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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
18章 ひろやかに
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弘子

 神殿内にまで風が流れ込み、向こうでは眩しいくらいに陽光が散っている。天井を打ち破るほどの歓声が辺りの空気に反響し、その音を何倍にも増して私の鼓膜を揺るがす。いつもならどんな小さな物音にでも反応して泣いてしまうのに、こんな歓声を前にしたタシェリは気持ちよさそうに私に抱かれて眠っていた。


「よく寝ていられるものだ」


 正装でメネスを被った彼が眉根を落としてタシェリの頭を撫でる。


「食事と睡眠が仕事だもの」


 大体は寝ていて、数時間おきに泣いて、お腹が満腹になるとまた寝ての繰り返し。


「この寝顔も愛おしいが、やはり起きている顔をもっと見たいものだな」


「寝てくれないかってうんざりする時がすぐに来るわよ」


 毎日眺めている寝顔でも、顔の感じは少しずつ変わっている気がする。この子にとって、同じである時は存在することはなく、絶えず成長し続けているのかもしれない。


「指輪は忘れていないか」


「ええ、ちゃんとつけてます」


 タシェリの小さな胸には紐に通した王位継承の指輪。その子を支える私の左の薬指に、淡い緑色の指輪は無い。私にあった継承権が王女であるこの子へ渡るこの日を無事に迎えられたことに、心から安堵する自分がいる。

 民にこの子の誕生を知らせる正午まで、あと少しだ。


「ファラオ、王妃」


 振り返ると、髭を撫でたナルメルが杖をついてやってきた。その後ろにはセテムやカーメス、イパイ、ラムセスの他にネチェルやメジットを含んだ侍女たちがいる。


「姫君のご誕生、そしてこの度の式典のこと、我ら心より祝福申し上げまする」


 彼らの厳かな礼に、彼は呆れたように笑った。


「お前たちは何度祝福すれば気が済むのか」


「何度させていただきましても足りませぬ。待ちに望んだ、王家の血を引く姫君のご誕生はそれほどのもの」


 いつも冷静で穏やかな笑みを絶やさない宰相の顔は今にも泣き出してしまいそうだ。


「一人目ですでにそのような顔でどうする。これから少なくとも4人は生まれるぞ」


「よ、4人!?」


 唖然とした私に、当たり前だと彼の口元に弧を描く。


「王子2人、王女2人の予定だ」


 この前は性別関係なくあと2人だったはずなのに、口にするたび人数が増えているのは気のせいだろうか。


「それは賑やかなご家族になりましょう。先が楽しみに御座います」


「それを見るまでは死んでくれるな」


 私もナルメルに歩み寄り、膝を屈めて自分の腕の中に眠るタシェリを見せると、まるで孫を見るような表情で、何度も何度も頷いてくれていた。

 宰相や侍女たち、そして側近たちの協力があったからこそ、タシェリは無事にこうして私の腕に抱かれている。彼らには感謝してもしきれない。


 やがてラーが正午の位置にまで上がり、時間神官が時の合図で楽器を鳴らし出す。独特な不思議な音色に加え、どこかの鐘の音に似た音が降ってくる。年輪のような皺が深く刻まれた顔で笑顔を作ってから、宰相は王たる彼を見た。


「ファラオ」


「ああ」


 宰相の声を合図に、傍に控えていたセテムが黒い箱を跪いて差し出した。中に納められている、この国の最大権力を表すネケクとヘカアを左右一本ずつ手にした彼が、私たちを振り返る。


「行こう」


 王女である娘を抱き直して私は頷き返した。



 ずらりと並ぶ神官と兵や女官たちの間を通り抜け、光注ぐ場所へと白い床を踏みしめながら歩く。風が草原を駆ける駿馬のように傍を大きく吹き抜けていく。音を立て、ナイルの涼しさを巻き込み、遠くの花を香りを混ぜ込んでいく。ついに開けた空間に出ると、陽の光がこれでもかと私たちに降り注いだ。

 胸の前でネケクとヘカアを交差させた彼が姿を現した瞬間、歓声が何倍にも膨れ上がって空気を震わせた。こうして彼の隣に立つのは今までにも数回あったのに、毎回のことながら圧倒されてしまう。

