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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
22章 守りたいもの
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その時まで

 死んだ。死んだのだ。

 そう叫んだアイの声が、離れた今も後ろを追ってくる気がしていた。アイの声は徐々に自分のものへと変わっていき、呪文のように繰り返され始める。


 疲労を抱える重い足取りで兵のいる扉を越えて部屋に入っても、誰の姿もなかった。女官たちもティティもシトレも一番奥あたりの部屋にいるのだろう。空虚な空間が目の前に広がっている。外に開いている柱を並べた縁は雨のせいで少し濡れ、その先に広がる緑に囲まれた庭の土も濃く色を変えていた。木々の葉についた水滴が光る。

 近づいてみて、ふと外に地面を打つ線がないことに気づいた。歩を進め、外を覗くと曇った暗い空を残して雨は止んでいる。

 一時間半ほどの短く弱い雨。夢と思わせるくらいに一時的。やはりこの土地での雨はこういうものなのか。

 このままティティたちのところへ向かっても良いのに、その気力が沸かず、俺はその場所に柱にもたれて座り込んだ。


 「……終わった」


 俺がここ数年望んでいたことがようやく遂げた。

 掠れた声で呟き、重く感じる額を抑えて空を見る。澱む空が、西側から緩やかに逃げていく。冷えた風が吹き込み、ただでさえ熱のない俺の頬を撫でていき、床に点々と乗った水滴が肌に染み入って冷たかった。

 俺が予期していたことはすべて過ぎ去り、成り行きがどうであろうが、行き着いた先は当たり前の結果だった。なのに、どうしてこれほどに気持ちが沈んでいるのか。

 似ていた。自分が生まれても居ない子供を殺したのだと知ったあの時に。あの男の顔が歪み、涙を浴びた時に。やるせなく、虚しい。


 悲劇の少年王の死。現代で謎とされたそれはアイの陰謀を背景に、事故による骨折と不運に続いた重マラリア症感染。暗殺説と事故死説、そして病死説。最終的な原因は病死だったが、未来で挙げられる死因のほとんどが絡まっていた、というのが真実と言える。少年王の死の真相は、すべてだったのだ。

 結局は俺たちが知っている歴史など不鮮明なものでしかなく、一つの事実の中に多くの思惑や思いが渦巻いているということなのだろう。

 ぽっくり死ぬのかと思いきや、これだけの重みを残してあの男は死んだ。

 ならば弘子は。東の宮殿でずっと傍で看病していた彼女は。あれだけ想っていた男を失い、彼女は今どうしている。

 泣いているのだろうか。あの男の死体に縋って。

 そうしている間にもアイは動き始めている。弘子は何も動けていないはずだ。一人の人間を失ってすぐに頭を切り換えられるほど、彼女は強くない。周囲を味方につけ、王座を取ったも同然でいるあいつをこのまま放っておいたらどうなる。俺があの男の言いなりになったら、弘子は。

 アイは王妃と婚姻を結び、王となろうとしているのだ。


 止めようか。いやでも、どうやって。

 葉先から落ちようとする雫を見ながら目を細めて思い出したのは、もう触れることはないと部屋の奥にしまい込んでいる鞄のことだった。あれを開けば、この時代にはない未来の武器がある。21世紀から持ってきた中で唯一残ったものだ。詰められた銃弾は8発。大神官の位を断り、銃口をアイに向けるか。

 だが、果たしてそれで止められるのか。たった8発だ。アイの持つ勢力に俺一人が立ち向かって勝てるのか。使い慣れない銃など、俺ではただの脅しや飾りに過ぎなくなる。

 それに、アイが居なくなっても状況は変わらないのではないか。今は最高権力を手にしているから候補がアイだけであるために他が身を引いているだけ、アイがいなくなれば弘子と婚姻を結んで王位を狙う輩は数え切れないくらいいるのではないか。

 ならば俺は、弘子を守るためにどうすればいい。


「待って、シトレ」


 手に汗握った時、唐突に背後からティティの声がした。数人の足音も後に続いて小さな振動が床を伝わってくる。


「どこに行くの」


 振り向くと、シトレが俺を見つけて声をあげたところだった。


「よーき!」


 にこにこしながら走り、俺の腕の中に飛び込んでくる。柔らかいぬくもりが抱きついてきて、いつものように髪を撫でてやると嬉しそうに笑い、首から下げた黄金を煌めかせた。


「起きてたのか?シトレ」


 昼寝の時間だろうに。


「あんね、ふったの」


 質問に対する答えとは言えないが、たどたどしい言葉を俺に一生懸命に返してくれる。喃語ばかりで何を言っているのか分からないが、懸命な様子が可愛らしくて言葉ひとつひとつに頷いて笑い返した。

 1歳と半が過ぎて一人歩けるようになり、感情表現が今まで以上に豊かになった分、拗ねたり、反抗して癇癪を起こしたりと生まれた頃とは違った意味で手を焼く部分も増えてきたのだが、今日はすこぶる機嫌がいいらしい。


