同じ
「だから言ったのだ。大げさだと」
神殿帰りに、その人はまた文句らしい言葉を落としていく。
熱があるのではと侍医を呼んでセテムたちとあたふたしたのは、もう一週間前のことだ。微熱は徐々に上がった後、発汗して翌日にはあっさり引いてしまった。
「明日になればようやく民の前に出られる。これくらいでぎゃあぎゃあ騒いでいてはお前たちが疲れるだけだぞ。何度言えば分かるのか」
「今は何に関しても敏感でなくちゃいけない時期だもの、これくらいじゃないと」
柱の間から漏れた夕暮れが視線の先の白い廊下を茜色に染めて、そこに私たちの影がくっきりと浮かび上がる。それを踏むように、二人で部屋へと戻る道を歩いていた。
「怪我もようやく痛まなくなった。傷口もすっかり塞がっている。もう怖いものなど無い」
そうは言っても、内側に曲がってしまった左足首や足先が痛むようで、床につけるたび顔を歪ませているのは私だって気づいている。
「昨日だって熱を出したじゃない」
「だがそれもすぐに下がった。気分も良い」
「原因が分かるまで身体を休めていてほしいのよ。侍医もその方が良いって言ってたわ。私もセテムも、カーメスだってそれがいいと思ってる」
「どうせただの疲労だ。最近は色々と溜まっているものを次から次へとこなした、それ故のものだろう」
言い返す言葉が無くなり、成す術なく後ろに目をやると、心配そうに眉を下げたカーメスやセテムと視線が合った。二人の言わんとしていることがこれでもかと伝わってきて、もう一度思い留まらせようと彼を見上げる。
「それでも式典はもう少し待ってからでもいいと思うの。数日くらい延期しても怒る人はいないから」
病み上がりの身だからこそ、せめてあと数日は延ばして様子を見たい。
「急に無理したら何が起こるか分からないのがあなたなのよ?また熱を出したら……」
「そうであろうがなかろうが、これ以上民を待たせることは出来ぬ」
私たちの提案に首を縦に振ってくれることはない。昨日もまた微熱があったこともあり、後ろの二人を含め私も彼の身を案じているのだけれど、当の本人は心配ないとの一点張りだ。
「民は私の回復を今か今か待ち侘びているのだ。その気持ちを無下にすることは王として許されぬ」
きっぱりと言い切られ、私は次の一言を言い出せないまま足を進めた。数日前と昨日に起きた、彼の発熱を思い返すと妙な胸騒ぎを覚える。一体何だったのかと思えるくらい早かった、汗を伴う解熱への変化。原因が判明していないことがもどかしい。ただの疲労からなのか、体力が弱っているからなのか。もっと何か別の原因があるのか。気になる点であっても、今の医療では調べられるものではなかった。加えて、国を第一に考える彼は、私たちの本音が「休んでほしい」だと分かっていながら、予定を延期するつもりは更々ないようだった。
王が大怪我を負った。それがどれだけ民に不安を植え付けるものか、この人は私たち以上に理解している。そして今誰よりも焦っているのもこの人だ。思いがけない怪我を負ったことが国中に知られた今、一刻も早く回復した姿を公にして権威を安定させたいと思っているのだろう。これだけ傍にいてこの気持ちを分からないはずがない。
「……なら、これだけは答えて」
口を結んで足元を見ながら歩いていた彼に、そっと口開く。淡褐色が私に向いた。
「本当に無理はしてない?無理もしない?」
何よりも心配なのは、早く回復しなければと無理に身体を動かしていないかということ。限界まで我慢するのが、彼という人だ。
「誓ってそう言える?」
「誓おう」
「民の前に出る時間は私やセテムで決めてもいい?」
「民の前に出られればそれで良い。任せる」
間髪入れずに返答した彼は自信に満ちた表情で笑っている。そんな彼に私は「そう」と微笑んで返した。一度決めたならこの人は何を言っても変えないことも、これ以上何を言っても無駄なことも分かった。現時点で熱もない。足以外痛がっているところもない。今の彼ならば私たちがどうにか支えられれば何とかなる。
