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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
3章 王家の姫君
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最高神官アイ

「姫、この者は女官長のネチェル。あなた様がお生まれになる前からこの王家に仕えている者であり、王宮の日常に関するすべてのことを取り締まっております」


 紹介されて、よろしくお願いしますと小さく頭を下げる。


「幼い頃から見知っている姫様に改めて紹介されると少々恥ずかしいですわね」


 そう言いながらも、おほほと口に手を当ててネチェルさんは笑う。笑うたびに頭につける白い頭巾が揺れた。多分、一人だけつけている白い頭巾は女官長である証なのだろう。


「でも記憶を失われてしまったのは本当に悲しいことですわ」


 彼女は頬に手を当てて、眉を八の字にして今度は悲しそうに笑った。それに対して私はすみません、と小さく返した。

 アンケセナーメンにとってこの人はとても身近な人だったのだろう。一緒に遊んだり、何か楽しい話でも交わしていたりしたのかも知れない。

 ネチェルさんにはとても良くしてもらっているし、こんな良い人に、全く関係のない私がアンケセナーメンだと嘘をつくのは罪悪感を覚える。


「これで、ちょうど50人目で御座いますね」


 私は今、記憶を失ったということで、おじいさん宰相であるナルメルさんに説明を受けていた。アンケセナーメンを演じやすいようにと、彼が命じてくれたよう。


 ナルメルさんはファラオに次ぐ実権の持ち主である宰相、言い換えれば総理大臣で、ファラオに助言をする役割を担っていた。

 とにかく長身のおじいさんで、話すたびに見上げてしまっているから首が痛い。


「あの…他の人たちは…」


 ふと思って、ネチェルさんの後ろで忙しく動く女官の人たちを見やる。けれど、ナルメルさんは白い髭を撫でながら微笑んで首を横に振った。


「あなた様は神に等しき高貴な御方です。主な役割を担う者たち以外の名を覚える必要はありません」


 思いがけない言葉に少し驚く。

 神に等しきだなんて、王族はどれだけ偉いのかしら。


 偉い人となると身分の低い人たちの扱いはそんなものになってしまうのね。下で働く人の名前はもちろん、顔さえ覚えることはない。

 これ以上名前が増えたら大変だから少し助かった、という気持ちもあるけれど、寂しい思いは否めない。


「ここまで、よろしいですか」


「はい、何とか」


 さっきまで、何人もいる神官やら、時間を日時計で計る時間神官、ファラオの側近、神に歌を捧げる音楽隊の長たちやら、とにかく重要な役職の人々とすれ違うたびに名前を教えてもらっていた。


 はっきり言って、もう頭がはち切れそうだった。ただでさえ暗記は得意じゃないのに。

 彼是50人の名前を教えられたけれど、一回垣間見ただけ、それもすれ違っただけの人の顔と名前を覚えろだなんて無茶にもほどがある。


「では、また宮殿の中をご案内いたしますから、その際にすれ違った者たちの名前をお教えいたします」


「は、はい」


 ナルメルさんが長い木の杖をつきながら、宮殿の中を進み出す。

 ネチェルさんがいってらっしゃいませ、と頭を下げたのを視界の端で見て、慌てて礼を返してから足を前に進めた。


 あと何人くらい覚えなくちゃいけないのだろうと、気が遠くなった。


「姫」


 顔を上げると、先に行ったはずのナルメルさんが歩みをやめて私の方をじっと見ていた。どうしたのだろう、と首を傾げる。

 優しそうな顔をしているのに、目だけは異様に鋭い人だ。やっぱり宰相というのは総理大臣なわけだから、これくらいの鋭さがないと駄目なのかもしれない、と呑気なことを考える。


