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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
22章 守りたいもの
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『──忘れなさい』


 そう聞こえた気がして、閉じていた瞼を動かした。

 周囲は暗がりに満ち、いつも通り部屋の隅に小さめの炎が灯り代わりに灯され、赤々と揺らめいている。


『──忘れなさい、すべて』


 目を開けても彼女の声が頭に反芻する。あの時の軽蔑を含んだ凛とした目は、周りが見えずに自分の憂いだけに溺れていた私を諌めるものだったのかもしれない。

 麻に放られた、無気力な私の右腕。跡も消えてしまった腕を見ても、掴まれた強い感触は未だに残っていた。


「目が、覚めてしまわれました?」


 柔らかな声に、肩に触れる優しげな感触に視線をずらして、暗い中に私の隣にいてくれる人を見つける。


「……ネチェル」


 呼ぶと、ネチェルの手が髪を撫でてくれる。


「まだ、お眠りになられていて大丈夫ですよ」


 少し顔を上げて眺めた部屋の闇は深い。昨夜に私が入水しようとした時間と同じくらいの頃だと思う。頷き返して下に敷いた寝具に顔を押し付けると、未だ置いたままにしている形見の服に頬が当たった。引き寄せて胸に抱く。

 悲しんでいるのは一人だけではない。セテムに言われたことを何度も頭に繰り返して自分の愚かさと向き合ってみても、やはり彼を失った穴はぽっかりと開いたままで苦しかった。

 失った幼い子たちのどちらかが生きてくれていたなら。彼が亡くなる前に、新しい命を授かれていたなら。それ以上に彼もあの子たちも皆健やかに生きてくれていたなら、私は今頃どうしていただろう。

 何も残せなかったと私を心配する彼に大丈夫だと答えた自分が別人に思えるくらい、彼の死の先を思うと言葉にきでない後悔ばかりが溢れてくる。

 あれだけ守りたくて、守れなかった。私はあまりにも非力だ。


「我慢なんてすることは御座いません」


 ナイルに入水しようとしてからずっと、ネチェルはこうして隣にいてくれている。


「泣きたい時に泣いておかなければ詰まってしまいますもの」


 急に二度と止まらなくなるのではと思えるほどの涙を流しても、ネチェルは何も言わずに私の背中を擦り、夜の今でさえ、寝台の傍に椅子を置いて優しい言葉を掛けてくれている。自分のことしか考えられずにあんな愚かな行動に出た私を、それでも暖かい目で迎えてくれる人がいることに、なんて感謝したらいいか分からない。ただただありがとうと、ごめんなさいを繰り返すことしか今の私にはできなかった。

 もう、この人たちを悲しませる訳にはいかない。私のやるべきもののために動かなければならない。それが、今に折れてしまいそうな決意でも。


「……ラムセスは?」


「セテム殿のお話では、明日の昼から早朝にご帰還の時間帯が早まったと」


 セテムやカーメスたちが望むように、ラムセスが帰ってきたらこの指輪を渡して王位を譲る。これでもし、ラムセスに正式に王位を譲渡することになれば、それはエジプトでも異例の決定となるのだろう。王家の血が途絶えて王家の血縁者で無い臣下が王として選ばれることは、エジプトの長い歴史を遡って見てもあまり例がなかった。


「ラムセス殿がお帰りになれば、知らせるよう侍女たちに言いつけてあります。今は身体をお安めになることが第一。安心してお休みくださいませ」


 囁く声が耳に掛かり、思考を止めて遠ざける。眠気が全くなくなったわけではなかったから、瞼で視界が覆われたら眠りにつくまで数分と掛からなかった。








 音がした。部屋の家具か何かに人のような何かがぶつかったような、そんな鈍い音。

 声も聞こえた気がして、眠気に抗って薄目を開ける。

 一度起きてから数時間ほどが経ったようで、隣の椅子に腰かけていたネチェルの姿が見えなかった。どこにいったのかと見渡すと、部屋の隅に燃えていた火が消え、さっき起きた時より視界が黒に閉ざされている。女官長であるネチェルが一晩中傍にいてくれるほど暇なはずもないと、彼女がいないことを自分に納得させ、仰向けに身体を委ね目を閉じる。

