復讐
第4部
3300年。
ひたすら重なりゆく時の中。
あなたの想いを、私はどこまで守ることが出来るだろう。
愛した人たちの決意を、私はどこまで伝えることが出来るだろう。
どうやって、この胸に残すことが出来るだろう。
ひとつの名。ひとつの形。ひとつの記憶。
それらを胸に抱き、永遠と流れ続ける時を、私は駆けよう。
震える命を抱き締め、私は生きよう。
命の輪廻を絶え間なく繰り返す、悠久なる人々へ。悠久なる貴方へ。
そして、悠久なる君へ。
この魂が巡り合うその日まで。
男がいた。椅子に座り、肘掛けに両肘を置き、結んだ手の甲に顎を乗せて細めた目元でこちらを見据えている。俺を見て隣の澄ました顔の青年を見、それから申し訳なさそうに肩を竦めている体格の良い男へと視線を移した。
いきなり兵に捉えられ、ここへ投げ込まれてどれくらい経っただろう。夕暮れでまだ茜の陽光が伸びていてもいいくらいの時間帯であるのに、この部屋には一寸の光もない。どうしてここまで光が無いのだろうと不思議に思うも、疑問の答えを執拗に求めることはしなかった。鉛の重みを持つような暗さの中で、真ん中に座る男の眼光だけが鈍くうつろいでいて、それに気が張って考える気になれなかった。腔内に溜まった唾を飲み込む音さえ、厄介な雑音に感じる。年老いた老人とは言え、口を閉ざした状態で人に対しこれだけの威圧を掛けてくるこの男もまた、王家の人間なのだと実感せずにはいられなかった。
「つくづく運の良い男よ」
失笑と共に口火が切られた。
「あれだけの怪我を負っても尚、生きているとは」
ゆっくりと吐き出された声は重々しく、苦々しい。嗤うようでありながら悔しさが剥き出しだ。こだまとまでは行かないが、部屋にそびえる何本ものの柱に反響して、前から放たれているはずの声は背後からはおろか、両脇からも攻めてくるようだった。なるべく呼吸の音がしないように息を潜めた。
「ヨシキ」
鈍い光がこちらを向く。コマ送りしているかのように、相手の眼球や指先の動き一つ一つに敏感になり喉の奥が嫌に引き締まった。
「何故、あの時邪魔をした」
アイは問うている。獅子狩りの時に俺があの男の名を叫んだことを。
声帯を揺るがしたあの声の感覚は今でも生々しくこの喉に思い出せる。
「聞いた時はその喉を掻き切ってくれるかと思ったわ。お前のせいで心の臓を狙い損ねたのだぞ」
口は開かず、目を伏せることだけをした。何を弁解してもこの男には何も伝わらない。俺の言葉ではこの老人に対して何の考慮も展開してはくれないのだ。それならば保身のため無理にくだらない言葉を吐き並べるよりも、黙って頭を下げるに越したことはないと分かっていた。
「ホルエムヘブ、お前もだ」
名を呼ばれた途端、ホルエムヘブは身震いし、飛び上がるようにして跪き、「申し訳ありませんでした」と怯えた口ぶりで謝罪する。
「何故獅子を我先にと退治に向かった。あのまま放っておけば王はあの場で死んだだろうに。何だ、あの威勢のいい態度は」
「あの時は無我夢中で……獅子を見た時自分の出番だと……そ、それで」
「戯けが!」
アイの足が一度床を強く踏み鳴らし、その反動で椅子の横に立てかけられていた杖が音を立てて倒れた。鋭い音が生み出した足場の振動に、「お許し」をという男の声が弱々しく広がって行く。
アイの機嫌は最悪だった。庇うようにツタンカーメンの名を叫んだ俺と、獅子が現れた際率先して討伐に向かったホルエムヘブに対してそれは今最高潮に達している。
確か俺たちの行動さえなければ、王はあの場で息絶えていただろう。胴体を矢で打ち抜かれ、獅子に肉を刻まれ、獅子狩りにおける王の死は確実だった。そんなアイの企みを妨害した俺たちだ、何らかの処罰はあるだろうと予想していた。
睨みつけているアイの前で隣り合う俺とホルエムヘブは黙って床に視線を落としている。アイから発せられる威圧に微動だにしない俺に対し、筋肉質の将軍の男は床に臥せって小刻みに震えていた。伏礼をしつつも怖くて身を縮ませていると言った様子だ。大きいはずの図体はやけに小さく見える。
