失った力
空の端が白み始めるのを眺めながら、自分を取り囲む景色はこれほどまでに清閑だったのかと不思議に思った。
緑に足を踏み出して一度息をつく。西の神殿の周りまで流れ込むナイルは西の畔で見たそれと同じように澄み渡り、水紋を浮かべながら俺の顔を映している。時折流れてくる白いハスはどこから流れてくるのだろう。そんなことを思いつつも、あまりゆっくりしていられないと、手の中にあるものを握りしめて目の前の水面を見据えた。
ナイルの青さに目を細め、持っていた白を思いきり振り上げ、そして投げ放った。手にあった感触が消えて水の音が弾けたと思ったら、投げた白は水面にぶち当たって沈んで視界から消えていった。
終わった。手に微かな感触だけを残して、あれは沈んだ。もともとこの時代にあるべきものではない。この時代にあるべき状態に戻っただけの話だ。
深く呼吸をして、ナイルを背に誰もいない早朝の廊下へ潜めた足音で戻っていく。ナイルとまではいかないが、自分の胸も何処となく澄んでいる気がした。
部屋に戻って、最初に流れてくる小さな泣き声がある。今日も元気な声だとその方向に目をやると、ふっくらとした中年の女がにっこりと笑ってその子に授乳している姿が視界に入った。ティティが探してくれた母乳の出る侍女の一人だ。どうやら生まれてすぐに母を亡くした赤ん坊を憐れむ侍女もいるようで、昼夜問わず3人が交代で引っ切り無しに泣くその子の傍に付いてくれていた。
「どこに行っていたの?」
振り返ったら、猫を足元に従えたティティがすぐ後ろに立っていた。
「外に」
「あら、気持ち良かった?」
「……凄く」
笑って返したら、彼女も笑う。それ以上聞かない彼女は、すべてを知っているのかもしれない。あの薬を捨てたことも、俺の心変わりも全部。
足元に寄ってくる猫の頭を撫でてから寝台の方へと歩むと、丁度授乳を終わった女が赤ん坊をこちらへ渡してくれた。
赤ん坊特有の乳臭さが鼻を掠める。腕に抱くのはまだ数回だが、この存在を自分がとり上げたのだと思うと、何とも言えない感動が飽くことなく溢れてきた。
「よく飲む子です。きっと無事に大きく育ちましょう」
こう言ってくれている侍女を含め、シトレの面倒を見てくれている侍女の3人は、子供を生まれてすぐに亡くしているらしい。その経験もあって、母を失ったシトレを放っておけないのだとティティが教えてくれた。偏見で赤ん坊を避ける侍女ばかりではないということに安心しつつ、この時代における子供の出生率の低さと、ある程度の年齢まで育つことも難しい事実を思い知る。
「もう少し経てば笑うようになりますよ」
赤ん坊の小さな胸に、紐を通して首飾りにしたあの黄金の腕輪がある。この腕輪が手首に嵌められるようになって母の想いを理解できるようになるまで、母の祈りを乗せてしっかり育つといい。
「孤児院には入れなくていいのね」
背後から歩み寄り、その子を覗きながらティティが俺に確認した。それに頷いて返す。
「家族に見つかれば、この子は殺される」
死んだ母親は、孤児院に入れてくれればいいと言い残していた。だが、体裁も何もかなぐり捨て彼女を探していたあの家族ならば、産み落とされたこの子を探し出して殺そうとするかもしれない。この腕輪があるなら尚更見つかる恐れは高い。あの母親が自分の名を捨ててまで命を懸けて産んだ命だ。そんな危険な場所に放る気にはなれなかった。
「でもこれからどうする気?」
「自分で育てようと考えてる」
守ってやらなければ。
「他の侍女たちは嫌ってる。周りから嫌われて育つなんて、惨めすぎるわ」
「ならここを出ればいい。ここを出てでも育てるつもりだ」
その言葉に彼女は少しだけ驚いた表情を見せる。自分でも内心驚いていた。彼女の傍で隠れ過ごしてきた俺が、ここを出てまでこの赤ん坊を守ろうと思うようになろうとは。
「あなたに出来るの?父親でもない赤の他人のあなたが一人で育てられるの?」
彼女から強めに出た問いに口籠る。出来ると即答できるほど自分に力が無いのも事実だ。父親でもない、ましてや育児経験皆無の俺が同情だけでこの赤ん坊を育てることへの不安がないとはとても言えない。俺は母乳も出なければ、何も知らないのだ。
返答を探している内に腕の中の子がぐずり始め、ついには泣き出した。どうしたらいいか分からず、俺は柄にもなく狼狽してしまう。笑ってしまうくらいぎこちない俺の抱き方がこの子にとって不愉快の以外の何物でもないのだと思う。そうと分かっていてもどこを修正すればいいのか分からないのがまたどうしようもなかった。育てると言った傍からなんて頼りないのだろう。
「見てられないわ」
呆れるように言ってから、俺から泣き出す子を受け取り、慣れた手つきで抱いてあやして見せる。女性の腕の方が安心するのだろうか、あまり時間も掛からずに泣き声が止んだ。自分を抱く人をシトレの涙ぐんだ瞳が不思議そうに見つめている。無垢なその眼差しに彼女は柔らかく微笑んだ。
「私も、いろいろと考えてみたの」
何を、と返す前に彼女がこちらを見上げた。
「あなたが本気なら、ここでこの子を匿ってもいいと思ってる」
