には王子が大勢いらっしゃると聞き及んでおります。あなた様の王子の中から一人を私に頂けたのなら、その方を夫にしたいと思っております』
以前は下手だとよく笑われた文字も、今はこんなに立派に書けるようになった。あなたにだって負けないくらいの字体。
こうして書いていると教えてもらっていた頃が甦って、目頭が痛くなる。
『私は臣下のひとりを選び、夫にするつもりはありません。王位を渡したくはないのです。こちらにくださったあなた様の血を引くヒッタイト王子、その方が私の夫となり、エジプト王となるのです』
ヒッタイト王にこの気持ちが届くように。同じように国を背負い、民を想う者として。
これが始まりだ。手元の一枚のパピルスから二国を巻き込んだヒッタイトとの勘ぐり合いが書簡の間で繰り広げられる。
書き終えた書簡はすぐに丸められ、書記官とセテムによって運ばれていった。あれだけ勇気を振り絞って書いたのに、これだけ呆気なく持って行かれてしまうと、書簡を書いた事実が夢のようにさえ感じた。
静かな気持ちで椅子にもたれかかる。疲れたというわけではない。これで良かったのかという思いと、これからだという思い。隣にいる宰相とも言葉を交わさず、ぼうっとしていると静かな声が降ってきた。
「昇って来ましたな」
言われて頭を上げると見えた空は白み始めていた。
「ラー……」
太陽が昇ってきた。立ち上がって外へ開くほうへと自然と足が向かう。まだ星を乗せた暗がりが残る空の下、小さく見える黒々としたテーベの街並みの合間から復活の象徴が顔を出していた。そこから流れてくる涼しげな風に、私の全身が耳を澄まし始める。
どうして、この国の太陽はここまで美しいのだろう。畏怖の念が卒然と胸にこみ上げてくるのを感じた。
この光で世界は夜から目を覚まし、新しい日を迎え、人も同じように甦る。何かが大きく溢れ出す胸を指輪のある手で押さえ、新しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、風のような何かが私の内側から流れ出した。
「国って、こんなにも重いものだった」
しばらくしてからぽつりと落とすと、一歩後ろについていたナルメルが噛み締めるように頷く。
「上に立つ者の判断で、数え切れないほどの人々が泣いたり、死んでしまったりする。彼がそういうものを背負っていることを何となく感じていながら、私は何も見えなかったんだわ。今になってそれを思い知る」
「見せまいとしていらっしゃった。あの方はそういう御方で御座いました」
そうだと思う。彼は辛いとは決して言わない。自分のすべきことと真正面から向き合って、どれだけ大変でもけろりとした顔で帰ってくる。こうした立場になって、彼の大きさがようやく見えた。
「太陽が眩しいほど周りは見えませぬ。それと同じなのです」
「そうね。あの人は太陽だった」
私の。この国の。
光ある所では反射して何も見えないのと同じように、彼の存在は私に何も見せてはくれなかった。私はそれに気づけなかった。
「ナルメル、」
玲瓏な返事が返ってくる。
「一分でも一秒でも長く、私は生きたい」
太陽から空の星へと移した視界が霞む。涙で霞む朝の天を白い星が躍る。
「信じたいものがある。守りたいものが、私にはある」
いつか永遠の眠りにつくその日まで、この国に笑顔が絶え間なくあるように私は生きよう。流れる時に負けないように。
「彼の名を、私が終わらせない」
静かに聞いてくれているナルメルへと視線を流した。
「私の生きた未来では未盗掘のお墓なんてほとんどないのよ、笑っちゃうくらいに。でもその中で彼のお墓はほぼ未盗掘のまま発見されて、それで有名になる……悲劇の少年王として」
「悲劇の、少年王」
「未来での彼の呼び名よ」
ナルメルは老人らしいくすんだ目に私を映し、語られるものに耳を澄ませてくれている。
「未盗掘の理由は、彼の名が無くなっていたから。存在がないと思われて見つけようともされなかった。ようやく発見されても功績がほとんどない、短い在位で人生の幕を降ろした若きファラオ。どうしてこんなに若く死んだのか、私の生まれた未来では謎だった。若くして死んだなんて悲劇じゃないかと、未来の人々は感じていた」
放たれていく自分の声が、静かな夜明けに溶け込む。溶け込む寸前の音が、不思議な含みを持っていた。
「名前を忘れられて盗掘されず数千年後の未来にまで残り、そこでようやく名前を掘り返される。それもいいかもしれない……でも、本当に望んでいたことはそんなことじゃない」
そこで切って、もう一度太陽を眺める。頬を風が撫でていった。
「彼は太陽よ。隠れていてはいけない。忘れられてはいけない。少なくとも私はそう思う。名前はその人の存在、生きた証だもの。それが忘れ去られるなんて私は嫌」
目でラーの光の筋を追う。どこかで同じように、こうして復活の象徴に想いを馳せる人がいるのだろう。