「姫、あなた様は王家の御方であらせられる。簡単に頭を下げてはなりません」


 淡く呆れの色を含む声。それでも穏やかに、私に諭す。


「すっ、すみません」


 慌てて謝った私に、また呆れの色を濃くする。


「下の者に簡単に謝ってはなりません」


「は、はい…!」


「はいではなく、分かった、と威を持って振舞って下さればよいのです」


「わ、分かった…」


 やっと満足してくれたのか、ナルメルさんは笑顔を湛えて再び足を踏み出した。その姿に胸を撫で下ろす。


 ああ、本当に難しい。


 王族って普通に礼儀として頭を下げることさえ駄目なのね。

 礼をされたら無意識に返してしまうのが日本人。やっぱり私も日本人だわ、と今更ながらにしみじみと感じた。


 自分の足に嵌められた黄金に煌めくサンダルが前後に動くのを見やりながら、ナルメルさんの後を歩いていく。

 難しいとは言っても、アンケセナーメンを演じると言い切ってしまった以上、やるからにはしっかり演じたい。

 中途半端が嫌い、その思いで今までやってきた。医学部に入れたのだって、この根性があったからだ。


 今回だって、きっとやれるはず。もとの時代に変えるためにも。


「姫の記憶が失われていることは、秘密厳守とファラオから命を受けております。姫もどうかお気を付けください」


「出来る限り気をつけます…」


 ナルメルさんの言葉に身体を強張らせる。

 記憶を失っているというのはごくわずかの人にしか伝えていない。彼の一番の側近であるセテム、宰相ナルメルさん、そして女官長ネチェルさん。私の周りを世話する人だけが知っている秘密。


 何でも、アンケセナーメンが記憶を失っている空っぽな人間だと知られるとファラオである彼と対立する人にとって有利になってしまうとか。その話も時々出てくるのだけど、よく分からない。もともと政治には疎い私には苦手分野だった。



 陽の光が差して、私の足元の黄金を照らす。

 黄金は太陽の光を反射して、思わず目を覆ってしまうほどの光を私に向けていた。

 ふと黄金から目を離して、柱の間から覗く青い空を見上げると、雲一つない紺碧で満ちている。

 雲が少ないのは当たり前と言えば当たり前。エジプトの降水量はほとんどないに等しいから。一年に二回ほど、ほんの少しだけ雨が降る程度。これは現代と同じ。


「いかがなされました」


 歩みを遅めた私の隣に、ナルメルさんが立つ。


「いえ、良い天気だと思って」


 私の言葉に、相手も空を見上げた。


 涼しい風にそよそよと白く長い髪と髭が流れていく。


「左様ですな、今日は一段とナイルの風が心地よい」


 気持ちよさそうにその人は目を閉じる。


「ナイルがあるから、風が入ってくるんですね」


 海が近い地域ほど気温が低くるなるのと一緒。暑い空気が、ナイルの水を巻き取って私たちの方に流れてくる。


「ええ、ナイルがあるからこそ、我がエジプトは生きているのです」


 エジプトはナイルの賜物。

 歴史学者か誰かの、そんな名言があったはず。

 もう少し、エジプト史を勉強しておけば良かったと思わずにはいられない。

 もし、私ではなくてお父さんがこの世界に落とされていたら、お父さんはすぐにどの時代で、どんな歴史がこの先に待っているのかすぐに分かっただろうから。それが羨ましい。

 何も分からない私は、ただ呑気にその歴史が通り過ぎるのを待つだけ。それでも、私だって人生の11年間をエジプトで過ごしていたわけだから、有名なファラオの名前はいくらか知っている。


 その中に、トゥト・アンク・アテンなんて名前は聞いたことがないから、ここでファラオと呼ばれている彼が、歴史上で大きなことを成さなかった人くらいなのは推測できる。おそらく、すぐに歴史の渦に埋もれてしまう人。

 そう考えると、歴史は切ないものなのかもしれない。


 ナイルの風を感じ、柱を撫でて空を仰ぐ。どうしてか、昔もこんな風にして空を見上げた様な気がした。

 柱に手を置いて、ナイルの風を感じ、雲一つない紺碧を眺めた、今にも消えてしまいそうなほどの記憶が頭を掠める。こんな場所にいたことなんてないのに、いつの事だかは分からないけれど、ずっと昔、どこかで。


