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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
21章 残照
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頼み

 声は掠れ、大きな声は出せない。無理に立とうとすれば足が痙攣して動かせず、寝台に横になってなければ酷い眩暈で吐き気に襲われる。固いものを噛み切る力が無いから、食事は果物のような水分を多く含んだものか柔らかく潰したものしか喉を通らない。十分な量の食事が取れないせいで酷く痩せてしまっている。上体を起こすことは無い。一日を寝た切りで過ごし、吐くことも多々ある。一度発熱すると、それが長時間続くようになった。

 ここまでの症状が出るのにあまり時間を要さなかった。あっという間だった。


「大丈夫?」


 うつ伏せで用意された器を抱え、それに咽る彼の背中を擦る。手で軽く触れるだけで、痩せて浮き彫りになった骨の感触がありありと伝わってきた。


「ファラオ」


 傍にいた侍医も立ち上がり、大きく上下する彼の身体を支える。胃は空のはずなのに、彼は苦しげな声を何度も繰り返し続け、どうにか吐き切ると器を退けた麻の上に突っ伏して大きく乱れた息をひとつ落とした。

 咳き込む疎らな音は、数日前と比べて小さい。私も寝台の傍につけた椅子に腰を下ろし、その人の呼吸が落ち着くまで背中を擦る。

 嘔吐では誰も騒がなくなった。一日に数回吐いていることが当たり前になってしまった。


「……まだ、出そう?」


 寝台につけていた顔が私に向き、「いいや」と首を振る。


「いつもよりは、良い」


 それを受けてほとんど胃液だけの嘔吐物を溜めた器を隣にいた侍医に渡して、代わりに受け取った新しい器を彼の頭上に置き、彼の口元を拭った。

 侍医が外へと出て行く音を遠くに聞く。


「吐き気がしたらすぐに言ってね。吐き切っちゃったほうがいいだろうから」


 深い呼吸に合わせて頷く彼は、私の手を握ったまま悪寒に小さく身体を震わせ、顔を寝台に埋めた。


 マラリアの症状の一つである悪寒が特に酷いようだった。発熱時も解熱時も変わらず付きまとってくるため、以前の倍の寝具を掛けて温めるためにその上から身体を擦る。擦っているだけで随分違うと笑ってくれるから、最近は彼の肩や足や手を擦って温めることが私の日課になった。


「ナルメルたちは、終わっただろうか」


 しばらくして彼が独り言のように零した。掠れ、この距離でなければきっと聞こえないくらいのものだった。


「まだじゃないかしら……始まってそんなに時間も経ってないと思うから」


 扉の方に、誰かが来る気配はない。しんと静まった部屋には私たちの息遣いだけが微かに聞こえている。


「気になるならセテムを」


「……いや、良い」


 数日前、彼はナルメルに会議を一任し、事実上政から一切の身を引いた。この身体では十分な参加は出来ないと彼自身が判断してのことだった。会議は以前と同様決まった別の部屋で行われ、それが終わるとナルメルが経緯と結論を伝えにくることになっている。

 王でありながら、国政に関われない。そう悟り判断を下したこの人の心情がどれほどのものか、口にば出さないにしても悔しげに歪む表情や会議の進行を気にする言葉から聞かずとも見て取れる。それでも、議題や結果を聞くだけになったこの人は悔しげな表情を浮かべるだけで、文句も弱音も決して吐くことは無かった。

 こうやって、過ぎていくのだろうか。どこまで過ぎていくのか。治す方法はもうないのか。少しでも良い方へ進むことは無いのか。

 マラリアは発症から死亡までの期間は種類によって大きく異なるものの、アンケセナーメンが患ったとされるマラリアと同じであるならば、彼が感染したのも重症度が高い重マラリア感染症だと言える。発症からずっと見てきて、彼が感染したマラリアがそれであることは一目瞭然。残された時間が、今こうした瞬間にも確実に削り取られていっているのだと思わずにはいられない。

