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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
21章 残照
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決断

* * * * *


 マラリア──マラリア蚊に刺されることで感染し、一刻も早く治療を開始しなければ熱と解熱を繰り返す内に重症化し、短期間で人を死に追いやる原虫性疾患。史上最悪の殺人病。

 このフレーズが頭の中に鳴る度に、怯える私は頭を何度も横に振る。唇を噛み締め、這いつくばるように前に置かれた文字を目で追った。

 何枚ものパピルスが手元に交差し、四方八方に広がっている。限りなく茶色に近い黄色の上に黒で書かれた崩れた字体は、私が知る文字よりもいくらか崩れ、走り書きしたような印象を与えた。

 耳を澄ませば、他の医師たちが棚の向こうでパピルスを紐解く音がする。乾燥したパピルスのそれは、思った以上に虚しい。


「王妃様、そろそろお休みを」


 隣に控える侍女が言い終える前に首を振り、読んでいたパピルスを彼女の方に退けた。


「いいの、大丈夫」


 膨大な量のパピルスからそれらしいものを探して食い入るように読んでは、求めているものが無いと知って失望する。この繰り返しをどれくらいしてきたのか。今手にしているものにも無い。パピルスの文字を追ってきた指先は脂分を失って乾燥し、うっすらと痛みを感じた。

 こんなに探して見つからない訳がない。古代でもこれだけ医療が発達しているのならば、過去に彼と同じ疾患の治療に成功した人がいても何ら不思議は無い。成功して、その治療法をどこかに書き残しているかもしれない。

 気を持ち直し、身を乗り出して再びパピルスに人差し指の先を置く。植物を編んで作った独特の感触が走り抜ける。

 何か。何か、ありはしないか。手立てがないと落胆する侍医たちが見逃した何かが、どこかに。

 時間を忘れ、我を忘れ、目で文字を追いながら何か方法は無いかと闇雲になる。見つからなくて、見当たらなくて、泣くまいと噛みしめた唇は切れて血の味が舌に滲んだ。


「王妃様」


 手元に新たな灯りが落ちて来た。今まで頼りにしていた燭台より数倍明るく、黄色のパピルスの色に当たる光が増し、その眩しさに私は目を細める。


「そろそろお休みになりませんと、御身体に障ります」


 隣に控えていた侍女の声ではない。顔を上げて、自分の上を急に照らした灯りが、心配そうにこちらを見ているメジットの手に持つ物からだと知った。取手のある燭台の上に、私の手前にあるものより大きめの炎が揺らいでいる。


「侍女たちも御身を案じております」


 彼女が私の傍に膝を付き、その手に揺れる炎が顔に近づいて熱が頬にかかる。

 仄かに熱い。熱を避けるように視線を動かすと、背の高い棚が立ち並び、その中の蔵書の多さが視界に入った。数え切れない巻物状にされたパピルスが棚の中に綺麗に揃えて並べられている。

 図書館という言い方が正しいのかは分からない。厳粛な空気に包まれたここは、図書館とは似て非なる場所だったが、数千年前から今までの政治や戦争の記録、医療や王位継承や神々のこと、外国のことに関してまとめられた現存する王家の記録のすべてがここにあった。

 なのに、見つからない。これだけあって、彼と同じ症状が記されていても「死の病」と表記されて終わるだけ。

 死の病は、死が決定づけられている治療の施しようがない疾患に付けられる総称だ。その名が憎たらしく、恨めしかった。泣いて、溢れてくるものをぶちまけたかった。堪らなくなって息を深く吐きながら椅子に寄り掛かり、両手で顔を覆って項垂れる。

 また発熱して苦しむ彼の姿を見ているだけの自分が耐えられず、ここで必死になって探していたけれど、何も、何も見つからない。


「お気を確かに」


 透かさず手を伸ばして案じてくれた彼女に頷き返す。頷く以外の反応を、持ち合わせていなかった。


「……もう少し、いさせて」


 断って前のパピルスを手前に引いた時、侍医についている医師の一人がメジットに駆け寄り何か耳打ちしたのを受けて、彼女が私に顔を近づけた。


「ファラオのご容体が安定してきたと。間もなくお目覚めになりましょう」


 彼が。目覚める。

 メジットを見ると、彼女が弱く笑んだ。


「お傍に、お戻り下さいませ」







 侍女たちと夜の廊下を行く。メジットの持つ灯が照らす自分の足元を見ていた。照らされた赤に似た光と柱の間から落ちてくる月の淡い白が絡み合う。首から鉛の重石を掛けたように、視線は前を向かない。

