黒犬
* * * * *
静かな、静かな今日という日の終わりがやってくる。
引きつって痛む瞼を徐に開き、もたれていた首を上げたら、そんな光景が部屋に広がっていた。すでに夕方も越えようとしている色が足の爪先にまで伸びている。
一日が終わった。彼と並んで座り、動かないその子を前にほとんど言葉を交わすことなく、互いに項垂れて時が過ぎて行った。
ずっと閉ざしたままだった口は乾燥していて声を出そうとすると軋むように痛む。前に垂れて視界を遮る髪は、耳にかけても時間が経てばまた落ちて来てしまう。脚にも手にも力が入らず、視界に引かれる数本の黒い線を退ける気にはなれなかった。
首を動かすと、前に眠り続けるその子がいる。自然と腕が動いて胸元をあやすように叩いて、頭を撫で、掠れた声で名前を呼びかけた。返事はない。目を開けてくれない。眠った、まま。
そんな自分の行動に、来ないと分かっている目覚めを待っているようだと思った。実際そうなのかもしれない。まだ目覚める、また起きるのだと信じて、心のどこかでそんなことはないと分かっているのに、それを認められない自分がいて、いつものようにぐずって泣いて、母乳を求めて私を呼ぶその子を期待している。
起きたらすぐに抱き上げて、授乳しよう。きっとお腹を空かせているだろうから。
遊んであげて。笑い合って。色んなことを教えてあげて、大人になるまでずっと傍に。ぼんやりと考えるのはそればかり。
ふと隣を見た。隣の椅子が空になっているのに、それで初めて気がつく。彼がいなかった。頭を抱え項垂れながらも、終日私を抱き寄せてくれていたあの人が。
空の椅子をぼんやり眺めてから、辺りを見渡して夫の姿を探した。見渡した部屋はいつもより殺風景に見えるだけで、自分の他に誰もいないのを知ると、またタシェリに向き直る。
それから相当の時間が経ったのか、そうではないのか分からない。夜に近づいた暗さが部屋を覆い始め、やがて扉の開く音がした。いくつかの足音がして、その中に彼がいることを何となく感じ取る。視線をずらして彼の傍にナルメルを見た。後に続いてセテムとネチェルが入ってくる。彼らは痛ましいと言わんばかりの物悲しげな様子で跪き、私に頭を下げた。自分に向けられた行動であるのに、何だか他の誰かに向けられたもののように感じられ、私は返事をすることなく彼らを漠然と眺めている。
「弘子」
声が掛かった。彼が呼んだのだと分かって更に顔をあげると同時に、伸びてきた彼の手がタシェリの手をそっと握った。小さな頭を撫でて、額に唇を落とす。愛おしむように頬に触れ、しばらくその子を見つめてから、彼は静かな眼差しで私を見た。
「もう、時間だ」
時間って、何の。
意味を計り兼ね、何も答えずにいると彼は自分の背後に視線を送った。
「死の家から迎えが来た」
同じ響きの言葉を過去に聞いた。それでも何であったか思い出せるほど私の頭は働かず、呆然と様子を見ていたら、ナルメルたちの後ろの暗さの中に何かがいた。瞬きの無い目の形をした何かが細く光っている。
「王女を頼む」
彼の目配せで前へ進み出た、小さな木箱を持つ二人の男の人たちがいた。誰であるのかと視線を上げてその顔を見た時突然恐怖のようなものがこみ上げた。
男性は服装と身体付だけで、その上に付いた頭が違った。人間ではない。人間の身体を持った、長く立つ耳と鋭い目の黒い犬。その頭が仮面だということに気付いたのは少し経ってからだった。本物の獣と見紛うばかりの仮面を彼らは違和感なく頭に被っていた。
黒い犬。冥界の神、アヌビス。
「なに……」
仮面とは思えない人間の身体についた黒犬の頭は、どこか異界の生き物を思わせた。片腕を胸に斜めに置き、私たちに深々と頭を下げ、その手が木箱を開けて、その子の方へ伸びる。
何をするの。
タシェリに、何をするの。
「やめて……!!」
空間がぐらりと揺れた気がした。
「触らないで!!」
ほとんど悲鳴だった。
私は跳ねるように立ち上がり、アヌビスの面を被った男からタシェリを奪い取った。標的を失って宙を迷う黒い犬の手は私が取り返したこの子を奪おうとするかのように伸びてくる。
「嫌!来ないで!」
タシェリを抱いて部屋の隅に逃げた。このままでは連れて行かれてしまうと、身体を震わせそこへ屈みこむ。
連れて行かせはしない。私が。私が守らなければ。
「弘子」
「王妃様……!」
彼やネチェルの声にも構うものかと彼らに背を向けて、部屋の壁と自分の身体で囲んでその子を抱く腕に力を込めた。
