遠い、その先で
人は、死んだらどこへ行くのだろう。
天国へ。地獄へ。あの青い空の越えた世界へ。宇宙へ。生命が生まれた母なる海へ。
それとも永遠に自分の故郷に留まり続けるのだろうか。
長い歴史に生きて死んでいった人々も絶えず同じことを考えてきた。
ある人は魂が時を越えて自らの身体に戻ってくる『甦り』を信じ、ある人は死後に別の存在として生まれ変わる『転生』を信じ、ある人は魂が永遠に体内に宿り続けると信じ、またある人は、魂は私たちの辿りつけない遠い場所に行き、私たちを見守っているのだと信じた。そして未来の科学者は、人格は脳を流れる電気で生命が途絶えたと同時に無くなるのだと言った。
もし、こうして考えていることや強く想っているもの全てが電気なのだとしたら、それは悲しい。これだけの想いを抱いて懸命に生きているのだから、せめて魂のような何かがどこかで存在し続けている方が、残される人には慰めになる。
私も同じ。魂はずっとどこかで生きていると信じていたい。強く、信じていたい。
「……近頃、」
私の手を強めに握った彼が、天井を見やりながら呟き、私の意識は宙から寝台へのその人に降りて行った。話を聞くために顔を近づけると、淡褐色の瞳がゆっくりとこちらへ動く。
「遠い……遠い遥か昔また、弘子と共にいた気がする」
やつれた顔なのに、それでもいつものように笑って見せるその人が愛おしくて、頬を撫で頷き返した。
「ええ。私たちは、そういう星回りの中にいるのよ」
掌からぬくもりが伝わる。力ないその人の手を持ち上げて包み、自分の頬に寄せた。
今の彼は、熱が下がっても目を覚ますまでの時間が長くなり、一日経たないと目覚めない。目覚めても身体は動かず、眠っているような状態が長時間続く。弱っていく彼の隣に片時も離れずいることをしていても、話すのも次第に儘ならなくなったために、交わす言葉の数は日が経つにつれ少なくなっていた。
それでも今日は会話も多く、様子も朗らかだった。気怠そうではあるものの、病状も安定していて、いつもと比べても気分が良いようだった。
「ねえ、あなた」
呼べば、彼は「どうした」と掠れる返事をして私の顔を覗く。
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
彼の額に掛かる固めの髪を払いながら、唐突にそんなことを尋ねると、相手は「ああ」と吐息とも取れる音を漏らして頷いた。淡褐色が再び天井へ移ろう。
「弘子が、頭上から落ちて来た……あれは痛かった」
彼が笑い、私も笑う。
「受け止めてもらえるかと思ったら下敷きにしちゃったのよね。あの時は私だって痛かったのよ」
黄金から飛び出した私は、儀式中だった彼に勢いよく突撃した。彼は尻餅をついて、私はその上に倒れ込んで。それが私たちの始まりだった。戻れるのなら戻りたい、あの頃。
「だが嬉しかった」
その時のことを思い出していたら、次から次へとたくさんの記憶が胸に溢れ出す。
ここへ初めて来た日から数えて、あと数か月で5年の月日が経つ。アケトアテン、メンネフェル、テーベ。移り変わった3つの都、そこで見た景色、出会った人々。楽しかったこと、幸せだったこと、悲しかったこと。
全てがいいこと尽くしだったとは決して言えなくとも、これが無ければ私は今の私になれなかった。今までのこと、全部ひっくるめての今の私。
記憶を遡るほど懐かしさで自然と目頭が熱くなる。
「あの時……私の声が遠い遥か向こうにいた弘子に届き、弘子がそれに応えたこと、今でも良かったと思える」
「私もあなたに逢えて良かった」
微笑み合った。こんなつられて笑うようなありふれた時を、私はあとどれくらいあなたと過ごせるのだろう。柔らかく笑いかけてくれる彼の表情を見て、握る手の力が自然と増していく。次の発熱が起きれば、それが最後になるだろうと私も彼も侍医から知らされている。
だからこそかもしれない。どうしても悲しみが追ってくる今だからこそ、愛する喜びを感じていたいと強く思う。
忘れずにいたい。どんな時も。最後でも。最後を迎えたその先でも。
それから彼は少しの間目を閉じる。続けて話したから疲れてしまったようだった。髪を撫で、私は彼の声が聞こえまいかと耳を澄まし続ける。その静かな沈黙する時間が、何とも言えないくらい心地良かった。
「……ただ、」
目を閉じたまま彼が呟く。
「心残りはある」
「心残り……?」
すべてを出し切ったような清々しい表情が、一瞬悲しげに曇る。息を整えながら再び瞼を軽く開き、何もない一点を伏せがちの目で見つめた。
「タシェリさえ、生きてくれていれば良かったのだが」
私の手を離れてしまった愛しい子の名が出てきて、胸が締まる。この人も、あの子たちがいる世界に私を残して行ってしまうのだと思ったら、身が切られる思いがした。
「お前に、何も残してやれなかった」
心配を眼差しに滲ませる彼に、私は首を横に振って返す。
「そんなことない」
形に残るもの、想い、形無き掛け替えのない思い出。何より愛してくれた。
