夢境
夢は、霧に満ちたヤグルマの花畑だった。
周囲一帯が濃い霧に包まれているというエジプトではあり得ない光景に、これが夢だと気付くのにそうは掛からなかった。
澱む空に合わせるように周囲も白く、足元を埋める青だけが異様に鮮やか。草花を揺らす風も吹かない。足元を見て、それから空を見上げて、ぼんやりと私は立ち竦む。
すると、最初はなかったはずの子供の泣き声が四方八方から白い空に吸い込まれるように流れてきて、私は辺りを見回した。
探してみて、ここから結構離れたところに、まだ2歳にも満たないくらいの小さな子を見つけた。泣き声はこの子のものではないようだ。その子は白い麻で作られた服の裾を靡かせ、青い花の間を掻き分けて私に背を向けて進んでいた。強めの風に吹かれたら倒れるのではないかと案じてしまうほどのあどけない足取りで、少しずつ前へ進む。微笑ましいくらい一生懸命な姿に向かって私の足も自然と動き出した。
よくよく見たら花畑の中には二人いた。花の中に仰向けに寝転がり、手足をばたつかせている。理由もなく、その子も女の子だろうと思い込む。最初に見つけた女の子よりも身体が小さく、乳児と言っても過言ではないくらいの幼さが見て取れた。ずっと聞こえていた泣き声はその子からだった。
──ああ。あの子たち。
声を聞いて、二人の姿を見て、ふつふつと自分の胸に湧き上がってくるものを感じていた。前にいるのは私が失った子たちだと。夢だと分かっていたからそう思ったのかもしれない。信じて疑わなかった。
立っている子が産んであげられなかったあの子で、泣いている子がタシェリ。
無事に生まれて来てくれていたら、生きていてくれていたら、二人ともあれくらいに成長していたはずだ。一人は自分で歩いている頃、もう一人はようやく首が座った頃。寝返りも打てるようになった頃かもしれない。
愛しい二人の娘、私が見るはずの姿だった。
周りは濃い霧が立ち込めていて、徐々に広がり子供たちを飲み込もうとしている。霧の中は危ない。助けなければ、と私は足を早めて駆け出した。声が出ないから、その代わりに急がなければならなかった。
傍まで行ったら微笑を向けてこの手であやしてあげよう。愛してると言って、力の限りこの腕に抱き締めよう。あの子たちが生きている時にしてあげられなかったことを、たくさんして伝えてあげたい。触れられて、抱き締めて、その子たちの顔が見られたらどれだけ幸せな夢だろうか。
彼を失った日以来の笑みが頬に零れた。
けれど所詮は幻影なのだと思う。こんなに走っているのに追いつけない。必死になって地面を蹴っても一向に身体は前に進まず、子供たちにも一切近づけなかった。それでも触れたくて、会いたくて、届くよう願いながら名前を叫び続けて野を駆ける。現実で叶わないなら、せめて夢の中だけでも。
追いつけないでいると、遠くの白い霧からゆっくりと誰かが現れるのを見た。黄金の腕輪とサンダルが白い霧に光り、上等な麻の白い服が風もないのに揺蕩っている。何より固そうな焦げ茶色の髪と焦がれる淡褐色の瞳に、私の目は見開く。
見えて誰であるかを確信して、名前を呼ぶ声量が増し、胸が震えた。
──あなた。
左足には傷跡もなく、無理なく両脚で立って歩いて、顔色も良い。あれだけ血色が薄らいでいた肌は彼らしい健康な褐色を湛えていた。
失ったものをすべて取り戻したその人が、慈愛に満ちた微笑を子供たちに向け、身を屈めて手を広げる。その腕の中に真っ先に飛び込んだのは立って歩いていたあの子で、彼はせがむように手を伸ばすその子の頭を一先ず撫で、それから泣いているタシェリを抱き上げてあやし始める。それでもなかなか泣き止まないものだから、彼は困った顔で笑い、身体を揺らしてその子の涙を拭い、頬を撫でた。
