幸と祈りと
* * * * *
「ファラオ」
ナルメルの静かな呼び声は、遮るもの無く真っ直ぐ響いた。目を向けた先には、パピルスを手にした十人の主要な大臣たちが広間に置かれた机を中心に集結し、彼に頭を垂れている。それを見届けた彼は、私の腕から離れて杖突き、左脚を引きずりながら部屋の最も奥で机の前に用意された椅子に向かって一人で歩んでいく。
杖が床に当たる音と、黄金のサンダルが擦れる音。広範囲を動くことはできなくとも、血が滲むくらいの彼の努力を思うと、堂々と歩む姿にどうしようもないくらいに胸が熱くなった。
足を引きずる姿が見っとも無いと彼が嘆いたことが今までにどれだけあっただろう。それでもこうして今胸を張って歩いているのは、ここまで来るために積み重ねてきた努力を彼自身が誇りにしているからだ。恥じる必要などない。弱音も吐かず、立派に自分の足で歩いている。それがどれだけ凄いことか、周りにいる誰もが知っている。
「待たせた、始めよう」
セテムを傍に付けて椅子に腰かけ、合図と言わんばかりに杖で床を突き高い音を鳴らす。補助具は権威の象徴へと変貌して、その音から毎日繰り返される会議が始まっていく。
獅子狩りで大怪我を負ってから一月が経った。
ここまで来るのに折ってしまった杖はかれこれ4本になる。2本は立てないことに苛立って自分で折って投げ捨て、残り2本は体重に耐えきれず折れてしまった。エジプトで使用される木材の多くは高地が原産でほぼ輸入に頼っているレバノン杉で、彼の杖もこの木から削り取られている。宮殿内で机や椅子に多く使用される良質の木材であるにも関わらず、歩行補助具として使っている内に掛かる体重で変形し折れてしまうことがあった。折れないように太くすると逆に杖の質量が重くなり、腕に負担がかかるという欠点があって無闇にできるものではない。様々な試行錯誤を繰り返した結果、まだ改良は必要なものの、どうにかこの安定した形まで辿り着いた。
ここまで来られたことだけで今は十分。杖を使っての歩行を始めた頃では考えられないくらいの立派な姿だろう。
「ファラオのあのようなお顔を拝見すると本当に気持ちが和ぎますね」
部屋の入口で私の隣に控えていたカーメスがしみじみと零した。その眼はパピルスを広げて昂然と発言する彼に向けられている。
「ええ、本当に」
最近は部屋の入口付近からカーメスと彼を見守るのが日課だ。部屋の隅にはラムセスが、周りには兵たちが控えていて、万が一の場合に即座に対応できる体制を取っている。獅子狩りの際に命を狙われたこともあり、ラムセスが警戒してのことだった。
「それにしても、セテム殿は今日も予備の杖を持っていらっしゃるようで」
彼の傍に控える側近の姿に、くせ毛を揺らしくすくすと声を潜めて笑った。
「彼が杖を折ったらすぐに突き出してくるのよ。それはもう、凄い勢いで」
「そのお噂は兼ね兼ね。実際にこの目で拝見させていただきたいものです」
「残念。あの人ったら、折る気力を失くしたみたいなの。意地でも折るものかって言ってたわ」
側近のセテムは、杖がいつ折られてもいいようにと何本もの杖を蓄えているようだった。現に今もその両手には恭しく予備の杖が持たれている。
彼が苛立って自分で杖を折ってしまった時に、透かさずセテムがお得意の無表情で杖を差し出してきたのは、彼が歩き始めての間もなくの頃だ。彼が受け取るまで決して引かない。杖が折れるたびにそれが繰り返されるものだから「どんどん折ってくれと言われている気分だ」と言った、彼の呆れ笑いを思い出す。あれだけ素早く出され、引いてもらえないとなると、彼の折る気力が削がれるのも当然かもしれない。
「皆がいてくれてこそだった。いくらお礼を言っても足りないわ」
彼のここまでの回復は、セテムの辛抱強さや気遣いの上手なカーメスやラムセス、そして負担が掛からないようにと配慮してくれるナルメルの存在があったからこそ。私だけではとても彼をここまで引き上げることは出来なかった。
「そのようなことはありませぬ」
そんな声が掛かって長身の相手を見上げると、眼差しが合った。
「ファラオがあれだけお気持ちを強く持っていらっしゃるから我らはお助けすることができるのです。これがなければ我々はおそらく何も出来なかった」
