砂漠の雨
* * * * *
薄い雨雲が天から糸を引いている。あの温かさに包まれた朝からは想像もできない空が切れることなく頭上を行く。俺の寄り掛かる太く立派な柱は不愉快なほどに冷たい。地面に降り注ぐこの糸の名が雨だと知っているはずなのに、この初めて見たような感覚は何だろうか。
「珍しいね」
隣に誰かが立った。この飄々とした声色は目を向けずとも分かる。
「見入っちゃうのも分かるな。こんなにしっかり降るのは数年ぶりだから」
彼は空の下に手を差し出し、雨粒を受け止める。
雨期を持たないこの国は霧が立ちこめるくらいで、雨が降ること自体滅多にない。5年近くこの砂漠の国にいる俺も、初めて見る光景だった。
「民家が雨で崩れないといいけれど」
この国の民の家のほとんどは宮殿のような石造りではなく、土で作られている。今頃、町は水に溶け出した土の匂いで充満しているのだと思う。
それほど強くはない。従来雨の降らないこの場所ならではの弱々しい雨だった。短時間のものだろうし、おそらくそこまで心配するものでもないだろう。エジプトの技術を考えれば、これくらいの雨など考慮に入れて家を作っているはずだ。
「そろそろ来るよ」
意味ありげに低められた声が耳の傍を過ぎ去る。
「ああ」
つられて返した声も低まった。
何のためにここに集まったかと言えば、知らせをいち早く受け取るため。弘子やあの男がいる東の宮殿で早朝、何かがあったことは分かっている。その内容が真っ先に知ることができる場所に、俺は来ていた。
「僕は奥へ行くけど、ヨシキはどうする?」
こちらを覗く猫目をちらと見てから再び視線を雨に戻す。
「……もう少し、見てる」
雨から目が離せなかった。雨雲が垂れ込める空を眺め続け、他に何をするでもない。
分かったと口端を上げて頷いたナクトミンはそのまま奥へと進んでいった。
砂漠の国の雨は、しとしとと暗雲から線を引き、地面にぶち当たって次から次へと弾けていく。手を出したら雨足が俺の掌を打ち、幾粒かの冷たさに手を握り締めれば、拳の中で冷たさは消える。足元に目を落とすと、外に開けた宮殿内は勿論のこと、外に近い部分が濡れ始めていた。濡れて白く反射する部分を自分の履いたサンダルで踏みつけたが、水の音が一段を大きく聞こえるだけで、サンダルを越えて自分の皮膚に水の冷たさが触れることは無い。すぐに消えてしまいそうなほど細い線だというのに、確実に地面を濡らし続けている。その様子を漠然とした気持ちで視線を漂わせていた。
そうしている内に雨音の中に違う音が入り交じってきているのに気づき、もたれていた柱から身体を起こした。
遠くに響く、サンダルが床を擦りつける音。誰かがこちらの部屋に向かって駆けている。雨音からかけ離れたその音は、自分を取り囲む世界ではとても異質だった。次第に大きくなり、この部屋の扉の前でぴたりと止まったのと同時に身体を扉の方へと向ける。
雲に遮られ、陽光が入ってこない部屋は薄暗く、いつにも増して息苦しい。薄暗い奥に3つの人影を見た。二人が立つ間に、椅子に座る神官がそこにいた。
「大神官殿!」
離れたところの大きな扉が音を立てて開き、駆け込んできた若い神官がその場に跪く。肩を上下させる神官の頭が向かう先は、俺の前を越えた、奥の椅子に腰を埋めるあの男。両脇にはナクトミンとホルエムヘブを従えているが、その表情は陽光の無い所為で定かではない。ただ、爛々とした眼と、もたらされた知らせが何であるかと息を弾ませたのがここからでも見て取れた。
「お知らせ申し上げます!」
絶え絶えの呼吸の合間から放たれる声は叫ばれるようだ。奥にいる老人は椅子から腰を上げ、獲物を目の前にした獣のような表情を浮かべる。突いた杖を握る拳に力を込め、一歩進んで身構えた。俺を含めた、この部屋にいた人間全員が息を呑み、知らせを持ってきたという神官に視線を集める。
「ファラオ……我らの王が早朝にご逝去の由とのこと!」
雨音がする。雨が地面を打つ音だ。さっきより大きくなっただろうか。
「──そうか」
息を荒くしたアイが立ち上がる気配がした。俺は跪く男の上下する肩を見たまま動けないでいる。
死んだ。あれだけ憎んだ男が。
分かっていたはずのこんな短い知らせに大きく動揺する。信じられない思いで、漠然と沈黙に落ちる雨音を聞いていた。この国では珍しい、随分前に見たあの男の淡褐色が脳裏を横切っていく。
「ようやく、死んだか……!」
杖を下に落とし、両手を掲げるアイは大きく笑って叫んだ。
