ナイルの私
空は黒い。白い絵の具をまぶして作ったような星々が点々と闇に輝いて私に小さな光を落としている。比べて私のいる地上は暗く、目の前のナイルを溜めた池が鏡になり、上の空をそっくりそのまま映して別の空を造り上げていた。欠けた月の光が無ければ、ここまで来ることが出来なかったと思えるくらいに辺りは闇に満ちている。
少し冷えるくらいの気温に風が吹き抜けて身体を縮め、そのまま腰を下ろす。腰を下ろした白石の床もどことなく冷たかった。
宮殿のナイル川に面したこの場所は、王族を守るために大きく厚い壁で囲われているものの、見えない水中部分でナイルの水が流れ込むようにして作られている。おそらくこの王宮の庭園で最も大きい池だ。
正面には数十年前に作られたと思われるナイルの神ハピの巨像が微笑とも取れる淡い表情を浮かべてこちらを見下ろし、周辺に浮かぶハスの花はその神を讃えて遠く近くに浮かんで、弱い風にぽつぽつと自らの白を揺らしていた。
数えきれないくらい来た場所だというのに、私は初めて足を踏み入れた場所のような気分で自分を覆う風景を漠然と見つめている。
空を見て、その夜空を映す静かな水面へと視線を移す。そうして自分が空に座っているように感じた。空の中に空を背にした鏡の私がいる。静寂が辺りを取り巻き、ほぼ同じ色を呈している空と河の違いを分からなくさせる。
河が夜空になり、上と下に星が散らばった。
侍女も兵もいない。いない理由は知らない。もともとこの辺りにこの時間はいないのかもしれないとも思う。こんな深夜に部屋を出たことが無かった。
身体を屈めて手でナイルを掬うと、濁りが全くない透明な水が手の窪みに溜まり、瞬く間に指の間から流れて落ちて行った。下にあるナイルは夜の闇でこんなに黒いのに、掬うと月光に照らされて透明さと取り戻すことを、不思議な心地で見届ける。
大いなる母と称される、こんな綺麗な水の中に自分を葬ることができるのだから、私は幸せなのだろう。人間が生まれたという海へと繋がるナイルに還るのもいい。この川になってこれから数千年、数万年と形を変えて水と共に流れ続けようか。
横に折り畳んでいた足を前に伸ばす。少しの躊躇いもなく、両脚の先を水面につけると平らな面に波紋が広がった。水面の星が幻想的に揺れて、一瞬消えたと思えば何事も無かったかのように現れる。空に波紋ができたならこんな感じなのかもしれない。
身体を下へと進めたら爪先から踝までがナイルに浸かり、見える足の曲線は反射で大きく波打って見えた。
足が入ってしまえば、そこから何も難しいことはなかった。腕から力が自然と抜けて、水が勝手に私を黒の中に引きずり込んでいく。自分の身体が引きずり込まれていく様子を見届けて、ナイルは生きているのだろうかとさえ思えた。
肘あたりまでナイルに浸った時、足が底についた。宮殿の一部が足場のように突き出ている場所だった。足裏に感じる凹凸、平らに整えられていないありのままの石の感触。
目を凝らせば、数歩先のナイルの方が一段と暗い。月明かりの中にいてもその黒さに一寸の光もないように見えるから、そちらの方が深いのだろう。溺れてしまうくらいに。
あと数歩行けば作られた台は無くなって、私は頭まで水に浸る。
事実を確かめて空に息を吐く。澄みきったように明るい月の、横に流れる灰色の薄い雲を見上げた。
この満天の星を見ながら、青いナイルに埋もれていく。
これでいい。
これで、三人のもとに行けるのなら。
母なるナイルを前に、佇む。
水の軽い抵抗に煽られながら進む、水面下に揺れる私の足は、最後に見た彼の指先のように白かった。
同じになれる。
あの人と。あの子たちと。
あと一歩。足の青白さとは正反対に、一歩先は底が見えない深い黒に染まっている。
身に着けている寝巻では軽くて浮かんできそうなものだけれど、宮殿の池にはハスの花の根が渦を巻いているのを知っている。一度溺れてしまえばハスの根に足を取られて上がって来られない。