「そう?」と笑って返すと、瞬時に強めの口調で「そうです」と返される。
「ファラオのお気持ちをここまで作り上げたのはあなた様だ。他の者には出来かねましょう。それに、杖なしで立てない事実はファラオにとって想像もできないくらいの痛手です。だと言うのに、あの方は挫けることなくお立ちになられる。本当にお強い方だ。そして嘆くことなく、その強さを今も守っていらっしゃるあなた様には感服致します。あなた方お二人に我が魂を以て仕えられていること、私にはこの上ない幸せです」
静かで物腰柔らかな口調の中にしっかりとした説得力がある。
目を伏せた。たくさんのことに未だ戸惑ってばかりの私が、あんな強い人を守れているかなんて分からない。仕えてもらって感謝されるくらい、自分が価値のある人間だなんて思えない。それでも、そう思ってくれる人が傍にいてくれていることの有難味は溢れるばかりに感じている。どれだけ支えられてきたことか。
「ありがとう」
いつも傍にいてくれる感謝をただ一言囁くと、カーメスは「それでいいのです」と微笑んでくれた。
「あなた様は大事ございませんか」
不意に掛かった問い掛けに、首を傾げる。
「私?どうして?」
「御身に心労が積み重なっておいでかと。侍女たちが案じておりました」
声に心配と哀れみに似た色が滲んでいて、タシェリのことを思い出す。思い出すというよりも、当然のように浮かんでいたものが目の前に鮮明に甦ってくる感覚に近い。一気にいろんな思い出が脳裏を横切り、過ぎて、消えて。悲しさや懐かしさ、会いたい恋しさやらで、胸が咽かえりそうになる。
あの子は、まだ私の胸の大部分を占めたままだ。失ったことに未だ泣きたいくらいに気を落とす自分を思えば、カーメスの言う心労がないとはっきりは言えない。
それでもと、前で合わせていた手をぐっと握り、顔を上げて向こうの彼を見やった。
「大丈夫よ」
呟くように言った。
「彼がいるなら、私は大丈夫なの。何があっても」
あの人がいるなら。
「あの人に、私も支えられているのよ」
だからタシェリが居なくなってしまった今も私は生きようと思える。悲しみが繰り返そうと、それさえ抱いて歩いて行ける。彼が笑っているのなら、私はそれだけでいい。
会議が長引きそうだということで、途中でその場を抜け出し、カーメスや侍女の数人とヤグルマの花を数輪摘むために宮殿奥の庭へ出た。屈んで摘む花のその中心に円を描く紫は、季節の変わり目に当たる頃だからか、いつもより小さく見えた。
それからナイルが流れている方へ行って、侍女たちが朝に流したハスも小さめのものを数本水面から取り上げ、茎の長さをヤグルマギクと合わせて腕に抱いた。
腕に抱く緑と踏みしめる土が香る。腕の中で交互に混じっている白と青の花びらを撫でてから、大きく息を吸いこむ。会議の終わる頃を見計らって宮殿へ戻った時には、すでに話し合いを終えた彼が部屋でセテムやラムセスたちと待っていた。
「摘んで来たのか」
私の腕に抱えられた青と白の花を見た彼が優しげな表情で問うてくる。
「新しい方が喜んでくれるかと思って」
「そうだな」と独り言のように小さく放ち、黄金の腕輪が光る手を私に伸ばした。
「行こう」
彼の腕を取り、支えて歩き出す。意地を張らずに頼ってくれることが嬉しい。体重を預けてくれることが嬉しい。
何本もの柱の影を潜り抜け、時間を掛けて向かう先にそびえるのは東の宮殿。アメン・ラーを讃える大きな祈りの場。入口まで来ると、付き添って来てくれていた侍女やラムセスたちをそこに残して、二人だけで神殿に入った。
何度来てもこの神聖さを失わない神殿内には、足を一歩踏み入れただけで感嘆が漏れる。眩暈がするくらい高い天井に、周囲を囲む沢山の色鮮やかな神々、奥には階段と祭壇、その先に高々と立つ今にも動き出してしまいそうなアメン・ラーの神像。
暗さに包まれていても恐怖はない。例えるなら、ヨーロッパにある古い大きな教会の中にある静穏な、安らぎさえ感じる暗さ。高い天井近くにある換気口から降ってくる陽光は、周りに音無く走り、神殿内の鮮やかな色彩や明暗を刻銘に浮かびあげる。
階段を一段ずつゆっくりと上り、上った先の祭壇の前で巨大な神を仰いだ。黒く塗られた神の両目は、私たちを越えてその向こうを見据えている。
