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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
17章 幸となれ
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抱かれぬ子

 出産のために使えそうな器具を出そうと今まで大事に持ってきた鞄を開いたら、あの白さが見えた。嫌な色だと思った。この薬剤を目にしてアイからの命令が脳裏を横切っていき、自然と身体が強張り、手汗が滲み出す。

 濁って見えるこの白い薬剤で、また俺はやるのか。それでいいのか。決めたのにも関わらず、揺らぐ声が自分の中で共鳴して頭痛を生む。

 ナクトミンか、ホルエムヘブのどちらかが弘子の懐妊を確認したら、俺はこの薬をまた使うのだろう。アイの前で頷いた時のように、俺はまた。


「……何を見ているの?」


 柔らかく背中に掛かった声で我に返った。振り向いた先に、いつもより固い表情の名無き人が俺を心配そうに見ていた。


「どうかしたの?」


 鞄を閉じ、「何でもない」と首を振って立ち上がったが、相手の心許なげな視線は治まらない。


「俺のことは気にしなくていいよ。大したことじゃない。それより気分は?」


 話を変えるために問い返すと、相手は苦笑を浮かべた。


「大丈夫……多分」


 黄熱病を持った彼女が陣痛らしき痛みを迎えたのは今日の早朝だった。そのせいか、いつも穏やかな女の表情には緊張が窺える。数日前から腹部に張りがあったから、それほど驚くことでもなかった。

 医学パピルスで出産の項目を開き、研修で立ち合った数えるほどしかない現場の記憶を引きずり出して、一人で淡々と準備を整える。陣痛が始まったと言っても、彼女が初産であることを踏まえれば出産までまだかなりの時間があるだろう。


「先生こそ、大丈夫?」


 静かな問いに首を傾げた。


「何が?」


「ずっと気難しい顔してるから……何か、嫌なことでもあったの?」


 彼女は何かしらに気づいているのかもしれない。決意しきれていない、まだ迷っているこの俺に。

 苦笑とも取れる表情だけを相手に返し、俺は寝台の隣にある椅子に腰を下ろした。


「もし、私が産み切れなかったら、お腹を切ってでも出して下さいね」


 数えきれないほど聞いた頼みだ。『自分より子供を』というのが彼女の望みであり、その固い決意を十分というほど分かっている。頷くと、「ありがとう」と言った妊婦の表情は柔らかさを増して微笑んだ。



 数時間後、彼女は破水した。

 道具や機材が足りないだけで、出産は子供を産むと言う点で現代と変わりはない。ただ、時代と地域によって出産時の体勢が違う。医学パピルスによると座産が通例なのだが、何せ二人しかいない状態では座る彼女を支えられないため、結局現代主流の、最も処置がしやすい仰向けの体勢を選んだ。

 問題は子供が生まれる瞬間まで母親の身体が持つかということ。症状の進行が遅いとは言え、明らかに彼女は体力が落ちていた。胎児を優先するのが願いならば、万が一の時は腹を切ってでも出さなければならない。

 痛みの感覚が狭まったせいか、苦しげに顔を歪ませる妊婦は分娩第1期に差し掛かっている。背中や腰を擦り、呼吸法を教えながら対処する俺は案外冷静で、汗を拭いてやったり、乱れた髪を退けてやる余裕もあった。

 そうしている間でも頭を過るのは胎児感染のことだった。もし、母親と同じで黄熱にすでに感染していたらどうするべきか。それをどうやって伝え、「感染していたら共に死ぬ」と言う彼女がどうするのか、俺は最後まで見守るべきだとも考えていた。


 昼が過ぎ、陽が傾いて、世界はやがて夕暮れを越えて夜になろうとする。苦しそうに崩れていく妊婦の呼吸を補正しながら励まし、汗を拭い、医学書通りにいきませている内に、やがて妊婦の脚の間に児頭が見えた。分娩第2期だ。

 体力の無い彼女の出産は難産になるだろうことを見越し、母体と胎児の負担を減らすためにハサミ代わりにメスを手に取って会陰切開を行った。勿論これにも麻酔はなかったが、もうどこが痛いか分からないと呻く彼女が、出産の痛みの所為で切開されている痛みを感じずに済むのは助かった。


 切開後、陣痛が始まってから10時間が経とうとする頃。何度も続く唸り声に、痛みに耐える喘ぎに似た声が何度か続いた後、血液と共に、出たり引っ込んだりしていた頭がついに前へ動き出した。頭が固定されたのを確認してから、いきみを止めさせ、短促呼吸に切り替えさせる。