苦しいだろうか。そうも考えるけれど、多分苦しみは一瞬なのだろう。彼も子供たちもあれだけ静かに死んでしまった。私も違うことは無いのだと思う。
恐さはない。三人のもとへ行けるのだという希望とも願いとも取れる奇妙なものがそれを覆い隠している。
ナイルに落ちる私の像の奥、ナイルの底に漂う、見たことがないくらいの黒さが誰かの影に見えた。彼だと、根拠もなく思う。中に入ってしまえば、会えるのだろうか。
水面に引き寄せられ、右足を足場から離した──その時だった。
目の前の黒さを白いものが走ったのも束の間、はっとした瞬間に、それが黒い水面を突き破って飛び出し、私の右腕に衝撃を与えた。反射的に水から腕を引き上げる。何かが当たった。水滴と共についてきた。声にならない悲鳴を上げて、ぐらりと後ろによろめいた身体をどうにか持ちこたえる。
違う。一瞬目にしたあの白いものに掴まれたのだと、宙を見ながら悟る。咄嗟に強く掴まれる感触がする手元を確認して、目を疑った。
私の腕を掴む、細い五本の指。水面から伸びた、肘からしか見えない紛れもない人の手。褐色なのに、真っ白とも取れるくらいに血の気がない手が、私の肌に食い込むくらい強い力で掴んでいる。私と同じくらいの大きさの女性のものだった。
掴む手にはナイルの水が紐のように伝い、月光を反射させ白々と煌めく。目にした信じがたい光景に思考が閃光のように錯綜し始めた。
人が下に潜っていたのだろうか。
そんなはずはない、こんな時間に水中に人がいるはずがないのだから。水の下には当然のように誰もおらず、混沌とした夜空と私を映しているだけ。そこに手だけが水面から当たり前のように生えている。
ここで初めて芽生えた恐ろしさに私は身震いした。悲鳴を上げようとも荒み枯れた声しか出せず、振り払おうとも掴む手はびくともしない。
『──死ぬの?』
声が落ちて来た。
どこから、とは特定できない。空から降りかかってくるようだった。当然空には声を掛けてくるようなものは何も見当たらない。
でもふと思ったのは、私の声と酷く似ていたということ。思い当たる縁があって、恐る恐る改めて手が伸びる水面を見る。手が伸びる先、その水面に映る、腕が繋がるのは──ナイルに映る私の像。
私を掴んだ手は、ナイルの私に繋がっていた。
私だと思っていたナイルに映る私は、私ではなかった。いつか見た、記憶に残る私ではない私。私にはない強い眼差しがこちらを軽蔑するかのように捉えている。
「アンケセ、ナーメン……」
鏡に映った自分が自分に向かって手を伸ばしているような、不可思議な光景が揺れる水面に起こっている。
『──なんて、愚か』
像の口は動かない。相変わらず声は上から降ってくるようだった。
私は目を疑い、夢かと思いながらも現実だと私のどこかが確信して背筋を震わせる。
「どうして、今頃……」
この人が私のどこかにいるだろうということは何となく感じてはいても、今まではっきりと私の前に姿を現してくれることはなかった。なのにどうして彼が死んでしまった今、こうして私の前に現れるのだろう。
腕を振り払おうともがくのに、腕は離れるどころかますます食い込んでいく。
彼女は、私を止めているのだ。ナイルに身を投げるのは愚かだと、私には無い強い眼差しがそう言っている。
「……放して」
何を彼女が言わんとしているのか、言われなくても腕を通して伝わってくる。
『死ぬの?』
「放して……!」
相手の目に精気が宿るほど、私の手を剥がそうとする力が増した。
どうして、今頃。
他人のようにさえ感じる人がこうやって現れるのか。
彼が死ぬ時も、タシェリが死ぬ時も現れなかったくせに、私が彼らの所に行こうとするのをこうして現れて止めるのだろう。
お願いと叫んで、私は彼女の映る水面を叩いた。
「私にはもう何もない……!あの人がいたからあの子が死んでしまっても私は生きてこられた!あの人が死んでしまったら私はもう…!私にはそんな世界で生きていけるほどの強さはない!」
