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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
18章 ひろやかに
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汝の名は

 何も教えていないのに母乳を飲むことを知っているのは、なんて神秘的なのだろう。私譲りの黒い目を時折覗かせながら一生懸命に飲んでくれている姿が嬉しくて堪らない。気づけば自ずと「おいしい?」とその子に尋ねかける自分がいる。

 私を映す大きな瞳。さっきまで流していた、頬に光る涙。それを拭って笑みを向ける。


「こんなに嬉しそうに飲まれて。お母君が分かっていらっしゃるのですね」


 床に膝をつき、私の授乳を見守るネチェルと乳母が微笑み合う。出産から4日間は出産のための酷い貧血に悩まされたため、私がようやく授乳を始めることができたのは産後5日目のことだった。

 腕に力を入れてしまえば壊れてしまいそうなほどに小さい子に対して、最初は心配が拭えなかったものの今はしっかりと口に含んでごくごくと飲むこの子がいる。部屋に響く、乳を吸うくぐもった音が心地良かった。


「あなたのおかげよ、ありがとう。私だけではどうにもならなかった」


「滅相も御座いません。王妃様の頑張りがありました故でしょう」


 自分の母乳で育てたいと打ち明けてみたら快く了承してくれて、子育ての『いろは』を教えてくれる乳母には頭が上がらない。授乳やら何やらの育児全般は乳母任せで私は関われないのかと思いきや、そもそもエジプトで神の母と讃えられるイシス神が息子ホルス神に自ら授乳する姿で描かれているように、母親が自ら授乳し我が子を育てる姿は神聖で、あるべきものとされているようだった。


「そう言えば、お名前はお決めになられました?」


「それがまだなの」


 その子の背中を擦りながら私は乳母に苦笑した。彼が特別な良い名を付けるのだと寝る間も惜しんで考えたり、私も夜の授乳中に一緒に頭を捻っているけれど、一向に納得できるものは思いつけないままだ。


「近頃ファラオが気難しい表情を浮かべていらっしゃるのは、きっとそのせいですわね。なんと微笑ましい」


 ネチェルが眉を八の字にして口元を綻ばせる。


「ですが、近々民へのお披露目、誕生の式典も催されましょう。その際にお名前がないとなると」


「そうよね、それまでに決められたらいいのだけど……あら、お腹いっぱい?」


 脇目も振らずに飲んでいたその子は、胸から口を離してすでに眠たそうな表情を浮かべていた。なかなかの飲みっぷりだ。女の子なのに葡萄酒を一気飲みした彼にそっくりで、何だか笑ってしまう。

 ネチェルが差し出してくれた麻でその子の口を拭い、自分の服を直してから、縦抱きにしてその子の背中を擦ってげっぷをさせる。

 数日前までは何度もネチェルや乳母にこれでいいのかとあたふたしながら確認していた私もようやく安定してきた。

 くたりと胸に縋ってくれる存在が愛しい。子育てが楽なことはない、それでもこの子のためになるのなら何でもやってあげたいと思える。目覚めてから眠りにつく、そのすべてが愛おしいと思えるこの子のためなら。