 その間に私に出来ることは、少しの時間でも傍にいること。苦しみを少しでも和らげること。溢れる愛しみを胸に抱いて感謝すること。それから。それから、私に何が。


「……弘子」


 呼ばれて目を向けると、彼が傍のテーブルを指差していた。そこにあるのは私が数日前に飾ったヤグルマギクの花だ。鮮やかだった花は枯れ始め、青がくすんでいた。


「摘んできてほしい」


 弱く微笑む彼の手が促すように離れた。離れた温もりが恋しくて、私は自分の手を握り締める。


「待っていて。すぐに摘んでくるから」


 微笑み頷き返した。








 遠い青。近い青。

 上の空の青と、地面を覆い尽くす青。

 藍色、藍白、群青、紺青、淡群青、白群。

 私の知らない沢山の青があって、どこまでもその色で満ちている。

 手を伸ばしたら、青に溶け込んで自分までがその色に染まってしまいそうだ。別世界に一人降り立ち、彼をここに連れて来たら病気なんて一瞬にして治るのではないかと思えるほど、景色に浮かぶ青さは現実から離れているように見えた。

 今の彼は、黄金というよりこの青に似ている。傍にあっても目を離したらすぐに薄れて、どこかに消えてしまいそうな。薄れて白になって無くなってしまいそうな、怖いくらい透明感のある青。

 だから傍を離れることに恐怖する。離れたら、戻った時寝台の上にいなくなってしまうのではないかと。彼が眠りにつく時、私が眠りに落ちる時、次の朝はやってくるのかと考えてしまう。


「……どうしたらいいのかしら」


 摘んだ花を胸に抱き直し、草と土の香りを傍らに膝をついて空に目を向けた。

 誰かに向けた言葉ではない。答えが出ないと分かっていながら、私は自分自身に問うている。

 日に日に弱っていく彼のために私には何が出来るのか。弱っていくその向こうに何があるのか。私たちが向かっているこの先の未来に、何が起ころうとしているのか。

 怖かった。これ以上進みたくない。進んでほしくない。時間が止まってしまえばいい。でも止まってくれない。止め方を知らない。


「お気を強くお持ちくださいませ。すべては神の御業の下に御座います」


 メジットの声が背後からかかった。私の問いに対する答えなんて誰も持ち合わせていない。誰も、どうしたらいいか分からない。これが神のみぞ知るということなのだ。


「そうね」


 頷きの後は風の音だけになる。上から下へ急速に落ちてくるかのように吹いて、足元の青さを揺るがした。


「王妃様」


 しばらくしてからだったと思う。メジットが小さく呼んだ。振り向くと、私を見つめる彼女の目がある。


「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 彼女の遠慮がちな声が真横を通り抜けた。ここの風に乗せられて聞こえる声は、いつも聞いているものと何かが少し違う気がする。


「王妃様のいらしたという未来には、ファラオの病を治す術があるのですか」


 青い地に膝を立て屈む彼女が控えめに尋ねたのは、私が来たと言うここから遠い世界のことだった。

 彼女から足元の花へ視線を流し、あの世界のことを想う。

 遠い、時代。現代医療の中に今の彼を助ける術は存在するのか。


「……どうかしら」


 あるのかもしれない。あの世界に戻っても、病気が末期まで進行してしまったら苦しみを和らげ、死期をほんの少し延ばすくらいしか出来ないかもしれない。ここまで病期が進んでしまえば、もう手立ては見出せないかもしれない。

 古代から続く感染症であるマラリアがどうしてあの時代にまで生き残っているかと言えば、史上最悪の殺人病という呼び名が伊達ではない特性を持っているからだ。古代から始まり、そこから数千年が経っても、人間は彼の患った病に頭を悩まされ恐れ続けている。


「宰相殿からお聞きしました。王妃様の御生まれになった世界は、私たちが信じられないもので溢れかえっているのだと。3300年の向こうは、すべてが存在する神なる素晴らしい世界なのでしょうか」


 神なる世界。そう言われて視線を反らし、「違う」と首を振って苦笑した。


「何もない場所よ」


 育ってきたあの環境は、私にとって掛け替えのない場所。好きな場所かと問われたら躊躇なく頷ける。メジットの言う通り、古代では想像を絶する物事が行われ、作られ、動いている世界だ。ただ、古代の人々に胸を張って誇りにできる場所かと問われたら、悩んでしまう場所でもあるのも確か。

 あの時代で、ここを取り囲むものはいくつも無くなっている。威を振り撒く太陽の輝きや、透き通ったナイルの水、澄んだたおやかな風。ゆっくりと流れていく時間。他人を受け入れるという多神教本来の教え。例えようの無い神々しさ。遺跡の持つ過去の栄光は、長い歴史の中で人々の記憶から忘れ去られるほどに薄れてしまっている。