 縋る思いで大量の書物を保管するあの場所に籠って資料を漁っても、甲斐と呼べるものは何も得られなかった。それへの失望と、今までの疲れが混在して、足を動かすこと以外をしたら何かに潰されてしまう気がした。


「これは、侍医殿」


 メジットの呟くような声に、私はようやく顔を上げて前を見た。首に違和感を覚えながら見た光景には、右斜め前にメジットがいて、彼女の持つ灯りが照らす向かいに人が数人立っている。灯りの所為で視界にぼうと見えていた人影はすぐに鮮明になり、それが誰でどこからやってきたのか分かった。

 彼の処置を終えて部屋から出てきたであろう人たちだ。私に深く頭を下げるその人の面持ちは、目の下に隈ができて、血色も悪く、かなりやつれてしまっている。


「出来る処置は終わりました」


 侍医はもともと多くを語る人ではなかったものの、最近は望みをすべて絶ったかのように最低限のことしか話さなくなった。以前は柔らかな表情をしていたのに、話している内も心ここに非ずと言うべきか、真っ直ぐ私を見ようとしない。昨日彼が発熱した時には、歯と歯が噛み合わないくらいに震え上がっていた。死の病だと分かり、自分の手で王を救えないと悟ったこの人の気持ちが分からない訳ではない。この人も私と同じ、何も見つけられず路頭に迷った人なのだ。


「ファラオのご容体はいかがでいらっしゃいましたか」


 私の一歩前でメジットが問うと、その人は俯いたまま口開く。


「……安定、していらっしゃいます」


 安定。そうは言っても、高熱が下がる解熱期に入っただけの話だ。いずれまた彼は発熱するだろう。


「また、何かありましたら」


 お決まりの言葉がそうやって抑揚を低く変えて続く。出来ることがない、手立てがないと、以前には聞くことも無かった声がその言葉の裏に隠れているようだった。私が返事する前に、侍医は他の医師たちを連れて重い足取りで進み出した。私は止めることもせずに彼らの背中を見守る。

 小さかった。以前は大きく見え、何かあればすぐに頼っていた存在が、これでもかと小さく見えた。

 悟らざるを得ない。頼れる人は、もう誰もいないのだと。


 部屋に入り、寝所の前でメジットたちと別れ、一人で奥へと繋がる扉の内側へ向かった。開けて入ると、私の代わりに部屋にいてくれたネチェルが礼をして出て行き、扉が音立てて閉ざされる。

 いつもと変わらない馴染んだ空間がある。心なしか、毎日欠かさず塗っている彼の香油の匂いが薄くなっている気がした。

 寄り掛かるように扉に近い方に立ち、寝台に目をやった。寝台の上には人が寝ていると知らせてくれる、緩やかな傾斜が見える。浮かんでは沈んでいく色々なものに苛まれていても、規則正しく上下する姿だけで安堵がこみ上げ、引き寄せられるようにその方へ私の足は小さく駆け出していた。

 近づいたそこに、何度目と知れない熱がようやく下がった彼が疲れ切ったように眠っている。血色が悪いその頬を撫で、微かに睫毛が動くのを見、私は胸を撫で下ろす。頬から額へ、髪へ、手を流して、自然と籠っていた力がやっと抜けた。汗が額を流れているのを見て、それを拭い、他にやることはないと思った途端に膝が崩れ、傍の椅子に座り込む。そのまま寝台の余った部分に両腕を置き、彼の肩に寄り添うに形で顔を埋めた。

 まだ信じられていない。信じられない。そうであるはずがない。

 けれど、どんなに間違いなのではと訴えても、そうだと頷いてくれる人は誰一人としていなかった。

 侍医たちは過去にいたアンケセナーメンと同じ病で間違いないと言う。当の彼でさえ、自分は死の病なのだと言って疑わない。マラリアなど、縁の遠い話だと思っていた。関わることの無い疾患だと思っていた。