「……不思議ですな」


 ナルメルさんの声が聞こえてきて、隣に視線を移す。


「何が、ですか?」


「記憶を失っていらっしゃるのに、あなた様を取り巻くものは生前と同じでいらっしゃる」


 言われている意味が分からなくて首を傾げる。


「取り巻くもの…?」


 そうです、と頷くと同時に、長い髭が目の前で揺れた。


「その人を取り巻く空気というものは、その人自身の記憶を土台に形成されていくもの。記憶を失われたというのに、その空を眺める瞳といい、表情といい、生前のあなた様のままであらせられる」


 涼しい風が私の頬を撫でていく。

 ナルメルさんの、柔らかいけれど何かを見透かすような瞳に、私が映るのをただ茫然と見つめていた。


「つまり、記憶を失ってしまえば、人というものは別人に変わります。しかしあなた様は、生前持っていらしたものをそのまま持っていらっしゃる。本当に記憶を失ってしまわれたのかと疑問に思うほどに」


 思いがけない言葉に、唖然としてしまう。言われてみればその通りだ。

 人をまとう雰囲気は、性格と同じでその人が生きてきた中で経験してきたこと、考え、想いが影響されて徐々に形成されていくもの。

 記憶が失われれば、その人は白紙状態になるのが普通。記憶喪失者の症状として、喪失前と比べ、雰囲気や性格が驚くほど変わるという話を心理学でやったのは覚えている。


 アンケセナーメンでもない、それも現代で生まれ育った私が、3000年も前に生きていた人と同じ雰囲気をまとっているなんて変な話。

 育った環境も、時代も、何もかもが違うのに。もしかしたら、変だと思われたのかも知れない。私の何かを疑われているのかも知れない。


 アンケセナーメンじゃないだなんて言われてしまえば、彼との交換条件が成立しないことになり、私の現代へ帰る道は閉ざされてしまう。


「で、でも私…本当に記憶が無くて…!ファラオの名前も、ナルメルさんのことも…全然!」


 慌てて弁解する私を見て、ナルメルさんは高らかに笑った。


「ええ、あなた様のご様子を見ていればわかります。それに生前は私のこともナルメルとお呼びであらせられた。決して敬称を付けることもありません。時々見せるそのお顔に一瞬、そう思っただけにございます」


「そ、そうですか…」


 あまりに高らかに笑われるものだから、少し恥ずかしくなって、足を包む白いスカートを掴む。慌てた私が馬鹿みたいだ。


「よろしいですか、姫」


 ナルメルさんは咳払いをして、もう一度口を開いた。


「何度も申し上げた通り、あなた様は神に等しき、尊い王家の姫君であらせられる。ファラオ以外の者に頭を下げたり、敬称をつけたりしてはなりません。胸を張り、自分は神の血を引いているのだという誇りを持ってお過ごしください」