「ヒロコ」


 不意に掛けられた声に振り向けば、議会に出ていたはずの彼がセテムを引き連れて部屋へ入って来ていた。椅子に座る私の傍まで歩み、腰を屈めてその子の顔を覗く。


「飲み終えた後か?」


「ええ。今満腹なの」


「どれ、父のもとへ来い」


 手を伸ばして私からその子を受け取ると、頭と尻を支えるようにして腕に抱き直し、何とも言えないくらいに顔を綻ばせて、よしよしと身体を揺らし始める。


「首が座ってないから気を付けて。落としちゃだめよ」


「分かっている。落とすものか」


 時間に余裕が出来るたびに彼はここへ来て、起きていれば必ず腕に抱く。可愛くて堪らない、と優しく抱く姿につい目を細めてしまう。


「皆、下がって良いぞ」


 ネチェルやセテムたちが頭を下げて出ていくのを見送った彼は、寝台に腰を下ろして私にも隣に座れと促した。


「それにしても、祝いの品が凄いのだ」


 呆れ半分、嬉しさ半分といった表情だ。確かに部屋の壁に沿って積み上げられた王女誕生の祝いの品の量には圧倒される。


「三分の一はキルタさんからよ。ヌビアからわざわざ贈ってくださったの」


 この子の誕生を自分のことのように喜び、出産の翌日にヌビアへ帰って行った彼女から、先日大量の贈り物が届けられた。


「何をするにも大胆だな、あの王妃は」


 綺麗な刺繍の入った麻布に、食器や子供の遊び用具の数々。子育て頑張れと言う彼女の弾むような笑い声が耳を傾ければ聞こえてきそうなくらいだ。


「お礼の書簡は任せて。私の方で書いて送っておくから」


「それは助かる」


 祝いの品を送ってくれた国々の王家に謝礼の書簡を書くことなら私にもできる。王妃として、妊娠中に出来なかった分も含めてもっと役に立ちたい。


「……どのような子に育つだろうか」


 彼の声が3人だけの部屋にぽつりと落ちた。優しい音だと思える。

 彼の指先は、うとうとし始める小さな手の中にきゅっと握られ、大きさがまるで違うその手で、包むようにして我が子の手を撫でていた。


「きっと、やんちゃな子よ。お腹にいる時どれだけ暴れてたか」


 小さな口から垂れた涎を拭ってあげながら答える。私の方に向く、もぞもぞと動く小さな二つの足で私のお腹を蹴っていたのだと思うと感慨深いものがあった。


「いや、母に似るかもしれぬ」


「私?」


「泣き虫が二人になったらそれはそれで困るが」


 いやねと、上下に動く隣の肩を軽く叩いたら、彼はくっと喉を鳴らした。


「あなたに似るかもしれないわ」


 3人になるたび交わすのは、こんな会話ばかりだった。

 頭のいい子。優しい子。明るい子。笑顔が素敵な子。色んな願いはあるけれど、何よりも強く想うのは、健やかにのびのび育って欲しいと言うこと。

 どんな声で笑うだろう。どんな声で私たちを呼ぶだろう。この子の未来が、私たちの中で膨らんで楽しみになる。


「そうだ」


 少し間があってから、彼が何かを思い出したように顔を上げた。


「5日後、民にこの誕生の由を知らせることになったのだが」


 乳母やネチェルが言っていた、誕生の式典。おめでたい話なのに彼の眉間にみるみる皺が寄っていく理由は聞かなくても分かっている。


「早急に、名を決めなければならなくなった」


 この子の名前。


「いざ生まれると何とつけたらいいか分からなくなってしまったな」


「あれだけ考えて並べていたのにね」


 妊娠が分かってから、彼は思いついた名前をパピルスにずらりと書き並べていたのに、それらは求めている名前ではないと出産翌日に彼が全て却下してしまった。


「いいものが無かったのだ、仕方ないだろう」


 一生背負っていくだろう名前を決めることはこんなにも大切で特別で難しいのだと、名前を付ける側になって心底思う。

 彼の方へ身を乗り出してその子の寝顔を見つめていると、出し抜けに声が掛かった。


「ヒロコの名はどうやって決まった?」


 顔を上げた先で、視線が淡褐色と克ち合う。


「その名の意味をちゃんと聞いたことがなかったからな」


 私の名。「弘子」の、意味。


「……そうね」


 宙へ視線をやり、随分昔に聞いたお母さんの言葉を思い返す。


