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最後の詩

 疲れを隠し切れない足取りで部屋に戻ってきた。寄り掛かった壁はほっとするような暖かさを湛えている。

 ここでシトレの相手をして遊んでいたのは数時間前のことだ。いきなりやってきた二人の兵に捕えられ、罪人のような格好であの部屋に投げ込まれた際は、もうここに戻ることはないと確信していた。その所為もあって無事にこうしてここに立てていることが、奇跡のように感じる。

 鈍い痛みがある目頭を片手で覆っていると足元にティティの猫が寄ってきて、こちらを一瞥しただけで細く長い尻尾を高々と掲げ前を通り過ぎていく。猫の名前はあるのだろうが、俺の中では『猫』もしくは『ティティの猫』で通っていた。

 それよりもどこから来たのだろう。壁から背中を離して猫が来たらしい方を見やると、それは奥の部屋と続く場所だと分かる。足を進めて、温かな声が耳に入ってきた。笑い声と分かると、嬉しさと安堵を覚え口元が自然と緩んだ。部屋の奥まった所、寝台の傍に拳ほどの木製の球を軽く転がすティティと、それを懸命に四つん這いで追いかけるシトレがいた。他に侍女が二人、部屋の隅に控えて見守っている。


「そうよ、もう少し」


 1歳を越えたシトレは掴まり立ちや伝い歩きから、2、3歩まで歩けるようになった。それでもすぐにすてんと座り込んでしまうし、まだまだはいはいの方が断然多い。そんなシトレは球まで追いつくと、楽しくて堪らないと言った顔で声を上げている。


「上手!偉いわ!さ、今度はこっちに転がしてみて」


 言われてシトレがティティの方へ転がしたはずの球は侍女の方へ行ってしまい、声を弾ませた侍女たちがその手で止めた。戻ってきたシトレの頭を撫でる彼女も、柔らかい綺麗な微笑を浮かべている。

 彼女は変わった。政から一切手を引いたというのもあるだろうし、一番の大きな影響はシトレの存在なのだろう。以前あった、どこか尖った雰囲気が消えている。

 傍に行こうと俺が部屋に踏み入れると、まず侍女がこちらに気づき、それからティティが気づいてシトレの肩を叩いた。


「シトレ、ヨシキよ」


 くるりと振り返って俺を見つけると、呼ばれた子は俺に向かって「あー!」と幼い声を投げてくる。ティティの腕から離れこちらに向かってはいはいで突進して来るので、足への突撃前に抱き上げた。俺の腕に乗ったシトレは、何度も身体を上下させて全身で笑ってくれる。

 見える口の中には白い歯が三本ある。この満面の笑みを目にすると、先程アイに呼ばれていたことも、ナクトミンが言っていたことも全部どうでもよくなってしまう。


「心配していたの」


 いわゆる高い高いをやってあやしていると、傍に寄った彼女からそう言われた。


「だって、いきなり連れて行かれたじゃない」


 縋り付くようにしているその子は、俺の肩に柔らかな頬を寄せ、指をしゃぶり始めている。心配を掛けたくない思いが先立って、ああ、と素っ気ない返事をすると彼女は顔を顰めた。


「シトレが驚いてどれだけ泣いたと思ってるの。泣き止ませるのに苦労したのよ。心配した私の気にもなって」


「大したことじゃなかったから」


「獅子狩りでファラオの御名を叫んだのでしょう?だから呼ばれた」


 ぴたりと言い当てられて少しぎょっとする。


「知ってたのか」


「私が知らないとでも思って?」


 俺が連れていかれてからすぐに調べさせたのだろう。彼女の持つ情報網なら十分あり得ることだ。


「もう帰ってこないんじゃないかって本気で思ったのよ……殺されるかもしれないって」


 話していなかったのに、よくもまあ情報を集めてくるものだと呆れると同時に、手術のことも知っているのかとも思ったが愚痴を聞いていればそうでもないようだ。


「すまなかった」


 心配そうに眉根を下げるものだから謝り、もっと遊んでとせがみ出すシトレを抱えながら、アイの部屋でのことを簡単に概要だけ話した。その中でナクトミンがアイに復讐心を抱いているかもしれないことを伝えると彼女は目を丸くさせ、あり得ないと首を横に振った。


