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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
22章 守りたいもの
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別れ

* * * * *


 私の中で何かが切れてしまった。音を立てて、切れてしまった。

 生きているか分からないほどの息をしている。腕を動かして胸に手を当てれば、ひとつ鼓動がする。私の鼓動。それを微かに聞きながら、目の前に眠るその人を見つめた。

 すっかり明るさを取り戻した部屋に、薄く差し込む陽の光が遺体の顔を照らし出す。

 握る手に体温はない。温かさを逃がすまいと手を擦り続けていたけれど、冷たくなった。数時間前には残っていた微かな温もりも消えてしまった。握っても握り返してくれず、冷たい指先は爪と皮膚の境の判断がつかないくらい褐色に白がかかった。

 私を呼んでくれていた唇は、私が何度呼びかけても、どれだけ待っても答えてくれない。分かっているはずなのに期待してしまう自分がいる。こうして傍にいて名を呼んでいれば、目を開けて私を見てくれるかもしれないと、叶うことのない望みを抱かずにはいられない。

 名を呼んで髪を撫でる。愛おしさに胸が詰まった。髪、額、瞼、頬。この人は死んでしまったのだと、心の底で分かっていながら。


 朝が夜になって、一日が終わる。今まで幾千と過ごしてきた夜なのに、彼が死んだ日の夜は、今まで過ごしてきた夜の中で、一番静かだと感じる夜だった。

 侍女たちの啜り泣く声はもう聞こえない。セテムたちが俯く姿もなく、あたりは清閑としていて、皆が自分の役割を思い出し始めて立ち上がり、普段というものに戻ろうとしていた。

 私も動き出さなければと思いながらも、何も浮かんでこない。彼のために香油を塗ること、彼のために花を摘んでくること、彼のために身体を拭くこと。思いついたものは、全部『彼のため』のものだった。思えば、私が今までしてきたことは彼の役に立つことばかりで、それで私の生活は満ちていた。

 彼が片足を失う前、私はどうやって毎日を過ごしていたのだろう。

 タシェリ。小さな手や、母乳を飲み終わった後の表情、私を呼んだ泣き声を思い出す。あの子の世話をずっと、休む暇なく三か月やっていた。なかなか寝てくれなくて決して楽ではなかったけれど、愛おしくて、幸せで。

 なら、その前は。

 タシェリがまだお腹にいて、無事に生まれるよう毎日のように願って、出産に備えて忙しなく準備していた。初めての出産が近づくことに心が躍りつつ不安も感じながら、それでも彼が傍にいて、胎動を感じるたびに二人で喜んだ。

 いつ生まれるのか、どんな顔をして、どんな声なのか。楽しみだと笑って私のお腹を撫でていた彼を思い出す。

 それ以上、遡ることができない。ぷつりと途切れてしまった。


「あの御方らしい御最期でいらっしゃいました」


 気づくと彼の遺体を挟んだ私の向かいに、ナルメルが立っていた。血色を失った彼の静かな顔を見る。隣で豪快に笑っていた顔は、安らぎに覆われて動かない。


「あなた様の御腕に抱かれ御最期を遂げられた。これほどのものはこの方にとってなかったでしょう」


 ナルメルが私から彼の手を取り、彼の腕をその胸元で交差させた。右が上、左が下、王家の者の遺体である証。死者の姿だった。


「この年老いた私めより早くこの世を発たれてしまわれた。ラーとなってしまわれた」


 逝ってしまった。最期に見た陽に向かう鳥のように、彼もハヤブサのラーとなって空を駆けているのだろうか。

 涙が出ない。声が出ない。私のすべてが、彼の呼吸と共に止まってしまっている。ぴんと張っていた私の中で何かが切れてしまった瞬間から、声も涙も出てこなかった。


「お気を確かに」


 少しの間が空いてからようやく自分に掛けられた言葉を理解して頷いた。気持ちは平坦で、静か。多分、私は冷静なんだろう。彼の手が離れた自分の手を膝の上に置き、ぐっと握りしめ、しばらくはその手を見ていた。


「死の家からのお迎えは、決まりに従い明後日とさせていただきました。よろしいですね」


 これにも頷いた。

 明後日、彼の遺体から離れなければならない。そのことを思ったら彼の手の感触が恋しくなり、遺体の上に組まれた左腕を解いて握り直す。駄目だと思いつつも、離れられなかった。冷たい手の甲に頬をつけて寝台に伏すと、ナルメルは私から手を取り上げようとしなかった。