「それより弘子、」
何か楽しげな声が隣から掛かった。足元から視線を上げると、彼が私を覗いている。
「そのような気難しい顔をせず、今日はこのまま奥の庭に行こう」
「宮殿の奥に?」
宮殿の奥にあるヤグルマギクの庭は遠いという理由で、彼は怪我して以来行っていなかった。
「今は一番咲く頃だ。久々に眺めたい」
吹き抜ける風は涼しさが混じって、こちらに駆けてくる。その強さに思わず目を瞑り、顔の前に手をかざす。後ろへと吹き流れ、手を下ろして胸いっぱいに空気を吸い込み、次に続く穏やかな風を頬に浴びた。いつもと同じこの国の風を、特別だと感じるのはどうしてだろう。
「ここは、変わらぬのだな」
花の中に腰を埋めた彼が目を細めて呟いた。杖無しで歩いて走っていたあの頃の自分と、今の自分を比べて彼はそう言ったのだと思う。
変わらない。初めてここへ来た時と、何一つ。何が特別かと考えて真っ先に思い浮かぶのは、そうした懐かしさ。嬉しいような、物悲しいような、そんな感情が私の中で入り組んでいる。
地面に膝をついて青い地面を見渡した。入り組んだものが喉奥から流れ出て、清々しさが足先から込み上げてくる。
吸い込まれそう。青と緑、それから空から覆う薄い茜色。この三色の中に自分までもが溶けてしまいそう。
地面と空の間にいる自分がとても小さく、この風景を目にするだけで世界がどれだけ広いが教えてくれる。勿論、そんな果てのないことを本当の意味で知ることは決して出来なくとも、そう感じられる瞬間があるのはとても素敵なことなのだろう。
「弘子の、そういう姿が好きだ」
視線を落とすと、隣に寝そべった彼がいる。地に両腕を広げ、風に瞼を震わせ、その中に覗く空の色を乗せていた淡褐色は青に沈む私を映している。
「弘子にはヤグルマの青が似合う。何よりも」
あまりに突然、しんみりとした口調で言われたから思わず笑ってしまった。手を伸ばして彼の髪を撫でると、くすぐったそうに彼が顔をくしゃりとさせる。
「いきなり、どうしたの」
「思ったことを言ってみただけだ」
頬や髪を撫でている時のこの人の心地よさげな表情に心が和ぐ。彼を覗き込む体勢でいれば、垂れた私の髪を彼の指がいじり始めて緩く引いた。
「弘子」
「なあに?」
「私には何色が似合うと思う」
目を伏せてから彼を見下ろして考えてみる。
あなたに。何色が。
そうしてはっきりと浮かんでくる色があなたにはある。
「ラーの色、かしら」
彼がすぐ傍から摘んだヤグルマの青い花を受け取りながら答えた。
「……ラーか」
太陽神アメン・ラーを表す、神の色。太陽から地面にすっくと手を伸ばす眩しいくらいの黄金。きっとそれ以外にない。褐色の肌に映える黄金も、その足が鳴らす黄金の音も、見るだけで、聞くだけであなたのものだと分かる。
「嬉しいことを言ってくれる」
彼は優しく目を細める。
「黄金は我が国を表す色だ。これほどの色は他に無い」
砂漠と太陽と黄金の国。太陽の光に満ちて、茶色の砂漠がそれを反射してその色で溢れた光景は、この世のものとは思えない美しさがある。そう、例えるのなら、私を現代から古代へ運んだ黄金のナイルのような。これを持つのはエジプトという国だけだろう。
嬉しそうに頬を綻ばせる彼の指先は、ゆっくりと私の頬へと移ろっていく。髪に触れて、長い指が伸びてくる。
ふと、その時目に入った、彼の腕の裏側に驚いて頬に触れる寸前のその手を取った。
「どうした」
腕を掴んでよくよく見てみれば、褐色の皮膚の下で赤い血の跡が広がっている。
「これ……」
どう見ても、彼の右腕の裏は広範囲に内出血を起こしていた。いつの間にできたのだろう。
「どこかにぶつけたりした?」
内出血と言えば、どこかに強くぶつけりすると生じるもの。