何が見えているのだろう。神の目は喜怒哀楽もなく、無に染まっている。いつだかそれについて尋ねてみた時、彼が「人の行いを見ているのだ」と答えてくれたことをぼんやりと思い出した。人の行いを見て、死後の安穏と復活を許される者かを、見極めているのだと。神の目はそのためにある。
やがて彼は私から離した手を、神像に祈るように翳した。上から降る光は彼の指の間へ入り、4本の光の交叉を作り上げていく。
彼を支えながら、私も祈るために瞼を閉じる。目を閉じて感じるのは、風が入口から吹き抜ける音と、隣の呼吸の音、植物の優しい感触と、支える腕から感じる彼の体温。あとは静けさに満ちて、別世界に降り立った雰囲気が辺りを覆い尽くした。
沈黙の祈りの後、彼と二人で、神像の足元の台にいる小さな人型棺に歩み寄った。悲しいくらいに小さい、ひとつの棺。今は一つしかなくても、直にもう一つやってくる。産めなかったあの子と、守れなかったタシェリがここに揃う。
張り詰めた胸に息を送り込んだ。気を抜いたら泣いてしまいそうになるのを、彼に支えられて堪える。足を動かして近づき、棺をそっと撫でてから摘んだ花を二人で並べた。我が子の来世が幸せなものであるようにと、ただ願い続ける。
そうして皆が待っている方へ戻ろうとした時に聞いたのは、外から流れてくる子供の歌声だった。神殿内に入って響きは透明さを増して、静かに広がって、明るい空から降る雪のように落ちてくる。入口から続く白い道がぼやけ、白い雲の切れ間を連想させる幻想的な空間で、どこまでも澄んだ、青い空のような声に足を止めて何も語らずしばらく耳を傾けていた。
日課が終わって部屋へ戻ると、私がセテムと話している間に彼は庭の方へ歩を進めていた。最高神として崇められる太陽は、彼にとって大きな意味を持つもののようで、毎日こうやって眺めに行く。
「アンク、セテムの話がまだ終わってないでしょう?」
「そのようなものどうでも良い。どうせ二言目には気を付けろだからな」
歩みをやめないでいる彼が言う通り、セテムの話はいつもどこに不審人物がいたとか、部屋を出る際は呼ぶようにとか、彼の命を案じる報告や注意ばかりであっても、とても大事なことだ。
「アンク」
「セテムは弘子と一緒で心配性なのだ。お前たちはもう少し余裕を持たねばいずれもたなくなるぞ」
そんな冗談じみた声を弾ませた彼に、仕方ないと肩を竦ませて苦笑するセテムは頭を下げて部屋を出て行った。振り向けば、彼はもう随分と離れた所まで行ってしまっている。
「無理はしないで」
「無理などではない。弘子も早く来い」
笑う彼の傍へ行こうと踏み出した足をつっと止めたのは、突然鮮明に思い出された一年以上姿を見ていない人の顔だった。記憶の端にある悲しみに沈んだ、憂いの表情。揺れる目元に震える唇、腕の傷から零れた真紅の線。フラッシュバックというのはこういうものを言うのだろうと思えるくらいに、はっきりとした良樹の姿が私の中を流れて行った。
前を行く彼の、筋肉が落ち細くなってしまった生々しい傷跡が残る左足を見やる。重傷を負った彼を救ったのはあの人だと、ナルメルたちは言った。あの良樹だと。
見つかる見込みがない今は言うべきではないとナルメルたちと判断し合ったこともあり、そのことを彼はまだ知らない。憎む相手に生き長らえさせてもらったと彼が知ればどうなるか。歩けない足ならば切り捨てようとした頃を思えば、容易に想像はつく。彼にとって今は重要な時期。最も安静でなければならない時期だ。不安定になりかねない今の彼に事実を告げ、無用な動揺を招くことは避けるべきだと判断してのことだった。
そして残る大きな疑問は、何故良樹が彼を助けたのかだった。あれほど憎んでいたはずの彼を、何故。
本来なら感謝すべきことなのだと思う。良樹が出て来てくれなかったなら彼は今頃こうしていない。あれだけの傷だった。一度は死を覚悟した。それを救ってくれた人。
けれど、あの棺の中の子を殺めたのは他の誰でもない良樹で、私にとっても恨み切れない存在でもあるのだ。薬を使って流産を起こして、生まれるはずの命を奪った。これが私の記憶から消えることはない。あの時感じた痛みも、死んでしまった小さなあの子の姿も、狂おしいほどの悲しみも、湧き上がる怒りも憎しみもまだはっきり覚えている。殺してしまいたいと思ったあの醜い感情も、何もかも。今でも「あの子を返して」と叫びたい気持ちがある。