 目蓋で視界を閉ざしてから幾ばくか過ぎた頃、芽生えた不安を倍増させるかのような異変があった。左手首が何かに掴まれていた。強い力が込められた、5本の何か。手が持ち上げられ、更に薬指だけが摘まむようにして持ち上げられる。覚め切らない朦朧とした思考で誰かの手だと察した。

 ネチェルや侍女の誰かかとも考えたが、違う。この手は、男の手。自分を取り囲む状態を漠然と把握してようやく芯から目が覚めた。


「……誰」


 言い切る前に指に痛みが走り、声帯が本能的に震え呻きとも取れる声を発する。瞬間、上から体重を掛けられるようにして寝台に抑え込まれ、口を塞がれた。そうして現れた自分の身体に上に乗る影に震えが立ち上がり、痙攣のようなものが胸から突き上げて塞がれた喉を擦った。

 ネチェルでも、その他の侍女でもない。セテムでもカーメスでもない。影は、明らかに知らない男の形だった。

 恐怖におののく私の首筋にいきなり顔が埋められる。それに続く舐められた感触、噛まれたような痛みと接近した汗の匂い、後を追う低い嗤い。頭から血の気が引いた。身体を這う手に肌が立ち、死にもの狂いで身を捩り、組み合うようにして相手を押しやって相手の力が緩んだ瞬間に自分の力の反動で寝台の下に転がり落ちる。打ち付けた肩が割れるように痛んだ。


「誰か!!誰か来て!!」


 叫んで逃げようと立ち上がろうとするや否や、後ろから汗ばんだ手が伸びて私の口を塞ぎ、腹に回った手でどちらとも分からないまま引きずられる。暗闇に慣れない目では、自分を捉えている人物はおろか周りの様子が影としか認識できなかった。

 部屋の隅へ、身を潜めるようにしてそこに納まる。背中が男の胸に密着した、後ろから抱き込まれた状態で、男は私を抑え込みながら辺りの様子を窺い、息を殺していた。武人なのか筋肉質の固い腕は解く余地を見せない。

 逃げなければ。助けを呼ばなければ。この男が危険であることは間違いなかった。

 恐怖で身体が震える中、意志を総動員させて冷静を保ち、思考を巡らせ、部屋の近くに誰かいないか耳を澄ます。自分の鼓動と呼吸が耳を聾してしまっていた。侍女はいないだろうかと必死に目で暗闇を探っていると、徐々に慣れた視界に床に倒れている人物が映り込んでくる。

 ネチェルだ。眠りにどこかへ行ったと思われた彼女が、丸いテーブルと共に倒れていた。

 抑えられた口で声を上げると抑え込む手にますます力が加わり、抗う腕は封じ込められてしまう。うつ伏せに倒れた彼女の顔は見えない。怪我をしているのか無事なのかも判断がつかなかった。


「王位を渡せ」


 そんな声が降ってくる。

 王位。ここに忍び入ったのは、私に王位を要求するためか。それよりもこの声、どこかで。


「俺に王位を譲渡すると言って、その証の指輪を渡せ」


 記憶に合致する声の主を思い出し、自分を捉える男を振り返った。それほど回数はないが、見覚えのある男の顔がそこにあった。

 下エジプト将軍ホルエムヘブ。彫りの深い顔に、太めの眉、額に汗を滲ませ、目を見開いた表情には焦燥が浮き彫りにされている。狂気じみた相手の面持ちに背筋に冷たいものが走っていった。