「いや、この前転んだ時のものだろう」
「転んだのって随分前じゃなかった?」
「前だな」
起きようと腕を立てるのを見て、支えて手伝いながらその内出血部分を見つめた。記憶を引っ張り出して、正確には4日ほど前。杖での歩行に慣れたとは言え、彼はバランスを崩して転ぶことがまだ偶にあり、この前も転んだ際に誤って腕を机に強く打ち付けてしまった。久しぶりの大きな転倒だったから、骨折していないか酷く心配したことははっきり覚えている。
「もう消えてもいいはずなのだが消えぬのだ」
私に見せたくないのか、起き上がった彼は私の手を解いてごしごしとその部分を擦った。彼の言う通り、転んだあの日から数えてもいい加減跡が消えてもいい頃。少なくとも皮膚下の血が固まってもっと黒ずんだ色になってもいいくらいなのに。
「広がっている気がしないでもない」
人の血液凝固の速度は個人差があるものだけれど、ここまで遅くなることなんてあるのだろうか。内出血が治まっていないのは、皮膚内で血液が固まっていないことになる。大量出血や血小板、血液凝固因子不足が原因で起こる、血液が固まりにくくなる現象。つまりは凝固不全。数少ない根拠からその診断を下すのは無理があるけれど、思い当たったのはそれだった。
「変だと思っていたなら、どうしてすぐに言ってくれなかったの」
「弘子は小さなことにでもすぐに心配する。弘子が心配すればセテムもカーメスもその他諸々もあれやこれやと騒ぎ出すだろう。心配されてばかりの身にもなってみろ。面倒だ」
こちらが真剣に聞いているのに対して、彼は笑い話のように言う。
「もし重大な何かの兆候だったら」
「血が出ている訳ではない。珍しいものでもない。これくらいのもの、忽ち治るに決まっている。知らせる必要などないと判断したまで」
「でも」
「これしきのこと、案ずることなど無いだろう。言ってはおくが、止めても明日の式典には出るぞ」
手で制され口を噤んでしまった。さっきと同じく言い返す言葉を失くした私は肩を落とす。彼から離れた手を膝に置き、左の薬指にはめた指輪を右手で包んだ。
これだけ心配してしまうのは、何より胸騒ぎが止まらないからだ。あなたはここにいるのに、回復に向かっているはずなのに、どうしても止んではくれない。タシェリがミイラになってあと数日で戻ってくることに落ち着きがなくなっているのか、はっきりと理由は分からない。傍で寄り添って眠っている時も突然抱きついてしまいたいくらいの怖さに苛まれることさえある。
それでもここで何をどう問い詰めた所でどうにもならないのは明らか。腕から出血している訳でもなく、内出血自体消えていないことを除けばよくあることで、それほど驚くものではない。そうと分かっていながら、原因が何か重大なものなのではないかと不安で堪らなくなる。
「ほら見ろ、また気難しい顔をする」
褐色の手が俯く私の頬に触れた。傍の髪を払って大丈夫だと囁くように、安心させるように撫でられる。
「弘子は笑っている方が良い」
にっと笑うものだから、私の口元もつられるように少しだけ上がった。それでいいと頷かれ、戻ろうと声が掛かる。傍の杖を拾って彼に握らせ、肩を組むようにして支えながら立ち上がると、彼は周りを見渡した。
「今日は少し冷えるな」
ぽつりとした言葉の後に、その人は小さく身を震わせる。
「寒いの?」
25度前後で寒いといえる程のものではない。丁度良い、心地良いと思える気温だった。眉を寄せた彼が私をまじまじと見つめる。
「寒く、ないのか……」
不安が過る。これからまた、熱が上がるのかもしれない。私は急いで彼を部屋に戻して、侍医たちを呼ぶように命じた。
就寝時間近くまで侍医たちについていてもらったものの、熱は上がらなかった。食欲もいつも通りで様子も至って普通。何も起こらず、侍医たちに彼が帰れと命じてしまい、今は部屋に彼しかいない。
