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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
19章 神とは
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嗚咽

* * * * *


 夜が明けようとしていた。部屋はしんとして、吸い込まれそうなくらいのしじまが取り巻き、腰下ろす椅子の影が薄くなっている。外の空が白み始めた頃だろう。あれだけ人が溢れかえっていた部屋には、宰相と侍医と侍女数人を隣の部屋に残して今は私たちだけしかいない。

 辺りを一通り見渡してから彼の手を両手で握り直し、その人を見つめた。大量の汗をかきながら呻いていた当初と比べれば、今は大分落ち着いて静かな寝息を立てている。うなされるように顔を顰めて汗を流した時は隣から手を伸ばして拭って手を握った。そんな気が気ではない夜を過ごしたせいか、落ち着いた寝顔を見て安堵と眠気が自分の中に薄く広がっていく。

 良かった。本当に良かった。そう思わずにはいられない。彼の呼吸を聞いて、温もりを感じて、未だに涙が出そうになる。失うかもしれない、そう思って生まれた恐怖が薄らいでさっきよりも深く息をついて温もりのある手に額を寄せた。最悪のことばかりが頭を過っていたあの時を思うと、今でも不安に駆られてどこにやったらいいのか分からなくなる。手を伸ばして小さな傷のできた頬をそっと撫で、しばらくその顔を眺めていた。


「王妃」


 夜に溶け込む声に顔を上げると、隣の部屋に控えていたナルメルがいた。


「お耳に入れて頂きたい由が御座います」


 ラムセスたちが宰相に細かく事態を説明していたのを記憶の端に思い出す。事故についてだろうか。これだけの怪我を負った理由を、彼が部屋へ戻ったその時はそれどころではなかったために、私はまだ聞いていなかった。


「今行きます」


 彼の手を離して椅子から立ち上がり彼らのいる場所へ向かった。


 数人しか入らないくらいの狭い部屋は私のいた部屋よりもまた一段と暗い。侍医の他にラムセスもその場にいた。侍医とナルメルが立つ後ろでラムセスは顔を俯かせて跪く体勢をとっている。


「王妃」


 侍医がこちらへ踏み出し頭を下げたのを見て、私も礼を返そうと口を開いた。


「懸命な処置をありがとうございました。あの時は動転してしまって、真面に礼も言えなくて」


 もっと早く言うべきだったのに、頭が真っ白で何も言えないままここまで来てしまった。


「あなたがいなかったら夫はどうなっていたか」


「違うのです」


 侍医は首を振った。何が違うのか分からず聞き返せば、侍医は申し訳なさそうな、それでも落ち着いた目で私を見て続ける。


「我々は率先して処置を行っておりませぬ」


 本来、王族の治療に当たる際はこの国で最も名医である故に選抜された侍医が中心となって行うことが決まりだ。その周りを固めるのも、有望で才能のある医師ばかりであるのに、侍医は自分たちがやったのではないと言う。


「それはどういう……」


「別の者が率先して行ったのです。我々は手伝ったのみでしかない。許しもなく決まりに従わず行ったこと、どうかお許しください」


 侍医は申し訳なさそうに眉を下げて、謝罪した。

 最初は足を切断の判断を下したことや、彼が威を守るためにそれを拒んだこと。成す術がなしとしたところにその人が現れて彼を直したことを聞いた。


「その者の手業に無駄なく、我々の知らぬ技量でやってのける……誰より確実に高い技を持っていると判断した故、ファラオのご意志に従うべくそうさせていただいたのです」


「なら誰が?誰が彼の治療をしたの?」


 この侍医の腕を越える人物。突如として登場した謎の人物は私の思考を混乱させた。


「侍医と話してみたのですが、おそらくあの男かと」


 口を挟んだのはナルメルだった。


「ファラオと王妃、あなた方が探していらっしゃった男……あなた様の旧知にある人物」


 はっと息を呑んだ。侍医が驚くくらいの技術を持っているとしたら。この時代に合わない医術が出来る人がいるとしたら。


「──良樹」


 まさかと思いながら口を突いた一人の名に、向かいの二人が確信的に深く頷いた。息が止まる思いだった。思考が絡み合って解けなくなる。


「良樹が?まさか」


 良樹は彼を恨んでいた。それはもう、殺そうとさえするくらいに。ただでさえ、私の子を殺したくらいなのだから。そんな人が彼を助けてくれるだろうか。


「私もその者が施設に入るのを目に致しました。ただ、顔の大半を隠していましたので確信は出来ませぬが」


 ナルメルが言うのなら間違いないのだろう。でも。


「どうして良樹が……」


 理由が見つからない。お腹の子を殺すことまでした人。恨んでも恨み切れない人。もうこの宮殿にはいないのだろうとも思っていた。その良樹が彼を救ったと言うのなら、それは何かの間違いではと思えてくる。