「雨に興奮気味なの」


 後ろに腰を下ろしたティティが眉を八の字にして言った。その後ろに控える侍女たちも同じような顔をしている。この子にとって雨が降るのを見たのは生まれて初めてのことだ。興奮していつも現れる眠気がないのも頷ける。


「雨はもうないよ。ほら、見てごらん」


 言って外を示すと、くるりとした目が俺から離れて外へ向かう。じっと見てから庭先にある小さな水溜まりを指差した。見たい、行きたいの合図だ。


「駄目。もう何回も入ったでしょう?」


 ティティがシトレを連れて行こうと手を伸ばすと、シトレはいやいやと癇癪の前触れを起こし始めてしまう。


「雨なんて珍しいくらいだし、少しだけならいいんじゃないか」


 次あの場所に水たまりができるのはいつだろうと考えたら、シトレの我儘に付き合ってもいいように感じた。


「あなたは本当にシトレに甘いんだから……少しだけね」


 仕方ないとティティが眉を下げたのを見届けて、シトレを抱き上げ一段下の庭に降りた。地面に下ろした途端、一目散に裸足で水溜まりへ走り出し、水を踏みつける。その単純な足踏みが相当楽しいようで、幾度もそれを繰り返していた。


「楽しいか?」


 出たり入ったり、そのあどけない足取りで水たまりの周りを巡ってから空を仰ぐ。何もない空を指差して大きく声を弾けさせる。

 その姿を見て、シトレを微笑んで見守るティティを見て、自分がアイに刃向かったら二人はどうなるのかと考えた。ナクトミンもアイもシトレの存在を出してきたのだ。俺が牙を剥けば、二人はこの子に手を出すつもりなのかもしれない。この幼い子を、手に掛けるのだとしたら。


「よー!」


水溜まりから出てきたシトレが俺の足に抱きつく。見上げ、その目に俺を大きく映して笑う。溜まらなくなって、そのままシトレを抱き上げ、抱きしめるようにしてティティの傍に腰を下ろした。


「ヨシキ?」


 心配そうにティティが俺に声を掛ける。

 この三人でいる時がいとおしい。シトレが、ティティがいとおしい。この二人と存在や、過ごしてきた時間は、俺を支えてくれた掛け替えのないものだ。失うことを思うと怖くて堪らなかった。


「大丈夫?」


 問う声は優しい。腕に感じるぬくもりと、肩に置かれたぬくもりを感じて真っ先に「守らなければ」と強く思う。


「……あの男が死んだ」


 隣にいる彼女にさえ聞こえるかどうか分からない声で言う。


「呆気なく、死んだ」


 まず死んだ男を、次にアイを思い浮かべて、ますます抱き締める力が強くなる。俺の腕がきつくてか、シトレが不快そうな声を上げて身じろいだ。


「……ええ、死んでしまった」


 愚図るシトレを俺から抱き上げ、頭を撫でてあやしながら彼女は淡々と答えた。そのまま空を見上げる。


「未だに信じられない。あれだけ勇猛果敢な人が死んだなんて。もうどこにもいないだなんて」


 信じられない。自分にとっては憎い相手だった。弘子がここへ来る原因を作り、弘子に現代や俺たちを捨てさせた張本人。死ねばいいと、どれくらい思ったことか。

 その男が死んで、もうこの世にいないのだと知らされ、どこにもやれない思いが渦巻いてしまう。

 すっとしたわけでもない。何かが吹っ切れたわけでもない。何かの仇を討ったような気分になるかと思えばそうではない。湧き上がるものがあると言えばそれは。


「……悲しい」


 空に呟いた。

 大きくわだかまる虚しさの中に、悲しさがある。それがどこから湧いて出た物かは知らない。人が持つ同情の念なのか。あの男が死んだということに対しての悲しみなのか。


「自分でも訳が分からない。泣きそうだ」


 目元を手で覆い、俯く。自分が自分で分からなくなる。自分の望んだ果てが、これほど虚しいものだとは思ってもみなかった。


「それに加えて俺はまた、弘子のために何もできない。そんな自分が悔しい。恨めしい」


 弘子を救うだけの力がない。深く傷つけることはあれほど簡単だったのに、誰かのために何かをすることは何故こんなにも難しいのか。

 弘子の役に立ちたいと願ってここまで来た。だというのに、いざとなると出来ることが何もない。自分の無力さがまた堪らなく憎らしい。


「そうね」


 悔しさに歪んだ顔を手で覆っていると、隣の彼女が否定せずに頷いた。


「今起きていることはとても大きなこと。私たちにはどうしようもできない。見ているだけ」


 一国の王位の行方。表から身を引いた彼女や、ここに転がりこんできた俺たちには傍観者になる他ない。


「あなたは、どうして王が王妃に王位継承権を渡すと思う?」


 不意に聞かれて、俺は抱えていた頭を上げ彼女を見つめた。目の前に弱く微笑む彼女の顔がある。


「王が王妃を信じているからだと私は思ってる」


「信じる?」


 そう、と頷いてティティはシトレを抱き寄せた。


「次の王を選ぶ権利……それは本当にこの国にとってこの上ないもののはず。どれだけの信頼の下にそれを渡しているか、私には分かる。あの方はご自分の王妃を信じていたから渡した」