 朝が来た。彼が死んで、丸一日がたったことになる。

 朝と夜が随分早く過ぎる。朝と夜が関係なくなってしまった私には、どうとういうことはなかった。灯りがあるか、暗いか。それだけになった。


「王妃」


 誰かが私の傍に寄って跪いた。暗がりで最初は表情が見えないものの、ゆっくりと視線を流すとラムセスが私をじっと見据えているのが分かる。こちらに向けられた無表情と言ってもいいくらいの目の緑が、いつもより薄い気がした。


「下エジプトへ、行って参ります」


 下エジプト、ということは、メンネフェル付近に行くということだろうか。でもどうして。

 ラムセスの声を受けたナルメルが、思考が鈍った私の傍に歩み寄る。


「ファラオの死を知った遠くの民の様子を見に行き、状態により落ち着かせる使命がラムセスにはあるのです。どうぞ、許可を」


 許可を出すのはもう彼ではないのだとぼんやりと思いながら、言われた通り頷いた。

 私の前で眠る人は、ラムセスを次の王にと望んでいた。次の王、次の夫。その言葉に実感が湧かず、薄い緑眼から目を逸らし彼の手を握る力を増した。


「では」


 傍から立つ音がして、ナルメルといくつか言葉を交わし、その人は去った。




 入れ違いに、こちらに近づいている複数の足音の存在を聞いた。疎らに聞こえるそれは、時計の秒針のそれにひどく似ている。


「死の家から、ご遺体のお迎えに参上した」


 低く太い声で誰かが言う。聞き覚えのない声色に不安が過る。


「明日まで待って欲しいと伝えたはず。早すぎるのでは」


 ナルメルの張りつめた声に顔を上げると、神官のようで神官ではない坊主頭の老人が宰相とセテム、ネチェルと向かい合い問答していた。

 あの服装はどこの役職だっただろう。私が知らない人が来るなど珍しい。

 ゆらりと老人の背後に控える影に視線を移して、初めて思い出す。人の背丈ほどある直方体の木箱を抱える四人の黒犬、アヌビス。アヌビスの仮面を被った人々の、表情の無い面を見ていると冥界からの使者であるアヌビスそのものに見えてくる。ナルメルたちと対峙しているのは、死の家からの使者だった。

 死の家だと判断した途端、私の身体は自然と強張り、彼の遺体に身を寄せる。

 何故、今この人たちが来ているのか。遺体の引き渡しは明日で、まだ時間があったはずだ。


「どうか、どうか、もう一日お待ちくださいませ!」


 平伏し、懇願したのはネチェルだった。今にも涙を零しそうな歪んだ顔を床に向け、お願い致しますと繰り返すが、立ちはだかる老人は駄目だと言い放つ。


「アイ殿がすぐにでもご遺体をお運びせよと仰せです」


「馬鹿な」


 セテムが吐き捨てた。


「あの御方は何を考えているのか。すぐに申し立ててまいります」


「もうすでに決まったことに御座いますぞ」


 アヌビスの横を通り過ぎようとしたセテムを、張り詰めた声が止めた。


「いくら大神官であり、死の家が己の管轄だからだと言って、我々や王妃の許可なくこれを取り決めることなどまかりならない」


「とはいえ、ご遺体になられたからには我々の管轄。アイ殿の管轄である。生と死は相いれない。宰相殿やあなた方の命には従いかねる。決まりに順じ、ファラオの御身、我々が引き継ぎます」


「しかし!」


 今にも噛み付きそうになったセテムを、ナルメルが制した。深く息をつき、仕方ないと私と彼への道を開ける。


「宰相殿!これでよろしいのですか!」


「我らには、どうすることもできぬ。生と死にはそれだけの狭間があるのだ」


 眉を顰め、セテムは唇を噛んで俯いた。


 ナルメルに通された死の家を司るという老人は、厳かに私たちの前へ進み出て、四人のアヌビスと共に深く伏礼する。5人の人々が床に額を付けんばかりに頭を下げ、両手を讃えるように前に掲げている。