 小さく感嘆を漏らしたら、閉じていたタシェリの柔らかな瞼がゆっくりと動き出した。つぶらな瞳が私を見て、次に空を捉える。空の青で瞳が薄く色づく。何かに驚いているようだ。

 こんな小さな身体で、あなたはどこまで感じているのだろう。そよぐ風が、どれだけ気持ちの良いものか。天から降り注ぐ光が、どれだけ優しいものか。世界がどれほど広くて、知らないことで満ちているのか。

 青い空を見て。白い雲を見て。風に触れて。土の匂いを感じて。今は分からなくても、何もかもが美しく変え替えのないものだと気付く時がきっとくる。この時代の人々と同じように、自分を取り囲むすべてに命があり、それに生かされているのだと知る時がこの子にもやってくるのだろう。


「タシェリ」


 象徴をセテムの箱に戻した彼の手が娘へと伸ばされた。「起きたのか」と嬉しそうな彼は、しっかりと腕に抱いて広がる光景に目を細める。


「見えるか」


 太陽が見える。大きく、威厳に満ち、私たちの影を果てのない黒に染め上げる。


「これが父の治める国だ」


 太陽と砂漠の国。これが彼の愛し、治める国。



『──大地の声に耳を傾け、空を見上げよ』


『──風の音を聞き、母なるナイルと言葉を交わせ』



 彼の発する声が風になる。風になって、その子の繊細な髪を靡かせ、地へ降り注ぐ。


「我ら王家はここに生きる万物と共に有らん」


 彼が高々と腕を掲げると、世界は祝福の声で埋もれていった。










「泣いちゃったの?目が真っ赤だね」


「大きな歓声でしたからね。驚いてしまわれたのでしょう」


 タシェリの泣き腫らした目元を見て、カーメスとイパイが顔を見合わせて笑う。歓声の大きさに驚いたこの子は、大声で泣き喚いて式典の最後を締めくくった。部屋に戻り、授乳も済んで落ち着いた今は、侍女やカーメスたちの笑い声に囲まれている。


「ああ、それにしてもなんと愛らしい姫君なのでしょうか」


 癖毛の人の軽やかな声が弾んだ。


「きっと大きくなったらもっと可愛らしく、いや光り輝くほどお美しい姫君になるのでしょうねえ!ああ、その日が待ち遠しい。いえいえもちろん今のこのあどけなさも捨てがたいのですよ、もちろんですとも。それにしてもこの顔立ちの凛々しさはファラオ譲りのものでしょうか。それならば凛々しさ溢れる勇猛な姫君に!将来が楽しみでなりません。それにこの目元はきっと王妃様譲りなのでしょうねえ!吸い込まれそうな漆黒!それにこの」


「やめないか、驚いていらっしゃるだろう」


 注意するセテムに、それをへらりとカーメスがかわす。相変わらずの姿に侍女たちと一緒に笑っていると、タシェリを何とも言えない顔でじっと見つめているラムセスに気づいた。


「腕に抱いてみる?」


 聞いてみれば、ラムセスは逃げるように半歩ほど後ずさり、首をぶんぶんと横に振った。


「てっきり抱いてみたいのかと」


「違う!そんなこと俺ができるはずない!姫君は高貴な御方だ」


 ぶっきらぼうに視線を反らして、口をへの字に曲げる。確かに抱いてみるかと聞いて頷いてくれる人はいない。乳母やネチェルが手伝いでしてくれるだけで、その他は私と彼だけだ。王家の子供となると「抱くなど畏れ多い」という認識のようだった。


「これを」


 ラムセスが一輪の花をぐっと握ってこちらに差し出していた。


「ヤグルマの……積んできてくれたの?」


「お前にじゃない!姫君にだ!」


 受け取ってお礼を言うと、ラムセスは怒ったような顔をして、メジットと二言三言交わして部屋から去って行き、それをきっかけにしたかのように、「そろそろ戻らなければ」と周りにいた人々も私とタシェリに頭を下げて部屋から出て行った。