「人々が死ぬ時に思うことって、やっぱりそれは自分が忘れられないでいることじゃないかしら。誰かの記憶に残っていること、誰かがふと自分を思い出して涙してくれること……涙しなくても良い、時々思い出して微笑んでくれること。それで人は死んだ後も生きていけるのだと思うの。誰の記憶からも忘れ去られてしまったら、その人は本当の意味で死んでしまう」
生きて、死んでいくとはどういうことか、なんていう哲学を考えたって、終わりのない答えをたどっていくだけになってしまう。それでも確かな願いがここにある。
「彼の名を忘れられたくはない。だって彼はこの国の王家に生まれて、家族を捨てて、この国のことを考えて考え抜いて、神を都を変え、片足を引きずるようになっても、病に伏してもここで精一杯生きて死んでいったの。その人の名前が忘れられるなんて、私は嫌」
見つけたもの。私を生かしてくれる愛しいもの。
「彼の名。それが私の守りたいもの」
胸に大きくつかえるものを感じながら、朝に染まる風景を眺め続けた。
「歴史は変わらないのだと思う。私みたいな人間には勝ち目なんてこれっぽっちもないんだわ。けれど、最後の悪あがきをしてみようと決めたの」
歴史通りに彼は死んでしまった。思えば、二人の娘たちもそうだったのかもしれない。
それでも歴史は変わらないかもしれないと、どこかで悟りながらも私は足掻きをやめようとしない。諦めが悪いと言われればそれまでだけど、私はそれで生きている。
「彼の存在を守り、伝えていきたい。私の残りの人生を懸けてでも」
彼の決意や想いを、この胸に生きている大切な存在を、私はどこまで伝えられるだろう。人の記憶に残すことができるだろう。
そうやって懸命に生きていて、いつかどこかであなたに逢えるかは分からない。それでも、もし何かがあってまた出逢えたのなら、あなたはその腕に私を抱いてくれるだろうか。
私の話に耳を傾けてくれていた長身の宰相は、私に敬意を示すように頭を軽く下げ、それから柔らかく微笑む。
「……お強くなられましたな」
言われて首を横に振った。
「私はまだ彼に支えられてるのよ」
白い朝陽に染まった胸の前にある自分の手元を見やる。左手を、指輪ごと右手でぐっと包み込んだ。
「彼やあの子たちが死んでしまった世界で一人生きているのは、やっぱり寂しい。何に代えてでも守りたかったのに、結局守ってあげられなかったことが耐えられないくらいに苦しいことがあるの」
隣に、抱きしめてくれる彼がいない。この腕に、あどけない丸い瞳を湛え、私を見ていたあの子がいない。
私の傍で笑い、大きな腕に私を抱いて守ってくれていた人。抱きしめながらその成長を見守っていくはずだった小さな子たち。何度思い返しても、その存在を失っても、他の何よりも愛おしい。
「でもね、こうして自分の足で立って前を向いていられるのは、彼やあの子たちが私の中に生きているから。前みたいに死のうとしたら、私は彼のもとへ行けたとしてもきっと許してもらえないわ」
もう泣かないと誓うことはまだまだ難しいけれど、前代未聞の道を歩き出した私を、もういないあなたはどう思うかしら。
「ねえ、ナルメル、彼を支えたように私を支えてちょうだい。王を失ったこの国を建て直すわ。私の知識だけでは、どうにもならないから」
不安定なこの国の頂点に立つ存在として、自分はまだまだ未熟。私を侮る存在もまだまだ数えられないほどいる。彼を支えてきた人々と手を携え、それでも王家としての威厳を持ち、国を動かしていかなければならない。
私の頼みに、ナルメルは何を今さらと高らかに声を奏でてから、胸の前に片手を当て敬意を示した。
「御意のままに」
宰相の答えに、ほっと胸をなでおろした。今までよりもずっと柔らかく頬が緩む。
「良かった。いやだって言われたらどうしようと思っていたの。こんな未熟な王妃の面倒はごめんだって」
「僭越ながら申し上げますが」
ナルメルではない声に驚いて振り返ると、そこには戻ってきたセテムがいた。満面の笑みというわけではないけれど、その人らしい固い笑みが口元に浮かんでいる。
「決して我々もお忘れになりまするな。どこまでもあなた様にお供する覚悟でお傍にいるのですから」
「ありがとう。セテムには支えられてばかりね」
「もうすっかり慣れました」
3人で肩を揺らして笑い合った。
朝の目映い光が私たちを柔らかく染め上げていく。
これから。すべては、これからだ。
「近々、アイを問責にかけましょう。このまま野放しにはしない」
無意味に彼の傍にいたわけではない。簡単な気持ちで妻になったわけではない。何の覚悟もなしに愛したわけではない。
王が太陽で、その妃は月と喩えられる。メンネフェルにいる時に彼がそう教えてくれた。太陽を失ったこの国を照らすことが出来るのは、月である私。
ひとつとして同じ時は訪れないのだから、迷わず前に進もう。
ただ一人。あなたのために。