 時と共に無くなったもの。人の手により壊されたもの。汚されたもの。形を変えたもの。発達した技術や重ね行く時の代わりに失ったものはあまりに大きい。それをあの時代に生きる人々が感じないのは、この時代を感じたことがないから。この時代の素晴らしさに触れてしまったら、もうあちらには戻れない。私は、今自分の生きるこの世界が、愛おしいのだ。


「あの世界に残してきた大切な人たちの存在を除いてしまえば、この世界の方が好き」


 ここに残ると心に決めて数年が経つ今でもあの時代を恋しく感じるのは、あちらに両親がいるからだ。会いたい気持ちが無くなった時など一時たりともない。


「帰りたいと、思われますか」


 彼女の問いかけに首を横に振って手元の青に視線を落とした。


「私の居場所はここしかない。それに私はここで生きてここで死ぬの。もう戻らないと、あの人の傍にいるのだと、ずっと前にそう決めた」


 この時代を選んだことに後悔はない。悩んで悩んで、選んだ道だった。今もあの時の判断を私は誇りに思っている。


「あの人は私を未来に帰せなんて言ったけれど、帰るつもりなんてこれっぽっちもないのよ。私は皆と一緒にここで生きていく。彼が戻れと言っても、私は戻らない。ここが私のいるべき場所なんだから。ここにしかないのだから」


 青い花を抱き直して、安堵の表情を浮かべたメジットの方を向く。彼女のほっとした笑みに笑みを返したら、身体が動いた拍子に腕にある花の香りが強くなった。


「早く帰りましょ。あの人が待ってる」


 はい、と頷いたメジットを囲む、ヤグルマギクに埋め尽くされた空間はどこまでも青々と生茂っていた。








 部屋に入り、メジットと別れて寝室の扉の方へ向かい足を動かす。寝室の扉に入る前に、ヤグルマの青を抱く手に力を込めた。深呼吸して、口端を上げてみて、それから扉を開けようと手を伸ばした時。


「あなたは死にはしない」


 扉の向こうから聞こえた声に、宙にあった手が止まる。


「死を覚悟するなど、あなた様らしくありませぬ。そのようなお覚悟、俺が尊敬したあなたなら決してしなかった」


 強気な声だった。この真っ直ぐな声色の主が誰であるか悩まずとも分かる──ラムセスだ。

 あなたと呼ばれているのは、この部屋で眠っているはずの彼。

 ナルメルの代わりに議会の結果を伝えに来たのかと考えたものの、声色からしてどうもそんな雰囲気ではない。

 扉に身体を寄せ、耳を澄ませた。


「あなた様の先日のお言葉に、俺はまだ納得しておりません。受け入れられるはずがない」


 強いながらもどこか悔しげな声に、歯を食い縛って訴えている姿が目に浮かんだ。多分彼が私を現代に帰せと言った時のことを言っているのだろう。

 彼や私たちが置かれた現状を、飲み込めていない。ラムセスと私の考えは一番似通っているようにも感じた。


「あなたは勇猛果敢なる我が国のファラオだ。正統な王家の血を継ぐ、神に最も近きただ一人の御方。あなた以外の者が王となるなど、俺は認めない」


 追い詰められた懇願が縋る。


「それに俺は、俺は……」


「ラムセス」


 掠れた声がラムセスの後を追った。必死さが滲む相手側のものとは随分と違う、ゆったりとした彼の声は辛うじて出しているくらいの大きさだった。


「古来より続いた王家の血は私で最後だ」


 彼に生存する兄弟姉妹はいない。望んだ王家の血を継ぐ子がいないとなれば、今まで続いてきた血統は彼の存在が失われた時初めて途切れることになる。


「この先、私がいなくなれば弘子がどんな目に合うか……今の私でも容易に想像がつく」


 何を二人で話しているのだろう。もっとよく聞こうと耳を扉に近づけたら、自分の左手にある指輪が目に入った。本来なら、タシェリのように彼と私の間に生まれた子に引き継がれるはずだった指輪。王位継承の証。私の影を被り、その淡緑は薄れて灰色が混じる。


「ですが俺は……」


 切実な声だった。躊躇ったのか、ラムセスの声は次第に小さくなり飲み込まれ、やがて沈黙へと移り変わる。


「妃をお前に頼みたい」


 扉の向こうの彼の言葉に、はっと息を呑んだ。目蓋の瞬きが止まり、彼の声が何度も私の中で反響し始め、それが徐々に鼓動を早める。


「早死にと知っていながら私の傍にいることを選んでくれた。傍にいると言ってくれた。もとの世界にいた方がどれだけ幸せだったか……親に囲まれ、友に囲まれ、笑っていたはずの弘子を私は3300年の時を越え、この砂漠の国から呼んだ」