 残された部屋で、タシェリの傍に腰を落とし、貰ったばかりのヤグルマの花をその子の目の前で振ってみる。


「ヤグルマギクよ。綺麗でしょう?」


 まだそれの動きを目で追うことは無い。もう少し経ったら神殿奥の青い花畑まで連れて行けるだろうか。

 子供を守るという神々の像の隣に並べてから、そっとお腹の上を叩いた。

 名前も知らない子守り唄が口から自然と漏れる。乳母が口遊んでいたこれを、私も無意識に覚えてしまったようだった。

 小さく声を発したタシェリが私を見る。それに微笑んで答える。小さな胸元にある指輪を触って、大丈夫だと胸の中で繰り返し呟いた。

 この子が無事に生まれ、王位継承がこの子に渡り、すべていい方に進んでいる。大丈夫だ。心配することはない。この幸せが崩れることはない。

 愛しい子を目の前にしているのに突然不安に飲まれそうになって、大きく息を吐いて傍に顔を埋めた。


 それからどれくらい経っただろう。抱き締めるようにして目を閉じていたら、扉が開いて誰かが入ってくる音がした。黄金の音、そしてもうひとつ。二人。彼の他に誰かいる。

 黄金の音がどんどん近づき、私の肩に手のぬくもりが触れた。身体を起こして見上げると彼がいて、彼は促すように扉の方へ視線を向けた。不思議に思いながらも、追って目を向けた先にこちらを見る人影を見つけた。


「──弘子」


 懐かしい声が、私を呼んだ。

 『ヒロコ』ではなく『弘子』と。

 霞んだ私の視界が、私よりも長く波打つ髪とこちらを見つめる黒い目元、そして頬に浮かぶ特徴的な笑窪を映し出す。懐かしさやら嬉しさやら、潜むような複雑な気持ちが渦を巻き始める。喉の奥が震えた。


「……メアリー」


 幼馴染で、長年の友人。ここで生きることを選んだ私を憎み、一年以上前に互いの心の内を曝け出して罪を償うのだと言い切った彼女がそこにいた。

 咄嗟に、私は眠るその子を庇うように抱き上げた。以前の記憶が蘇り、本能ともいえる動きだった。抱き上げた反動で寝ていたタシェリは力を込めた腕の中で小さく泣き声をあげた。


「良かった」


 そう呟く、女官の服を身に纏った彼女は私を見ていた。


「元気そうで良かった」


 潤ませた瞳を持って小さく零す。様子を例えるなら涙が床に落ちるような、どこか安堵する雰囲気があり、強張った私の身体から力が抜けた。何か、彼女の周りに不思議な雰囲気が取り巻いている気がした。


「この女はこれからセテムの監視の下で働かせることとなった。その前にと思い、連れてきた」


 私を落ち着けるように彼はゆっくりと告げた。


「セテムの?」


「許した訳ではない」


 彼が言い切る。私の隣に立つ彼から発せられる声は決して穏やかなものではなく、棘がある。私もすべてを許せるほどの心の広さは持ち合わせていない。こうして距離を置いて面と向かっている今でさえ、不安に煽られタシェリを抱く腕に力を込めてしまう。


「だが、話している内に出してやりたくなった。今はすべてを悔いている。己の信じるところをしっかりと持った女だ」


 彼女は彼に向かって深々と頭を下げた。そして私を見る。真っ直ぐ、揺らぐことなく。


「弘子、私、あなたに会いたかった」


 前に手を重ねた彼女は泣きそうな顔をしていた。手は乳白色のスカートを握りしめて、皺を長く引き伸ばしている。


「許されないくらい酷いことをした私になんて、会いたくないかもしれないけれど、私、会いたかった」


 タシェリを彼に任せ、私も向き合うようにして立った。


「弘子が妊娠したって聞いて、ずっと祈ってた。無事に生まれるようにって、ずっと、ずっと祈ってた」


 許さないと言いながら彼が彼女を牢から出して居場所を与えた理由が分かる。今にも涙に濡れそうな笑顔が、すごく綺麗だった。


「良かった。無事に生まれてくれて、本当に良かった」


 呼吸と共に漏れ出たような声に、私の目頭が熱を持つ。


「でも私が殺めてしまった赤ちゃんと、生まれた赤ちゃんは同じではないし、無事に生まれたからって許されるなんて思って無い。どれだけ時間が経っても、記憶が薄れても罪は消えない。だから許してとは言わない。でもせめてこれだけはちゃんと言いたかった」