「良樹は……良樹は今どこに?」


「処置が終わってすぐ、姿を消しました」


 会えないのだと悟った。いつも姿を現したと思ったら良樹は跡形もなく消え去ってしまう。どれだけ探させても今まで見つかったことがない。


「只今宮殿内を捜索させております」


 もし見つかったとしたら私はどうするだろう。彼を助けてくれたその理由を聞いて、答えを聞いて。一度殺意さえ抱いたその人を、私をどうするだろう。見当もつかなかった。


「それから、獅子狩りでの事件をお耳に入れておきたいことがあります」


 俯く私にナルメルが声を掛ける。彼が怪我をした経緯。聞くべきだと気持ちを持ち直して宰相を見た。


「今回の事故、ファラオの馬に矢が刺さったのが事の発端のようです。馬が暴れ出し、チャリオットからの転落、運悪くそこへ獅子が現れたと。ファラオは下敷きにされたものの、運よく周りの反応が早かったため獅子によるお怪我はありませんでした」


「矢が?獅子狩りで誤って飛んできたもの?」


「違う」


 奥で跪いていたラムセスが短く言い放った。飛び出した声色は、赤毛の隊長の悔しさを剥き出しにする。


「獅子狩りに連れて行く兵は手練ればかりだ。謝ってなんて誰がファラオを打つ。あれは狙って射たとしか考えられない」


「それじゃ、彼は狙われたってこと?ならば誰に?」


 嫌な予感がした。誰かが彼を狙っているのなら、思い浮かぶのはあの人。


「……分からない。取り逃がした」


 跪いていたラムセスが悔しげに顔を歪めて告げる。


「すぐに気づいた!なのに!」


 床を拳で叩いたラムセスの言葉をナルメルが繋ぐ。


「王は神に等しい。その存在を一般の兵が狙うなど敵国の内通者でなければ決してあるまい。王と等しい身分にある誰かに命じられれば別だが」


 私たちは沈黙した。

 王は神だ。その命を狙うのは、エジプトを手に入れようとする敵国のスパイである場合、彼の父アクエンアテンのように古来の神を潰した異端の王族である場合。そして、王と同じ身分にある『誰か』に命ぜられた場合。

 きっとここにいる全員が同じ人物を思い浮かべている。彼とほぼ同等の立場にいる権力者はたった一人しかいない。それでも言えない。確証がないのだ。確証を得るには、その矢を放った男を探して誰に命ぜられたかとその行為の根拠を聞くことしか手はない。


「今も探させている最中です。見つかり次第、すぐに報告するように命じてあります」


 夜というせいもあってか、それとも遣る瀬無い気持ちが逸ってか、皆の表情の陰影が濃く、やはり誰もがその黒に飲み込まれそうに思えた。ラムセスの炎のようなその赤毛でさえも。


「……それから、申し上げなければならないことが御座います」


 侍医が再び私を呼んだ。真正面から向かい合う体勢になって、その人は悲しげに目を伏せる。


「ファラオの脚のお怪我を、ご覧になりましたか」


 彼が治療される直前に見た光景を思い出す。骨が突き出てしまった彼の左脚の怪我。血の気が引いたあの感覚が今でも肌を這うのを感じながら頷き返した。


「残念ながら、あの怪我ではおそらくファラオは生涯、以前のように不自由なく歩くことはできませぬ」


 静かに告げられた言葉に私は声を失う。


「……でも足はほとんど元に」


 今部屋で眠っている彼の足は、施設に入る前など想像できないくらい元通りの形を保って、固定されている。一目見て、大丈夫なのだと確信するくらいだった。


「それは見かけだけです。これが限界でした」


 それ以上声が出なかった。声を出せるだけの余裕が無かった。


「本来なら切断を余儀なくするところを、足の形をとどめただけに過ぎませぬ。完全なる治癒は難しい。どれだけ時間が経とうと以前のようにお歩きにはなれますまい。歩くには杖が必要となりましょう……我々の術の劣るために御座います。どうかお許し下さい」