「死んだ!!死んだのだ!」
両の拳を机に叩きつけ、老人は高々に笑う。
「ようやく!!やっとだ!!!この時をどれだけ待ち侘びたことか!」
異様な喜びように、傍にいたホルエムヘブや知らせを持ってきた神官は怯えた様子を見せ、ナクトミンは澄ました表情を向けていた。化けの皮が一気に剥がれ落ちたように、今までのものをすべて解き放ったかのように、老人は「死んだのだ」と繰り返し喚く。何重にも響き、音は大きな唸りとなった。
「それで遺体はどうした。死の家へ運んだのか、え?」
突然尋ねられた神官の身体はびくりと跳ねたが、すぐに体勢を整え畏まる。
「いえ、それはまだ……」
「何をしている。死んだのなら死の家へ運ぶのが当然というもの」
「王妃様のご様子を踏まえ、宰相殿が少しの延期をご提案なされたのです」
「何とでも言って奪えば良かろう。早くせぬか」
「しかしそれでは」
顔を上げて訴える神官を老人は鬼の形相で睨み付けた。
「早くあの男をミイラにせよと言っているのだ。王であろうが死んだ人間を残す必要などどこにある」
語尾が荒くなる。眉を吊り上げたアイの足音は強く、その様子は何かに焦っているようにも見えた。
「恐れながら大神官殿、どうか王妃様のご心中をお察し下さい。姫君を亡くされてからまだ日も浅いというのに今回はファラオを失われたのです。宰相殿も他の方々ももう少し時間を取るべきだと仰せです。それに、死の家にご遺体をお送りする期限までにはまだ時間が御座いますから……」
「お前のような分際で、この私に口答えするか」
絶対的なものが、放たれた声にあった。
「そ、そのようなことは」
王妃を気遣ってほしいという神官はそれで怯み、息を呑んで身を縮める。
「王妃を引き剥がしてでも明日までには遺体を死の家へ運べ。死人は死の家の管轄、神官である私の管轄ぞ。我が名を使えば誰も逆らえはせぬ」
命ぜられた男は狼狽し、気を落としたように項垂れ、承知と答えて頭を下げた。
王が失われ、最高権力者はこの大神官の他にいない。それに加え、死んだ人間は神に遣える者たちによって処理される。宰相だろうが将軍だろうが、この命令に逆らうことは許されないのだ。
「それから」
立ち去ろうとする神官の背中に、思い出したようにアイが声を掛けた。扉の前で怯えた様子で振り返る青年に向かい、男の口が開く。
「死の家の職人共に伝えよ。内密にファラオの胸の骨はすべて抜き取れと」
胸の骨は肋骨のことか。
「未来永劫、甦ることなどないように」
その言葉を聞いて、初めて肋骨を抜き取れと命じた意図が読めた。
残酷なことを言う。肋骨が無ければ人は生きていけない。エジプト人の死生観の一つで、彼らにとって最も重要な過程である『復活』を妨げようという意志がアイにはあるのだ。
知らせに来た人間が去り、雨音の中でアイは数歩前に進み出る。足の運びに何やら確信めいたものがあった。
「あの若造の治世は終わった」
両手を天井に掲げ、神に感謝を示す物腰でアイは言う。
終わった。この一言に溢れる喪失感は何だろう。どうしてこんな感情を自分が抱くのか分からない。目の前のアイと共に喜びを噛みしめても良いものだと思うのに。
「ナクトミン」
「はい」
当惑する様子もない、明快な返事が返された。
「王妃に懐妊の兆しは」
「ありません」
弘子の懐妊。御子。3人目の御子の可能性がないと知ったアイの口元が怪しげな弧を描き出す。
「ならば、残されているのは王位継承権を持つ王妃と、王家で唯一男であるこの私のみ」
はっと唾を呑み込むと、身体の脇にあった拳に自ずと力が入った。
「王家に男が居る場合はそのものに王位が継がれるのは必然。王妃と婚姻を結び、次の王となるはこの私だ」
王家の男と言えば、もうこの老人しか残っていない。弘子が拒まなければ、王家の正統な血筋を引いていないこの男がこの国の王となる。
一国の王となるのか。この男が。こんな老いぼれが。
あれだけ憎んだ男の死が未だ府に落ちないでいるのに、その事実だけはやけに生々しく頭に入ってくる。
「仰せの通りに御座います」
立ち竦む俺とホルエムヘブを目の端に、ナクトミンが胸の前に手を置いて跪いた。
「あなた様こそがファラオ。我が君。他に誰がおりましょうか」
本来、王妃が選び、王位継承権を獲得した男がファラオとなるが、実際は王家の血を守る為かつ権力の分散を防ぐ為に優先的に王家の中の男が選ばれる。王家に男子が一人しかおらず、多大な権力を誇示するアイが存在する時点で、弘子に他の選択肢はない。