「寄越せ!!!」


 私の身体を越えた相手の手が、私の左指に向かう。私は声にならない悲鳴を上げて相手の身体を押し返し、腕から逃れようと足に力を入れる。それでも素早く手首を引っ掴まれ、引かれて床に叩きつけられた。


「俺を選べ!」


 仰向けの私に伸し掛かり、こめかみ付近を髪共々鷲掴みにされて固く冷たい床に頭が押し付けられる。焦りを増した声だけが大きく鼓膜を打った。


「俺を夫にするとこの口で言え!あんな老いぼれの子供より俺の子供を産んだ方が幸せだろうが!!」


 老いぼれとは誰のことなのか。恐怖ばかりが先走って思考が進まない。


「俺の物だ!王妃も、王位も!」


 乱暴に寝巻を荒らされ、無我夢中で足掻く。自分の上にいる相手の手が何度も指輪をめがけて伸び、抗う中で指輪だけは守ろうと握り込んだ拳を右手で包み胸に抱いて身体を丸めた。

 渡せと、怒声が飛び交う。必死だった。渡してはいけない。王位を渡すわけにはいかない。何よりも私が守るべきものだった。



 ──あなた。



 身体を揺さぶられてぐっと閉じた目蓋の裏に懐かしい顔が浮かぶ。弘子と柔らかく私を呼んで、手を差し伸べてくれた人。助けを求めてしまう。姿を探してしまう。もう、どこにもいないと分かっていながら。

 祈りが届いたかのようだった。上から呻きが聞こえて身体に掛かる重みが吹き飛ばされたかのようになくなり、強制的な力から解かれて、視界に新たに顔が現れる。彼だろうかと咄嗟に起こるはずの無い期待が過るのを感じ、支えられるようにして起こされる。最初に把握した色は、深い、黒に近い緑だった。


「しっかりしろ!」


 近くにある赤毛は明け方の暗がりによく映えて見えた。ラムセスだった。


「……帰っ、の?」


 帰った、とその人は頷きながら私を抱きかかえ、その場から離れた所で下ろしてもう一度大丈夫かと声を掛けてくる。朦朧とする意識を振り払い、乱れた衣服を整えて指輪を胸に抱きながら頷く。手元はまだ震えたままだった。状況を把握しようと後ろを見たら、ネチェルが倒れていた。