「ひろやかに、生きなさいって」


 ひろやか、と繰り返した彼に頷く。


「私の国には漢字という文字があって、その意味から名前を造る場合が多いの。私の名前だったら……」


 寝台から立ち上がり、机上のパピルスとペンを持ってきて、そこに『弘子』と書き込む。初めて見るだろう文字に、彼は面妖だと眉を顰めた。


「この字は、ひろやかの意味」


 『弘』の字を指差す。


「ならばこちらは」


 彼が指差すのは『子』。


「これは子供って言う意味を持つ字だけれど、『一』から『了』まで自分の人生を全うするという意味があるの」


 母の名前にもこの字がついている。


「この二つを合わせて『弘子』。一生、ひろやかな心を持ってひろやかに生きていけるようにって」


 両親の字を一つずつ取った。それが私の名前。


「あなたは?」


 なるほど、と呟く彼に今度は逆に尋ねた。


「我が国の名づけは、ヒロコの国のものと似ているやもしれぬ。言葉一つの意味を繋げて用いるのだ」


 私からペンを取った彼は、いつもならカルトゥーシュの中に詰めて書く象形文字を、「トゥト」「アンク」「アメン」の3つに分けて横に書き並べる。


「トゥトは偉大なる姿、アンクは生命、アメンは神の御名」


 改めて知る、3つの意味。


「そのまま繋げ、偉大なる神の命を受け継ぐ姿。つまり神の生ける似姿となる。父がつけてくれた」


 出会ったばかりの頃、彼の名を聞いてそう返された記憶が昨日のことのように甦る。聞いた当時は偉そうだと思ったこの名にも「神のように偉大となるように」という親の願いや祈りが乗せられているのだ。


「ひろやかか……ヒロコの名はなかなか良い意味を持っているな」


「あなたの名前には負けるけれど」


 英米では名前になりうる言葉が決まっていて、その中から選ぶのが通例だと言う。例に挙げるなら、聖書の聖人や天使の呼び名、昔の偉大な王様、他界した大切な家族の名。そう考えると意味を選べる名付けの仕方は、何だか特別なものに思えた。


「──タシェリ」


 小さな手に指先が握られる光景を前に、隣の唇がそっと動いた。


「え?」


 たちどころに彼の眉間に寄せられていた皺が解けていく。


「タシェリ。ひろやかという意味の言葉だ。これに神の御名を付け、タシェリ・アメンはどうだ」


 これ以上の閃きはないと言った面持ちで、私の視線を捉える。


「ひろやかの名を使おう」


 興奮気味に彼は言った。


「ひろやかな心を持った王女になるように」


「……それって」


 私の言おうとしたことが伝わったのか、その人はにっと歯の白さを零す。私の『弘』から取るのなら、それは私の父の名を取るということだ。名前で、遠くに生きる両親とこの子を繋げられると思うと胸が震えた。


「でも、あなたの名前は?私のでいいの?」


「私の名は男が生まれた時で良い。今回は王女だ、母から取ろう」


 タシェリ。

 胸の中でその名を描き、小さく声に出してその名を唱える。


「ひろやかなる者、神や民に広く愛され、愛する者となるように」


 愛して。愛されて。

 彼の声で発せられる音と、その腕の中の寝顔を見て、どこかが確信する。

 この名前だと。この名でこの子を呼びたいと。


「素敵」


 彼に頷き返す。


「凄く素敵だわ」


「決まりだな」


 彼は口元を緩ませ、目を輝かせた。その子を寝台に寝かせると同時に小さな額へキスを落とす。


「愛しき者よ」


 隣り合う彼の指と私の指が絡んで、互いの熱を伝える。熱を握り返す。


「汝の名は、タシェリ・アメン」


 これが愛しいあなたの名前。


「我が王位を継ぐ者だ」


 あなたの人生が、生きる世界が、ひろやかなものであるように。


 そのまま眠ってくれるかと思いきや、彼の手が離れた途端にタシェリはぐずって泣き始めてしまって、結局は私が抱き上げ、泣き止むまであやしていた。「タシェリ」と、彼と一緒に、たった今生まれたばかりのその名で呼び掛けながら。



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