進んでいるのだと思った。あの男の死を俺が勝手に大きな区切りだと決めつけていたに過ぎなかった。ひとつのことが終わっても何もかもが止まらずに進み、溜息つく間もなく新しいものが動き出している。目まぐるしいほどに。
「王妃様はあなた様を王となさるでしょう。そしてアメンの名の下に我が国をお納め下さい」
ナクトミンの台詞に、アイは大きく満足げに大きく頷いた。これほどに満ち足りた男の笑みを俺は見たことがない。笑った顔に恐れさえ抱いた。
「我が忠実なる僕、ナクトミンよ。お前を軍事司令官に任ず。どの国にも負けない軍隊を私のために作り整えよ」
「ありがたき幸せ。我が命、ファラオであるあなた様に捧げましょう」
軍事司令官。いつか文書で読んだことのある、以前に廃止された役職の一つだ。軍隊を牛耳る将軍の上の存在で、事実上、宰相と同等の権力を得る。
「ヨシキ」
呼ばれて向いた先の貪欲な眼球に思わず怯む。後ずさりそうになるのを耐えて真っ直ぐ見返した。
「お前に我が大神官の位を与えよう」
聞き違いかと思うくらいの言葉だった。
「……大、神官?」
今のアイがいる役職だ。聞き返す俺に老人が肯定する。
「お前の知恵はこれからも私の力となり得る。神官たちを束ねる立場から、私がこの国を治める手助けをせよ」
何を言われているか分からなかった。まで神官まがいのことはしてきたものの、アイに遣えていきたいという願望はない。むしろ、この男の下で遣えて利用されるなど御免だ。
「俺は今のままで何の不自由もありません……ナクトミンの方が大神官という尊い位に見合っているのでは」
「それはない。お世辞でも勘弁」
断ろうとした俺に、ナクトミンが冗談気味に口を挟んだ。
「僕はもとが軍人だからね、政に関わる神官関係は始めから向いてないんだ。神官なんて名前は僕に似合わないし、比べてヨシキは飲み込みが早いに加えて頭もいい。だから僕が指名したんだ」
俺の様子を愉快そうに眺める青年は、こちらに寄ってそう囁く。そして俺の肩に手を置いて耳打ちを続けた。
「あの子のためにも貰っておいて損じゃない位だと思うよ?」
『あの子』がシトレのことを指しているのだと知って、彼を見返した。間近にある幼さの残った顔が、不敵に笑う。
「なんたって、あの子供はもともと名も知れない民の子供。それも死の病だった女から生まれ落ちた子供じゃないか。いくらネフェルティティ様の保護下にいるからって元王妃って立場だけじゃこれからが不安じゃない?あくまで、あの子を大事に思うならの話だけど」
事実、今でも黄熱病の患者から生まれたシトレの存在を忌み嫌う人間がいることは否定できない。将来シトレが成長し、俺やティティが居なくなった後のことを考えるなら、元王妃と大神官に大事にされた存在でいた方が、ある程度の地位が成長後にも約束されるはずだ。だがここで頷いてしまったら、俺は弘子とアイの婚姻に賛同することと同じ。喉の奥が閉まった。
「私はファラオとなる。それに反対する者もいよう」
返答しない俺に、アイは言った。
「特に王妃の周りにいるあの輩……故に周りを自分の部下で固め、王妃が私以外を選ぶ道をなくす必要があるのだ」
宰相、王の側近、将軍と隊長。前王に忠実だった彼らがアイの即位を簡単に受け入れるはずがない。彼らを黙らせるために必要なのは、自分の権力を大きくして反対勢力を弱小化させること。そして重役たちを味方で固めることだ。
「まさか、今まであの薄汚い子供の存在を許してきた恩のある私の言葉を聞いてくれないことはあるまいな」
拒否する権利がどこにもないことに気づく。部屋でティティといる幼いシトレを思ったら、ここで嫌だと首を振ることができなかった。
「……あの、アイ様」
俺が唾を飲み込んだ時、ホルエムヘブがアイの前におずおずと進み出た。自分も何か新しい役職をもらえるのではと期待する表情を浮かべている。
「俺もあなた様に今まで忠実に仕えて参りました。なので俺にも…」
「お前にはない」
将軍に振り下ろされた声はあまりに冷たい。
「そ、そんな……俺はずっとあなた様にお仕えして参りました。俺より下位のナクトミンが軍事司令官ならば俺はもっと上の……それにヨシキを今のあなた様の大神官の位になどあまりに」
「黙れ。王である私に逆らう気か」
降りかかったアイの声に、位を請うた男は口を噤む。
「能無しに与えるものなどない」
唖然としたホルエムヘブの顔が、目に焼き付いた。