 現代にいた頃、近所の人がマラリアに感染して亡くなった話を噂の形で聞いたことがある。あの時の私にとってのそれは、所詮他人事でしかなくて、同情から生まれる切なさを僅かに感じるくらいで感心なんて一つも無かった。

 どうすればと考えては、悩んでは、怯えては、路頭に迷うばかり。どこにも進めない息苦しさに、私は堪らず目を閉じた。




 何かが、撫でていた。私の頭を。ゆっくり、髪の流れを確かめるように。包むように。流れているのは多分、大きくて骨ばった、私の好きなあの手。

 今まで自分が寝ていたことに気付いたのは、5回ほど手が流れた時だった。

 目を開いても腕の中に埋めた顔を上げることもせずに、ゆっくりと行く感触のままに瞼を閉じ切らないくらいに下ろす。そうやってしばらく動きを追っていたら、手は動く範囲を狭め、やがて頭に置かれて動かなくなった。


「……弘子」


 呼ばれて頭を上げると、頭上を包むようにしてあった手は、頭を上げるに従い頬へと下り、寝台の上に添えた私の手に重なった。

 あたたかい。重なる手を見てから顔を動かして視線を上げる。髪の黒が音無く線となって落ちて行って、開けた視界の先で淡褐色が私を見ていた。熱の所為で潤む相手の瞳が一度瞬きをして、その下の唇がもう一度私の名を象る。


「……こんな顔をして」


 声に、泣きそうになった。


「寝て、いないのか」


「あなた」


 堪り兼ねて重なった彼の手に額をつけて縋る。目元が熱を持ち始めるのを堪えて額を擦り付けた。

 彼が目覚めて自分を呼んでくれたことが嬉しい。熱が下がったことに病気の進行がある気がして恐ろしい。せめぎ合うものにどうにかなってしまいそうだ。

 どうした、と彼は微かに笑って、反対の手を私の肩に伸ばして擦った。弱っている身体に無理な体勢を取らせ続ける訳はいかず、身体を起こして彼を見た。すぐには言葉が出ず、何度か唇が開閉を繰り返し、少し経ってからやっとのことで声が出る。


「アンク……私ね」


 小さく頷くだけの返事が返ってくる。言葉を続ける前に、私の視線は一瞬宙を彷徨って自分の手元に落ちた。


「……違うと思うの」


 なんて頼り無いのだろう、私の声は。

 そう感じながら当たり前のことなのだとも思う。何せ、言っていることの根拠などどこにもない。根拠のない言葉など、ただの嘘や希望でしかないのだから。


「あなたは治るわ」


 根拠もないただの嘘だと悲しいくらいに分かっていて、それでもこれを唱えているのは何故。

 信じていたくないから。私を強く揺さぶりながら「そんなものに感染していない」と言って欲しいから。


「……マラリアなんかじゃないから……大丈夫だから」


 なんて愚かなのだろう。彼を見ずにそう言う声は震えてしまっている。


「大丈夫、治るから……」


 信じたくない。死なせたくない。失いたくない。そればかりが先走る。

 未来が怖い。『死の病』としか書かれていないパピルスの文章が浮かんで、彼の手を強く握った。これでもかと握って、自分の手の震えが露わになる。

 流産した時やタシェリを失った時のような、あんな思いはもう沢山。誰かを失って、死んでしまいたくなるほどの悲しさは、もう沢山だ。

 どうしたらいいのだろう。どうしたら失わずにいられるだろう。

 繰り返す疑問を頭の端に、寝台の彼の頭上にいる、小さな黄金で作られた神を見た。黒く塗られた澄ました目は、金の中でこれでもかと映え、何もない表情の上でこちらを見据えている。せめてこの人だけはと、その像に祈っても治る兆しは現れない。むしろ日に日に衰弱していく。