ネチェルの嘆く声の後に、彼の足音が私に近づく。気配が迫って顔を上げると彼の手が静かにこちらへ伸びていた。そして視界の端に見える彼の唇がゆっくりと動き出す。
「タシェリを」
そう言う彼の十歩ほど後ろにはアヌビスの仮面が跪く体勢で控えている。無感情の黒い眼球で私を、この子を見据えながら。
「その人たちを追い出して!この子に近づけないで!」
彼の目も見ずに髪を乱して首を振った。泣き腫らすほど泣き続けたのに乾くことなく涙が滲み出す。
「私たちは送らねばならぬ」
「いや!」
どこにもやりたくない。どこにも。
「弘子、死者の行くところへタシェリは」
「そんな所に行かせない!!」
かぶりを振るほどに涙が散った。
「だってこの子はまだ、まだ……!」
──死んでいない。
そう言い欠けて、震える唇を噛んだ。触れて、胸に抱き締めて、思い知らされる。冷たい。柔らかさも失われて、固い。最後に触れたあの温もりはどこへ行ったのだろう。一体、どこへ。
垂れ込めた黒い線の向こうにいる彼と目が合う。小さく声が漏れて、何も言えなくなって、枯れ果てた言葉が宙を彷徨った。何かを言いたげな、そして悲しみに満ちたあなた。それを目にして、一層涙がこみ上げた。何に遮られることなく雨のように床に降り注ぐ。
分かっている。この子は、死んでしまった。私たちの大切なこの子は。あんなにあっという間に。簡単に。
「……タシェ、タシェリ」
腕の中で力なくしているその子の顔を見て、呼びかける。起きることがないと分かっていながら、繰り返し名を呼ぶ。彼と二人で決めた、ひろやかという私の名を同じ意味を持つその名を。
「私の……っ!!」
その子を胸に抱いて、顔を埋めて咽び泣いた。前と同じだった。流産の時も、私は一番側にいながら助けることができずに終わった。どんどん弱って、泣いて助けを求めていたのに、私は結局何もできずに呼吸が止まるのを、鼓動が止むのを見ていた。
懐妊を知ったあの時を何度も思い返す。無事に会えるようにと、祈りながら過ごした日々を想う。生まれて初めて腕に抱いた時。初めて声を聞いた時。笑ってくれた時。私の希望。私の奇跡。命よりも大切だった。自分の命を投げるのも厭わない、何に代えてでも守りたい存在だった。この子の存在が私にとってどれだけの支えになってくれていたか。落ち込むことがあってもどれだけの元気を私にくれたか。沢山のことを教えて、楽しく、幸せに元気にすくすくと育っていくのを彼と一緒に見守っていくはずだった。今度こそと誓ったあの日が涙で霞む。
「強く抱いたらタシェリが苦しむ」
強張っていた肩を彼の手が撫でて、力が抜けて、その拍子に力の限り抱き締めていた小さな身体がくたりと揺れ、その子の顔が見えた。
動かない柔らかな表情。目をずっと閉じたまま。私の涙を浴びて、頬にいくつもの雫を持っている。
強く抱き締めてしまって、きっと苦しかった。「ごめんね」と囁き、今度は息を深く吐きながら優しく抱き締める。
沈黙があった。誰も声を発さない、動かない時間が。彼は傍にいて黙ってその子の頭を撫で、私はその様子を見ていた。手に腕に、胸に感じるその子の感覚を何度も確かめ、目を閉じる。
こうして拒むことは私の貧しい我儘でしかないのだと、分からない訳ではない。私がこんなことをしていて誰が一番可哀相かと言ったら、それはこの子。ずっとこのままでいたいと言い張るのは、虚しいことなのだろう。ただ底無しの虚しさと悲しさに埋もれるだけ。
この子に行くべき場所があるのなら、それを静かに見届けてあげるのがいい。ミイラになって来世が幸せであるようと願うのが正しい行動。母親として。この時代に生きる者として。死んでしまったこの子の幸せを考えたならば。──それでも。
「お願い……」
まだ瞼の裏にある。この子の笑顔が、声が、しがみ付いたまま。なんの覚悟も出来ていない。別れる覚悟なんて、何も。
「お願い、もう少しだけ……もう少しだけ一緒にいさせて」
愛しい子の遺体を抱いて、私は夜が明けるまで、声が出なくなるまで泣いていた。
私が高熱を出して倒れたのは、タシェリを死の家へ送り出した翌日のことだった。瞬く間に咳も酷くなり、あの子を看病している時に移ったものが潜伏期を経て発症したのだと思った。あれだけ傍にいたのだから、移らない方が逆におかしい。