「尊き御身、お運び申し上げる」


 どこへ、と私が尋ねる間もなく、彼の遺体がアヌビスの面をした男たちに囲まれた。


「王妃をお連れせよ」


 いや。やめて。


 拒絶しようとしても、声が出なかった。一人のアヌビスが彼に身を寄せていた私の腕を掴む。


「お許しを」


 抵抗しても、なだめるように背中を擦られ、縋り付く手からもぎ取られるように彼の手が離される。それに抗いを見せた私の身体は、そのまま一人に抑え込まれ、死者に送られる祈りが老人と他の3人のアヌビスから流れ、彼の遺体を包んでいった。


 ああ。お願い。待って。


 声の出し方を忘れた。泣き方を忘れてしまった。声を出そうにも、喉から吐き出された音となるはずのものは、何の音も伴わず空気となって口から放たれる。

 虚しい懇願を続ける私の目の前で、例に倣い腕を交差させられた彼は持ち上げられ、棺のような木箱に入れられ、重そうな蓋が被せられて見えなくなった。老人の声を先導に、4人のアヌビスによって彼の遺体が入った木箱が厳かに持ち上げられる。彼らは、王の遺体を見送る、叩頭するナルメルたちが並ぶ扉へ歩き出す。

 連れて行かれてしまう。あの扉を越えたら、もう二度と会えなくなる。


 いや。離れたくない。

 まだ。まだ。


「待っ……」


 ようやく声が出たと共に、足に力が入らず、椅子と一緒に床に倒れ込んだ。ずっと同じ体勢だったためか、足が崩れた。


「王妃様!」


 膝を付いた床が視界に迫り、悲鳴をあげて駆け寄ってきたネチェルに支えられてようやく、膝に鈍い痛みを自覚する。


「あなた……!」


 咄嗟に顔を上げて発した私の虚しい呼び声は、同時にしまった扉の音に掻き消された。閉まった扉を見つめ、私は崩れ落ちて呆然と床に座り込む。彼のいた寝台は、皺だけを残して空になった。


 分かっていた。彼が死ぬことなど、悲しいくらいに。

 日が経つたびに症状が重くなり、どこもかしこも悪くなって。痙攣も悪寒もひどくなって。あんなに痩せて。本当に、別れはあっという間だった。

 実感がないほどに呆気なく、私は彼と二度と会えなくなった。










 暗闇に座り込んでいた。立ち上がろうにもその意思も、力も私には無い。空虚に宙を見つめている。いつの間にこれほど暗くなったのかは覚えていない。

 灯りはないのに、目が暗闇になれているせいか周りの様子は困らないくらいに見える。

 前に箱が置いてある。両手で抱えられるほどの重みのある木箱。タシェリの服や遊び道具が入っている。その箱に、彼から貰った手紙や彼が愛用していた短剣やサンダル、服が加わった。夫と娘の形見が入った箱になった。

 ゆっくりとその中のものを出して眺め始めたのは、何時間前のことだろう。まだ外は明るかった気がする。

 手に広がる麻の布を撫でた。毎朝彼に塗った香油の匂いが、まるで今の今まで身に着けていたかのように染みついている。ふっと視線を揺らしたら、箱の奥に紙が入っているのを見つけた。

 白い折り目のついたパンフレットだった。ツタンカーメンの生涯が綴られているもの。歴史が変えられたら、ここの文章も変わるのではと期待し持ち続けていたもの。


『紀元前1325年頃 死亡』


 この文章が消え、この下に新しく幸福な何かが書き加えられることを祈り続けていた。けれど結局、この文章が変わることはなかった。

 もういらないものだと思ったら、躊躇いなく自分の手が勝手にそれを破り始める。紙が裂かれる音を目の前で聞く。散っていくのを見る。手に残った紙がなくなって、あてもなく視線を流した。紙の破片に散らかった床をしばらく眺め、膝の上にある夫と娘の形見を握り締める。


「私……何も、できなかった」


 茫然と宙に言葉を吐いた。


「何も、変えられなかった」


 吐息と共に漏れる声はか細く、目の前で消えて誰にも届かない。


「……どうして、生きているのかしら」


 生きている意味が、分からなくなった。分からないことに気付いた。


 ただ茫然と、形見を抱いて思う。

 彼もあの子もいないのに、私だけがどうして生きているのかと。




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