「あなたは、きっと……きっと」


「弘子」


 彼が呼び、それで私の声が絶たれた。その人は血色のよくない表情で一度頷き、なだめようとするかのように私の手を擦る。否定も肯定もくれないあなたは、静かに私の髪を撫でて、悲しげに笑うだけだった。







 発病して半月経った頃の発熱から、彼は歩こうとしなくなった。毎日握っていた杖は終日同じ場所に立てかけてある。私の目を盗み、悪戯をする子供のように笑って歩き回ることもない。杖とサンダルの音を鳴らしながら、庭の方へと足を引きずっていたあの頃が遠かった。

 足の痛みに耐えられなくなったのか、身体の怠さがその痛みに拍車をかけてしまったのか、歩かなくなった理由は分からない。

 代わりに、体調が安定していると、上体を起こしてよく何かを考えているようになった。熱が出ている時は駄目でも、下がって落ち着き始めると身体を起こし、遠い目で何やら考えを巡らしている。

 何を、とは教えてくれない。私も聞こうとしなかった。聞けなかった。伏せがちの瞳で穏やかに想いを馳せている時の彼は遠い何かをその眼で見ているようで、手が届く場所にいない気がした。何を考えているのか聞いてしまったら、彼が更に遠くへ行って、もう二度と触れられないのではないかという恐怖があった。

 食事は柔らかくなるまで潰したものが中心になった。噛む力が弱くなって、固い物は基本彼の胃が受け付けない。食べても嘔吐することが二日に一回の頻度で起こり、隣には嘔吐のための容器が常備されている。

 そんな彼は、発熱と解熱を数回繰り返す内に、目に見えて分かるくらい痩せていった。決められた部屋で行われていた会議も、ナルメルたちが資料を寝所に持ち込み、寝台から離れられない彼の傍で催される。寝台から起きて会議に言及する彼を支えながら私もそれを見守る。

 神殿に行く日課も、今は私一人になった。神殿までの距離を歩く力は彼にはなくなってしまっていた。

 二つ並んだ小さな棺に彼から預かった言葉を置いて、花を並べて過ごす。

 生活を囲んでいた習慣の数々が、代行になるか、彼の傍で行われるかのどちらかが取られる体勢へと次第に変化していった。

 私が毎日欠かさないことは、花を摘んで部屋に飾ること。身体が怠くても、花があるだけで気がまぎれると彼が言ったから。朝には彼の身体に香油を塗ること。これは今まで欠かしたことが無い私の仕事だから。そして夜には彼の身体を拭くこと。食事の手伝いなどの介護や生活に関わること。他諸々。動けなくなった彼の手や足になることが、今の私に出来る最大限のことだった。

 髪が伸びて邪魔そうな時は私が切る。浴場まで行けないから、私がお湯に濡らした布で髪全体を包むように拭いた。身体は弱っても相変わらず髪は固い。こうやって撫でている内に柔らかくなったりはしないかと思っても、ちっともならなくて笑ってしまう。些細なことでふと笑いが漏れる時の存在がありがたく、二人で笑い合える瞬間が愛しかった。


「辛くは無いか」


 そんなことを聞かれたのは、いつものようにお湯に浸した麻で彼の身体を拭っている時だった。何か真剣に考えている様子だった彼が突然呟いたことに少し驚いて、手を止めた。目の前には彼の背中が広がり、筋肉の落ちたそこは骨が露骨に浮き彫りになり始めている。


「どうして?」


 聞き返すと、彼の横顔は低く唸り、前へ向き直って見えなくなった。私からの問いに、彼は黙ったまま答えない。答えを待つ沈黙の間にお湯を溜めた水が揺れて小さな円形の波紋を広げていく。その聞こえないはずの音さえ聞こえてきそうな時間だった。

 麻を絞り直して、いくつもの水滴が水面に当たる音を聞きながら背中に当てる。顔が見えない後ろ姿からだけでも、やはり何かを思い詰めているようだった。小さく息をつき、私はもう一度その背に麻を宛がう。


「私は平気よ」


 拭きながら答えた。


「あなたがいれば、大丈夫」


 私はあなたのためにいる。タシェリがいなくなっても、こうして生きようと思っていられるのは、あなたが生きていてくれるからだ。彼のためにいるというのに、どこに辛さがあると言うのだろう。