熱に呻きながら泣いて、その中で繰り返し見たのは、あの子の夢だった。生まれた時の夢も、授乳している時の夢も、彼と二人であの子を囲んでいた時の夢も、そして失った時の夢を何度も見た。それがどんな場面だろうとタシェリを見ている間は幸せで、起きて夢なのだと知ると歯止めのない失意に陥ってまた泣いた。喉や肺を裂くような咳が辛くても、熱で朦朧としても、あの子が感じていた苦しみはこれなのだと思ったらそれでいいとも思い、このままあの子の跡を追ってもいいとも思えた。
そう思いながらも、自ら喉に刃物でも突き立てて死のうとまで考えなかったのは彼の存在があったからなのだろう。私の熱が高くなればなるほど、咳が悪化すればするほど、彼は取り乱したように慌てて、公務も最低限に減らしてほとんどの時間を私の傍にいてくれた。手を繋いで、タシェリの名を呼んで泣き続ける私の傍で、止まったように感じる時間を沈黙で過ごしていく。私が出来たのは握り返すことだけだった。そんな私も数日後には熱も治まって咳をする回数も徐々に減り、あの子が命を落とした病気から1週間後には痰が喉に絡まるくらいにまで回復した。
そうしている内にナイルの氾濫が訪れた。その知らせを聞いて、時は動いているのだと知った。こんなに広い世界の中、一人置き去りにされ、タシェリが亡くなった日から時間が止まってしまったような気がするのに、世界は止まらない。時は絶えず、大河のように流れ続けている。あの子の命が消えたあの瞬間がどんどん過去のものとなっていく。その事実は私にとって衝撃で、ひどく悲しいことのように思えた。
ナイルが栄養を含んだ土を運んできて、国の地面は生命色、黒色の大地に一変する。人々はナイルの近くの町に戻り、家を作り直し、畑を耕して穀物を育て始める。季節がないとは言え、ヤグルマの花やハスは夏の陽光を浴びて、どの時期よりも一段と輝きを増していく。去年はこの一つ一つを喜んであの子をお腹に抱えていたのに今は何も入ってこない。あの子の泣き声をひたすらに探していた。
変わらず照りつける太陽の下で公務をこなす彼は、夜になると疲れた顔をして私のもとへ帰ってきた。
「弘子」
呼ばれて返事をする。何も腕に抱いていない私を見て、彼は疲れの中に憂いを浮かべる。
伝わってくる。彼もまた、あの子を探しているのだと。そしていないことを目の当たりにして肩を落とす。私も彼も、その繰り返しを過ごしている。
「あなた」
呼ぶと、彼は泣きそうに笑って私を抱き寄せ、肩口に顔を埋める。そのまま身を寄せ合って、互いを抱き締めて慰め合って眠った。そうしてまた朝が来る。
あの子がいなかった時、自分はどうやって過ごしていたのか。何をして過ごしていたのか。何度も思い返そうとしているのに思い出せない。これほど静かで悲しい時間を、おそらく私たちは過ごしたことがない。
この悲しみに果てはあるのだろうか。終わりは来るのだろうか。探しても見えない気がした。
それから二月が経つ頃には、私は庭に面した所に置かれた椅子に座り、あの子が帰ってくる時を待つようになっていた。ミイラになるための日数は70日。その日まではまだ長い。あの子のミイラを見ることはできるだろう。死んでしまった事実を真っ直ぐには受け止められるだろう。ただ、この胸にある空虚はいつまでも抜けないことも分かっていた。この空虚を持って私はこれからを生きていくのだろう。
昼の空を仰ぐ。背もたれに体重を掛けるとぎしりと軋む。息を吐き、視線を落として自分の薬指に戻ってきた指輪を眺める。それを撫でてから小さく咳をした。
風が髪を攫って行く。髪が揺れて音を成した時、幼い泣き声を聞いた気がして、閉じていた瞼を開いた。
「……タシェリ」
風の音。植物の音。前は聞こえたような気がするたびに立ち上がって姿を探していたが、今は名前を呟いてそっと目を閉じる。
いない。もう、あの子はどこにもいない。
「弘子」
振り向いた先に、青い花を持つ彼が立っていた。彼の笑顔に私も微笑んで返す。
「お前のために花を摘んできた。喜べ」
椅子から立ち上がって彼の方へ行くと、綺麗な花がその手にあった。外に視察へ行っていたはずだから、そのついでにわざわざ摘んできてくれたのだろう。
「北には青い花が多いようだ」
歩み寄り、手の中の土のついた花を受け取って少し驚く。
ヤグルマだけではない。他の青い花も一緒に包んだ青の小さな花束だ。乱雑でありながらも、一生懸命に探してくれたのだと思ったら仄かに頬が綻んだ。
「ありがとう」