「ネチェル!」


 彼女の身体を揺する私を、ラムセスが肩を擦って宥めた。


「気絶しているだけだ」


 怪我がどこにも無いのを確認して胸を撫で下ろし、ラムセスを改めて見た。目が合ったのは一瞬でラムセスはすぐに向こうのホルエムヘブに視線を投げる。

 気づけば、自分たちの背後に衛兵がラムセスの傍で警戒の目を将軍に向け、メジットを含んだ侍女が私を匿おうと位置を組んで身構えていた。


「赤毛野郎のお出ましってわけか」


 ホルエムヘブは慌てる様子もなくゆっくりと起き上がり、嘲笑する。ラムセスは私を庇うようにして立ち、嘲笑した男を見据えた。


「王妃の間の侍女や兵が倒れていた。ホルエムヘブ将軍、あなたの仕業か」


 そうだと躊躇い無く肯定する相手に、ラムセスの眉がぴくりと動く。


「侍女たちを打ちのめして王妃を襲うなど、何故こんな馬鹿げたことを。大罪だ」


「王妃を手に入れれば王になれるからだ。王となれば罰も何もない」


「王位は狙って得るものではない。王に残された王妃が選び、お受けするものだ」


「裏を返せば王妃に選ばせりゃいいってことだろうが」


 敵意を向けられていると言うのに、ホルエムヘブは余裕な様子で答えた。緊迫した部屋の空気が凍てつく。


「王妃よ、これくらいで怯えてちゃこれからやっていけねえぜ?」


 ラムセスを越えたホルエムヘブの目がせせら笑ってこちらを捉える。


「力づくにでも王妃を跪かせて王位を毟り取ろうなんて輩を、俺は幾らでも知ってる。俺のような奴はまだいいが、お前を殺してでもその指輪をと考える奴だっているんだ」


 何を言われているのか、思考が伴ってこなかった。王位は殺されてでも略奪されるようなものだったのか。左の指にある指輪を右手でこれでもかと握りしめる。


「黙れ」


 ホルエムヘブの言葉をラムセスが断ち切った。


「お前を王位略奪の罪で……」


「黙れ!選ばれる余地のあるお前はそんな口を叩いてられるんだよ!追いやられる寸前の俺の事情なんて分からねえんだろうな!!」


 ラムセスを含んだ衛兵や侍女が顔を顰めた。余裕が消えて、先ほど目にした焦りが男の顔に現れ始めている。


「お前らも知っているはずだ。アイは俺を放って信用のおけるナクトミンを将軍より上の軍司令長官に任じた。それだけじゃない。他の重役を自分の味方に与えている。儀式監督官、管理官、印璽官、朗誦神官、裁判官、そして最高神官まで。なのに俺には何も与えない。あれだけ尽くしてきたってのに。……だから、今ぽっかり空いたままの王位を貰ってやろうと思い立ったわけよ。どの役職よりも上を行く、最高の地位を」


 突き付けられる告白に耳を疑いながらも、ようやくホルエムヘブの焦燥の理由を飲み込んだ。隊長であったはずのナクトミンが、将軍であるホルエムヘブよりも高い位に据えられた。アイが法、政治、儀式において重要な役割を無断に良いように任じられているのに自分だけが任じられない。だから私を襲って王位をもぎ取ろうとした。


「王を失った王家の力は最早どん底。王妃自体は王位継承権という権利そのものでしかない。王という位を与えてくれるそれだけの存在だ。狙う輩はいくらでも出てくるなんてことは当然だろう。どうやら王妃はそれが分かっていないらしい」


 知らないで済まされない官位移動の事実を、王家である私が知らない。知らないうちに、様々なことが勝手に取り決められている。死んだ王の義理の祖父であり、王位継承の第一候補に上るアイは、それだけの権力の持ち主だということを忘れていた。


「俺は知ってるぞ。アイの取り巻き以外の宰相やら周りの奴らがラムセスを王にと望んでいることは。確かにお前はこの前死んだ王に思想が良く似てるからな。王妃もそうしようと思ってるんだろう?」


 ラムセスは身構えた姿勢を崩さない。


「だがラムセス、お前は分かってるはずだ。どれだけ王の器だろうが俺もお前も身分は低い、ただの将軍と隊長。そんな男たちよりももっとも王位と民から望まれている血筋がある。誰だか、言わなくても分かるよな」


 アイ。

 民は、血のつながりは無いにしても王家とされているアイがファラオになることを望んでいる。それが当たり前だから。王家は神。信仰の中心。王家でない血によって、神の家系が崩れることを恐れる。


「王妃がもし俺やラムセスを選んだならば民は不満に思う。国は混乱する。それでお前はメンネフェルでもたもた悩んで時間を潰してたんだろうが」


 はっと目を見開いたラムセスの拳が強く握られた。今まで動揺を見せなかったその人が揺らぐ。


「納得のいかない王の選抜がなされれば、この国はぐじゃぐじゃになる。王家でない男が王になるなど前代未聞だからだ。支持する者としない者で大きく二つに分裂し、反乱が起きるようになる。お前はそれが怖いんだろ?自分にそれを抑えられるだけの説得力がない。力がない。才がない」


 赤毛の隊長は、俯いて歯を食い縛る。言われていることが事実なのだと思わずにはいられない、ラムセスらしからぬ姿だった。

 確かにラムセスは死んでしまったあの人に似ているものがある。だが王位に至るに足りないものも同時に存在していた。王家の血と、民を先導するほどの権威ある身分。王家の者が無いというのなら文句なくラムセスを選べても、現在その王家の者が残っている。ラムセスが持たないそれらは、民に責められる大きな要因に成り得るものだった。


