私
「生前の御身体とご対面して、御霊が騒がれてしまわれたのでしょう」
目の前には侍医と呼ばれる、丸坊主のおじさん。病院によくいる小児科の先生のようだった。
周りにいたネチェルと女官が良かった、と安堵の息を漏らすのを聞いた。
「大人しくしていらっしゃれば、案ずることはございません」
寝台に下半身だけ入れて寄りかかる私に、侍医は優しく微笑んだ。
「ファラオもご安心ください」
私の横に立つ彼は、そうかと言いながら眉を顰め、不機嫌そうな顔を私に向ける。腑に落ちないと言っているのが良く分かった。
「本当に驚きましたわ。ファラオが慌てて、泣き叫ぶ姫様をお連れになるんですもの」
アンケセナーメンのミイラに泣きついた私を、彼は必死に引き剥がし、抱きかかえるようにして外に待つネチェルやセテムと共に私の部屋まで連れて行ってくれたのだ。王家専属の医師である侍医を呼び、今ここに至る。
あれだけ意味も分からず泣き叫んでいたのに、ミイラから離れた途端、感情が治まり、涙も止まってしまった。その代りに頭痛がひどい。今でも少し吐き気がある。
「そうですわよね。昔宿られていた御身体とご対面されたら、魂が驚いて暴れてしまわれることも御座いますでしょうし…」
うんうんとネチェルは頷く。彼と私以外は、それでみんな納得すると思う。
でも、そんなはずない。私は私で、アンケセナーメンはアンケセナーメン。私と彼女は赤の他人。
それに私は魂なんて信じていない。人間の意識や心というものは、人体の中に流れる電流によって形成されるものだ。
身体自体が死んでしまえば、電気の流れは途絶え、感情も心もそれと同時に無くなる。魂なんて、その人が死んだと信じたくない人が考えたものだと、どこかの本で読んだことがあった。
死んだとしても、いつかまた魂が巡り会うなんてドラマや映画で良く見る感動話だけれど、あんなの嘘っぱち。現実主義の私にとっては馬鹿らしい話でしかない。こういう考え方が、恋愛というものと縁がなかった原因かもしれないけれど。
「もうよい、皆下がれ」
彼の言葉に、周りにいた人々が皆、頭を下げて部屋から出て行った。
扉が閉ざされて、沈黙が生まれる。不安に投げ込まれてしまう。
ここに来てから、本当に訳が分からないことばかり。
どうして私はあんなことを叫んで、あんなにも涙を流したの。
どうして。何故。
答えなんて、いくら考えても出てこない。
自分が自分でなくなってしまう気がして、思わず自分の身体を抱きしめた。
「……どういうことだ」
怒っているような、低い声色だった。
自分の肩のぬくもりを確かに感じながら、俯く。どうしても、彼と目を合わせる気にはなれなかった。
「お前はアンケセナーメンのミイラを見て、これは自分だと叫んだ。……一体どういうことだ」
「……知らない」
確かに私は叫んだ。
アンケセナーメンのミイラを見て、これは私、私の身体だと。
考えもしない言葉が口から勝手に飛び出した。
「本当に分からないのよ。……あの時、私は一つもそんなことを思ってなかったのに口が勝手に…」
「ますますお前のことが分からなくなったぞ」
言いながら、彼は私の足元の寝台に腰を下ろした。
私だって、もう自分が分からくなりそうなのに。
全く知らない赤の他人のためにあれだけ泣くなんて、自分でも信じられない。顔が同じすぎて、同情でもしてしまったのかしら。
「……まるで」
思い切って口を開く。
「私じゃない誰かが…私の中で叫んでいるみたいだった」
そう思うと怖くて、どうしようもなくなる。恐怖の淵に沈む。
「まあ確かに、あれはお前ではなかった。……強いて言うのなら」
そこまで言って、彼は口を閉ざした。何かを深く考える横顔に、薄く影が浮かぶ。
やがて横に首を振って、もう一度私の方を見た。何を言うつもりだったのか逆に気になるけれど、尋ねる気力も湧かない。
「……ヒロコはそういう病でも持っているのか」
精神的な病気のことでも言っているのかしら。
言われてみれば、そんな病気もありそう。二重人格とか。
「病を持っているならば説明がいく」
でもそんな診断なんて一度もなかったから、弱々しく首を横に振った。頭が動くたびに、脳が頭蓋骨にぶつかるような痛みが走り顔が歪んだ。
「ならば他に何の理由があるのだ。本当に記憶にないのか?今回と同じようなことは」
思い出せる限りの過去の記憶をあさってみる。
今までそんな症状なんて一度も……と思って、はっと顔をあげた。
「……あの時」
零した声に、彼がこちらを向いた。
「あの時?」
私も彼を見て、一度だけ頷く。
「……あなたが私を呼んだ時」
少し驚いたように彼も目を見開いた。切れ長の淡褐色が大きい。
「私がアンケセナーメンに甦れと言ってお前が落ちてきた時か?…その時もそうだったのか」