あの子を失って、私の生きる意味は何かと何度自問したか数え切れない。誰のための自分だろうかと自分に問うて、問うて、問い続け、その疑問の果てにこの人のためなのだという答えを見つけた。この人がいなかったら、私は今頃こうしていない。あの子の跡を追って死んでいただろう。
私が笑うと、彼も笑う。この笑顔のために生きればいい。私にはまだ生きる意味がある。生きていける。
失った痛みは消えるわけではない。絶対に忘れられないこの傷を胸に抱いて、私は空虚の中でも歩いて行ける。この人がいるならば。
花束を渡してくれた彼が、隣のセテムに大きな弓と矢筒を持たせているのに気付く。そしてセテム自身や、扉付近に控えるラムセスもカーメスも武装をして武器を携えていた。
「狩りにでも行くの?」
「ああ」
尋ねると、彼は頷いた。彼が身に着けているのも、武装というよりは儀式の際に行う狩りの正装に等しい。
「どこへ行くの?」
「ナイルの畔まで獅子狩りにな」
「そんな、獅子狩りだなんて危ないことはやめて」
「そういうわけにもいかぬ」
彼は眉を下げて肩を竦めながら笑う。
「十分に宴が催せなかった分、神へ捧げねば」
ああ、と私は納得の声を漏らした。
忘れていた。ナイルの氾濫後には必ずと言っていいほど獅子狩りを行うのに。
「獅子狩りは王家にとって大事な役目だ」
この時代の祭事は神のためにある。神に祈りを捧げ、今年の豊作を願い、国の繁栄を祈る。これは民のために繋がっていく。王族が死んだとしても自粛はされず、規模が若干小さくなるだけで例年と変わらず行われるのが習わしだ。彼は王として、権威の象徴として獅子を狩り、民の生活の保障を神に祈ならばければならない。これがなければ民が不信感を抱くことに繋がりかねない。
「なら私も」
ネチェルに目配せすると、彼女はすぐさま他の侍女に着替えの準備を命じ、侍女が一斉に動き出す。彼が行くと言うのに、王妃である私が行かないとなってはおかしい。
「待っていて。急いで準備をしてくるから」
ネチェルと共に奥に着替えに行こうとすると、彼は私の腕を掴み、首を横に振った。
「弘子はここにいろ」
「去年も行かなかったのよ、今年は行かなくちゃ」
去年はタシェリがお腹にいると分かってすぐだったから行かなかった。だからせめて今年はちゃんと出席したい。それでも彼は駄目だと繰り返す。
「まだ咳もしているだろう。完全に治っていないそのような身体では獅子の餌食にされるのが落ちだぞ」
冗談交じりに彼は言った。確かに熱はとっくの昔に下がっていても、咳だけはずるずると長引いてしまっている。
「獅子は獰猛な獣だ。もし、よろよろしているお前が襲われても、助けられるほどの技量はいくら私でも持ち合わせていないからな」
「離れて見ているから」
「駄目だ」
今度は強く言い返されてしまった。
「あなたの傍にいたい。心配なのよ」
彼の腕を両手で掴んでお願いだと迫っても、彼は私の髪を撫でて、そのまま頬を慈しむように撫でるばかりだ。
「今まで弘子には何度も心配された。それで今まで何か大事が起きたことはあったか?」
「無いわ、でも」
心配して、心配してそれで終わり。彼はサイやらライオンやら、何でも狩って私に見せてくれた。狩りと言うスポーツが好きで、得意なことも知っている。
「セテムもラムセスもカーメスも連れて行く。この4人で狩る。心配などあるものか」
彼の肩越しに、跪く彼らが見える。この人が最も信頼している3人が。
「私はお前が心配だ」
今の自分を思えば、私など彼に心配だと言える立場ではないのだろう。ようやく持ち直してきたとは言え、時折泣いて慰めてもらっているのは私の方なのだ。
「我らの娘が死の家から戻る時までに、元気な姿を見せられるよう、妃は静養に努めよ」
私から手を離し、セテムの方に向き直った。
「出発する」
「アンク、待って」
呼ぶと、3人を従えて歩き出した彼は振り返り様に私に言う。
「ナイルにも青い花が咲いている。溺れるほどに摘んできてやろう」
「お願い、待って!」
扉の向こうに彼は見えなくなった。入れ違いに、彼に命ぜられたのかナルメルが入って来て私に礼をする。
「あの3人だけでなく、多くの兵たちが付いております。それにファラオはお強い。ご案じなさりますな」
閉じた扉を見て、彼がくれた花を見て、今までに感じたことの無い何かが胸を過るのを感じながら、外から戦車である何台ものチャリオットが一斉に動き出す微かな音が宮殿の床を振動させるのを聞いていた。