「分かった…」


 自分に出来るか分からないことばかりで、どうしても口籠ってしまう。

 実際に王家でも何でもない、ただの女子学生の私がエジプト王家の誇りなんて、そう簡単に持って歩ける訳ではない。

 それでも家に帰るためにも、全力を尽くさなければ。


「あの…ナルメルさん」


「ナルメル、とお呼び下さい」


 そうだったと顔を歪ませる。

 ついさっき言われたばかりなのに。


「ナ、ナルメル…」


初対面からあまり時間が経ってない人を呼び捨てになんて、あまり気が進まないけれど、仕方なく小さな声で呼んでみた。


「なんでしょう、姫」


 伏せがちな目で私を見やりながら、敬意を示すように少し頭を下げた。


「えっと、アンケセ…じゃなくて生前の私はどのような感じだったんですか?あの、私、自分のことさえよく覚えてなくて…」


 演じるとか言って、アンケセナーメンのことをちゃんと聞いていなかった。聞かずに演じるだなんて無謀の他の何物でもないのに。


「そうですな…」


 また白い髭を撫でて、ナルメルは首を傾げる。

 髭を掴むように撫でるのは、きっとこの人の癖ね。


「生前のあなた様は王家に相応しき聡明さを持ち、民に慕われるお優しい、とても美しき方でいらっしゃいました」


 セテムの台詞そのまま。

 聡明で、美しい人。どう考えても私とはかけ離れている。


「ファラオより4歳年上でいらっしゃり、まだ幼き王子であらせられたファラオを、あなた様はよく面倒見ていらっしゃいました。ファラオも様々なことを教え諭してくださるあなた様を心からお慕いし…」


 話の途中で、思わず眉間に皺を寄せた。


 話によれば、アンケセナーメンはファラオより4歳上らしい。では、私は彼より4つも年上ということになっているのかしら。


 いやいや、と首を振る。だって、どこからどう見ても彼の方が年上に見える。良樹と同い年くらいだろうから、多分22歳前後。

 とすると、アンケセナーメンはその4つ上な訳だから、私は26歳設定。

 実年齢と9歳も違うじゃないの。私、そんなに老けて見えるのかしら。

 かなりのショックが私の肩に伸し掛かる。


「ファラオがこうして王位を立派にこなされているのも、幼き日にファラオというとても重要な身の上になられることをご決心なされたのも、すべてあなた様のご尽力の賜物と言えますでしょう。……ファラオにとってあなた様ほど、大きな存在だった方はいらっしゃいません」


「そんなに、重要な人だったんですか…」


 話をまとめると、今の彼を作り上げたのが、そのアンケセナーメンということになる。


 凄い人だったのね、彼女。

 私に演じられるのかと本気で不安になってくる。


「ファラオは母君が違いながらも、姉君であらせられるあなた様を心から慕われておりました。ファラオの兄君で在らせられた先代スメンクカーラー様がお亡くなりになられ、あなた様がファラオの妃になられると決まった時の、あの方の喜びようは今でも忘れられません」


 あの人が、それほど喜んだ。

 あんな自分勝手で、強情で、乱暴な人が。全く想像できない。


 彼は、彼女が好きだったのかしら。自分の姉だったアンケセナーメンが。シスコン疑惑がもわもわと浮かんでくる。


 ううん、もう完璧なるシスコンだわ。


 その大事なお姉さんが亡くなって、悲しんで、甦れと唱えてる時に、瓜二つの私が上から落ちてきた。

 もし本当に好きだったのなら、きっと泣くほど嬉しかったはず。だから私に手を伸ばして、「戻って来てくれたのか」と泣きそうな顔で言ったのかもしれない。今になってあの時の泣きそうな表情の意味がようやく分かった。


 でも、私がアンケセナーメンじゃないと知って、彼は落胆した。


 思い返してみれば、私が宴から飛び出して携帯を突きつけた時に、彼が発した絶望に似た声は、きっとそのせい。

 好きだった彼女とは瓜二つの別人だったから。


 何だか申し訳なくなってくる。


「……あの、私はいつ、どうして死んだのでしょう」


 アンケセナーメンがどうして死んだのか聞いてなかった。26歳で死ぬなんて、いくらなんでも若すぎる。

 ナルメルは突然の私の言葉に少し驚いた顔をした。


「ご自分がお亡くなりになった理由も、思い出せないのですか…」


「ええ…全部あの世へ置いて来てしまったようで…」


 おほほほと作り笑いをする私に、そうですかと小さく頷いて、ナルメルは右手に握る黒い杖を握り直した。

 杖の先端にある黄金の装飾がこれでもかと陽の光を反射させる。

 私を疑うような視線が、その老人の目に一瞬だけ浮かんだような気がした。


「84日前、あなた様は御年24歳の若さで、死の病に蝕まれ、お亡くなりになられました」


 宰相は寂しそうに目を伏せ、その言葉を並べた。


「…死の、病?」


 ええ、とナルメルさんは頷く。

 悲しさを感じさせる風が、私の頬を触って流れて行った。


「あなた様は突然高熱を出し、お倒れになったのです。それから何度も熱が上がったり下がったり…医師たちがいくら治療を行っても、ファラオが異国からの医師を呼び寄せても回復することはなく、12日後にそのまま…」