 歩けない。彼が。もう、一生。


 その時、何かが床に勢いよく倒れたような、叩きつけられたような鈍い音と低い悲鳴が鼓膜を震わせた。彼のいる部屋からだと気付いて我に返る。

 慌てて部屋に戻り確認すると、寝台に彼がいなかった。寝台の方に回って、床に倒れたテーブルと共に寝台から落ちた体勢で、瞳を大きく揺らした彼が目に入る。


「アンク!」


「ファラオ!」


 無事に目覚めてくれたことに胸の奥に灯った僅かな安堵を感じながらナルメルたちと駆け寄った。


「大丈夫?痛みは?傷は?」


 尋ねても床に座り込んだ彼は自分の左足を見たまま何も言わない。麻で巻かれ、太い木材で固定された足を恐る恐る触り、訳が分からないと言った表情でそこを見ている。


「足が、動かぬ……」


 愕然とした様子で彼は声を落とした。


「あなた、」


「弘子……立てぬ、立てぬのだ。足が立ってくれぬ」


 隣に屈んで肩に触れて、ようやく私を映してくれた目は動揺で満ちている。


「なんだこの足は」


 彼の焦点の定まらない目は、大きく揺れて私から足へと動いた。大きく見開き、何度も「この足は何だ」、「動かぬ」と繰り返す。


「弘子、どうすればいい。足がおかしい。ひどく痛むだけだ」


 私の両腕を掴んで彼は言う。縋るような淡褐色が迫った。


「動かぬのだ、足が…!足が!!」


 無理に立ち上がろうとして激痛に見舞われた彼は大きく悲鳴を上げて体勢を崩し横ざまに倒れ込んだ。


「アンク!」


 ラムセスと侍医に手伝ってもらい、声を上げて息をする彼を寝台に戻して横たわらせる。痛みが治まるまでしばらく待ち、痛みによる痙攣を治めようと侍医が動く。背中を擦って、出来るだけ身を寄せて、私を呼びながら「足が」と繰り返す彼に、自分はここにいると何度も呼びかけた。


 彼が落ち着きを取り戻し始めたのは、それから数十分後の頃だった。冷静さを取り戻したのか、それとも疲れからか、彼は私が傍にいるのを確認しながらも天井を茫然と見つめている。


「ファラオ」


 侍医の声に淡褐色が力なく動いた。


「御身に起きましたお怪我についてお話をさせていただきたい」


 僅かに頷いたと分かる動きをして起き上がろうとした彼を、ラムセスと起こすのを手伝う。侍医は、寝台に座る形になった彼の右側にある椅子に腰を下ろし、ゆっくりと重たい口を開き始めた。

 怪我がどれだけのものだったかと言うこと。獅子狩りで起こったこと。以前のように歩くことは無理だろうと言うこと。杖を突きながらならば歩けること。すでに身長に合わせた杖を作らせていること。

 良樹が治療したと言う件だけを除いて、これからあるだろうすべてのことを侍医は話し、何も言い返さずにいる彼の手を握りながら一緒に隣でそれを聞いていた。話の途中でも話が終わっても、彼は何も言わなかった。黙って宙を見つめて茫然としている。

 侍医が去り、ラムセスが去り、最後にナルメルが去った。朝が来て床が太陽に照らされて白く光る頃になっても、声を掛けても、彼は黙っていた。

 何もかもが彼にとって残酷過ぎた。けれど私も一緒に落ち込んでばかりもいられない。何ができるかと自分に問いかけながら、ひたすら傍にいることだけをしていた。

 昼すぎになってからだと思う。侍女が一人部屋に顔を出して私を呼んだ。


「お食事の方はいかがいたしましょう」


 扉の方へいくとそう告げられた。

 そうだ、食事を。怪我も手術もして、出血があった彼に何か食べさせなければならない。


「ここへ持ってきて。それからできるだけ柔らかいものでそろえて欲しいの」


 体力を大幅に失った手術後は点滴等で栄養を取る場合が多いが、この時代となればそうもいかない。食べ物だけで体調を整えていかなければ。


「それでは後ほど準備ができ次第、お持ちいたしますので」


「お願い」


 扉が閉じたと同時だった。私の背後で鳴り響いたのは、彼が目覚めた時に聞いたような、誰かが倒れる鈍い音だった。驚いて振り向いた先には、また寝台から落ちた体勢で床に座り込んだ彼がいた。巻き付けられた木の固定具をすべて外し、乱暴に放り投げ、曝け出された生々しい傷口を刻む足を立たせようと躍起になっている。