 この声。この声が、黄金が煌めくこの世界と、黄金が薄れてしまったあの世界を繋いだ。


「呼んだ私が最後まで傍にいてやりたいのだが、この身体ではこの想いについて行ってはくれぬ。弘子を守ることを許してくれぬ。故にお前に託す」


 扉越しの悔しさが滲む声を耳に、花を握りしめた。花弁の擦れる音が指先に響く。


「私の死後、ラムセス、お前が弘子から私の名を継ぎ、王となれ」


 一輪の青が指から零れ、足元に落ちる。


「自分以外の男に渡すのは気が引けるが、そう言っていられる状況でもない。私が死ねば王位を狙うすべての者が、王位継承権を持つ弘子を狙うようになる。そうなればこの国さえどうなるか」


 音無く落ちた青を見た。


「国と弘子を託せるのは、お前だけ」



 空間がしじまに満たされる。何かが動く音も、息遣いも聞こえない。腕が固まって動いてくれなかった。動いてくれない代わりに、指先の感覚がやけに鋭敏になって、握り締めることさえ躊躇われる。

 微かに呼吸を繰り返すごとに、彼が何をラムセスに頼んでいるのか、ようやく私の頭はその真意を飲み込み始めていく。自分の死後、私がこの指輪を与えてラムセスと婚姻を結ぶことで、ラムセスに王位を継いでほしいこと。その話が、今この扉の向こうで成されている。


「……死を覚悟した今も、愛していらっしゃるのですか」


 彼と同じくらい掠れた、ラムセスの声が聞こえた。


「愛している」


 噛みしめるような声に、遣り切れなさが募る。


「心から、愛している」



 あなたは、分かってくれていないのだろうか。私の幸せはもうあなたの傍にしかないと言うことを。

 この扉を思いきり開けて「そんなの駄目だ」と叫びたくても、それを言える程の他の道を、私は知らない。

 それからの彼のやり取りは聞こえなかった。無かったのかもしれない。この扉の向こうに誰もいなくなってしまったかのように、何も聞こえなかった。

 扉を開けて何食う顔をして部屋に戻っても良いだろうに、私の手は動かない。前に動くどころか扉から離れ、身体の横に落ちて行った。その前で立ち竦み、遣り切れなさに息をついて目を閉じた。


 彼は、遠くにいる。遠くを見て、遠くに歩いて。いつか、消えてしまう。

 いつかじゃない。きっと、あと少し。

 私の手の届かないところへ、行ってしまう。



 前にも後ろにも進めず途方に暮れていると、突然正面の扉が開き私の前に誰かが現れた。途端に影に覆われ、視界は薄く陰る。驚いて一歩後ずさり顔を上げた拍子に、目を見開くラムセスを見た。

 緑目と視線が合い、身が固まる。声は出なかった。互いに一言も交わさず、大きく揺らした眼差しで相手を見つめ、扉が閉まる音を意識の片隅に聞いている。


 ああ、彼は、この人を王にしようとしているのだ。

 彼がいなくなった後の王位後継者。私の次の夫。


 自分の身に何かがあれば、自分と似た物を持つこの人に王位を継承しようとしている話は、メンネフェルで彼から聞いたことがある。でも、どうして受け入れられるだろう。

 それは、切なげに顔を歪めるラムセスの中でも同じなのだと思う。ぐっと唇を噛み締めたラムセスは、握り締めた拳を背後の閉じ切った扉に思いきり叩きつけた。鈍く放たれた音は、私の前に虚しく響く。音は彼にも届いたはずだ。ラムセスなりの訴えだったのかもしれない。

 そのままラムセスは緑の視線を私から逸らし、何の声も掛けることなく、今の対話の説明をするわけでもなく、私のすぐ傍らを過ぎて行った。


 去り際に生まれた小さな風が髪を揺らす。サンダルの音が遠ざかる。音がなくなる。

 扉にもたれた。悲しくて、声を上げて咽び泣きたくて、これをどこに投げてしまったらいいか分からないまま屈みこみ、床に落ちた一輪を腕に拾って青い花を抱き締める。草と花の香りに埋もれた。

 咽び泣きたいのに、不思議と涙は出なかった。


 教えてほしい。

 誰か、分かると言うのなら教えてほしい。


 私の太陽は、明日もまた昇りますか。




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