「あの子が?そんなまさか」


「でも確かに言ってたんだ。自分の母親を捨てた男を恨んでるって。あいつの父親はアイだ、そうだろう?話では間接的に触れただけでも……」


「なら何故その男の近くにいるの?あの子は第一の側近といっても過言ではない。このままいけば高位に就けるくらい、お父様の隣で権威を誇ってる。どう復讐するって言うの」


 そうだ。そこが最大の疑問なのだ。恨み、憎んでいながら何故傍にいる。これを問うてもあの男が答えてはくれないだろう。話しても決して核心には触れない、そういう男だから。

 黙りこんで考えていると、ティティが「それに」と付け加えた。


「もしあなただったら、憎んでる相手の下で長年あれほど親密に仕えられる?あの子は貴族家の実家からこの王宮に仕え始めてもう十年以上になるのよ?」


 十年。それだけの期間を最も憎い相手の下で頭を下げ、少年の頃から愛敬を振り撒いて仕え続ける。

 無理だ。俺には出来ない。


「姫様」


 侍女がティティを呼んだ。


「調べさせてはみるけれど、あなたの思い過ごしだと思うわ」


 俺の腕にいるシトレの頭をそっと撫でてから、彼女は侍女と部屋の外へ向かって行った。

 シトレと二人きりになった部屋で、ナクトミンの言葉を何度も頭の中で繰り返してみる。思い過ごしと言われてしまえば、そんな気がしないでもない。それだけナクトミンの話は抽象的且つ間接的だった。悩む俺の反応を楽しんでいただけかもしれないし、話も全部適当に作ったものかもしれない。それでも母親の話をしているあの男の表情や声色を浮かべれば、思い違いだけで捨て切ることも出来ない。

 もし、ナクトミンがアイに復讐心を抱いているとして、その機会を窺っているのだとしたら、としばらく考えてみたが、どう復讐するつもりでいるのか見当もつかなかった。

 アイも馬鹿ではない。あれだけの頂点に上り詰めた男だ。傍に裏切り者がいれば即座に勘付き、容赦なく殺めるだろう。そのアイが何も察知することなくナクトミンを側近のごとく傍に置き、絶大な信頼を置いているのなら、やはり俺の思い過ごしという考えに戻ってしまう。

 立ったまま唸っていると、ふと、腕の中で小さな子がもぞもぞと小さく動いているのに気付いた。抱えられているその子に目を移せば、こちらにぴたりと頬を寄せ、目をうつらうつらさせている。眠い時の合図だ。そう分かって寝台に寝かせようとしたら、いきなりぐずり始め、露骨にいやいやと拒まれて、仕方なく抱き直して傍の椅子に座った。小さな背中を軽く擦っている内にぐずりが小さくなって、やがて止む。柔らかい生糸のような巻き髪を撫でれば、頭を弱く横に振り、額をこちらの胸に摺り寄せて答えてくれる。

 素直に愛おしいと思う。この小さな存在を守ってやらなければと思う。名前も知らない母親の出産からもう1年以上が経ったのだと考えると、何だか不思議な気分になった。今も実母の形見である腕輪は首から下げられ、胸で濁ることなく光っている。

 物心がつく頃には、本当の母親のことも話さなければならない。どうして母親がここへ来て、どうして俺が出産に立ち会ったのか。その母親がどうして自分が産んだ赤ん坊を、一度も胸に抱くことなく死んでいったのかも。

 ぼうっとしている中で無意識に自分の口から流れてきたのは、あの緑の袖の詩だった。何故自分がこの歌を口遊むのかは知らない。昔から暇になったり一人になったりすると鼻歌を鳴らす癖はあったものの、特定の曲というのは無かった。無意識になるとこれを歌う癖でもついてしまったのだろうか。


「いつも歌う曲ね」


 背中に声が掛かって振り返ると、そこに用事を終えたティティがいた。


「何ていう曲?」


 寝台の方に腰を下ろし、彼女は寝息を立て始めたシトレを覗く。寝顔を見て愛おしげな表情になった。


「グリーンスリーブス」


 聞いたことのない言葉に彼女が小首を傾ける。


「ある男がいて、自分のもとから去った女に対して歌った悲恋の詩。彼女の呼び名がグリーンスリーブス。緑の袖という意味だ」


「どんな悲恋?」


 興味津々な様子で尋ねられ、俺は少し悩んでから口を開いた。


「最初、歌い手の男は『君は俺を捨てた。こんなにも愛していたのに』と自分の哀れを嘆く。多分恋人の女に捨てられでもしたんだろう」



 Alas, my love,

 ──ああ、我が愛、



 そんな感嘆詞から入る歌。



 To cast me off discourteously

 ──この愛を、君は非情にも投げ捨てた



「次に男は、どうしても戻って来てほしくてたくさんのものをその女に贈り続ける。例えば毛皮のコート、煌びやかな衣装、召使が沢山いる豪邸、馬、宝石、髪飾り、靴……」


 知らない単語がある中でも彼女は相槌を打って聞いてくれる。


「とにかく彼女の愛が欲しくて、女が喜びそうなものを何でもしつこく贈り続ける。なのに、何を贈っても彼女は自分を振り向いてはくれない。愛をくれない。こんなに愛しているのに」



 And yet thou wouldst not love me.