 メアリーはそのまま深く頭を下げた。


「王女様のご誕生、心よりお喜び申し上げます」


 そのまま私と目を合わそうとせずに向きを変え、出て行こうとする。ここにはいられないと言うように。


「メアリー…!」


 行ってしまう。そう思った時に、私の口は彼女の名を叫んだ。呼ばれた彼女の身体はびくりと小さく跳ね、恐る恐ると言った様子で私を振り返る。


「この子に」


 何年も出して無かったかのように、声は掠れてしまう。何も言えないで終わりたくはなかった。


「会って欲しいの」


 彼からタシェリを受け取って、一瞬躊躇って目を僅かに見開かせた彼女の方へと進んだ。


「タシェリ──私の娘よ」


 泣き止んだタシェリの顔を目にした瞬間、メアリーは目から雫をいくつもいくつも零した。床に落ちて、それが散っていく。抱くことも触ることも、何か声を掛けることもせず、彼女は私と彼とその子の間で静かに泣いていた。


 その後に奥の小さな部屋でしばらく二人で話をした。しばらくと言っても途切れてばかりで、言葉を交わすよりかは黙って沈黙を聞いていた時間の方が長かったかもしれない。気まずさも何も感じない、何も声を交わさない時間に、私たちは互いに何かを感じていたのだと思う。


「結局今まで私を裏切ってきたのは私自身だったのだと思うの」


 そう彼女は言った。


「貧しい気持ちしか持てなかったから貧しい行動しか起こせなかった。嘘をついて、取り入って、弘子を嫌いになるようにヨシキにけしかけて……そんなことしかしなかったから私は自分で自分を貶めてしまった。そしてヨシキを止められなかった」


 私は伏せがちの目で語る相手の声を聞いていた。


「感情に任せていつの間にか道を踏み外すのは愚かなことだわ。けれど、それが罪だと確信していて、大した覚悟もなく道を踏み外すことはもっと愚か。私はそれだった」


 彼女は、自分の弱さを知って、それと向き合って生きようとしているのだ。


「私は悔しい。あの時自分を止められなかった自分が悔しい。ヨシキを止めてあげられなかったあの時の自分が嫌だ。だからここでやり直したい。そのやり直す時間をあの人はくれた」


 彼女は結んだままの唇に微かな笑みを浮かべた。満面と呼べるものではなくとも、自然と湧き出た表情のように見えた。

 私が彼女に、彼女が私にしたことを思えば、以前のような関係に戻ることは無いのだろう。それでもまた私たちは新しい関係を築いて行ける。この繋がりは絶つことができないものであり、たとえ絶っても私たちは互いを忘れ去ることは出来ない。良くも悪くも互いに取って捨てられる存在ではない。今の私を説明するのに彼女は欠かせないのと同じように彼女にとってもそうなのだ。

 私たちは、成長したのだろう。それが昔に望んだ、夢見た素敵で立派な成長ではなくとも、それが今の私たちで、何も分からないこの世界で唯一確かなことなのだから。

 遠くて、近い存在。私たちの関係を言葉にするのなら、これがきっと一番正しい表現なのだ。








 彼女がセテムの後ろをついていくのを見送った後のその日の夜は、机を前に書物を読んでいた。ヒエログリフを覚えたての頃、良く教材代わりにしていた「生きてあるならばこうであれ」という教訓集だ。何かに集中することで自分を落ちつけたくて手に取ったものだった。

 横に並べられたヒエログリフを追う指先を見つめ、それから寝台の方の彼とタシェリを眺めた。並んで横たわっている愛しい二人がいる。小さな声がしたかと思うと、彼の肩が何度か上下に揺れて笑い声が弾んだ。