水面が穏やかさを取り戻すと、彼女もまた僅かな歪みを残して戻ってくる。私の掠れた叫びに、彼女は答えなかった。ただ私を見据え続けている。それを見ていたら、彼女の手を払いのけるだけの力が無いと知り、抗う力が抜けていった。
「私には、もう……」
結局良樹に言われた通りだった。私は彼を失って、子供を失ったこの世界で、一人で生きていこうと前を向ける程強い人間ではない。何もかもを失ってしまって、何も見えなくなった。
私は弱い。3人の棺を目の前にして平然としていられるはずがない。揃ったその光景を思い浮かべるだけで取り残された自分が恨めしくて仕方がなかった。それが死んでしまいたいほどに苦しい。けれど、死んでしまいたいと考える自分に何より一番、吐き気がするほどの嫌悪が込み上げる。
なのに止められないのは、何故。
「……あなたは…全部、知っていたの…?」
彼女は答えない。 目の前にいる彼女は幻影に近く、水面から伸びる手だけが現実味を帯びている。
「歴史は変らないんだって、知っていた……?」
知っていたというのなら何なのだろう。知っていたと答えが来たら、私はこの人を責めたのだろうか。自分の影のような、彼女を。
誰も責めることが出来ないことは知っている。責められるならきっと私。守るとあれだけ豪語して結局は何もできずに終わってしまった自分なのだ。
『忘れなさい』
疑問には答えず、彼女は私を掴む手に力を込めてそう言った。
『忘れなさい、すべて』
忘れて、しまう。目蓋を閉じれば、昨日のことのように思い出す日々があるのに。
彼の匂い、肌の温もり、身体の重み、掠れた声。笑った顔。あの高々とした笑い声、すっくと砂漠を踏みしめるあの後ろ姿。出産して初めてあの子を腕に抱いた感触、私を呼ぶ泣き声、私を見つめる涙を溜めた丸い瞳。
身体中にまだ残っている。全部はっきり覚えている。愛して愛されて幸せで、二度と会えないと分かった今でもこんなに好きで。まだ彼の感覚が私の中に散らばったまま。
「あ、なた……」
忘れるという言葉の意味を理解して私は首を振る。今まで封じられていたものがどっとこみあげ、嗚咽になって喉を突き破った。
「あなた……!!」
みるみる内に涙が溢れた。
彼女を見ていられず、空を仰ぎ空に泣いた。彼が死んでから出てこなかった涙が、ようやく頬を伝って落ちて行く。音も何もかもが消滅した世界で、救えずに死んでしまった彼と子供たちを思い浮かべて声を上げて泣いた。
こうして呼んでいたら。
声を上げてもう一度、あなたも私の名を呼び返してくれないだろうか。
たった一度でいい。
たとえそれが、最後でも。
いらなかった。明日なんていらなかった。
ただ、あなたたちが欲しかった。
この命を投げ打ってでも欲しかった。
会いたい。会いたい。
見せ掛けだけの夢でもいい。触れて、抱き締めたい。
どこにいるの。
「無理よ……」
俯いて、水面の彼女に首を弱く振った。ちゃんと声音になっているか分からない。
「忘れられるはずがない」
忘れたくない。どうして忘れることができるだろう。
「私、もう……」
掴まれていない左手で顔の半分を覆う。自分の涙がナイルに濡れて冷えた手に生温かった。ぼたぼたと落ちて行く涙が彼女の上に波紋を作っていく。
『――死にたい?』
とても、冷めた声だった。静かで冷淡な声色。
死にたい。死んでしまいたい。
彼女の言葉に小さく頷いた瞬間、ぐっと、今まで以上に掴む力が込められた。痛みに呻く前に腕を強引に引かれ、瞬く間に私は足を踏み外して黒いナイルに落ちる。
前に転ぶ形でナイルを覆う膜を破り、弾けた水音を耳にしたと思ったら空気以上に冷たいものが私の全身にまとわりつく。
水面の裏側を見た。私が作った白波が広がり、星明りは届かず、月光だけが淡くそこを照らして私の顔に向かって伸びてくる。口から気泡が漏れ、私を残して水上に行くのを目にして、自分は溺れているのだと知った。
引かれて、下へ。遠ざかる水上を、沈みながら思いの外静かな気持ちで眺めている。