 このアフリカ大陸でよく発症する、熱が上がったり下がったりする病気だとすると、判断は難しいけれど、無理に挙げるとしたら、高熱や頭痛、吐き気などの症状を呈する病気、マラリア。熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症。


 熱が何度も上がったり下がったりするのが特徴で、現在の技術がないと正確な判断はできない病気だ。医学がまともに発達していないこの時代には感染者も多いはず。もちろんこの時代に抗マラリア剤があるはずはないから、感染してしまえばまず助からない。

 現代でも世界に5億人の患者がいるけれど、治療すれば治るものだ。なのに、この時代の人は治らない。そう思ったら、どうしようもない遣る瀬無さが私の中を駆け廻った。


「お亡くなりになられました時、ファラオはとても悲しみにくれていらっしゃいました。しかし涙を見せることは決してなく、その御遺体をじっと見つめているだけでいらっしゃいました。……おそらく私どもの居ないところではお泣きになられていたと思います」


 ナルメルさんが悲しそうに目を閉じる。

 まさかあの彼が泣くなんて想像もつかなかった。


「それでもファラオとしての立場を全うし、あなた様のご葬儀をご自分の手で行っておりました。ミイラづくりにも意欲的に指示をお出しになり、何度も棺の装飾をやり直させ、姫が甦りになられても不自由しない様にと遊具から化粧用具まで、すべてお集めになられて…」