「死んだファラオも死の病で頭がいっちまってたんだろ。ラムセスを次の王に命じるなんて、いかれてる」


 エジプトがどれだけ宗教で傾きやすいか嫌なほど知っているつもりだった。彼が遺言通りラムセスを選んでも、国は乱れる。賛成派と反対派に分かれ、情勢は一気に崩れていく。


「どうだ、王妃」


 呼ばれて、息を呑んだ。


「俺なら反乱が起きても鎮圧してやれる。ラムセスとは違って才能があるからだ。なんたって才能だけで将軍という身分になった俺だ、捨てたもんじゃねえだろうさ。だがラムセスは頭は良くてもそれほどの能力はない」


 アイに王位を渡したくはない。だがラムセスに譲れば、国は否応なく乱れる。ラムセスも十分にそれを分かっているからこそ王位について悩み、ホルエムヘブに言葉を返せないでいるのだ。だからと言って、乱暴で王位を得ようとしたホルエムヘブに彼が残してくれた権利を渡す意志など更々ない。

 どこかしこも塞がれている気がしてならなかった。何も失わずに済む行き場が、見当たらない。

 違う。きっとどこか。失うものが最小限に抑えられる道がどこかに。私一人では見つけられないだけだ。


「アイか、ラムセスか、俺か。あんたが選べるのは精々この三人。アイと比べちゃあ、俺の方が年は近い。それに加えて俺にはラムセスより民を制圧する力がある。いいことばっかだぞ、俺を選ぶってのは」


 ホルエムヘブの言葉が耳に入れば入るほど、現状を聞かされれば聞かされるほど、時間は絶え間なく流れていたのだと思い知る。私が落ち込んで塞ぎこんでいる時にも進み、一秒たりとも止まってくれず、そして流れ去った時間は二度と戻っては来ない。彼が死んで時間が止まったように私が錯覚している間にも、アイが、ホルエムヘブが、王位を目論む人々が、王位を得るために動き出している。


「さあ、どうする王妃。王位継承の証の指輪を、誰に渡す」


 ホルエムヘブの声で、ラムセス以外の人々の視線が集まるのを感じた。私は自分の鼓動を聞きながら固く目を閉じる。


 彼は死んでしまった。タシェリも。

 でも、私は生きている。ただ一人。

 このままではいけないと分かっている。悲しい、辛いと繰り返しているだけでは何にもならないことは。でも何度決意してもずるずるともとへ、自分の悲しみへと戻ってしまう。それでも諦めずにやっぱり努力はしなくちゃいけない。何度転んでも、傷つきながらも立ち上がらなくちゃいけない。彼がいなくなっても廻り続ける、この世界で。この二本の足で地面を踏みしめ、立ち上がって前を見て。

 彼が生きようとした今を、私はただ一人生きているのだから。



『──待って、いられるだろうか』


 彼の声が鳴る。


『──幾千年だろうが、どれだけ離れていようが……この太陽と砂漠の地で、いつまでも、お前を待とう』


 待って、くれているだろうか。こんな私を。


『──また、逢いたい』


 逢えるだろうか。一生懸命生きていれば、あなたに逢えるだろうか。

 悲しみを堪えて歯を食い縛って生きていたら、私もこの時代で死んでまたあなたの傍に落ちて。あなたはまたいつか、どこかに落ちる私を受け止めて、よくやったと褒めてくれるだろうか。そう信じていいのだろうか。


 閉じた目をゆっくり開けると、私の蹲る足先に先日破った未来を綴った紙の切れ端が落ちていた。余白の文字のない部分、数センチほどの大きさしかないそれ。光沢のあるこの時代に存在しない素材が灰色に光っていた。

 これに綴られていたように遥か流れ続ける数千年の歴史がある。歴史に従って彼が死んだと言うのなら、私も同じ道を辿るのだろう。どうなるかなんて、詳しくは知らない。私の生まれた未来だって何もかもが曖昧だった。