 また彼がタシェリの顔に頬を寄せて鼻を擦り寄せているのかもしれない。乳児というのは、何かが頬に当たるとそれが乳房だと思って必死に吸おうと口を開ける。でも今回頬に当たっているものが父親の高い鼻先なのだから乳房のように咥えられるはずもない。下手をすれば泣いてしまうのに、自分の鼻先で懸命になる娘がかわいくて仕方ないのだと彼は時折それをやっていた。


 何もかも、幸せな方へ、良い方へ進んでいる。あのパンフレットのようなことは起きない。私は歴史を、これからの未来を変えることができたのだと信じたい。

 幸せに生きていきたい。あの子と彼と、この手に溢れないだけの幸せが欲しい。


「いつまでそんなところにいる。早く来い」


「ええ、今」


 パピルスを巻き直して留め具で閉じる。そして椅子から立ち上がった時また彼が呼んだ。


「弘子」


 返事をしようと口を開きかけた瞬間、違和感に中途半端な返事をしてしまった。そんな私に、得意げな顔を振り向かせて、もう一度『弘子』と繰り返す。


「あなた……今私のこと弘子って」


 彼はいつも私を、どこか発音しきれていない『ヒロコ』と呼んでいた。片言のようであっても、それでいいと修正はしてこなかった。だからこそ、彼の声で呼ばれる『弘子』から甦る小さな記憶に、動揺を隠せなかった。


「どうしたの?その呼び方」


「あの女が弘子のことを話すたびに『弘子』と呼ぶものだからな、思わず尋ねてしまったのだ。そうしたらお前の両親はこの呼び方だったというではないか。だから直した」


 いつの間にか眠っている娘の頭を撫でながら、彼は世間話をする様にさらりと答える。

 メアリーは私の両親が呼ぶのを聞いていたから、呼び慣れて『弘子』と私を呼んでいた。私の妊娠が分かった頃から彼とメアリーで話していたと言うから、彼が彼女の呼び方が気になって直したこと自体は何らおかしなことではない。自然な流れだ。

 でも、その呼び方は。


「何故言わなかった。言ってくれればすぐにでも直したものを」


「別に直す必要があるものではないから……」


「この呼び方の方がしっくりと来るのだろう?そう呼ばれて育てられてきたのだから」


「え、ええ」


 立て肘で私を寝るように促しながら少年のような笑みを浮かべた。


 あなたは、知らない。私がその呼び方に戸惑う理由を。

 あなたは知らない。過去に、あなたが確かに私をそう呼んだ記憶を。


 4年前。何も知らなかった私が父の手伝いで行ったあの博物館の奥で、すべてが始まる前の夏のあの日に、黄金で象られた仮面のあなたは、『弘子』の発音で私を呼んだ。名を呼ばれ、手を伸ばされ、私はそれを幽霊だと言って怯えた。


 忘れられないあの記憶と、隣にいる彼が重なっていく。少しずつ。少しずつ。

 近づいている。3300年先のあの時の事実に。


 もしかしたら、未来は変わっていないのではないか。歴史は歴史のまま、今のすべてを繋いでいるのではないか。変わることなく、途切れることなく。私たちは、決められた歴史の中を気づかずに走っているのではないか。

 この人の王墓の位置が違うこと。この人の死期と、その死因。濁流になって、私を襲う。


「どうした、弘子」


 はっとして彼を見る。怪訝そうな顔があった。


「呼ばれるのは、嫌か」


「……そんなことない、嬉しい」


 過る不安をかなぐり捨て、私は笑って、タシェリの傍に身を横たえた。

 彼の手がすかさず私に触れる。私が娘を抱き寄せて彼に視線を送ると、『弘子』と呼んで唇に甘い柔らかさを落とす。


 大丈夫。こんなにも今は満ちている。病弱の説も、年齢も何も彼には当てはまらない。

 未来は変わった。歴史は変わった。不安に感じるすべては偶然だ。偶然でしかないのだと必死に言い聞かせ、タシェリに頬を寄せて彼の傍で、私は込み上げる不安から逃げるように目を閉じた。



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