私が家族や良樹と一緒にルクソールを回って、KV62で彼の声を聞いたあの日、同じ現象が私に起きた。
「……あなたの声が聞こえた時も、私の足が勝手に動き出したの」
彼はまた眉根を寄せた。
毎回眉間に皺を寄せるものだから、いつか皺が戻らなくなるのではないかなんて思ってしまう。
「そこはあの王家の谷のお墓の一つだったのだけれど、声を聞いたら、足が動いてその中に入って……あなたの声に反応するように私も叫んだの。…まるで、呪文のような私の知らない言葉を」
思い出すだけで、背中に悪寒が走る。
まさにあの時と同じ感覚。まるで自分の身体が他の何かに乗っ取られて動いているような状態だった。
KV62の中の階段を流れるように降り、良樹に助けてと叫びながら、玄室に向かって行った記憶。私は彼の祈るような声に呼応して、両親の前で意に反して叫んだ。初めて聞く、意味の分からない呪文のような言葉を。
そのまま黄金に呑まれて、私は──。
「呪文か。それはどんな呪文だ?」
顎に手を当てて考える素振りをしながら彼が問うた。
「もしかすれば、その呪文がここと未来を繋ぐ魔術の言葉なのかも知れぬだろう」
それもそうだと思いながら、頭から絞り出そうと、髪をくしゃくしゃにして捻ってみる。
けれど、全く思い出せない。最初の文字も出て来てくれない。
そもそもあの言葉は随分古風なものだったし、意味さえ良く分からなかった。
「呪文というよりも、もっと何か、別のものだったような…」
「実にお前ははっきりしない女だ」
呆れたと鼻を鳴らし、彼はまた足を組む。
本当に偉そうな人。偉いんだろうけれど。
「自分の落とされた時代も正確に分からず、3000年くらい前だと言い張る。『くらい』とは何だ、『くらい』とは。それに自分がした行動の意味さえよく分からないなど、実に変なことを言う。今回の件でお前という人間が完全に分からなくなったぞ」
彼は大きなため息をつきながら、寝台を横断するように寝転がる。足が下敷きにされないようにと私も慌てて足を引っ込ませて、膝を立てた。私の寝台であるはずの場所に彼は楽な体勢で身体を伸ばし、主人であるはずの私は身体を縮めて体育座りの有様だ。
「はっきりしない奴は嫌いだ。国でも人間でも」
「仕方ないでしょ。本当に分からないんだから。嫌いなら、勝手に嫌いになってください」
言い返しながら、私も顔を立てた膝に埋める。
いつものように冗談を言って笑う余裕なんてない。
怖くて怖くて、堪らない。私自身が、怖い。
「もう自分が誰だかも分からなくなりそうよ」
また、沈黙が降る。
気持ち悪いくらいの静けさが、私を黒い渦の中に放り投げてしまう。
私は誰。私は弘子。工藤弘子。それだけは絶対に揺るがない真実。
何度も何度も、自分の名前を胸の中で繰り返す。自分というものを失ってしまわないように。あのミイラを見て「これは私だ」なんて叫んだけれど、絶対にそんなはずない。
分かっているはずなのに、私は一体何を言っていたの。
「……案ずることはない」
そっと響いた声に顔をあげると、彼は目を閉じたまま呟くように口を開いた。
「次、ナイルが満ちる時」
ナイルが満ちる。川の水位が一番高くなる日のことかしら。
現代でも古代ほどではないけれど、水位がかなり変化する川だから。
「あのミイラをナイルに流す儀式を行う。そうなればもう、お前があれと対面する機会は永遠になくなる」
アンケセナーメンはナイルに流される。母なるナイルと崇められる、あの川に。
「その儀にはお前も出てもらうが」
悲しい、と彼の声が私に訴える。彼にとって、その儀式が大切な人の永遠の死を意味する行為だから。
彼には悪いけれど、私にはその方がいい。あのミイラがあると思うと、アイディンティティを失ってしまいそうな気がした。
私は弘子。
この言葉を胸に抱いて、私は彼に小さく分かった、と頷いた。
「……また、おかしくなったら、よろしくね」
あのミイラをもう一度見たら、さっきみたいに意味も分からず泣き出してしまうかも知れない。
出来るのならもう近づきたくはないけれど、儀式なのだから仕方がない。
「女に泣かれるのは好きではない。びえびえ泣かれると殺したくなる」
凄味のある声色に咄嗟に身を竦めた。
それでも彼はそんな私を見て、小馬鹿にするように笑った。
「……一度だけだ」
「え?」
「一度だけなら許してやる」
その褐色の綻びに、自然と笑みが零れた。
さっきまであれほどに怖くて、笑えるような状況ではなかったのに、いつもの自信に満ちた勝気な笑顔が何故か、笑えてしまう。
「私の心の広さに感謝しろ、ヒロコ」
また笑う。今度は子供のように、顔をくしゃりとさせて。
「……感謝してあげる」
膝を抱いたまま、私もそれに微笑み返した。