「アンク!駄目!」


 慌てて手を伸ばすと、彼は強くそれを払いのけ、立ち上がろうとすることをやめない。痛みに顔を歪め、呻く。それなのにまだ。


「やめて、駄目よ!」


「何故歩けぬ!!」


 彼は叫んだ。侍医から状態を聞かされて初めて上げた、悲痛な声だった。


「何故だ!獅子狩りの時は歩いていた!今動かぬはずがない!」


 まだ治療したばかりだというのに、傷口が開いてしまうのに、彼は床に爪を立てる。力を込めて響く痛みに歯を食いしばってのたうちながら、それでも立とうとする。


「アンク!」


 もう一度手を伸ばしても振り払われる。


「退け!私の足だ!歩けぬはずがない!」


「無茶しないで!お願い、やめて!」


 もう一度立つ仕草をするけれど、すぐに身体が跳ねて引き裂くような悲鳴を上げた。なのに、続けようとする。足を叱咤し、私の腕を振り払って。


「傷が開くわ!やめて!」


「何故言うことを聞かぬ!立て!歩け!!」


「アンク!お願いだから!」


「我が命を聞かぬ足などいらぬ!」


 傍のテーブルに手を伸ばし短剣を掴むと、そのままの勢いで足にそれを振り上げた。銀が光る。恐いほどに光るその銀が、足をめがけて。


「やめて!!」


 咄嗟に抱きつくようにして、私は彼の腕を止めていた。周りを漂う空気が固くて重い。身体に伸し掛かってきて潰されてしまいそうだ。感じる力に涙が零れた。知らない間に頬に落ちた一滴は、床に当たり破ける。


「駄目……傷つけないで、お願い」


 いつもの彼だったなら、私などではきっと止められなかった。こうして止められたのは今の彼に体力が無かったからだ。

 私たちは二人共、肩で息をしていた。

 落ちていく。剣を持った腕が。鉄が床に打ち付けられる、神経を揺らすくらいの甲高い音が辺りを包む。彼は落ちた手で額を抱え、前髪を握るように掴み、歯を食いしばった。


「……愛しい娘を、失った」


 頭上にぽつりと降る声がある。


「やっと授かった我が子だった。愛おしかった、何よりも。お前とあの子を見ていられるだけで良かった……なのに」


 その声を、雨のようだと思った。曇天から真っ直ぐ振ってくる冷たくて細い雨は止むことを知らない。


「それに加え足も失った。もう一人で歩けぬ。馬にも乗れぬ。子らを失った上に使い物にならない足を持った、そんな王がどこにいる。何故こうも不幸ばかりが続くのか……神は何故、助けようとしない」


 手に隠れて半分しか見えないその人の顔が歪む。


「生まれてこの方、神のために尽くしてきた……裏切るような真似などしたことはない。だというのに」


 例えようの無い悲しみを乗せた目で私を見た。


「弘子も、そう思うだろう。神は我らを見放したのだ」


 半分自嘲気味に彼は嗤う。私はそうではないと首を横に振った。そんな彼の笑みを見るのは辛かった。


「違う、違うわ」


 タシェリも失って、こんなに酷い怪我までを負って、歩けなくなった。それだけを考えてしまったらそうとしか思えなくなる。膝を立て、その人の目線の高さに合わせてそっと彼の頬に手を添える。指先から流れてくる体温に込み上げてくるものがある。溢れて溢れて、堪らなくなって、私を見つめるその人を抱き締めた。


「……あなたが生きていてくれて、良かった」


 足を失った。歩く能力を失った。それでもまだ、大切な掛け替えのないものが残っている。


「私にはそれがすべてよ」


 あなたの命。たったひとつしかないあなたの命がある。

 鼓動が聞こえる。規則正しく聞こえるその音。

 生きている。これ以上の事が、どうしてあるだろう。


 神は、見捨てたのではなくて最も大切な命を残してくれた。そう思いたい。けれどそれを伝えるにも涙に溢れて言えなくて、ただただ彼を抱く腕に力を込める。

 彼が大きく息を吸った。震える吐息が耳元を掠めていく。喉奥を震わせ出たような呼吸を落し、彼は私を抱いた。存在を確かめるように、その震える腕で私の頭を自分の肩に押し付けて、私の肩に顔を埋めてくぐもった声を漏らす。くぐもる声は嗚咽だった。


 自分がやるべきことは分かっている。彼の背に回す腕に力を込めた。

 今度は私が。私が、彼を支えなければ。



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