「こうしていることが幸せなの」


 どうしようもないくらいに。


「あなたの傍に居られるなら、私はそれだけでいい」


 目の前の褐色の背に額をつける。腕をその胸に回して縋って、抱き締める。彼の手が胸元を走る私の手を優しく包み、握ってくれた。

 これだけのことに私は幸せを見出せる。傍にいて良かったと思える。これからも傍に、と何度も願う。

 声で返す代わりに、彼は私の手を引いた。前より弱くなってしまっていても、その手の強さが泣きたいくらいに嬉しかった。




「今日は特別に気分が良い」


 寝る時間になって、使い終えた湯を侍女に手渡す私に向かって彼が言った。そう言えば、いつもより顔色もいい。今までで一番安定しているのかもしれない。


「良かった」


 寝転がるその人も嬉しそうに頬を緩める。大きく呼吸して、彼の胸が大きく上下した。


「久しぶりだ、こんなに清々しいのは。気分が少しも悪くない」


「これで思う存分寝れるわね」


「ああ」


 侍女が下がって行き、再び二人だけになると私は寝る前にせっせと明日の支度を始める。セテムから伝えられた明日の会議の予定を見たり、彼が明日着る服を用意したり、すべて終えて横になる彼の方へ行くと、彼が隣に来るようにそこを軽く叩いた。


「たまには、どうだろう」


 ねだる様に彼の目が細められる。その眼に私は微笑んで返した。

 彼の体調が安定している夜だけ、隣に横になって眠る。彼が使う寝台以外にも寝台は用意されているけれど、彼が手招きして笑ってくれる日があれば、その体調を見て言葉に甘えることが多かった。

 数日ぶりに隣に横になって、懐かしい居場所に戻ってきたかのような気分になる。視線を上げると直ぐに彼の淡褐色が浮かぶ。私に手を伸ばし、抱き寄せてくれる。彼の吐息が額に掛かる。くすぐったさに笑うと、その人も笑った。

 今までずっと、こうやって寄り添ってきた。彼の隣。ここが私の望んだ場所。この人がくれた、私の居場所。抱かれて天井を何となしに眺めながらそんなことを思う。身を寄せ合い、彼の指が私の髪を梳いていく心地良さを感じている。他愛のない話をしてから少し笑って、安らぎを感じる沈黙があって、いつからということなく眠気に従って目が自然と閉じていく。


「──弘子は」


 不意に、微睡み始めていた私の意識は引き戻された。上を向くと、まだ眠気を感じていないような彼の目が私を映している。瞬きが少ない瞳は静かで、優しい眼差しを宿し、夜の月光のような静けさがあった。


「……何?」


 うとうととしていた目を擦り、聞き返す。


「まだ、未来に帰りたいと思うか」


 思いがけない言葉に、目を擦る手が止まった。彼は私の肩を抱きながら目を天井へと向ける。何があるという訳でもないそこを、彼は見つめてもう一度その口を開いた。


「父母もいる何もかもが発達した世界に帰りたいと、今でも思うか」


 この人と出逢った当初は帰りたくて何度も思い返しては泣いた世界。彼を引き換えに別れた世界。それを思った時、懐かしい風景が頭の中を突風のように吹き荒れた。

 あらゆるものが存在する時代。違う。今この時代で感じられるものすべてが失われた時代。

 曇った黄金。黒ずんだナイル。茶色の谷の小さな王墓。主を失った悲しい黄金で埋め尽くされた博物館。私にすまぬと謝った、ガラスケースの向こうの黄金の仮面。そこから伸びた褐色の手。


「戻りたいか」


 こだまのように繰り返された声に、我に返った。昔の記憶に飛んでいた意識が戻ってくる。こういう話をするのはいつ以来だろう。彼の傍という居場所を選んでから今までそんな話をしたことがなかった。