 そこからがあっという間だった。反射的に前屈みになり、大きく開いた片手で児頭を包むように受け止めると、そこからその全体が俺の手の方へと滑り落ちてきたのだ。


 己の手で受け止めたものが何であるか。何が起こったのか。それを認識する前に、突然、自分の鼓膜を揺るがす何かが部屋中に響き渡った。

 とても大きな音というわけではない、弱々しくも芯の通った、自分たち以外の声が光を引いたように発せられ、頭を打たれたような衝撃が走った。思考が真っ白になり、驚いて音源のある手元を見やる。

 手の中に、身体を必死に動かす温もりがあった。歯の無い大きな真っ赤の口に、血液と皺をまとった、自分が妊婦から取り上げた存在が、懸命に呼吸をしていた。


「……生ま、れた」


 対処していた時の自分が嘘だったかのように放心したままの俺は、漠然とした女の声を聞いた。

 息を吸って、吐く。水から這い上がってようやく息をした、そんな息苦しさがある。固まった指を動かして、手の中の存在を支え直す。石から孵ったようなぎこちなさ。肩を上下させるくらいの呼吸を数度繰り返し、自分の手の中で動く小さな存在がじわじわと肌を伝わってくる。


 ──生まれた。


 その言葉が胸に落ちてくる。産まれた。彼女が命に代えてでも産みたいと言った存在が。一生懸命に小さな身体を揺らして泣くこの子が。ようやく把握したと思うと、言い様のない感情が溢れて、鼓動が早くなった。

 手が震えた。脚が震えた。自分の何もかもが、震えていた。


「……先生、」


 震える弱々しい声に引かれて顔を上げた。寝台の麻を強く握ったまま、こちらに目を向けている彼女は、涙を目元に浮かべていた。


「……病気は?」


 そうだ。余韻に浸っている場合ではない。誕生と同時に感染の有無を診る約束を彼女としていたのだ。すぐさま臍の緒を切り、用意していたお湯とそれに付けた麻で生まれたばかりの子供についた血液をふき取って、その肌の色を確認する。母親がこれだけ進行しているのだから、すでに肌が黄色になっていてもおかしくは無かった。

 手も、足も。首回りも、背中も。隅々まで、あの黄色の有無を確かめる。


「……罹って、ない」


 これが、子供を取り上げてから初めて発した俺の声だった。


「感染してない……!」


 分からない。良かったと、泣き出したいくらい心から安堵する自分がいた。その感情のまま、自分の頬が綻ぶのを感じながら、彼女に抱かせてやらなければと麻に包んだ赤ん坊を持っていく。見せてやりたかった。早く会わせてやりたかった。


「女の子だ」


 ずっと待ち望んでいた子供だ。

 その姿を認めた途端、母親の目元にうっすらと張っていた涙の膜が一枚雫になって剥がれ落ちた。


「……女の子……あなた、女の子だったの」


 声が、震えている。


「私の、あの人の、娘だわ」


 すでに死んでしまった、愛してやまない夫の娘。


「やっと、会えたのね」


 すぐにでも腕を伸ばして抱きしめるのだろうと思っていたのに、彼女はいくら時間が経ってもそうしようとしなかった。大きな口を開けて泣いている我が子を見て、良かったと泣くだけなのだ。抱くどころか腕さえ伸ばさない。

 そして今にも泣き出しそうに唇を噛みしめ、抱くように促す俺に首を横に振る。抱けないのだと。


「……連れて行って」


 愕然とする。


「私から離して」


 聞き取れないくらいの小さい声だった。戸惑う俺に、相手はいつもの穏やかさを見せる。


「私は病気なのよ」


 目元が泣くように笑む。


「こんな病気を持った私が触ったら、せっかく生まれて来てくれたのに病気になってしまうかもしれない」


 まただ。また、この病気が彼女の邪魔をしているのだ。夫を奪い、人生をも奪って、そして今子供さえ取り上げようとしている。


「違う!」


 子供を母親の方に差し出しながら俺は横に首を振る。


「前にも言ったはずだ。この病気は触るだけじゃ人に移らない。抱いてもキスしても、触っても何をしても……だから」


「それを、あなたに証明できるの?」


 言葉に詰まった。そう聞かれて、自分が証明できることは何もないと気付かされる。


「……なら、抱けないわ」


 俺は、非力だ。知識があっても、この手一つでは彼女に自身の偏見さえ説いてやることができなかったのだ。


「その子は私の希望、私の奇跡。それを私の我儘で摘み取るわけにはいかない。この子はこれからを生きるんだもの」


 笑顔のような泣き顔が、徐々に崩れていく。同時に自分の中の何かも崩れて行った。


「私よりも長く、私よりも先の未来を生きるんだもの」


 抱かせてやりたい。誰よりも何よりも先に、母親である彼女に、子供を守り抜いた母親に、この子を抱かせてやりたかった。それなのに、俺の力では彼女の中の偏見さえも拭うことは叶わず、彼女は我が子を自ら遠ざけようとする。