ナイルの下はいつもこう美しい。儚さと幻想が混じって、見惚れるくらいに。
いつだったか、彼に引っ張られて入ったナイルでも同じような光景を見た。ただ、あの時と違うのは、この場所が夜で孤独で、とても寒いことだった。
徐々に苦しくなって、本能的に呼吸をしようと肺が動くけれど、何も無くなった口内に水を吸い込むだけに終わる。朦朧として意識が遠のくのを感じた。急激に眠気に似たものが襲って、目を閉ざさずにはいられなくなる。
死を感じて目を閉じると、遠くで呼び声がした。彼の声だろうかと耳を澄ませたものの、違うとすぐに知った。王妃、と呼んでいる。叫ぶように。
誰だろうかとどうにか薄目を開けてみれば、遠のく水上に白波が激しく立っているのを見た。月光が途絶えて、人影が視界に入り、私に向かって手を伸ばしている。逆光で顔は見えない。どうするにも力が入らない私はそれが現実なのか否か考えることも出来ずにいる。
手の影が大きくなって、腕が掴まれ、抱き抱えるように引かれた。強い力に押し上げられて空に浮くような感覚が突如として消え、固く白い床に身体を叩きつけられた。
突然、冷えた空気が口の中へと飛び込んでくる。地面に向かって咳き込んで飲み込んだ水を吐き出した。
悲鳴がする。駆け寄る足音がする。
何が起こったのか掴めない。
重たい身体を起こしたら、水に濡れた髪先から雫が絶え間なく地面に流れていくところだった。ナイルに映った彼女に捕まれていた腕を見ても、もう手はなく、代わりに赤い跡を残しているだけでしかない。
目の前に広がるのは床。水に濡れる、ナイルの上にあるはずの床だった。
「何をなさっているのです!!」
乱れた呼吸のまま、誰かが上から叫ぶ。
声の主だと思われる人の手が私の肩を掴み上げ、その顔が迫り、それがセテムであることを知った。真夜中だからか、その人の目を見開いた顔が酷く青ざめて見える。
「せ、……セテム」
咳き込んで口にしたその名が、その人に届いたかどうか。
濡れた身体が冷えて、寒いと今になって感じる。
息を荒げているセテムの他に、その後ろにナルメルとカーメスと衛兵二人が立ち竦み、私のすぐ横にネチェルとメジットを含めた侍女が4人、さめざめとした様子で地面に膝を付いている。皆、セテムと同じように青ざめていた。
私と同様に全身をナイルで濡れたセテムを見て、水中で見た人影はこの人だったのだと気付いた。セテムの髪からも、まとう服からも、水滴が滴り落ちている。
「そのお命、自ら絶つおつもりか!!」
肩を軽く揺すられ、言われている内容がようやく頭に入ってきた。
私は。
そう、死のうとしていた。
ナイルに身を投げて。
否定せず目を伏せて俯く私に、セテムはますます目を見開き、信じられないと首を振る。私の肩を掴む手が大きく震え出していた。
「ふざけるな!!」
怒声と共に私の頬に何かが打ち付けられた。
その衝撃で生まれた、弾けた鈍い音。身体が倒れる。
痛みが急に走るのは自分の左頬だった。セテムが手を上げて、私を打ったのだと頬の痛みで知った。
「何という事を!」
立て続けに侍女たちだと思われる悲鳴が複数あがる。
立ち上がり駆け寄ってきたネチェルに衝撃で若干伏した身体を起こされ、目前の怒りに逆上するセテムから守るように抱き締められた。
「何をなさるのです!!王妃様はファラオと姫様のお二人を立て続けにお失くしになられたのですよ!?ファラオの側近とは言え、私が許しませぬ!お気持ちをお考えなさい!」
「それでも尚!この方は我らの唯一の道標だ!」
食って掛かる声に、ネチェルも目を見開いた。彼女の腕が一瞬緩むと同時に、セテムの手が飛んできて私の肩を強い力で掴み、ネチェルの腕から引き剥がす。
「お二人を失い、悲しみに暮れているのはあなただけではない!」
迫る瞳に、放たれる言葉に、私は息を止める。何か忘れていたものが、漠然とした胸の中に甦った。