「数刻お傍についておりましたが、お元気なご様子。おそらく問題ないかと。ただ、まだ本調子でいらっしゃいませんので、今回のようなことが起きたのかと思われます」
部屋の扉の前で侍医が腰を低くして言う。
「落ち着いているみたいで良かった。悪化する心配はない?明日は予定通り式典を開いても大丈夫かしら」
尋ねると、侍医は思い悩むような素振りを一瞬だけ垣間見せた。とても不安がっているような、私の胸にあるものと同じ何か。
「侍医?」
不安になって呼びかけると、はっとしたように私を見上げる。
「え、ええ。今のご様子ならば、心配はありませぬでしょう」
蟠りがある。安心させようとした笑顔をこちらに向けてくれてはいても、相手の表情には何かを感じ取っているのではと思えるものが混じっていた。
「しかしながらまだ気は抜けませぬ。明日の式典の時間は可能な限り短く行うことをお勧めいたします」
「それについては彼から了承を取ってあるから問題ないわ。出来る限り短くしてもらう予定です」
何も心配はいらない。明日が終われば、緊張の時期からはしばらく解放される。休養が取れる。そこでもう一度持ち直せればいい。
「それでは、何かありましたら」
深々と礼をした後、侍医たちは他の医師を連れて医療施設へと戻って行った。
「王妃、明日のご確認を」
隣にいたセテムが私のパピルスを手渡す。明日の段取りに関することが大まかに書かれていて、全部に目を通してから頷いた。
「我々は部屋の前に控えておりので、何かありましたらお呼びください」
セテムとカーメス、奥にラムセスと侍女たちがいる。
「ありがとう。明日はよろしく頼みます」
「御意」
侍女と部屋の前で別れ、奥の寝所に戻ると、彼は机の上で何やらを書いていた。多分、何かの書類だろう。灯した火がゆらゆらと揺れる中で、褐色の背がぼんやりと広がっている。集中しているのか、いくら近づいてもその人は私を振り返ろうとしない。真後ろまで来ても声を掛けてくれないものだから、ゆっくりと背に触れるくらいにまで歩み寄り、肩越しに書いているものを覗いてみた。その先に、整ったあの絵のような象形文字があるのだろう。
「あなた」
肩に手を乗せて読んだ途端、びくりと前の肩が動き、勢いよく相手がこちらを振り返ってそうして見えたものに、私はひどく自分の目を疑った。彼の手にあるパピルスに書かれた字体は、何度も書き直したように黒いインクが四方八方に飛び、ほぼ原形を失くした文字とは言えないものだった。
「……弘子」
文字を習い始めた幼い子供のもののような、彼が書いたものとは思ないくらい、私が予想したものからかけ離れている。
「この字、どうしたの?」
机に手を伸ばし、パピルスを取った。よく見れば、まだ何を書こうとしたものかは分かる。それでも震えて太さが安定していない。私の字をからかっていた彼の字ではなかった。書かれたものは文章ではなく、文章始めの同じ文字ばかりが並んでいる。書き直され、書き直され、それでも一向に改善していない文字列。
「あなた、字が……」
「何でもない、気にするな」
彼は唖然とする私から強引にパピルスを取り上げ丸め、部屋の隅の炎の中に投げ捨ててしまった。紙の燃え上がる音が甲高く響く。
「気にするなだなんて無理よ。だって、字があんなに」
「久々に筆を取った故だ」
淡褐色は私を見てくれない。
「そんな、嘘……!」
「嘘ではない。気にするようなものではない」
久々と言っても、この前書いた書簡はいつもの整った字だった。事故前と変わりない綺麗な字だった。なのに、今書くものがあれだけ震えた字になるなんて変だ。もしやと嫌な予感が過っていく。
「……手が、動かないの?」
沈黙に降りた私の声に、彼の肩が僅かに動き、そうなのだと確信した。彼の手は、思う通り動いていない。だから字が書けない。