指をくわえてその様子を見る女の子は足元の青い花を一輪摘んで彼に渡すと、それを見たタシェリの泣き声が小さくなってやがて止む。受け取った彼はその子の頭をわしゃわしゃと撫でて褒める。
響く嬉しそうな笑い声。彼とその子のぱらぱらとした笑い声が絡み合って白に溶けていく。
心から望んだ世界がそこにあった。私が救えなかった、助けてあげられなかった三人が身を寄せ合って笑っていた。
行きたい。三人のところへ。
泣きたくなるくらいの嬉しさを感じて、駆ける速さが増す。なのに、泣き止んだタシェリを腕にしかと抱いた彼は、もう一人の子の小さすぎる手を握って立ち上がった。まったく進まない地面を蹴り、名を呼び続ける私には目もくれず、彼とその子たちは私に背を向けて歩き出す。遠ざかる。離れていく。
──待って。私を置いて行かないで。私も連れて行って。
叫んで叫んで、彼らが白に消えた時、私は目を開けた。
夢とは正反対の夜の闇に包まれた天井が、寝台に横たわる私を覆い尽くしている。彼がいたはずの隣には誰もいない。失った二人の遺品が私を取り巻くように散乱しているだけだ。
辺りを把握し、やっぱり夢だったのだと確認してから息をつき、手で顔を覆う。
もう何度、同じような夢を見ているのだろう。夢に現れる三人を見て、夢であるのを分かっていながらぬか喜びして、目を覚まして幻滅する。惨めだった。
幾度繰り返してきた幻影であっても、一度たりとも傍に走り寄れたことはなかった。夢の中でさえ、私はあなたたちといられない。
しばらく寝台に縋りつくようにしていた。彼の遺体があったこの寝台には、まだその人の香りが染みついている。周りの遺品を抱くようにして顔を埋める。一人になって6日目の朝があと数十分でやってこようとしていた。
このまま横たわってさめざめとしている訳にはいかず、寝台から身体を起こして顔の前に垂れた髪を指で掬い、耳に掛ける。起きても眠っているように頭がぼうっとして色んなことが伴ってこない。自分の今見ている光景も夢なのではないかと思っても、手を握った感覚がさっき見ていた夢よりも生々しく、彼がいないのはやはり現実なのだと突き付けた。
目を固く閉じてみる。鼓動が聞こえた。
うるさいと思う。忌々しいと思う。
止めてしまいたい。どうしたらこれが鳴るのを殺すことが出来るのか。
「お目覚めですか」
思考を遮るようにネチェルの声がして、部屋の端の天幕から覗かせた顔に反射的に返事を返した。
駄目だ、こんなことを思っていては。
我に返って首を振り、さっきまで浸っていた考えを薙ぎ払う。肩から力を抜いた時、ネチェルに呼ばれた他の侍女たちが動き出す音を聞いた。
「お召替えをいたしましょうね。新しい品が入りましたのでそれもお付けしてみましょう。きっとお似合いになりますもの」
元気づけようと新しい装飾品を見せて笑う彼女の表情が、何故だか酷く悲しかった。
身支度を整えると、ナルメルとセテムが私を待っている。挨拶を受けてから少量の朝食を取り、二人を連れて朝議が行われる部屋へと向かう。頭を下げて私を迎える十人ほどの重役たち。長い机の最も奥、彼の席だったところが私の席になった。
ナルメルが中心となって朝議は始まった。
「ご遺体はネブケペルウラー殿が最も信用されていた神官に任せました」
あれから彼は即位名で呼ばれている。死後、王の称号であるファラオとは呼ばれないのが普通だった。
「ご葬儀に関してもその神官に受け持たせる予定でおりますが、それでよろしいでしょうか」
「生前に依頼していらっしゃったそうだからな。アイ殿には任せられぬ故、それで良いだろう」
「それから、あまりに急なご逝去でいらっしゃいましたので副葬品を準備できるかが問題となっておりますが」