「あなたは唯一生きていらっしゃる我らの道標!自ら命を絶ち、我らの希望さえ消し去るおつもりなのか!!」
セテムの声は、静かな場所に大きく響いた。
そうだ。
私だけではない。
今涙をためて私を諌めるこの人も、後ろで目を伏せるカーメスも、声を上げて嘆くネチェルも、彼を失ったことで傷を負っている。
「あなたは王妃だ!謂わば、我ら残された者たちのすべて!王位継承権を持つ、ファラオにこの国の行く末を託された唯一の王家の姫君!!それがあなたに残された名だ!」
両肩を掴まれ、強く揺さぶられる。
「だというのに死を選ぶ!あなたは何も分かっていない!!我々の覚悟も、ファラオのご決意も、何も、何も分かっていない!!あなたは立たなければならない!たとえ一人になったとしても!自ら死を選ぶなど許されない!決してだ!」
「セテム」
身を乗り出して叫び切ったセテムを、カーメスの手が伸びて制した。セテムの肩を何度か叩いて後ろに下がらせ、代わりにカーメスが私のだらりと垂れていた手を取る。その手のぬくもりが冷え切った手に滲み、頬に感じられる痛みと罪悪感に涙が零れた。
私は、何をやっているのだろう。
悲しんで、泣いて。
私がしていたのは、自分の憂いに浸って飲み込まれて、取り残された自分が可哀想で嘆いているだけではなかったか。取り残されて悲しい、それだけだった。私を信じてくれている人たちがいるというのに。
一人だけで死んでしまおうとした自分が情けない。愚かだったと思う。かと言って、この胸が壊れるくらいの悲しさや辛さをどこに投げていいかもわからなかった。
「セテムの無礼を、どうかお許しください。あなた様を何よりも大切に思って出た手と言葉だったのです」
ただ目を伏せて頷いた。目蓋を動かすたびに、熱を持った目元から雫が落ちる。
「ご無事で良かった、本当に」
ごめんなさいと口を動かすのに、声が出てくれない。
「あなた様を失ったら、我々はどうしたら良いか……亡くなられた我が主に合わせる顔がありませぬ。怒鳴られてしまいましょう。殺されてしまうやもしれませぬ。気丈の激しい御方ですから」
カーメスが亡くなった彼が生きているかのように冗談を言って、悲しげに笑う。彼がもしここにいたら、セテムのように殴って怒って間違いに気づかせてくれただろう。
「私の言いたいことはセテムが面白いほどに逆上してすべて申し上げてしまったので、私からは少しだけ」
表情は温かみのあるものから、真剣なものへと変わった。
「ファラオが最も次の王として望んでいたのは今メンネフェルにいるラムセス。それはあなた様もご存知ですね」
頷く。その人は今、下エジプトの治安を案じてそこを管理するためにここにはいない。メンネフェルにおける滞在を延長したいと連絡が入っていた。
「あなた様が彼を夫とすれば、ラムセスは王位を得る。我々も彼ならばと納得しております。彼は今ここにいる誰よりも王器がある」
病床の彼が望んだ、次の王。選べるのは私だけ。左の指にはめられた指輪を握りしめた。
「ファラオと姫君を失われたあなた様のご心中、どればかりのものかお察し申し上げます。しかし、あなた様は一人の女性である前にこの国を左右する残された王妃でいらっしゃる。どうか王家とこの国のことをお忘れになりますな。あなた様のこの御手に、我が国は掛かっているのです」
王で国は大きく変わる。その王を決めるのが王妃であり、王位継承権を持つ私。
夫が死のうが、子供が死のうが、いつまでも憂いに浸っていることなど許されない。
それが、王妃。私の選んだ道。
「ラムセスは明後日の早朝、下エジプトから帰ります。それまでにご決断を」
あと一日半。
国のため、王家のため、なによりこの国に生きる民のために。
俯いて涙を落とす私を前に、カーメスは啜り泣くネチェルに声を掛けた。
「王妃をお部屋にお連れしてください」
ええ、とネチェルは頷き、私を抱き締めて、濡れた髪を優しく包むように撫でてくれる。
「我々にとって、掛け替えのない御方なのだから」