 けれど確かなことは、彼は名前を消されて忘れ去られ、存在を失いながら王家の谷で数千年間眠り続けるということ。


 ツタンカーメン。彼の、名前。


 ──ああ。


 落ちた紙切れを拾い上げる。


 ──こんなところに。


 私が守れるものを、ここに見つけた。まだ、彼のためにしてあげられることが。

 大きく息を吸って、その手を握り締める。


 行こう。前へ。立ち止まっている暇など無いと、やっと気付いたのだから。


「……誰に」


 床に手をつき、足を踏みしめる。侍女が止めるのを振り切って立ち上がり、顔を上げてホルエムヘブを見据えた。

 部屋に差し込む光が増している。月と太陽が一緒にある時間帯、夜明けが近い。静まり返る周囲が私の頭を覚まさせる。

 私は、王妃だ。


「誰に、物を申しているのです」


 低い声を喉に鳴らしながら、ラムセスの横を越えて前に歩み出た。ホルエムヘブが、私の表情に僅かに怯む。


「私はこの国の王妃。お前にとやかくされるような存在ではない。立場を弁えよ」


「は?今更何言って……」


 先程までの威勢はどこへ行ったのか、虚を突かれたような声だった。


「衛兵」


 弾かれたように返事をした兵が数人、私の傍に駆けて跪く。


「この者を牢に。王位略奪、そして王妃である私に狼藉を謀った罪人です」


 これを合図に、固い姿勢を見せたその将軍に槍が向けられた。


「何を!自分が何を言ってるか分かっているのか!これから起こる反乱がある!それを抑え込めるのは俺だけだ!」


「将軍職を剥奪します」


「ふざけるな!」


 捉えられ、吼えた男をねめつける。何かを言い欠けたホルエムヘブが口を止め、息を呑んだ。


「お前に王の器などない」


 自分のものとは思えない低い声で私は言い放つ。


「連れて行きなさい。王家を愚弄する者の話を聞く耳などない」


 愕然と言葉を失ったホルエムヘブは捕らわれ、暴れ、叫びながら部屋から連れ出された。それを見送って振り向けば、背後に立つラムセスが私を見開いた緑に映していた。驚いているのだと気付かない訳にはいかない顔に、久しぶりとも思える微笑を向けた。


「ラムセス、よく帰って来てくれました」


 穏やかな口調で労うと我に返ったかのようにびくりとして直ぐさま床に膝を付き、足先に向けて頭を下げた。


「私を救い、王位を守ってくれたこと、心から感謝します」


「いえ……」


「侍医を呼んで、ネチェルの手当てを早急にさせなさい」


 唖然とする侍女たちの顔ぶれの中にセテムがいた。名を呼ぶと、その人は私の前に素早く進み出て跪く。


「ナルメルとカネフェルたちを召集しなさい」


 明快な返事が響く。


「王位継承についてこれから早急に話し合います」


 王という偉大な存在の決定は、私だけの判断では無理がある。取り返しがつかなくなる前に、彼を支えた重臣たちに意見を促さなければ。

 口を綻ばせたセテムが一礼して背後の扉に目をやった時、その視線の先の扉の前に白い髭を撫で、私を見つめる宰相の姿がすでにあった。何かを覚ったような鋭い目をこちらに向けている。私の悟ったものを感じているかのように。

 朝陽は昇った。


「宰相、あなたの知恵を貸してほしい」


 ナルメルが深々と頭を下げたのを見て歩き出す。


 そうだ。私はまだ、死んではいない。

 私が守らなくて誰が守る。誰が、彼の愛した国を、この王家を守るというのか。


 踏みしめて前へ。前を見据えてナルメルの方へ歩き出す。

 悲しみを押し込めて、時の先へ進もう。


 負けたくない。自分の哀れみだけには。




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