それでも今回のことで感謝よりも恨みよりも何よりも、戸惑いばかりが大きくなっているのも確か。タシェリを失って、私のすべてだと思える彼を救ったのは良樹。ナルメルたちが見間違っているとも思えないし、あれだけ酷い怪我を治療できる存在と言えば一人しかいない。良樹に対してどんな感情を持ったらいいのか、分からなくなっている自分がいる。
幾度繰り返した分からない問いに果てが見えなくて、急に高まった鼓動を鎮めようと胸を抑え息をついた。
分からない。どうしたらいいのか。
「弘子」
呼ばれて我に返ると、彼が私を振り返って手招きをしていた。
「何をしている。早く傍へ」
言われた通り行くと、すぐさま彼の腕が肩に掛かって私を引き寄せる。
「椅子は?」
「いい」
引かれるようにしてその場に一緒に座り込んだ。杖が手放され、木が床に落ちる音がした頃には、すぐ傍に彼の顔がある。降り注ぐ太陽が眩しくて目を細め、風が頬を撫でるのを感じた。
「……疲れた」
私を抱き込み、名前を呼んで甘えるように笑いながら縋ってくれる。「お疲れ様」と少し固めの焦げ茶の髪を撫でた。自分の足で歩いていくことは、相当疲れるはずなのに弱音を一切吐かないから、せめて私には吐いていてほしい。
「何を考えていた?」
囁かれて笑う。
「何だと思う?」
何だそれは、と今度は彼が笑った。考える素振りをし、間を置いてから「分かった」と言う。
「私のことだろう」
私に自慢げなその顔を向けてくる。
「自惚れ」
「自惚れで何が悪い。弘子を妃とした己のことは十分に誇れることだ」
微笑んで彼の腕をそっと撫でることだけをした。
今、声に出して伝えたいような優しい言葉が私の胸にある。でも声に出したら崩れてしまいそうで、自分の中にしまったまま。きっと言わなくても伝わっている。あなたも持っているものだろうから。
それから他愛のない話をして空を眺めた。ナイルより薄い青色は、どこまでも続く空の海と思えるくらいに広い。互いに交わす声は吸い込まれるように消えていく。
彼が怪我を負って何が変わったかと言えば、こうして二人で空を見上げる時間が増えたこと。色んなところに生まれる、小さなことに気付くようになった。庭に小さな花が咲いているだとか、珍しい鳥が来ているだとか、本来なら気にも留めない些細なこと。
何かを見つけてほんのりと胸が暖かくなる。そうやって一日がいつも終わる。無事に一日が過ぎるこの日々が、永久に続いたなら他に願うことは何もないのだろう。私を呼ぶ声の響きが、触れ合えるこの瞬間が愛おしい。大きなものを失ったからかは分からないけれど、今はこんな取り留めのないことでさえ、とても尊いもののように思う。傍にいられるだけで、この体温と重みを感じられているだけで、私は幸せのすべてを知っていられる。
眺めていた空から顔を背け、隣の肩に額をつけた。すると彼の指が髪に挿しこまれ、そっと愛おしげに撫でられる。自分の髪の間に彼の指が見えて、睫毛がが震え顔を上げた瞬間に、額に唇が落ちてくる。柔らかな感触の後に今度はねだるように微笑む顔がこちらへ近づく。その頬に私が片手を伸ばすと、彼は私の手を掴んで頬を摺り寄せた。
ふと、手に感じる体温がいつもと違う気がして顔を上げた。頬から耳元、首筋まで触れてその違いが歴然と現れる。
「熱……?」
かすかだけど、いつもより熱を持っている。驚くほど高いというわけではなく、微熱程度に。
「気分は?悪くない?寒気は?」
肩透かしを食らったような顔をしていた彼は、大丈夫だと答えながらも顔を顰めた。多分この人は、他にも風邪らしい異変を自身で感じているのだと思う。変に辛抱強い所があるから困ってしまう。
「侍医を呼ばないと」
褐色の腕を抜け出してそう零すと、その人はあからさまに嫌な顔をした。
「大げさだ。すぐに治る」
「駄目よ、今は体力が落ちてる時期なんだから」
言い合いの末、しぶしぶと了承した彼を奥の寝台に連れて行き、侍女に侍医を呼ぶように命じた。
診察を受けて植物をすりつぶした薬を飲む彼を侍医の傍で眺め、私は膝上に乗せた手を握り締める。
気を張って行かなければ。まだ彼の免疫力は回復しきれていない。どんな病気でも大敵となりかねないのだから。