直接助けた訳ではない。俺は声を張っただけ、ホルエムヘブに至っては無意識下での反射的行動だった。これに対し、これほどの憤慨にぶち当たるのだから俺があの男の足を治療したとなれば、この怒りはどれだけのものになるだろう。殺される。考えは迷わずそこに辿り着いた。
ナクトミンの反対を押し切って執行したのは俺だ。覚悟をして挑んだはずだ。それなのに死ぬのだと思うと足が竦む。唐突に逃げ出したい衝動に襲われる。覚悟など単なる言葉でしかなかったのかもしれない。
「恐れながら」
臆することなく一歩前に踏み出したのはナクトミンだった。アイを見据える彼の目に感情は無い。余所余所しい素振りも媚びる様子もなく、前に踏み出して堂々と口開く。
「あなた様はヨシキのことをご存知だったはず。一度子供を殺しておきながら二度目は殺せないと言った、もともとどっちつかずの男ではありませんか。それをご存知でいながら僕にヨシキを呼んでもいいと仰ったのはあなた様です」
玲瓏にさえ聞こえる彼の声に、アイは頷くように唸って冷笑する。
「ここまで愚か者とは思わなんだがな」
「ホルエムヘブさんの場合もまたしかりです。あの場で救助に動かなければあらぬ疑いを掛けられていた可能性は大きい。なんと言っても誰よりも狩りや戦いの場で力を発揮するホルエムヘブ将軍、あそこで踏み出さなかったとすれば疑問は少なからず生まれたでしょう」
アイは口を挟んだナクトミンに何も説教せず、俺たちが言えば顔を真っ赤にしそうな台詞にも黙って耳を傾けていた。
「それに見事、王に怪我を負わせられた。以前のような歩行はどう考えても不可能。この前ご覧になりましたでしょう。杖をつき、臣下や王妃に支えられながら歩いているあのみすぼらしい姿を」
片足を失ったも同然なあの男。弘子に支えられながらそれでも歩いているのか。
「杖突きの王に威厳などない。そうではありませんか?」
ナクトミンが発する声は、低くて静か、そして悪寒がするくらいに冷たい。
「完全になくなりはしなくとも、多少なり威を削ぎ落とすことにあなた様は成功されたのです。間違いなく有利になられた……誰よりも」
もともとこの二人の信頼関係は厚い。いや、アイがナクトミンに絶大な信頼を寄せているのだ。加えてナクトミンも、俺たちの行動をまるで正当化するような話し方をする。
「まあ、そうだ」
アイは何かを思い出す素振りをして、皺が周りを囲む口端をゆっくりと引き上げる。
「足を引きずるあの姿は目にしただけで笑えるものよ。あれほど見栄えの無い王がどこの国にいるというのか」
王に対するイメージというものは、この世のどこでも大抵は自らの二本の足ですっくと立ち、威厳を保ちながら民を導くその存在。言わば神のような偉大さと優れた知能、カリスマ性を兼ね備える指導者だ。それが杖を突き、他人に支えられ、びっこを引いているというのはいかがなものか。
「今回、この二人の振る舞いは僕からしても馬鹿らしいとしか思えませんが、ここはひとつ、様子を見られてはいかがでしょう。二人は今のアイ様には無くてはならぬ存在、もしくはいても損はない存在かと思われます。これから使う手など腐るほどあるでしょう」
間を置いてから分かったとアイが体勢を崩し、頬杖をついた。
「お前が言うならばそうなのだろうな。ナクトミン、我が忠実なる僕よ」
柔らかな綻びを見せた青年は膝を折り、深々と頭を下げた。
「お前たちはナクトミンに感謝するが良い、今は見逃してやろう。ただし、次は無いと思え」
俺とホルエムヘブも前にいる青年と同じように礼をした。許されたのだと胸を撫で下ろすと同時に何故足の治療に関して触れられないのかと疑問が生まれる。
「して、あの男はどこへ遣られたのでしょうか」
問うたのはナクトミンだった。
「男、とは?」
満足げに足元の青年を見下ろすアイは少しばかり首を傾ける。
「ファラオに弓射ったあの男です」
どの男か知ったらしいアイは小さく喉だけで嗤った。
「奴ならばすぐに殺してくれたわ。野放しにしておけばこちらが尻尾を掴まり兼ねぬ」
殺したのか。アイの命令のために動いただろうあの男を。アイの企みの唯一の証人はこの世から消えたということだ。