 生き返ることを信じたエジプト人。生き返っても不便のないように、生前好きだった物、日常品を供える。

 ミイラはその人の魂が帰ってくる場所。大切な器。

 それらをすべて、ファラオ自らが行った。このことどれだけ大きな意味を持つか、私にだって分かる。


 アンケセナーメンはそれほど、彼にとって大切な人だったということ。

 本気で好きだったのかも知れない。姉としてか、それとも恋人としてかは分からないとしても。


「あなた様は特に花をお摘みになられることがお好きでいらっしゃいましたので、花にはとてもこだわっておられました」


 遠い目をしながら、ナルメルは少しだけ微笑んだ。

 彼が花、なんて全く想像できないけれど、本当にアンケセナーメンを想っていたことが分かる。


「……私は、花が好きだったのですね」


 もう一度、柱に手をやりながら空を仰ぎ、ナイルを感じる。


 小さい頃から、よくお母さんと一緒に花を育ててきた。

 エジプトの独特な気候の中で育てられる限りの花を、家の庭いっぱいに咲かせることが夢で、小さい私は土だらけになって花の世話をした。

 芽が出て来てくれるだけで嬉しくて、よくその双葉に話しかけたり、そっとなでたり。

 鮮やかな色をぱっと弾くように咲く、その健気さが大好きだった。

 花を目の前にして喜ぶ私を、お父さんはよく写真に撮って、お母さんも時々その隣で笑ってくれていた。


 懐かしい。

 少し前までは、こんな記憶どこかに失くしてしまっていたのに。思い出したら、目頭が熱くなった。


「…甦られた今でも、花はお好きですか?」


 ナルメルが静かに、髭を風に揺らしながら問うてくる。優しい微笑みに、そっと目を閉じた。


「とても……とても好きです」


 きっと、花が好きなのは唯一の私と彼女の共通点なのだろう。

 顔以外の、たった一つの重なり。


 花を摘んで微笑んだ、賢く、美しき王家の姫君。それが古代に生きた、私と瓜二つのアンケセナーメン。

 ぼんやりとした想像でしかなかった彼女が、急に生身の人間として私の前に浮き上がってきた。




「これはこれは…アンケセナーメン様ではありませぬか」


 呼ばれて振り返ると、豹の毛皮をまとったおじいさんが、後ろに20人くらいの神官らしき人たちを連れ、少し離れた所に立っていた。

 私が振り向くや否や、恭しく頭を下げる。

 黄金の長い杖を持った、つるつる頭の、背の小さなこの老人は、彼が気を付けろと言った相手だ。


「ご機嫌麗しいご様子、嬉しく存じ上げまする」


 上げた顔に乗る、二つの目が怪しく光る。

 舐めまわすようなその目に、思わず後ずさった。会って間もない人だけど、どうしてもその人に愛想笑いさえ向けることが出来ない。


 確か、名前は。


「……アイ殿」


 ナルメルが静かに呟いた。


 最高神官のアイ。彼もそう呼んでいた。

 可愛らしい名前なのに、どうして目つきの悪い人になってしまったのだろう。もう少し可愛らしいおじいさんになっても良かったのに。


「何の御用でしょう。あなたは神殿にいる時間のはず」


 ナルメルも彼と同じように、私を庇うように前に出て目を光らせた。声色はとても穏やかなのに、威圧がある。


「アンケセナーメン様のご様子を拝見させていただきたいと思いまして。随分と変わられたとのお噂。医師でもある私に診せてくださいませんか」


 神官でもあって、医師でもあるなんて凄い。

 それとも、神官兼医師というのはこの時代だと普通のことなのかしら。


「それは出来かねますな。ファラオのお許しを頂いてからにしていただきたい。……姫、参りましょう」


 強く言い放って、ナルメルは私の背中を押して歩き出す。


 私を見つめるアイの目が気味悪くて、私も慌てて足を動かして、深々と頭を下げるアイと神官集団の横を通り過ぎた。

 通り過ぎても、あの嫌な視線を背中に感じて、ざわりと鳥肌が立つ。

 意味ありげな眼差しは、恨みやら怒りのような感情が混じっているようにも思える。何かあの人にしてしまったのかしら、と考えを巡らせてしまうほどだった。


 廊下の曲がり角に入って、ほっと胸を撫で下ろす。


「姫、あの者にはお気をつけください」


 歩みを止めた宰相は、私を見て彼と同じことを口にした。


「……あの、アイという人はどういう方なのですか?…私、よく思い出せなくて」


 彼とナルメルが危険だと言ったのだから、相当私には都合の悪い相手だということは容易に想像できる。

 ナルメルは一度頷いてから、静かに口を開いた。


「ファラオの父君、先々代アクエンアテン様の御妃の父親に御座います。義理の祖父に当たる者です。ですから、あの者は王家の者ではありますが、王家の血は引いておりません」


 なるほど。

 古代エジプト王はたくさんの女の人を侍らせる。彼の父親に侍った女の人のうちの一人の父親があのアイと言う人なわけね。だから義理の祖父になる。


「多くの神官を従える最高神官であり、宰相である私と同等の権力をもっております。あなた様を除く、ファラオにとっての唯一の肉親となりますので、無下にはできないのです」


 この時代、寿命はそんな長い訳ではないから、運悪く彼にとっての生き残った肉親があの人だけになってしまった。

 でも王族だから仕方なく、彼はあの位を与えている。

 確かに親族を無下にした王だなんて、民が聞けばあまり良い物ではないと思う。


「彼にも気をつけろと言われました。それはどうして…」


「アイが、王位を狙っているからです」


 穏やかな顔を顰めて、ナルメルは言った。

 今までに聞いたことのないくらい低い声に目を丸くしてしまう。


「王位を…?王家の血を継いでいないのに、そんなことが出来るのでしょうか」


「ええ、王家に自分の娘を嫁がせることにより、その間に御子がお生まれになれば王子の実祖父としての権威を得、ファラオがお亡くなりになりますと、実質的な権威はすべてその者に渡ります」