「あなたは私に沢山のものをくれたわ……だから、大丈夫」
強気で行かなければと思った。笑ってあげなければ。私が泣くと彼は想像以上に心配するから。悲しむから。
「私は、大丈夫だから」
彼の胸に手を添えて、細くなった肩に頬を寄せると、彼の汗の匂いがした。力なく手が動き、縋る私の髪を撫でてくれる。その感触を確かに感じながら瞼を伏せた。
この人を愛して、妊娠も出産もして。泣くほどに喜んで、笑い合って。3人でいた時がたった少しの間でも、幸せだった記憶が私の中に確かに存在している。輝きに満ちたあの日が、まだ昨日のように思い出せる。心の支えが、私にはある。
「あのね、」
「……ん?」
「私、身体は滅びても人の魂は永遠だと思うの」
彼に頬を寄せて、ぼんやりと話し掛けた。
「……当たり前のこと」
何を今更と、少し意地悪い顔をして彼は肩を小さく揺らす。同時に安心させるように髪から降りて行った手で肩を撫でてくれた。
「だからこそ、我々は己の身を遺す……永遠の魂を再びこの身に宿すために」
それが、ミイラ。何千年という気の遠くなる時間の中で、魂の還りを待ち続ける魂の器。
「人は必ず甦るのかしら……あなたも、私も」
沈んでは昇り輝く、神として崇められた太陽のように。魂の復活の象徴である、黄金の太陽のように。
「ああ……皆がそうだ」
上を見続ける淡褐色は、すべてが衰えていく中で揺らぐことなく真摯に灯っていた。
「そうやって魂は回っていくのだから」
エジプト人がどうしてこういう思想に至ったか。彼らが甦りの先に何を望んだかと問われたら、今の私なら分かる。理由は人の数ほどあるだろうけれど、それでも一番の理由は、死んだ人と再び別の世で巡り会い、共に生きたいと強く願ったからではないだろうか。
何がどうなっているか分からない、過去の栄光がすべて消えてしまっているかもしれない遠い未来に、人々は何を望めるかと言えば、死んで甦っているだろう愛しい人々を探し出し、再会すること。
人は人をミイラにして送り出す。次の世で甦り、また逢えることだけをただひたすらに願い続けて。
「3300年は長いな」
彼はそう言いながら、私の手を弱い力で撫で、瞳の中の私を淡褐色に染め上げる。
「どのくらい我慢すれば、越えられるだろうか」
自分が越えたあの記憶を瞼の裏に思い浮かべながら、淡褐色を覗く。握る手の指がゆるりと絡んだ。
「我慢なんていらないくらい、飛び越えると一瞬なの。黄金のナイルがあって、そこを流れて、越えた先にいつもあなたがいる。あなたが私を受け止めてくれる」
KV62で声を聞き、私は時を越えた。とてつもなく長い時の川を流れ、その先で開けた黄金の中で初めてあなたの淡褐色を見た。その時はどちらも不意打ちで互いに倒れ込んでしまったけれど、二度目はあれだけしっかり受け止めてくれた。あの時の嬉しさも感激も、現代を捨てた決断の重さも、まだ全部覚えている。思い出せる。
「待っていられるだろうか」
遠い何かを思い浮かべるように優しく微笑み、その人は呟いた。
「また、弘子をこの腕で受け止められるだろうか」
私を、その腕に。
「私は気が短いからな……待っていられるか心配だ」
彼は冗談気味に口元を綻ばせた。
3300年。その数字を声に出さず唇だけで唱えてみる。待つ身としては数年でさえ長く感じるのに、それが数千年となってしまったらどれだけの長さなのだろう。宇宙のような、私たちの想像を遥かに絶するもののような気がする。
「……いや」
悩む顔を崩し、彼はため息と共に「仕方ない」と小さく零した。私に言うのではなく、自分に言い聞かせるように。
「死んだら、我慢しよう」
決意に満ちた二つの瞳が私を映す。
「幾千年だろうが、どれだけ離れていようが、この太陽と砂漠の地で、いつまでもお前を待とう」
千年、千里、刹那。いつまでも。どこまでも。
「また逢いたい」
逢えるだろうか。現実的に考えてしまったら答えなんて決まっているのに、その希望が捨てられない。信じていたい。
「遠い時代の先で、お前を受け止めたい」
人の魂は甦り、生を受け、いずれまたどこかで出会えるのだと信じていたい。
「だから、その時もまた、私の上に落ちてこい」
視界が霞む。震え出す唇を噛み締める。
頷き返した。手を握り返し、握り直し、泣きそうになるのを必死に堪えながら、何度も何度も頷いた。何か答えてあげたかったのに、色んなものに邪魔されて声が出てくれなかった。
この人が好きで堪らない。こんなにも誰かを愛することなんてもう二度とないと思う。
「遠いその先で、また共に生きよう」
堪らなくなってその人の肩に縋った。縋ってまた何度も頷いた。私の頭を繰り返し撫でてくれる手が、何よりも愛しい。このままずっと離れないでいてほしい。私に触れていてほしい。
「約束だ、弘子」
あなたの優しい言葉。そんな実現するか分からない約束までも、私は果て無く愛している。
そしてその日の夜に、彼は最後と言われていた発熱を起こした。