「どうした、お前が止めを刺したかったのか」
「ええ、とても」
背中だけではどんな顔をしてナクトミンがアイと受け答えしているのか分からない。
「それは悪いことをした。次はお前を遣わそう」
すっかり機嫌を直したアイは、そのまま俺たちを下がらせた。
「お前って本当にいい奴だな!」
部屋を出るなり、真っ青だったはずの顔を真っ赤にさせたホルエムヘブがナクトミンの前に躍り出た。
「いえ、それほどでもないですよ」
「俺は感動したぞ!ものすごーく感動した!」
素っ気ない返事をするナクトミンの肩を抱いてバンバンを叩く。ホルエムヘブがここまで喜ぶのも無理はない。つい先程まで殺されるかどうかの瀬戸際にいたのだから。
「ホルエムヘブさんがいなくなったらこの国の軍事はどうなります?カーメスさんだけでは成り立ちませんよ」
「そうだよな!俺がいないとこの国自体が困るんだ!こんな仲間を持てて俺は幸せだ!じゃ、国のため、兵どもを鍛えに行ってこよう」
「ええ、あとから僕も向かいます」
最後に一段と強く叩き、ホルエムヘブは颯爽と駆けて行く。遠ざかっていく足音を意識の端に聞きながら俺はナクトミンの後ろ姿を見ていた。青年は鼻歌で奏でながら、ゆっくりと軽い足取りで歩き始める。
「どうしてアイは手術の件を責めなかった」
気に掛かっていた疑問を投げると、ナクトミンはちらと俺を見やった。
「当たり前だよ。僕が周りに口止めしたんだから。アイ様はあのことを知らない」
やはりと思う。ナクトミン当たりの権力の持ち主がそうしなければアイの耳に届かないなどということはなかったはずだ。
「あれが知れてたらヨシキは殺されてただろうね。安心して。あの事実を知ってるのは僕と医師たちだけだから」
鼻歌を交えながら俺の前を歩いていくその青年に対して何故という勘繰りが過る。今まで幾度となくこの男には助け船を出されてきた。だがその理由を何一つ俺は知らないのだ。
「……俺はお前が分からない」
前を行く相手の足取りが止まった。
「ナクトミン、お前は俺に何を望んでる?」
振り向いた顔には意味深な微笑がある。
「言ったでしょ、僕はヨシキに興味があるって」
「どんな」
「僕に似ているんだよ、そして僕の母親にも」
母親のことは初耳だが、ナクトミン自身と俺が似ていると言っていた記憶は新しい。それでも意味が掴めず眉を顰めると、彼は側の柱を見上げた。釣られて見た大きな柱が支える天井には、見事なレリーフと小さな亀裂。古来の都の宮殿というだけあって、古さはそこら中に見え隠れしている。
「復讐しようとある人間を強く憎んでいるところは僕。好きになった人間に馬鹿みたいに一途で病的なところは母親かな。だから気になるし、これからに興味がある」
「復讐?お前は誰かに復讐しようとしてるのか」
問うと、含んだ笑みにはぐらかされる。俺の前を歩く相手は、形を確かめるような手つきで一番近くの柱を触り始めた。
「僕の母親は貴族の生まれだった」
いきなり何を話すのかと思えば、いつかティティに聞いたこの男の母親のことのようだ。ナクトミンはティティとムトノメジットとは腹違い、父親は非公認ではあるがアイだ。そしてアイはその事実を知らない。
「それはそれは土地をたくさん持った家の一人娘。それなりに美人だったし、器量も良かった」
出身は裕福な貴族家。そこから兵に上がって隊長という身分にまで上り詰めたのがナクトミンという男だ。
「母はあの方を愛して僕を産んだ。そして捨てられた。そんな母はあの方を想い続けた……いいや、泣きながら恨み続けたのかも。僕なんてそっちのけでね。ここらへん、ヨシキに少し似てない?」
弘子に捨てられて病的になった人間。ナクトミンの目に俺はそう映っているのだろうか。頷きはしなかったが、否定もしなかった。憎んだ対象が誰だろうと、想い過ぎて自分を壊したのは事実だ。
「僕は祖父母に育てられながら母を見てた。病んで病んで、それでも病みきれず狂って死んでいった」
嘲笑とも取れる声で短く喉を鳴らす。
「馬鹿な女だよ」