「動かないのね?お願い、本当のことを言って」
青ざめた様子の彼は自分の利き手を反対の手で握りしめた。自分自身も動揺しているように、私を見ない灯りを映した瞳孔は絶え間なく揺れている。
「アンク、手を見せて」
「違う!!!」
取ろうと伸ばした私の手は、彼の荒げた声と共に強く弾かれた。瞬間、彼は我に返った顔をして、大きく何度も呼吸を繰り返し、それから腕を抑えたまま俯く。
「……すまぬ、取り乱した」
私は堪らず彼の足元に膝をついてその人が押さえつける右手に目をやる。僅かな痙攣を起こしていた。腕に何かが住み着いているかのように、手は小刻みに震えている。
「あなた、手が」
「……震えが、止まらぬ。筆が上手く握れぬ。言うことを聞かぬ」
──病気。
その単語がうち過ぎる。内出血と言い、手のことと言い、彼は何かに侵されているのではないだろうか。ひとつなのか、それともいくつかの病気が併発しているのか。
「侍医を!」
焦燥感に駆られ立ち上がった刹那、腕を強く引かれ、彼が見えたと思ったらそのまま抱き竦められていた。
「……言うな、頼む」
耳元に吐息と共にかかる、掠れた声。縋るように私に額を擦り付ける。
「言えば、明日はなくなる。明日は必ず出席せねばならぬ」
彼にとって、明日は大きな意味を持つ日。王として、決して諦めてはいけない日。
分かってる。分かっているけれど。
「頼む、明日まで」
苦しくなるくらい強く抱き竦められて、彼の明日に対する思いが痛いくらいに伝わって何も言えなくなった。
「もう、眠ろう」
今にも壊れそうな微笑みで頬を撫でながら告げてくる。
「眠れば明日には治っている。大丈夫だ」
右手で机に立てかけられた杖を掴み、椅子から立ち上がり寝台へ向かう。どうすればと困惑する私を、彼は隣に寝るよう促した。明日までと懇願する彼の心情も無下にできず、仕方なく私は傍に横になった。
明日までもてば、彼はゆっくり休んでくれるはず。明日さえ無事に過ぎれば。
「心配はいらぬ」
髪を梳いた手が肩に触れる。私を抱き締めるようにしてそんな言葉を私の耳で幾度も囁く。かかる声は、まるで私を慰めていながら、自分のことをも慰めているかのようにも聞こえた。
微睡から覚めたのは、まだ夜も明けきらない時間帯だった。
寒い。そう思った。
眠る前まで身体を包んでいた彼の腕がないのに気づき、手を伸ばして探してみても見つからない。重たく感じる上半身を起こし、隣を見ると誰もいなかった。隣に手を伸ばしてみても、ついさっきまでいたようで温もりがはっきりと麻の上に残っているだけだ。
「あなた……?」
寝台のすぐ脇に置いてある杖も無い。こんな夜更けに、どこへ行ったのだろう。不安に駆られ、寝台から下りて彼を探した。
暗さに慣れない目は慣れた部屋をも見辛くする。初めて来た場所のように辺りを錯覚させ、起きたばかりの所為もあってか、夢の中を彷徨っている気持ちにさせる。暗くて不安で、彼がいない。どこかに引きずられてしまいそう。引きずられたら二度と出てくることが出来ない恐い夢のようだ。
タシェリを失った日の、忘れることのないあの夜に似ていた。寒くて辛くて、独りに感じて、憂慮に埋もれてしまう。逃げ出したい気持ちが逸り、彼を探す足の速度が増す。
寝所の隣の部屋に入った時、音がした。床に水のようなものが落ちて行く音と、人が嘔吐する苦しげな呼吸音。音を聞いた直後に、蹲る彼を見つけて走り出す。
「アンク!」
床に突っ伏す体勢で、腕で辛うじて身体を支えている彼を覗くと、その人は吐いていた。嘔吐物が床に広がり、異臭が鼻先をつく。ここで初めて、嘔吐する音が彼のものだったのだと気付いた。夢などではないと、重たい石で頭を殴られた心地と一緒に、恐怖が腹の底から湧き上がる。
「アンク!!!」
触れた手が感じたのは、信じられないくらい高い、他でもないその人の体温だった。