 そう言えばあの宴の時、彼がアイに「お前の娘とは契りを交わすつもりはない」と言っていたのを思い出す。

 契りを交わすつもりはないということは、結婚するつもりはない、ということ。


「もし御子がお生まれにならなければファラオが亡き後、王位はお妃の血筋に移るのです。お妃に王位継承権が与えられ、お妃と結ばれた者がファラオとなります」


 へえ、と思わず声を漏らしてしまった。


「では、もしファラオが死んでしまって、赤ちゃんも生まれていなかった場合は、お妃さまと結婚した人がファラオとなるわけですね」


 そうです、とナルメルは頷く。


「その、お妃様と結婚してファラオになる人というのは、誰でもいいのでしょうか?…たとえば、父親でも…」


「ええ、問題ありません。神々の掟に従い、近親、つまり父親または兄、弟が一番よろしいかと思われます」


 ぎょっとしてしまう。

 恐る恐る聞いてみたけれど、自分のお父さんと結婚だなんて、考えられない。それがとても一番良いと言うのだから、もっとすごい。カルチャーショックとはこういうものを言うのかもしれない。


 けれど、これではっきりした。

 アイは王位を狙うために自分の娘を彼の妃にしようとした。

 子供ができようができまいが、彼が死んだ後に自分の娘と結婚するのが、王位継承の道に一番に近づくから。


 なるほど、色々と古代の人も考えるものね。

 あれほど老齢になって、彼より長生きするなんて考えられないという部分もあるのだけれど。


「あなた様がお亡くなりになりました時、王家は王家の者と婚姻を結ぶ決まりに従い、王妃候補が選ばれました。それがアイの娘、ネフェルティティ殿です」


 ふむふむと頷いていた私に、ナルメルは付け足す。


「……でも、私が現れた」


 私の呟きに、宰相は静かにゆっくりと頷く。


「王位を得られるかもしれないのに、私が現れて、アイは私を邪魔に思っている訳ですね?」


 上手く王家正統の血筋に自分の娘を嫁がせることが出来れば、アイと言う人の王位への道はもっと確かなものとなったはず。だと言うのに私という邪魔が入って、その道が断たれた。

 私を疎ましく思うのも当たり前だわ。だからあんな目で私を見たのね。


 そして私が本当のアンケセナーメンかどうかを見極めようとしている。

 もし偽物だと分かれば、また自分の娘を彼に嫁がせて、王位への道を確実なものに出来るから。


「仰せのとおりです。ですから姫、くれぐれもあの者にはお気を付けください」


 王位を守るために、彼もなかなか大変な人なのだと初めて知った。

 どうしても他人事に考えてしまうけれど、帰る方法を探してもらっているのだから、私も頑張らなければ。


「これはエジプトを守ることに繋がります。よろしくお願いいたします」


 分かりましたと頷いた時、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。


「姫様!こちらにいらっしゃいましたか!」


「……ネチェルさん?」


 ぜいぜいと息を切らして、私の前に現れたのは女官長だった。

 後ろに2人の若い女官を連れていて、その二人も息を切らしている。


「もしや、お帰りの時間かな?ネチェル殿」


 ナルメルも髭を撫でながら微笑む。


「お帰り?」


 ただの宮殿への帰還に何故そこまで息を切らしているのか分からず、ネチェルさんのことを見つめた。


「はい!ファラオのお帰りに御座います!姫様!お出迎えに向かいましょう!ナルメル様もおいでくださいまし!」


「私は後から向かうとします。姫を先にお連れしなさい」


「はいっ!!」


 三人が私の腕をがっしりと掴んで、走り出す。


「え?えっ!?」


 一人だけ何が何だか分からないでいる私は、また変な悲鳴を上げながら引っ張られて行った。



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