「あの遠い、弘子の──」


「やめて」


 首を勢いよく横に振り、彼の言葉を遮った。その先が聞きたくなくてさっきよりも強く、その人顔が見えないくらいに胸に縋って自分の顔を埋める。

 恐怖に襲われた。私の身体を貫通していったそれは、胸の鼓動を大きくさせる。


「私がいなくなったとしても、変わらないか」


「やめて!」


 静かな瞳に悲鳴のように叫んだ。


「変わらない、絶対に変わらない……!」


 子供のようだと思う。嫌だ嫌だと泣き叫ぶ子供のよう。泣いて怯えて咽ぶ自分を、どこか冷めた気持ちで見ている自分がいる。なのに、止まらない。


「あなたはいなくならない!!死なない……!」


 怯えるように震え出す私を抱き込んで、彼が「分かった、すまぬ」と何度か繰り返すのを聞きながら、私は眠れない夜を過ごした。

 一晩中私の背中を擦ってくれていた彼もまた、眠っていなかったのだと思う。


 分かっている。受け入れられていないのは、他でもない私なのだと。死なないと。絶対に治ると。そう誰かに言って欲しかった。

 そう。誰よりも、あなたに言って欲しかった。







 それから数日、彼が悩ましげな表情をする日が続いた。私は聞かないで傍にいることをした。時折どこか遠くにいるような切ないくらいの目をするから、取り留めのない話題を唐突に吹きかけて笑いを誘うことをしても、話題が終わると彼は何かを考え始めてしまう。

 悪化していく病気のことか。日に日に動かなくなっていく身体のことか。いつかの夜に私に話した、『未来へ戻すこと』か。傍にいて分からないようで、分かりそうなのが怖かった。おそらく、第一に挙げられることは間違いなくマラリアだろうと思う。死の病と分かって、恐れない事の方が少ないだろうに、傍で見ている彼の様子に病への動揺や怯えはひとつもない。死ぬかもしれない病を患ったという事実に彼が動揺を示したのはたった一日。怯えて震えて、どうすればいい、と私に縋ったのはたった一日だった。

 日が経つにつれて彼は自分の状況をしっかり受け止めていく。対する私は間違いだと駄々を捏ね、現実から逃げて行こうとする。

 なんて様だろう。こんな自分に虚しくなるのに、逃げずにはいられない。それをしないと、自分が壊れてしまいそうだった。

 自分に呆れながら書物庫から部屋へ歩く夕暮れを過ぎた廊下は、すでに暗かった。太陽はもう沈んでしまっているのに、雲の下側が沈んだ薄い橙の陽光を浴び、朧に光っていて不思議な光景が空を彩っている。すぐ傍まで夜が迫りつつも、太陽の名残を残した風景は改めて幻想的に思えた。

 もう少しで世界は夜に包まれる。夜になって、巡って、また今日と同じ次の朝が来るだろうか。彼はまた何かを出来なくなるのだろうか。朝が来たら病気が治っているようなことはないだろうか。そんな奇跡をこれほどまでに祈っているのに、どうしてそうならないのだろう。

 今日も、書物を開いて治療法を探していたけれど結局何も見つからなかった。手遅れになる前に、探したいのに。このままでは、彼は。


 ぼんやりと頭を巡らせている内に、侍女と共に部屋の大きな扉の前に着いた。扉の両端にはいつもと同様兵が二人いるものの、彼らを取り仕切るカーメスがいなかった。疑問に思いながらも聞くことはしなかった。それだけの気力が残っていない。

 兵が一礼し、扉を開けてくれる。そこに踏み出し、彼がいる最奥の場所へと侍女二人を連れて歩いた。

 最後の扉を前に、沈んだ気持ちのままではいけないと、自分の口端を上げて微笑を作ってみる。一息ついて扉を開け、奥の寝所へ踏み出し、そして見えた光景に思わずたじろいだ。

 ナルメル、セテム、ラムセス、カーメス。ネチェル、イパイ、カネフェルまで。彼を囲むようにしていつもの面子が揃い、彼に敬意を払うように一糸乱れず並んでいた。彼が信頼している臣下がそこに集結している。