 ──それでも君は俺を愛してはくれない



「けれど急に、男は歌詞の中で別れを告げる」


「急に?」


「何を思ったのか、いきなりさようならと出てきて歌は終わるんだ」


「最後はどう続くの?」


 グリーンスリーブスの最後。

 最後の詩は、確か。




 Well, I will pray to God on high

 that thou my constancy mayest see


 俺は天高き神に祈ろう

 君が俺の忠誠に気付き、


 And that yet once before I die

 Thou wilt vouchsafe to love me.


 死ぬ前に一度でいいから

 君が俺を愛してくれることを


 Ah, Greensleeves, now farewell, adieu


 ああ、グリーンスリーブス

 君に今、別れを告げよう


 To God I pray to prosper thee

 For I am still thy lover true

 Come once again and love me.


 君の繁栄を神に祈ろう

 俺はいつまでも君のもの

 もう一度傍に、そしてもう一度、

 君の愛をこの手に抱きたい





 最後の詩を教えると、彼女は何かに気付いた風に「なるほど」と呟いた。


「その男は気づいたのね。愛した相手が自分と共にいるよりも、選んだ男と共にいた方が幸せだって……それで最後は死後にミイラになって、復活したらまた巡り会いたいって願った訳でしょう?だから別れを告げた」


 ヨーロッパで作られた詩なのに、ミイラの解釈が出てきてその違和感に思わず笑ってしまった。それでも素直にエジプト人の感性を持って歌を思えば、それが自然の発想なのかもしれない。歌う男は死んでミイラになり、甦ってもまたそのグリーンスリーブスの傍にいたいと願って歌を終える。今は愛されなくていいから、いつか再び巡り会って、その時に愛してほしい。

 健気な歌だ。実際にそう思うことが出来る人などどれくらいいるのだろう。


「俺にもそう思える日が来るだろうかと、時々考える」


「歌の男みたいに?」


 「そうだ」と頷きながら、もう一度シトレを抱き直してその髪を撫でた。

 弘子にとって、あの男と一緒になることが幸せだったのだと今もまだ思えない。もしあの旅行で何も起こらず、平凡に暮らせていたのなら、それは喉から手が出るくらい欲しかった未来なのだ。二度目のあの時も、アマルナで何かが違って、弘子も俺もメアリーもあの現代に留まっていたのなら、俺はきっと弘子と結婚していただろう。俺は研究を続けて名声を得、弘子も過去のことなどすべて忘れたまま、ごくありふれた家庭を作って、メアリーも弘子の掛け替えのない親友で有り続けていただろう。

 もう叶わない夢を見て、ふと思うことがある。もしそうなった時の彼女は、俺を愛してくれていただろうか。あの男と同じくらいの愛を俺に向けていてくれただろうかと。

 目蓋の裏にちらつく彼女の姿は、あの男のために泣いている。


「あなたのグリーンスリーブスは、王妃なのね」


 隣から放たれた静かな声に、黙り込む。

 弘子は俺にとってのグリーンスリーブス。緑の袖。そうなのかもしれない。


「なら私は?」


 ぐいと身体を寄せてきた彼女は、悪戯する子供のような顔をしてくる。


「私はあなたにとってどんな存在なのかしら」


「好きだ」


 吐息に埋もれるくらいの返答に、彼女は一瞬驚いたような顔を見せながらもすぐに微笑んだ。こちらも笑って見せる。


「中途半端な男は嫌いよ」


「嫌いで良いよ。俺が好きなだけだから」


 大切だと思う。頬を綻ばせ肩に寄り掛かってくる存在も。この腕に身を委ねてくれる幼い存在も。

 これからどうなるのか。それこそ雲をつかむような話だ。ただ一つ最も良いと思えることは、このまま何も起こらず、この生活が続いていくことだ。弘子はあの男を支えていればいい。俺は後悔と罪悪感を一生背負い、ティティの傍でこの子の成長を見守ることができたらなら、それでいい。



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