「父君と兄君のものを代用にするのはどうか。王墓を移動させた際、入らなかった副葬品があろう。あの方は先王で有らせられたお二人をとても敬愛していらっしゃった」
「間に合わなければそうするしかあるまい。葬儀埋葬は決められた期間内に行わなければならぬ故」
「だが肝心な王墓はまだ完成しておらぬではないか。そこはどうする。あと数年をかけなければ予定通りの用にはならぬ」
「即急に進めよ。壁画を減らし、ご遺体が死の家からお帰りになるまでにご遺体が治められるくらいにまで進めるのだ」
彼の遺体があまりに呆気なく持って行かれてしまったせいか、話を聞かされても実感が湧かなかった。
こんな話を聞くために、私はこの時代を選んだのだっただろうか。ぽつりとした自問を胸の中に聞いている。
「では、本題に入りましょう。外交でのことですが……」
目の前で成されている会話なのに、耳に流れてくるだけで頭に入って来ない。宰相であるナルメルが中心に進行させて、時折私に許可を求めてくるからそれに頷く。何年も彼の傍で政務を聞いて来たから交わされる内容が分からない訳ではない。
同意し異議を唱え、時には発案し、それはどうかと疑問を投げかけることもできるよう、彼は私に政務も国の事も、外国のことも教え込んでくれた。沢山の書物を読み漁り、王妃として必要な王と同等の知識を詰め込んだ。外国の言葉は話せなくとも、生まれながらにこの国にいたかのように国のことが分かる。周辺諸国が分かる。エジプトの現状が言える。必要なものが何か、民が何を望み、何を欲しているのか。そして王族の役目も。それだけの能力を残してくれた。与えてくれた。
なのにどうしてか、私は人形のように頷くばかり。これではいけないと思いながらも、頷く以外の気力がまるで湧かなかった。
「最後に、アイ殿が王妃に面会をお求めになっていますが、これはどういたしますか」
控えめに尋ねられると、私の代わりにナルメルが強く首を振り、否定を露わにした。
「ネブケペルウラー殿ご生前のお達し通り、ご面会はならぬ」
「しかし、お亡くなりになられましたので、その命はもはや無効というのがあちらの言い分。それに次王の選定を含め……」
「王妃がそれを出来る状態にはおられないことをお伝えせよ。王位継承の件はご葬儀の後に行う」
宰相の言葉に重役たちが私を見て低く悩ましげに唸るのを聞いた。
そんなに酷い状態なのか、自分ではよく分からない。最近鏡に映った自分を真面に見ていない気がする。ただ、彼が生きていた頃と比べて私自身が随分変わっていることに何となく気づいてはいても、直す術が見つからなかった。
「王妃よ、お忘れになりまするな」
大臣の一人が私に告げる。下を見ていた顔を上げると、机を囲む重役の目が私に注がれていた。
「いつまでも憂いに浸っていてはならない。次のご婚姻について、お考えにならなければなりませぬぞ」
婚姻。次の王。
「国家のため、王家のため、何より王を失くした民のために」
重い足取りで部屋に戻る。一つ目の部屋でセテムとメジットに声を掛けられて言葉を返してから一人で奥へ進む。寝室まで来ると、手つかずのまま朝と同様に広がった夫と娘の遺品があって、それを手に取り寝台に身体を投げ出し、息を吐いて身体をぐっと丸めた。そして固く目を閉じる。
私は動かない。動けない。彼が寝ていた寝台に朝も昼も夜も身を横たえて、残った彼の香りを感じている。朝議があろうとなかろうと、ますます朝も夜も私にとって変らなくなった。
泣くこともできず、亡くした存在を思い描いているだけでぼんやりと一日を過ごして終える。
泣かないなんて、変だ。
ならば、私は死んでいるのかもしれない。むしろその方がいいだろうに。段々そう思うようになった。
その日は、真夜中に飛び起きた。