「……どうしたの?」


 この張り詰めた雰囲気は何だろう。一歩だけ進んだ私のサンダルの音が予想以上に大きく聞こえた。


「ファラオからお呼びがかかり、ここに参上いたしました次第で御座います」


 私に一番近い場所にいたカーメスが答えてくれる。その笑みはどこか儚い。


「そう、なの」


 頷いても、彼がこれだけの人を集めた真意が掴みかねて曖昧な返事になる。話し合いの予定はなかったはずだ、誰かを呼ぶならいつものように私に知らせてくれてもいいだろうに。

 こうして周りを見回してセテムやナルメルたちが浮かべている表情も、複雑な、哀愁を感じさせるものばかりだった。ネチェルは今にも泣きそうな顔、ラムセスに至っては歯を食いしばって俯き、垂れた髪の影で目元が見えない。胸騒ぎがした。


「弘子、ここへ」


 呼び声の方へ顔を向けると、こちらへ来いと私に手招きする彼がいる。彼は私を隣に座らせ、私の背に手を回し、弱い笑みを浮かべて息を一つついた。少し辛そうに息をしているから心配になり、手を伸ばして背中を擦る。すでに長く話をしていたようで、どうしたのと小さく尋ねてもその人は自嘲気味に口端を少し上げるだけ。私だけが雰囲気から取り残された感覚があった。


「今までの話を踏まえ、この意識がはっきりしている内に、信頼を置くお前たちに伝えておきたいことがある」


 状況が飲み込めていない私に説明することなく、彼は集まった人々に話し出した。辛さを消した表情で、悠然とした態度を見せている。決意を思わせる彼の面持ちに私は不安になった。


「皆にはずっと、黙っていたことをすまなく思っている。許してほしい」


 何を話そうとしているのか。何を話していたのか。ただ事ではないこ話がなされる気がして全身の神経が張り詰める。前に並ぶ人々も緊張の面持ちを彼に向けていた。


「弘子は、アンケセナーメン本人ではない」


 私が小さく声を上げると同時に、ナルメルとカネフェル以外の人たちがはっと息を呑んだ。

 セテムやラムセスは静かに目を閉じ、カーメスは胸に手を当てて頭を下げ、ネチェルやメジットは口元を抑え、イパイは聞き取れるかどうかくらいの声を短く上げる。どこか納得したような、それでも少しだけ驚いているような、分かっていたと言わんばかりに、その反応は小さい。むしろ、大きく動揺したのは私だった。


「弘子は未来の民だ」


 彼らの反応を気に留めること無く、それよか彼自身もその反応を始めから予想していたかのように話を続ける。


「アンケセナーメンの魂を持つ者。本人ではない」


 あなた、と。小さく呼んだのに。聞こえているはずなのに。彼は私を見ずに彼らに向かって声を張る。


「私が死んだアンケセナーメンを呼ぶ声を聞き、それに引かれてここへ来た娘。故郷は、ここから3300年後の我が国だ」


 3300年。気の遠くなるような年月を誰かが呟く。

 愕然とする。目の前で何が語られているのか、分からなくなる。


「本来であれば弘子を呼んだ張本人である私が帰せるはずなのだが、いくら考えてもその方法が思い浮かばぬ」


 彼は悲しそうに苦笑を漏らす。


「私が死ぬ前にそれが出来れば良いが、保証はない。故に、その後のことをお前たちに頼もうと思っている」


「アンク!」


 名を叫んだ時、彼がようやく私を見た。その眼は笑んでいる。


「今までずっと考えていた。方法が見つかればの話だが、これがお前にとって最も良い」


 首を振った。ふるふると力なく、私は横に振っていた。


「弘子、私は死ぬ」


 呼吸が止まる思いだった。そんな震え出す私の手を握った彼はまた前に並ぶ彼らを見渡す。静寂に響く、人を諭すような声は、小さいながらに凛としていた。


「私の死後、もし何か危険が迫ることがあったならば迷わず弘子を未来に帰せ」


 彼以外の誰もが瞬きもせずに彼を見ていた。固く口を結び、一言一句漏らすまいと。


「我が命絶えて尚、お前たちが守るべき最後の命として今ここに述べる」


 ナルメルを始め、そこにいた人たちが次々と床に跪き、床に額を付けんばかりに頭を下げた。


「我が妃をいるべき場所に送り届けよ」


 私を残して声は響く。


「3300年のその先へ」




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