「どうしたの?苦しいの!?」
呼んでも咳き込んだ弾みに、目で私を捉えただけで、また床に向かい苦しげに咽ぶ。すべてを吐き切り、胃が空っぽになっても、胃液を吐き出し続け、腕のバランスを崩した彼を咄嗟に抱き締めた。
「誰か!誰か来て!!早く!!!」
考える間もなく、私は悲鳴を上げていた。
すぐに医師たちが総動員され、寝台に運ばれた彼は、彼らに周りをぐるりと囲まれた。今までにないくらいの高い発熱を起こし、言葉に成りきれない譫言を合間合間に口走る。何を言っているのか聞き取れず、私は手を握って気が気でない自分を抑えながら何度も呼びかけた。タシェリの時のことが思い出され、必死になって呼びかけ続けた。
これだけ体温が熱いのにも関わらず、悪寒が絶えないようで、彼は呻きながら何度も身体を震わせ、その度に侍女が掛ける布の厚さを増やしていく。燃えるように熱い背中を、肩を擦る。
セテムは顔色を変えて傍に付き、カーメスは侍女たちに慌ただしげに何かを命じ、医師たちはすぐ傍で植物から取ったという薬を磨り潰し、議論を重ねながらそれを飲ませ、経過を見て、効果が無かったらまた最初から考え、試行錯誤していた。
「侍医よ、原因は分からぬのか」
騒然とする中でナルメルが眉を顰めて問う。
「申し訳ありませぬ。現時点では何も」
額に汗をにじませた侍医は、蒼白な顔に苦を滲ませて頭を下げる。
強く彼の手を握り締めた。
「……侍医」
次はこの薬草を、と医師たちに命じるその人を呼んだ。
「聞いてほしいことがあるの」
もはや怪我の所為でも勘違いでもない。こうして倒れて何度も発熱と解熱を繰り返している今、何かが彼を蝕んでいることは確実だった。今は情報交換をして、原因究明を行うことが先決だ。私は意を決して、腕の内出血と手が思い通り動かず字が書けなくなっていることを話した。
「それは、真ですか」
頷くと、侍医は信じられないと弱々しく首を振る。そして続けた。「同じではないか」と。誰かに向けて言ったものではなく、本当に口から零れ落ちた言葉のように。侍医は解説することなく、医学パピルスを侍女たちに急いで開かせ、目を通し始めた。
どういう意味だろう。何と何が同じだと言うのだろう。タシェリと、ということだろうか。
違う。それが移って発熱した私は1週間ほどで回復したのだから、彼が同じもので回復しない訳がない。免疫力の低下のことを考慮に入れても、そもそもあの病気の症状と今の彼の症状では発熱ぐらいしか共通点は無い。内出血、四肢の痙攣、嘔吐、繰り返される発熱。
ならば、何と。侍医は何を以って「同じ」と言ったのだろう。
「王妃、」
意味を図りかね狼狽していると、呼ばれた先にナルメルとセテムがいた。肩を落とし、やむを得ないと言った無念さをにじませた視線を私に向けている。
「式典につきましてお話が御座います」
彼らの言わんとしていることを察するのに、然程時間は掛からなかった。
夜が明けて朝になり、目を覚まさない彼を残して、予定していた式典の時間に近づき、過ぎて行った。彼が絶対に出席しなければならないと言っていた式典は私たちによって中止の判断を下され、終わった。陽が傾き出すのを見、どうしても出たいと縋るようにしていた昨日の彼を想い出しながら、私は褐色の手を握る。
こんな身で、出させるわけにはいかなかった。仕方が無かった。今は何より、この人の身体が大切だ。
全く熱が下がらない時間が数時間続き、大量の発汗と共にいきなり熱が下がり出したのは、それから間もなくのことだった。侍女やセテムたちがほっと胸を撫で下ろす姿を見ながらも、何故か素直に安堵できない私がいる。前の熱と同じく、あっさりと引いてしまう。がって下がっての繰り返し。定期性はないこの発熱にある心当たりが浮かんで、でもそんなはずはないと頭に明瞭になる前に自分から打ち消した。
そんなはずはない。絶対にない。