 国を作ると言っても過言ではない王家の総帥を決める。王妃となった女性に譲渡される権利だ。


「そして大神官で王家の男であるアイがどれだけ力を付けようと、それと同等もしくはそれ以上の力を持っているのが一人だけいる──王妃よ」


 弘子。

 アイに真正面から歯向かえるのは、弘子だけ。


「王妃が民を納得させる相手を王だと示せばいい」


 いくら候補がアイ一人だとは言え、弘子も王家の人間。アイを屈する発言力は弘子の気の持ちようや能力で決まってくる。

 だが。


「民が納得すると言えば王族だけだろう。王族の男はアイの他にいるのか」


 民からアイへの信頼はそれなりにあり、次の王は王族であるアイだという流れも王宮内でできつつあるというのに、それ以外に民を納得させられるだけの人物がいるというのか。

 俺の問いに彼女は目を細めた。


「エジプト王家と同じくらい高貴な血を持った人を王妃が選べば、アイは何も言えなくなる」


 息を呑んだ。他国の王家。他国王家の男子、つまり王子をエジプト王として迎え入れる。王子と婚姻を結ぶということは、国同士の仲も保障される。アイか一国の王子かと問われたら、一国の王子を間違いなく周囲は選び、アイに王位が行く確率はほとんどない。ただ、エジプトは他国の王女を娶ったことがあっても、王子は一度たりともないのも事実。一か八かの賭けになる手段と言える。


「それを、弘子ができるのか……」


 ただでさえ、立て続けに身近な存在を二人も失った彼女が、すぐに自分の次の婚姻のことを考えられるかが問題だった。


「私はそう信じてる。王も王女も失った彼女が、新しい何かを見つけて立ち直れるかどうかに今回はかかってるんだから。でも私たちが出る幕じゃない。とやかく言っても仕方ないのよ」


 弘子が、今の状態から立ち直れたのなら。アイ以外の王家を自分の夫にすると、権威を以って発言すれば。すべては王妃である弘子次第なのだ。


「あなたは王妃のために何も出来ないって嘆くけれど、きっとこれから。これから『この時のために今までがあった』と思える時が必ず来る。その時に動けばいい」


 そんな時が来るだろうか。弘子のためにこの身を使える日が。


「それに」


 彼女が俺の肩に頬を寄せた。


「あなたがシトレと私を選んでくれたことが嬉しかった」


 そう言われて、彼女は知っているのだと気付いた。大神官になれというアイからの命令に俺が頷いたことを。その了承に至るまでの経緯も、彼女はきっとすべて理解してくれているのだと。


「守ろうと少しでも思ってくれたことが、私は何より嬉しい」


 はにかむ彼女に、目元が熱くなる。


「私ね、人が生きていく中で一番輝くのは、誰かのために生きる時だと思ってる。誰かのために一生懸命になるほど、素晴らしいことはない……誰かを守ろうとして頑張って、考えて、落ち込んで…そんなあなたが私にはとても素敵に見えるの」


 また泣きそうになりながら、彼女の微笑に、俺は笑った。


 シトレが弾けた声を上げる。何度も空を指差すものだから、俺たちも自分たちの頭上を仰いだ。晴れ間を広げつつある薄暗い世界は、いつもの明るさを取り戻しつつあった。


「ねえ、ヨシキ」


「ん?」


「未来を生きてきて、この時代の歴史を本で読んだというあなたは、これから何が起こるか分かるの?」


 彼女にいいやと首を振る。


「前に知っていたことを、都合良く忘れてる。分かっていたはずのことが何も思い出せなくなった。そこだけ取り除かれたように」


 読んだはずの文章が、不思議なことにこの時代だけ丸ごと無くなった。ツタンカーメンが死ぬとされたこの区切り以外、俺の未来に繋がるこの時代の記憶は皆無。


「けれどそれ以前に歴史はとても曖昧なものでしかない。口に出すこと、文章として書かれていること……それはひとつの特定のものを大きく示されているだけだ。何も分からない人間がさも分かったように語らってるに過ぎなかった。それしかできなかったんだ。だから、弘子も俺も、この世界の誰も、俺の時代にいる奴らでさえ、この先のことなんて言えやしない」


 一人の男の死の後、エジプトは王位継承の行方のために混乱するだろう。そこから誰が王として君臨するのか。弘子であるアンケセナーメンの存在はどうなっていくのか。俺たちも、この世界にいる誰も知る術は無い。

 弘子の決断。俺の決断。名も知らない多くの人々の決断。これからの人々が決断を重ねて、歴史を綴っていくのだ。

 俺はおそらくアイが要求した通り、大神官に就くだろう。この二人を守るために。ならば大神官という地位から「これから」を見届けよう。この国が、弘子が、俺たち自身が、どこへ進んでいくのか。そして『その時』が来たら、俺はこの命を懸けて尽くそう。


 弘子。ただ一人のために。



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