間章
1週間ほど、彼は食事に苦労した。かなり柔らかいものでないと噛み切れず、食事はすべて磨り潰して水を混ぜて飲ませる形を取った。
2週間が経った今は、酷かった痛みによる眩暈も治まって自分で身体を起こせるようになり、寝台に座りながら多くの報告書であるパピルスを読む日々を送っている。
「あなた」
パピルスに目を通していたその人は顔を上げて私に視線を向けた。寝台の隣についていたセテムが彼から書物を受け取り、礼をして下がっていく。
「どうした」
セテムを見送り改めて私を見た彼の表情は、最初と比べれば朗らかだった。
「杖がね、できあがったの」
両手で握り締めてきたそれを、彼の前に差し出す。ナルメルが持ってきてくれた装飾が施された長い杖。松葉杖のように杖の手の側が二股に分かれてないけれど、この時代で一番使いやすいとされる形。そして杖として一番目立たないもの。
「侍医がもう歩けるだろうって。これを使っての歩き方も習って来たのよ」
歩けない姿を多くの人に見せたくないという彼の気持ちは痛いほど分かっているつもりだったから、杖の使い方と、それを利用した歩行法も教わってきた。可能な限り私だけで教えられるように。
「杖か」
彼はあまりいい顔をしない。気難しげに眉を寄せて、少しだけ悲しそうにする。
「……歩いてみない?」
自分の動かない足を目の当たりにすることがどれだけ辛い事か。それでも彼は歩かなければならない。彼はこのエジプトの王なのだから。
歩き出すきっかけを作らなければと、勇気を出して口にした提案だったのだが、彼はじっと杖を見詰めて口を結んだままで杖を受け取ろうとはしない。
駄目だったかもしれない。まだ言い出すには早すぎたのかもしれない。どれだけ分かろうと努力しても、足を失っていない私が、足を失ったその人の本当の気持ちを完全に理解することはできない。私には想像もできないものなのだと思う。分かってあげたいのにできないことが、また悔しい。
「あの、無理にとは言わないから……また今度に」
「やろう」
言い欠けると、視線の先にいる彼がゆっくりと手を伸ばしていた。
「弘子が、そう言うならば」
彼が肩を竦めながらも笑みを浮かべてこちらを見ている。小さく笑って手を伸ばしてくれたことが、こんなにも嬉しい。手を取ると、私の持つ杖に手を伸ばす。どんな時も自分の立場を見失わないあなたは、本当に強い人だ。
「ゆっくり足を下ろして」
寝台の傍に屈み、手伝いながら立ち上がる準備を進める。左足を床に下ろしても、足裏はちゃんとつかない。内側に大きく反ってしまっている。
「……もう、前のように歩くことは叶わぬのだな」
床についた自分の足を見て苦笑を漏らす彼は杖をつき、私は患側から支えながら声を掛けて一緒に立ち上がる。何度かバランスを崩して転倒しそうになるのを堪えながら、たくさんの時間を掛けて。立つという動きに、今まででは考えられないくらいの労力を要した。
「嗤えるな、杖突きの王など」
初めて一歩を踏み出した彼の言葉がそれだった。息を荒くして、額に汗を滲ませながら動かない自分の左足を憎たらしげに見つめる。
「立つだけでこれか……嗤われたとて仕方ない」
「馬鹿言わないで」
肩に回される彼の腕を強く握って返した。
「誰かが笑ったとしたら、私がこの手で捕まえて殴ってやる。誰にも笑わせない」
見上げれば、虚を突かれたような彼の顔がある。
「あなたは立派だわ」
嘘はない。心からの言葉だ。
「前に行こうと、進もうと前をちゃんと向いてる。それが出来る人がこの世にどれだけいると思う?」
いるとしても本当に一握りだ。私には到底できない。
「歩けなくなっても私にとっては何も変わっていない。あなたは私が好きになったトゥト・アンク・アメンその人よ」
もう一歩を促すと、口を堅く結んだ彼は右脚を強く前に押し進めた。
また一歩。また一歩。力を注いで、懸命に動かす。これほどに強い歩みを私は知らない。汗水流して生み出す歩幅が愛おしかった。感激だった。
「……ならば」
歩きながら、彼は結んでいた口を不意に開いた。
「弘子がその者を捕まえて来て、私が殴った方がいいだろうな」
冗談を並べながらあなたは泣きそうな顔で笑う。崩れた、今までで一番柔らかな笑顔だった。
「腕はまだ、健在だ」
そう言って私に回す腕に力を込めて、歩幅を大きくする。
この人のことが、言葉にならないくらい好きだと思う。どんなあなたでも、私はあなたを愛している。役に立ちたい。力になりたい。この人のために生きていきたい。
彼の確かな重みを感じながら、自らに問う。私の望みは何だろうかと。それはきっと、あなたが私の傍にいてくれること。そして私の力は何だろうかと。それはきっと、あなたを強く想うこと。あなたに抱く想いが私の力。だから私は強くいられる。
「あなたは歩ける」
こんなにも強く。
一緒に歩いて行こう。肩を組んで、支え合って。無い物を互いに補いながら。
「私があなたの足よ」
手にだって、目にだって、腕にだって。私があなたの代わりになる。
「外が見たい」
そう彼が言って外へと足先を向け、杖の音を鳴らしながら進んだ。昼を越えた、むしろ夕刻に近い色が彼の視線の先に細長く伸びている。
久々に目にする色だった。思えば怪我をしてから彼は寝台以外にいたことがない。外を見たいと言うのも当然だった。
時間を掛けてバルコニーの似た場所に出ると風が吹き込み、彼が上がる呼吸の中でああ、と吐息交じりの声を小さく放った。放った音は風に攫われて空へと消える。釣られて見上げた空は青く、私たちは春のような穏やかさの中にいた。季節で言えば秋、それも季節がないこの国で春を感じられることが不思議で、私も彼と同じような声を零した。その声もやっぱり同じように、青と橙が混じった空に吸い込まれていく。
真上を旋回するハヤブサは天の高さを刻銘に映し出し、静かな空間に落ちてくる柔らかな羽音はこだまして空気を優しく揺るがす。太陽が煌々と私たちを照らし、その神々しさを露わにして黄金を降り注ぐ。緑がそよいで、花の微かな香りが嗅覚をくすぐる。
取り囲む世界に胸が震えた。雲一つない清々しい青と、ナイルの香りを運ぶ風、そして太陽の橙。すべてが新鮮に映って、懐かしさが溢れて来て、すべてに泣き出しそうになる。
彼も私も何も言わない。言わなくても、伝わっている。言葉はいらない。
太陽を真っ直ぐ見据えた彼が、今まで以上に私を強く抱き寄せる。こみ上げる想いに再び空を見上げ、私も彼に回す腕に力を込める。
この空のもとで、この風の中で。ずっと続くだろうこの切なさも痛みも、大事に抱えて生きていきたい。
二人。私とあなた。
二人で抱いて、生きていきたい。