「でも」


「行って!」


 寝台の麻を叩き、彼女は泣くようにして叫んだ。

 本当は抱きたくて、抱きたくて、堪らないはずだ。よく生まれて来てくれたと、抱き寄せて、キスをして。なのに。


「早く!!!お願い!」


 彼女は自分の意に反することを言い、涙を散らす。


「お願い……!!」




 生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、呆然とした俺の足はティティの部屋へと向かっていた。連れて行けと言われ、どこへと考えたらここしか思いつかなかった。他のことが深く思慮できなかった、と言った方が正しいかもしれない。

 疲れからだろうか。自分に一気に降り積もってきた無力感と、絶望が原因だろうか。彼女への同情だろうか。きっと、全部なのだ。それらが鉛のように伸し掛かって、身体が重く感じられた。

 扉を開けた時、自分と泣き止んだ赤ん坊に飛んできたのは、これでもかというくらいの白い視線だった。

 忘れていた。この誕生を喜ばない連中の方がこの世界には悲しいほどに多い。立つことさえ出来ないこの赤ん坊には、敵ばかり。

 虚ろだと思える視線を動かすと、距離をおいた正面に、部屋の主が胸の前に手を組んで、祈るような姿で立っているのを見た。


「──生まれたのね」


 こちらに静かに歩み寄った女は俺の腕の中にいる赤ん坊を切なげに覗く。彼女の眼差しを見て、賢いこの人は全部察しているのだと知った。


「母親は?」


「……抱けないと、言われた」


 俺の言いたいことを理解したのか、彼女はそれ以上何も聞かずにその子を腕に抱いた。胸に寄せて支え、空いた手でその子の頭を撫でる。


「姫様!」


 乳母が悲鳴のような声を上げた。反射的に俺の目はその乳母に行った。


「そのような赤子に触れるなど!」


 病人の子供だから触るなと、そう言いたいのか。どんな思いをして彼女が産み、自分の気持ちを殺して引き離したと思っているのか。


「黙りなさい!」


 俺が口火を切る前に、彼女が怒声を上げて周りを睨んだ。


「気に入らないなら出て行けばいい!」


 侍女たちが怯む。再び緩めた瞳で、赤ん坊を見つめた。


「……どれだけ抱き締めたかったか」


 ティティが母親の代わりとでも言うように悲し気に抱き締める。そうやって抱くのは、本当の母親のはずだった。憐れむような表情ではなく、幸せに満ちた表情が向けられるはずだった。命を懸けて愛されながら、この子はその母親に一度も抱かれることはない。それ思うと胸が苦しくなるくらいに悔しかった。


「病気じゃなかったのね」


 無言で頷き返す。もしかしたら実は感染していて、それが肌に出ていないだけという場合も考えたが、母体があれだけの末期で、その中にいた胎児が黄色になってさえいないことを考慮すると、感染を免れたという判断が妥当。

 だが、何故であるのか。胎児として、感染者の胎内にいたこの子がどうして、黄熱病に感染しなかったのか。

 目も見えぬ赤ん坊を眺めている内に一つの可能性が思い当たる。無いだろうと思っていた、ほんの僅かな可能性。


「神々がお守りくださったんだわ」


「……神なんていない」


 神など、いて堪るか。百歩譲って、神が実在して彼女の願いを聞き入れたからその可能性が現実になったのだとしよう。ならば何故、彼女の黄熱病を治してやらなかった。治してやれば、彼女はこの赤ん坊を抱き締められていたのだ。神がいてもいなくてもそれは薄情でしかない。そんな神など、いない方がましだ。


「この子を守ったのは母親自身だ」


 紛れもない、母体の成せる業。あの女が子を想う故に起こったことだと、俺は信じて疑わなかった。


「ティティ」


 行かなければ。我が子を抱かぬと決めた母のもとへ。今、一人でいるあの女のもとへ。


「その子を頼んだ」




 戻って、出産後の処理をした。

 何も話さない。喋らない。部屋に響くのは、遠くに途切れるいくつかの嗚咽。処理の間、我が子を抱かぬと決めた女は歯を噛みしめて、ただただ目元を片腕で覆って泣いていた。理由が痛みではないことは、言わずと知れている。伝わってきた。我が子をその腕に抱けないことを泣いているのだ。自ら引き離し、それを悔やんで恨んで、それでも自分が病気だから、愛してやまない我が子のために仕方がないと泣いているのだ。

 そんな彼女に、俺は何も言えなかった。言ったら、自分まで泣き出してしまいそうだった。



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