額に滲んだ脂汗を、乱れて前に来た髪を撫で上げると同時に感じる。辺りを見回し、夢であったことに安堵しつつ顔を覆い、膝を抱いて身体を丸めた。
呼吸が落ち着くのを待ちながら、さっきまで目の前にしていた光景が閉じた瞼の裏にまだ揺らいでいるような感覚に襲われ、背筋を震わせた。
葬儀の夢だった。
悲しいくらい鮮やかな赤や青の色踊る棺桶と、黄金に飾られた博物館で見たはずの副葬品の数々。輝かんばかりの黄金色に包まれながらも、それらは神殿内の暗さに陰っている。広すぎる神殿の暗さ、神官の声が遠くに流れる昼夜の判断がつかない中で、ぼうっと黄金に光る棺が3つ、私の手が届くほど前に並ぶ。二つは娘たちのもので腕に抱けるくらいに小さく、一つは私よりも大きい彼のものだった。遺体の入った三つの棺、無表情に天井を見守る瞬きの無い六つの目。それを見届ける一人になった私。
光景を思い出して胸が軋み、倒れ込むようにして麻に顔を埋めた。あれほど彼の匂いがしみ込んでいた寝台も、彼がいた時と比べたら匂いを薄めている。留め置くことはできないようだった。私だけが残される。私だけが生きている。夢の中だけは生きている三人だった。笑っている三人を見てきた。けれど、もう死んだ姿でしか三人を見せてくれない。
何のための自分だろうか。二人の子を失った時にも同じことを自分に問い掛けた。その都度、生まれてきた幼いタシェリのため、そして彼のために私がいるのだと悟った。だから生きようと、絶望の淵にある考えを打ち払えた。
だというのに今はどうだろう。どう足掻いても答えが見つからない。見つけなければと頭を抱え、必死に探しても焦るばかりで、手が空気を掴むように何も得られる物がなかった。
何のために生きている。愛しい、守りたかった三人の死を、その遺体を見るためだったか。遺体の処理の話を聞くためだったか。その墓をどうするか聞くためだったか。墓に送り出すためだったか。
違う。違う。
悲鳴をあげてしまいたいほどに何かが私を重く蝕む。これほど泣いてしまいたいのに涙が出せないまま、顔ばかりが歪む。
私はあの三人を守りたかったのだ。何よりも。けれどそれは叶わず終わり、あと60日前後で今日の夢が現実となる。神殿の中、墓に送られる3つの棺が一糸乱れず私の前に並ぶ。その光景をこの目にしなければならない。澄ました顔で向かい合って、西の谷にある墓へ送り出さなければならない。一層苦しくなった胸元をこれでもかと掴んで抑え込んだ。
無理だ、私には。
思い至った時、ぷつりと緒が切れて、そこから思考がひとつのことだけを残して停止する。今まで考えないようにしてきたことが頭にぶちまけられてしまった感覚。形見を掴んでいた指先から力が抜けた。彼の呼吸が止まった瞬間から何もかも終わってしまったのだ。
ならば、終わらせてしまおうか。残っているものも、すべて。
もう、ぽっかりと浮いた気持ちを薙ぎ払うことはできなかった。私は自分の生が憎くて仕方がないのだ。守れずにのうのうと生きている自分が、許せない。横たわった体勢で宙を虚ろに見つめ、それから少しの間を置いて茫然とした心地で起き上がった。
真っ白になった頭のまま足を床に下ろす。立ち上がり、ゆらりと裸の足で冷めた床を辿る。
頭の中にあるのはひとつだけ。
寝室の扉に手を添え、僅かに力を加えれば難なく外側に開いた。寝所を出るともう二つ部屋が続き、そのうち扉に近い一室に差し掛かると、侍女が椅子に腰をかけ、うとうとと船を漕いでいる。
扉をそっと開けたら二人いる兵うち、一人が座り込んで眠っていて、もう一人は離れた柱の影で女官と何か話していた。
気にはならない。私は視線を廊下の奥へと流し、部屋から出て夜の宮殿を歩き出す。
踏み出す一歩は弱くとも、躊躇いはなかった。