内出血を呈した彼の腕をさすりながら、傍の侍医を見上げる。その表情にあったのは、驚き、戸惑った侍医の顔だった。どうしたらいいか分からないと言うような、彼が狩りで怪我を負った時の臣下たちの絶句した表情に良く似ていた。
「……やはり、同じだ」
呼吸にも落ち着きを取り戻し始めた彼を前に、独り言とも取れる声が落とされる。何と、と聞く前に侍医は慌てた様子で頭を下げ、そこから立ち去った。
彼の容体が安定し始め、部屋は私と数人の侍女と医師だけを隣の部屋に残し、寝室には私たち二人だけになった。平熱にまで戻った彼の汗を拭っていると、時を見計らったかのようにその瞳が瞼の間から現れる。「弘子」と、ほとんど渇いた声で私を呼んだ。
自分の状態を把握するために彼は周りを見渡し、起きようと腕に力を込める。私はそれを急いで支えた。
「今は……今は何時だ」
「夜よ」
頭痛がするらしく、頭を片手で抱えた彼に答える。
「夜……いつの、夜だ」
思えば、昨日の深夜に倒れてからずっと寝込んでいた彼は一日過ぎたことを知らない。
「式典を予定していた日の夜。あなたは一日中熱を出して寝込んでいたの」
「一日中だと?ならば……ならば式典はどうなった」
食付いて尋ねる彼に、私は首を振る。
「無くなったわ」
息を呑む音がした。下に向けられていた視線が私を映す。
「ナルメルたちと話し合って、今回は取り止めにしたの。勝手に判断して、ごめんなさい」
「……終わった、のか」
遣り切れない気持ちで頷くと、彼は愕然とした表情で私を見つめ、そして脱力して再び寝台に身体を委ねた。どさりと音がして、寝台が軋み、深く息を吐く呼吸の音が続く。腕で目元を覆い、涙無しで泣くかのように唇を噛みしめた。
怒ることはしない。怒鳴ることもしない。ただ、悔しさを露わにしていた。
慰めの言葉が見つからないまま、様子を見に来た医師に彼を診させ、しばらく二人だけにしてくれるよう頼んだ。
扉が閉まるのを見届けて寝台に視線を戻すと、麻に頬を押し付けるようにした彼の淡褐色がうっすらと浮かんでいるのが見える。蝋燭の火のように小さく、澄んだその色だけが闇に灯る。瞬きの少ない疲れ果てた虚ろな目からは精気が感じられなかった。私は寝台に歩み寄り、彼の顔を覗いて呼びかけると、その瞳がゆっくりと私を捉える。
「苦しくない?」
そっと触れた額からは数時間前まであったあれだけの熱は感じられない。代りに汗が滲んでいる。机にある麻を取り、それで拭う。慰めなければと言葉を探した。
「今回が駄目でも、まだ次があるから、だから」
「……もう、無理だ」
聞こえるか聞こえないかの声は、震えていた。
「今しかないと思っていたからこそ、やりたかった」
自分を落ち着かせようとするかのように彼は大きく息を吐く。
「……弘子」
寝台の麻の上に置いた手を彼の手が掴み、強引に開かれて指が絡まる。痛いくらいの力を込められているのに、声が出なかった。
「どうすればいい」
縋るように問われる。
「アンク、」
「見て見ぬ振りをしても、同じだ。どうしたらいいのかもう分からぬ」
同じ。侍医もそう言った。絶望的に呟いていた。侍医の声と彼の今の声が何重にもなって私の中にこだまする。
「同じだ」
「同じって?何が?」
恐る恐る尋ねた声は自分の声かも疑わしいくらいに揺れてしまった。何故か怖かった。
「何が、同じなの」
一度閉じた瞼が開き、握る手の力が増し、彼はその唇を開く。ゆっくり、そしてはっきりと。
「アンケセナーメンが死んだ時と、何もかも」
アンケセナーメン。死の病で突然の死を迎えた、彼女と。
「彼女も熱を繰り返し出した、手が動かなくなって吐いて」
死の病と呼ばれ、彼の症状を示すものは、ただひとつ。
「そして死んだ」
ちらちらと浮かんでは消けしていた、その病の21世紀での名が、私の口から静かに落ちて行った。
頭が真っ白になった。