ナクトミンが愚かだと嘲るその母親の気持ちは分からなくもない。この男の母親や俺の気持ちなど、経験した人にしか理解できないだろう。人はいくらでも愚かになる。盲目になるほどに。
「あの女はね、新しい男を夫にしても自分が可哀想で泣き続けた。子供まで産んだのに男に捨てられた哀れな自分、そうやって自分のためだけに泣き続けて狂っていったんだ。同情はしなかった。あの頃抱いていたものと言えばそれはきっと軽蔑」
一端止めて、相手は見上げていた視線を横に広がる中庭に移した。彼の横顔には遠いどこかを臨んでいるような、そんな雰囲気がある。
「でもそれは僕の強情でもあって、そんな女を可哀想だと思う僕もいた。愛してもらえないのは、自分がこんなに惨めなのは母を捨てた父親のせいなんだって。だから今こうしてここにいるし、あの女に似た境遇にいるヨシキのこれからが気になるんだ。そりゃあ、ヨシキとあの女が全く同じってわけじゃないけどね」
曖昧で掴みどころがない空気のように、どれだけ真剣に聞いても指の間をすり抜けて真意が読み取れない。だが誰に復讐するのかという質問に答えていないようで、よくよく彼の言葉を顧みてみればその中で答えている。息子を顧みず泣いて恨んで死んだ母親を疎みながらも哀れに思い、その元凶を恨んでいるということ。母親を捨てた男への、母親が自分を愛してくれなかった原因を作った父親への憎しみ。父に復讐しようとしていることになる。
ならば、と息を呑んだ。この男の恨みの矛先は、アイに向くのではないか。おかしい。変だ。アイに復讐したいというならば何故傍にいる。信頼される側近のように。東のファラオ側に仕えるのがいいだろうに。辻褄が合わない。
「はい、終わり」
唇を開きかけた俺をその声が止めた。向かいの男はいつものように飄々としている。
「これ以上ヨシキに話す気はないよ。用事があるから僕はこれで」
じゃあねと踵を返してナクトミンは俺の前から去って行った。
追いかけて問い詰めようかとも思ったがやめた。人の復讐などに首を突っ込んで何になる。復讐を抱くなど、珍しいことではない。自分がそうだった。味方か敵かと言えば、彼はどちらでもないのだろう。俺の行動次第でどちらにでも成り得る存在。あの男はあの男で、自分の中に指標を持って生きているのだ。
強張っていた肩の力を抜き、疲れを感じながら小さく息をついた。
不意に、流れてくる歌声に気づく。高くて心地よい、無垢な声。風に乗り、それは細波のように横を抜けていく。実際に見たことはないが、話しだけで聞いたことがある神官見習いの幼い子供たちが謳っているのだろう。場所は中庭の壁の向こう側。丁度そこに小さな神殿がある。そちらの方に足を進めて耳を澄ませた。
子供の声は好きだ。澄んで、風のように緩やかに吹き抜けて。同じような声を響かせていただろうそんな時の自分に会いたい気がしてならない。
『──神の御業を讃えん』
『──我らの傍にあれ』
『──永遠の安らぎ祈りみて』
謳われるのはいつも神に関することばかりだ。幸せを降らせよとか、その力を讃えるものだとか、国に栄えをもたらしたまえとか。
昔は存在も信じなかった神。歴史がその通り動くよう存在して、ここにいる誰もが気づかずに動かされているのだとしたら、神はいるのだろう。最早存在しないと、俺には言い切れない。そして俺が思う神は決して、人が望むような救いの手を差し伸べてくれる存在ではないということだ。
頭上には春のような日差しが降り注ぐ。夏が過ぎたからか、陽光が少し和らいだ気がする。俺があの男の足を治療して死ぬのを防ぎ、歴史が変わったのかはまだ分からない。歴史がそのまま動いているのを知りながら弘子のために抗おうとそれをして、分からなくなった。
この手で変えられたのか。その手応えは皆無だ。もしかすればあれもこれも、今起きているすべてのことさえも歴史の内なのかもしれない。この虚しさに似た感情は何だろう。
今も変っていないなら、歴史通りに進んでいるというのなら。近い内に何かが起こる。未来に記されているかもしれない、俺が思い出せない今を引っ繰り返す何かが。
空に流れる薄い雲の流れを目で追いながら虚しさを感じずにはいられなかった。