驚きを隠せない俺を尻目に、こちらを映していた瞳はゆっくりと移り動いて、腕の中で眠そうにしているその子へ向く。
「住む家も、行く宛もないあなたに育てられるより、環境の整ったここで育つ方がシトレにとってずっと良い。女の子なんだから女がいる環境でね」
寝台に腰を下ろし、彼女は片手でシトレの頬に触れて丁寧に寝かせた。満腹になったばかりの赤ん坊は撫でられている内に瞼を閉じていく。
「この子に私の養子の名を与えれば、ここで育てられる。文句を言う者はいない。守ってあげられる」
彼女の、つまり前王妃兼王母の養子。
「いやでも……アイが」
「あの人は私のことになんて見向きもしないわよ」
へらりとした彼女に呆気にとられていると、隣でくすくすと肩を揺らしていた侍女が「そうしてもらいましょう」と言った目をこちらに向けてきた。
確かにそうだ。この子にとって最も良い環境は何かと考えたら、間違いなく何もかもが揃った王宮で、彼女の傍で育つことだろう。
「私がこの子に居場所を与える。あなたが周りの環境から守る。それでどう?」
そう言ってくれる笑顔の彼女に、理由もなく胸が熱くなった。これだけ一緒に居ながら彼女のことを俺は何も分かっていなかったのかもしれない。この人は、こんな風に笑うのだ。これほどまでに優しく、綺麗に。そして、そんな優しい彼女の表情を、俺は素直に好きだと思った。
「……ありがとう」
口を突くようにして出てきた、気の抜けたような返事だった。これを聞いた彼女の頬は、より美しく綻んだ。
「お話の所、失礼致します」
外から入って来た侍女が俺たちに頭を下げる。
「ナクトミン様がヨシキ様をお呼びです」
部屋の外へ行くと、その男は俺を待っていた。
「あの女、死んだんだね」
質問だったのか、独り言だったのか、判断が付かない声色だ。しばらく沈黙があって、ナクトミンは深めに息を吐いた。
「まあ、そんなことはどうでもいいや。今回は王妃ご懐妊の有無が判別できたから伝えに来たんだ」
現れた時からそうだろうとは思っていた。こいつは、やると言えば必ずやり遂げる男だ。
「侍女が白状したよ。やっぱり王妃は身籠ってる」
柱に寄り掛かった相手は、鼻で鳴らして告げる。
「間違いなくあの女の腹には子供がいる。時期ははっきりしないけど、目立つくらいには腹が大きくなりつつあるんじゃないかな」
弘子が、子供を。シトレと同じ赤ん坊を、宿している。以前同じことを聞いた時とは打って変わったような感情が自分を取り巻いているのに気づく。
「アイ様からのお達し。今すぐにでも腹の子供を殺せ、って」
殺せ、か。
数週間前の自分なら迷うことなく頷いていたのだろう。
「何から始める?僕に言ってくれればいいよ、全部アイ様を通して用意してあげるからさ」
「ナクトミン」
この男や、アイが俺に命じることがどんな意味を持っているか、今は十分に分かる。
「俺はやらない」
意を決して発した返事に、笑みを湛えていた相手の顔が固まった。
「王妃の子は、殺せない」
ぴくりと眉を顰め、瞬きをなくした目が俺を捉える。何かを読もうとするように、それを細め、時間を置いてからその下の口が開く。
「……どういうこと?」
威圧を含めた音に、取り囲む空気が一気に張り詰める。
「死んだあの女で、あの赤ん坊で心変わりしたってこと?それで王女を殺した罪に今更気づいたって?そういうこと?」
そこまで並べ、吐き捨てるように嗤う。
「馬鹿は嫌いだな。ヨシキに今更正義面なんて似合わない。もう殺してるんだから。どんなにあの赤ん坊を守ったって無意味。だって王女とあの赤ん坊は違う。そうだろう?」
分かっている。シトレを育ててもシトレはシトレであって、俺が殺した弘子の胎児ではない。無事に守り育てても、自分が犯したことは消えるどころか薄れることさえない。過去とは至ってそういうものだ。
「罪に気づいたって言うなら、何で捕まりに行かないのさ」
あの男や弘子は俺を探しているのだから自首しろと。そうすれば、あの男は俺を殺して、それで終わり。
「行かないってことは、まだファラオのことは憎く思ってるんだね」
「ああ、憎い」
これが捕まりに行かない最大の理由。
「殺したいくらいに憎い」
俺は、未だに何よりもあの男が憎いのだ。弘子や俺たちを古代へ呼び寄せ、すべてを壊したあいつが。弘子を愛したあいつが狂おしいほどに憎い。
あの男の思い通りに運びたくないという意地と、名無き人が残したあの子に何かしてやりたいと言う気持ちが混在している。
「なら話は簡単だよ。ヨシキの愛しい王妃は、ヨシキが憎いと思うあの男にまた孕ませられたんだ。あの腹の中にいるのはその男の子供で」
「それでも腹の子には何の罪もない」
以前の俺は、どうしてそれに気づくことが出来なかったのか。今となっては弘子が泣いて剣の切っ先を向けた理由が分かる。弘子は母だった。名無き人と同じように。
「あの男を殺すというのなら協力する。だが、子供はやらない」
神妙な顔つきになったナクトミンは唇を噛んだ。
「アイに伝えてほしい。俺は、力を失ったのだと」




